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魔王の世界征服日記
第72話 海岸線


 その日の朝は良く晴れていた。
 ここシコクの天気がいつも悪い訳ではないが、朝日は昨晩の嵐の雲を被っていて酷く暗かったように見えた。
 だからだろう。
 いつもの朝の時間には雲一つない白い蒼穹に、まだ低い朝日が黄色い光を放っていた。
 じゃり、じゃりという汚く濁った砂の音を聞きながら、日課の散歩を続ける。
 どうして砂がこんな音を立てるのだろう。
 男はそう思った。
 女はそれが当たり前だった。
「グザイ、いつもこの海岸ではそんな貌をしますのね」
 女は、それもいつものことなのに、聞いてみる。
 何度目の質問だろうか。
 グザイは年下の彼女に、いつものように表情のない貌を見せて言う。
「姫君。グザイは、いつも思うのです。何故この海岸は古いままなのだろうかと」
 姫君。彼女は――シータという。
 黄金色の天然の巻き毛をした、赤い瞳の少女。
 もしドレスに着飾れば、本当の姫にも見えるだろう美少女だ。
 手足が細く、作業着のような上下から覗く白い四肢は子供のようにも見える。
「?グザイ、旧いというのはこの海岸の事ですの?」
 彼女は言っている意味が判らない、という感じに返すとグザイはついと目を細める。
 しかし彼の表情はやはり無機質で、何故か感情の欠片も感じられない。
 ただ人形が貌の姿を変えただけ。そんな印象を与える。
 こちらは黒い草臥れた作業着で、少なくとも四十代の男。
「ええ、姫君。姫はご存じないかも知れませんが」
 グザイは年老いた貌を歪める。それは孫を見る貌のようでも、僅かな寂しさを感じさせる貌でもある。
「もうこんな汚れた海岸は、ここトクシマにしかありませぬ。ここだけは完全に再現されておりますな」
 グザイにとってそれは良いことなのか、悪いことなのか。
 言ってから目を向ける海岸線は、彼の記憶から寸分も違わない。
 いや――妙なモノが目に入って、思わず立ち止まってしまう。
「どうし――?」
 シータもそれを見た。
 波打ち際で、自分の膝を抱えて座り込む一人の少女の姿を。
「どうします」
「大丈夫ですわ。いざとなればお願いしますわ。よろしくて?」
 シータが安全靴で砂をけ飛ばすと、グザイは恭しく頭を下げて彼女の後ろに着く。
 ざくざく、と立てる足音に少女は振り向いた。
 嬉しそうな子供の、勢いの良さでそのまま立ち上がる。
「わーっわ、わわわーっっ」
 そして、とてとてとてと砂浜を走って、ぽてりとシータの前で転ぶ。
「あ」
 じわり。
 思わず駆け寄って、彼女は女の子を起こしてやる。
「大丈夫ですわ、ケガはありませんから。痛いところもありませんわ」
 少し早口で、まるで言い聞かせるように彼女は言って、泣きそうな貌を見せる少女をなだめる。
「い、いたいけど」
「気のせいですわ。痛くなんか、転んだぐらいではケガもありませんから」
 そして振り向いて、グザイに言う。
「すぐに運びなさい。メディカルチェックを」
「は」

 少女には記憶はなかった。
 何があったのか、何が起こったのか、取りあえず自分の着ている服ぐらいは理解できたが。
 名前も判らない。自分がなんと呼ばれていたのか。
 判るのは、今ここにある妙な不安。
 側に誰かがいない不安より、その誰かがどうにかなっている――そんな不安。
 何か大変なことになっている。
 何故。
 どうして自分がここにいて。
 そして誰もここにいないのだろうか。
「ぐすん」
 悲しくなった。
 でも、とりあえずどうしていいかわからなくて、そのまま座り込んでいた。
 気がつくと朝だった。
「じつはけっこーそんなかんじ」
「……のー天気な……方ですのね」
 記憶がないというのに。
 話を聞きながら、何と言葉をかけるべきか困ったシータは呟きながら額をもんだ。
 あっけらかんとしている。
 これでは慰めて良いのかどうするべきなのか判らない。
 グザイに目を向けても、彼も首を振るだけ。
 ほぅ。
 ため息をついて、シータは考えた。
 今は朝の六時。
 いつも通りの時刻だ。
「グザイ、朝食の準備。いつもより一人分多く」
「かしこまりましてございます」
 何があったとしても。
 まだ目覚めぬ彼の為に、いつもの日常を送るべきだ。
 彼女はそれを選択した。

 ぱらりぱらり。
 たとえばそう。100年ほど前。
「そうそう、このとき初めて生きたカエルを目の当たりにして泣き出したんでしたっけ」
 まだまだ初々しいまおが、ぺたりと泣き叫ぶ写真。
「意外でしたなぁ、あの陛下が、『こんな物をたべてる奴らなんか消しちゃえ』までおっしゃって」
 くすくす。
 何故か至極の笑みが浮かぶ。
「その後カエル料理を食べさせようとした時のあわてぶりなぞ」
 ぱらりお。
 そこには、顔を真っ赤にして拳を振り上げるまおの姿。
「ふざけるなー、そんなものくぅかー、でしたよね、魔王陛下」
 誰もいない執務室。
 誰も入れない執務室。
 ただひとり、そう、今では彼専用になった執務室の中央で、アルバムを片手にマジェストがくすくす笑い続けている。
 もっともその内容は、自分がいかにしてまおをいぢめたかという記録ばかりなのだが。
 なにせ今まで300年分ほどためておいたのだ。
 数ヶ月分はゆうにある。まだ半分も堪能していない。
 そんな、今日この頃。
「おや、久々の登場でこんな感じですか。まあ致し方ありますまいて」
 カメラ目線で謎の言葉を遺すと、彼はぱたりとアルバムを閉じた。
「さて。……どう処理すべきですかね」
 彼の手元には新たに一枚の写真があった。
 相変わらず、どうやって撮ったのか不明な、明らかにカメラに視線が向いたまおの写真。
 こちらに手を伸ばしたその恰好は、不思議な、何か見たことのない物を見た時の顔。
 それを知りたいという欲求。それは興味。
 知らないことへの好奇心。それは恐怖。
 それがない交ぜになった貌がそこにあった。
「……後ろにいるのは……」
 彼は写真をすかしたり傾けたりして向こう側を見ようとしている。
 無理なのに。
「むう。テレビにさしこんで右下とか左下とか、アップとか……できたら良いんですが」
「マジェスト様の俳優が、『愛国者の遊び』の主人公ならできます」
「馬鹿な事言わない」
 彼専用とはいえ、彼らだけは平気で入室できた。
 アクセラとシエンタの両名だ。
「マジェスト様。いつまでここでこうしているんですか」
 少しアクセラが不機嫌そうだ。
「マジェスト様、もしかしたらまお様どこかでえぐえぐ泣いてるかも知れませんよ」
 と泣きそうな貌のシエンタ。
「泣くことないでしょう。絶対」
 ふん、と少しばかり不機嫌そうなマジェスト。
 楽しみだったアルバムをぱたむと閉じると、それを執務机の上に置く。
 代わりに先程眺めていた写真をすい、と二人の前に差し出す。
 アクセラは覗き込もうと、シエンタはおそるおそる近づいて。
『あーっ』
 二人同時に同じ声同じトーンで叫ぶ。
「まお様まお様っ!」
 写真を引っ込めようとしても二人ともマジェストの手を掴んで離さない。
「あーん、お世話したいですーっ!どこにいらっしゃるんですかーっ」
「余計なお世話ですな」
 空いた手で、ずれた眼鏡をくいと戻しながら冷や汗を垂らすマジェスト。
 二人がまおのことを相当心配しているのは確かだった。
――そろそろ、潮時で御座います陛下
 そして意外にも、マジェストも心配していた。
 いや――彼にとって、それは意外でも何でもない。
 彼という存在は、彼女無しにはいられないように作られている。
 現在全ての世界征服計画を凍結し、全ての魔物に対して非常線を敷き、総て――彼の思考ですら止まってしまっている。
 否、止められてしまっているのだ。
「陛下をお助け、連れ戻し、どっちでもいいからせねばならぬ」
 二人の魔物はマジェストの方を向いた。
「ただ問題は、場所なのでございます。二人とも、いけるなら……と考えているんでしょうが」
 歩いていける場所ではない。
 存外、二人ならどうにかなるかも知れない――とマジェストも考えたが。
「場所はシコク。少々お待ちなさい。私がどうにかするしかありませんから」
 しおらしく手を離す二人。解放されてようやく手を引っ込めたマジェスト。
――しかし全く……ウィッシュとヴィッツは何をしているんだ。こんな時に
 『ストームブリンガー』では役に立たない。
 少なくとも思考できるモノでなければ使いにもならない。
 世界の何処にでも自律的に行動させることは可能だが、所詮ロボット。
――今こそお前達の能力が必要だというのに
 ナオの『機能停止』の報告も、『目標接触』の報告もない。
――なにをやってるんだか
 報告前にまおと接触してしまったことを、まだマジェストは知らない。
 そのまま一緒に旅をしていることも。


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