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魔王の世界征服日記
第71話 嵐が開けて


 穏やかな、嵐があったことなど嘘のような天気。
 かろうじて、ガレー船は沈没を免れたのか、ユーカとウィッシュは鋭い日差しに目が醒めた。
 甲板に差し込む朝日を見て、船が沈まなかったこと、そして自分達が無事だった事を確かめて身体を起こした。
 周囲は無茶苦茶だった。
 甲板は割れ、めくれ、その破片があちこちに散っていて、こうして浮いているのが不思議に思えるような破壊の跡である。
 ユーカが立ち上がったのが見えて、ウィッシュは彼女の側に近寄ってきた。
「無事、みたいだな」
 ユーカの言葉に苦笑いするウィッシュ。そして、声を出そうとした彼女の隣から、特等船室入口を開いて姿を現す。
「……ヴィッツ」
「ミチノリ、お前」
 扉を開けたのは、ヴィッツを抱きかかえたミチノリだった。
 彼も服はよれよれになっていて、貌も何処か草臥れている。
 それでも笑顔は絶やさない――それが喩え痛々しく見えたとしても。
「危ぅくぅ、下まで落ちそぅだったよぉ。おくの階段まで転がぁっちゃぁってぇえ」
 ユーカより先に特等船室の入口から転がり込んでしまったらしい。
 運が良かったのは、扉が開いていたことか。ここの扉は外向きに開くような構造で、外で固定できる。
 ユーカが背を打ったのは、この扉だったのだ。
「目が醒めたらぁ」
 とヴィッツを差し出すように見せる。
「この娘ぉ、側に倒れててぇ。怪我はないよぉ」
 ユーカ、ウィッシュ、ヴィッツ、そしてミチノリ。
「……キリエとナオは」
 ユーカはウィッシュに目を向ける。彼女は無言で首を振る。
「判らないですね。まお様も勢いよく海に落ちてしまいました」
 冗談というか、笑える笑いたくない状況で。
 一人大車輪状態で甲板を転がっていたのだ。状況が違えば笑うところだろうか。
「だから、多分私達は無事でいられたんです」
 ウィッシュは珍しく顔をしかめ、ユーカは悔しそうに歯がみして肩を震わせた。
――私が、あの二人を呼んだせいで――
「だいじょぉうぶ」
 ぴと。
 抱きかかえたまま、ミチノリはユーカのすぐ側に身体を寄せる。
「だいじょぉぶだよぉ。きっと。だいぢょぶだいぢょぶ」
「お前、いつもそうやって根拠のない……」
「根拠が必要ですか。安心に理由はあっても根拠は大切ですか?」
 きっと目をつり上げて向けた視線は、柔らかい笑みを捉えた。
 ウィッシュはにっこりと笑っている。
「失礼ですが、ユーカさん。魔術師なら、もっと感情の動きに注意を払って、大切にしなければなりませんよ」
 今の貴方は、そんな感情の動きが感じられていない。
 ウィッシュの目を睨み付けていた彼女の顔から僅かに険が消える。
 いつの間にかミチノリの腕が、彼女の背中に回っている。
「キリちゃんもぉ、ナオちゃんもぉ、泳げるんだよぉ。嵐の中だってだいじょぉぶにきまーってるぅんじゃないのぉ」
 ぎゅ。
 ぴとり。
「あー。判った。判ったからミチノリ、離れろ」
「えー」
「他の女を抱きしめてるまま私を抱くな」
 にひ。
「あーっ、しっとしてぶふぁ」
 本気の拳がミチノリの左頬に入った。
 容赦なく。
 ウィッシュはくすくすと笑って、ユーカは彼女の笑顔につられて笑みを浮かべる。
「すまない。論理的に物事を考えるのは得意だが、それ以上はまだできないのだ」
「本当に鈍い人ですね。それとも、真っ正直に自分の意志でなければ動きたくないくちですか」
「くちだな」
 そして、二人は声を出して笑った。
「うぅう……ゆぅちゃんひどぉい……」
 一人頬をさするミチノリだった。
「お前は」
 ユーカの言葉に、ウィッシュは草臥れたような頬の歪め方をして笑い、視線を海上に向ける。
「まお様は、あれでも魔術の師であると言ったはずです。――死にはしません。信じています」
 彼女は返事を返してユーカを見つめた。
「それが正しい姿だと思いますが」
 ユーカは応えなかった。
 彼女の言葉に反論も、肯定もできなかった。

 天使の疵痕を残したガレーは、そのまま潮の流れにのってシコクへと到着した。
 シコク周辺の海流の流れは、その殆どがシコクに向かっているらしいのだ。
 つまり、流された人間も溺れて死なない限りそこへと流れ着くと言われていた。
 それがそれから半日もしないうちに見えてきた島影だった。
「シコクだ。あれは」
「アレはトクシマですね。金属製の尖塔が見えます」
 ウィッシュが、ユーカの言葉を継いだ。
「多分カガワから捕獲船が出てくるだろう。このままトクシマまで流れれば楽なんだが」
 シコクに向かう船が嵐に遭わなかった場合、本来の上陸地であるカガワのタカマツ港へと向かうはずだ。
「うーん。このまま魔物の巣に突っ込んで勝てるとお思い?」
 ウィッシュの言葉に、ユーカは眉を寄せる。
「しかし、タカマツならまだしも……」
 マルガメと呼ばれる地名がある。こちらには軍港が存在する。
 勿論それは表向きであり、実質の支配者である盗賊ギルドのマスターが牛耳る裏の港なのだ。
 天使が発生し襲われる事があるとはいえ、それは必ずではない。
 だがガレーシップは嵐に脆く、絶対天使の襲撃には耐えられない。
 高価であるが特殊な潜行艇を使い、高速且つ水中を走ることができるなら、密輸・人身売買で充分にお釣りが来る世界なのである。
「場合によっては、途中で降りますか?」
 ウィッシュが悪戯っぽく笑う。
 ヴィッツはそんな彼女の袖にしがみつくようにして、ぎゅっと身体を寄せる。
「同じ人間に攻撃するのは気が引ける」
 ユーカはもし彼らが来るとしても、手に掛けるつもりはない。
 何らかの手がかりが得られるだろうし、彼女は有る程度対抗する術を持っている。
「……優しすぎる気がしますが」
 何故かヴィッツは彼女を睨み、ウィッシュは苦笑して応えて。
「ユーカさんの言うとおりでしょう。ボクはユーカさんのそんなところ、好きですね」
 ミチノリが何か言おうと、置いてけぼりで寂しそうな顔をしているのを、ユーカは横から抱きしめた。
 戸惑うようにユーカを見ながら、ぽてりと頭を彼女の肩に載せる。
「まおも無事なら良いが」
「あの方なら、絶対大丈夫。多分、どこかその辺にでも打ち上げられて『おなかすいたー』って言ってますから」
 それはほぼ確信だった。
 まおは溺れて死ぬようなことはない。まして魔王である。ちょっとだけ心配だけど。

 すこし、時間を戻そう。
 着水。
 唐突に全身が濡れたわけではない。既に大雨によって体は冷え切っていた。
 ぱしん、という水面で体を叩いた感触、それがただあっただけだ。
 全身を包み込んでくる暗い色の水。
 指先に捉える、先に落ちていった者の体。
 彼女は、全身がブレーキのようにまとわりつく海に抵抗するように、彼に向かって腕を伸ばした。
 それがするりと避けられて――いや、彼は何かが当たる感触に、背中側を見ようと体を回したのだ。
――キリエ、お前
 ナオは、遙か遠い水面から差し込む光に、見覚えのある人影が自分の目の前にいる事に気づく。
 今背中に触れたものが彼女の手だったと、判る。
 キリエの顔が歪む。
――馬鹿
 まるで地面を蹴るようにして、ナオは彼女に体を寄せて右腕で抱えるように彼女を捕まえると、水面に向けて泳いだ。
 水面に向かうまでの僅かな時間、何故か妙に長く感じられる。
 ただ二人きりになってしまったかのような暗闇、冷たく包み込んでくる水温。
 呼吸を抑えていると、頭痛と共に意識も失われてしまいそうになる。
 ごぽり、と口から空気がこぼれて。
 彼女の指先が、求めた彼に届いているのに。
 ただ力無く垂れ下がっていた。
「ふはっ」
 水面を抜けると、大きく揺れる海面の向こう側にガレーシップがあった。
 天使の姿は――見えない。判らない。
「キリエ、お前なんで一緒に落ちてるんだよっ」
 甲板がいきなり浮かび上がって、海面に向けて投げ出されたことには気づいた。
 落下していく中、甲板から手を伸ばしてくるウィッシュとユーカは判ったが、他のメンバーは見えなかった。
 もしかして一緒に落ちたのかも知れない。
「他の奴ら――」
 キリエはすまなそうな顔を――いや、悔しそうな、泣きそうな顔でナオの腕の中で縮こまっている。
 海中から出た彼女の両手は、ただナオの胸元にしがみつくだけで何も語らない。
 びしゃびしゃで額に張り付いた前髪は彼女の細かい表情を隠してしまっていて。
 夜の暗闇も合わせて、彼女が何を考えているのかナオには理解できなかった。
 だからそれ以上何も言わず、そのまま嵐の中を漂っていた。
――このままでは、やばいよな
 二人分を、ここからシコクまで泳ぎ切る体力はない。
 何とかしてガレーに上りたい。上らなければ生き残れない。
「――く」
 しかし、ガレーはどんどん離れていく。
 周囲の波の立ち方を見れば、相当の速度で走っているのが判る。
 人間では追いつけないだろう。
――何でこんな時に
 まだいぬむすめエンジンは充分に動いているようだ。嵐が、天使の襲撃が始まる前から動いているはずだから、当分止まることはないだろう。
「キリエ、泳げるか?」
 胸元から見上げる彼女。
 どこか怯えたような貌で、ゆっくり力無く頭を振る。
「脚が、思ったより動かないから」
「…………。お前なぁ」
 絶体絶命のピンチ。


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