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魔王の世界征服日記
第70話 脱出


 ざか、ざかっと地面を蹴る音。
 既に天使の発生は止まっているが、海に落ちた天使達がどう動くのかが判らない。
 少なく見積もっても、目の前の三体を含め八を数える天使を相手に、無傷でいられるはずはない。
 ナオの脳裏にかすめる絶望。
「こら」
 ずい、と前に出ようとするキリエを右腕で制する。
 すると不機嫌そうに彼女はナオを睨み付ける。
「なんだよ」
「お前が前に出るな、馬鹿」
 ぎり、と強い目でキリエはナオを睨み付ける。
「お前は俺の背中に居てくれないと、……」
 少し困った。
 正直な話として、彼女の脚の状態では歩く程度しか出来ない。
 剣を振り回して戦えるような状況ではない。
 でも多分、彼女の事だ。正直に言えば間違いなく口を尖らせて『やれる』と言うはず。
「正直、その、困る」
 困った挙げ句、彼は自分の気持ちを正直に言うしかなかった。
――なんで困るんだーって、突っ込まれたら終わりだー
 ちょっとどきどきしながら、どもりつつ言う。
 すると、何故かキリエは目を大きく見開いて、そして、ぎこちなく口元を歪めた。
「そ、そうか」
 そしてそれしか言わなかった。
 それはナオにとっては意外だったし、何よりどうしてなのか判らなかった。
 キリエはキリエで、まさかナオがそんな言葉を吐くとは思っていなくて、やっぱりどきどきしてたりする。
――そうだよ、俺は、ナオの背中を守れるんだ
 ぷいと顔を背けた彼の背を見つめて、嬉しそうに目を閉じて両手で剣を握りしめる。
「じゃ俺は」
 行くから。
 ナオはそう言うつもりだった。
 勿論、キリエは甲板入口まで戻らせるつもりで。
「いぃよぉぉ、キリちゃんの治療すまぁせちゃぁうからぁ」
 振り返った彼の目の前で、相変わらず巨大な手袋でキリエを真後ろから抱きしめる彼の姿を見るまでは。
「こ、こらっ」
 キリエは顔を真っ赤にして、斬魔刀を振り上げようとする。
 ちなみに全く悪気はない。本気でミチノリを殺そうと思っている。今は。
「あー」
 彼女を頬ずりするミチノリの目が、一瞬ナオを見つめて真摯な光を点した。
「すぐ動けるようにするから」
 次の瞬間には、またにたにたと笑いながらキリエに自分の頬を押しつけていたが。
 彼の治療は確実で確かだ。
 骨にも神経にも至っていない傷だから、跡さえ気を付ければ元通りになるだろう。
 ナオはにっと笑い、左手で親指を立てると天使を振り仰いだ。
「任せる」
「あぁいー」
 そして甲板を蹴った。
 木製の甲板の上は、雨を弾いてしまっていて、非常に滑りやすい状況になっている。
 表面に塗り固められたべっこう色の防水防腐処置を施しているからだ。
 それが、ゆらりゆらりと動く。
 戦うにはあまりに危険で、不安定な状況。
「気を付けてよっ」
 身動きとれない彼女は、飛ぶように天使に向かう彼に叫ぶ事しかできなかった。

 部屋の中には翼だったモノの残骸が散らばり、しなやかで破壊できない髪の毛の檻の中で、天使だったモノが横たわっている。
 息絶えた。
 そもそも生きているかどうかも不思議な魔物だが、どうやら普通の生命体に近いようだ。
 血は流れていないようだが。
「逃げましょう」
 ヴィッツが悲鳴のように叫んだ。
「どこに。ヴィッツ、ここは海の上、それも大嵐の中だ。脱出艇ではとても助からない」
「そんなもの、魔術でどうにか」
「できるなら初めから言わない。――魔術というのはそんなに便利で万能な訳ではないのだ」
 ヴィッツは上目遣いに睨み付けながら黙り込む。
「その。ウィッシュと一緒にしないでもらいたい。彼女は或る意味――別格のようだが」
 ヴィッツはじっと彼女を見つめていたが、くるりとまおの方を見る。
 まおは頭を抱えたまま、がたがた震えている。
 むしろ普通の行動だろう。
「動かない方がいい。これだけ巨大な船であれば、もしかしたら助かる可能性が高い」
「だったらシコクから無事に出られるはずでしょっ!」
 ヴィッツが半ば切れかけたように裏声で叫ぶ。
「シコクに入ることはできるのかも知れないが。……情報が入らないので判らないな」
 出られるのかどうかは。彼女はその言葉を敢えて紡ぐつもりにはなれなかった。
 ユーカが言葉を継いだ時、船体が大きく傾いだ。
 まるで何か巨大なモノが飛び乗ったような不自然な揺れ方だ。
 二人は顔を見合わせると、まおを見て頷いた。
「上に加勢に行きましょう」
「さっさと退けて嵐を回避した方が早い」
 ユーカはまおの背をとんとんと軽く叩いて、支え起こすと彼女を促しながら上へと向かった。
 戦いに参加できるかどうか、そんな事を考えることもなく。
 特等船室は、既に廊下まで深刻なダメージが与えられていた。
 外での戦いの激しさを物語るように、亀裂からどしゃぶりの雨がたたき込まれている。
 ただその場所に立っているだけで全身濡れ鼠になりそうな程の水だ。
「うわ」
 ユーカ、ヴィッツ、まおの順に外に出ると、まおは顔を叩く雨に悲鳴を上げた。
「キリエ」
「ユーカ、それにまおとヴィッツ」
 まだミチノリに背中から抱きしめられるような恰好のキリエが、首だけ彼女らに向けて名前を呼んだ。
 彼女は、丁度出口すぐ側でへたり込むようにして壁に身体を預けていた。
「下はもう終わったけど」
 ユーカはキリエの顔を見て言うと、前を見て目を閉じた。
 小さなため息に続いて、肩をすくめる。
「こっちは、もうダメかもね」
 キリエが自虐的に笑いながら言う。
 天使に斬りかかるナオと、彼の後ろからなにやら魔術を行使しようとしているウィッシュが居る。
 それだけ見れば、確かに――不利。
 あからさまに不利。
「大丈ぉ夫ぅだぁあよぉ」
 八割り増しのんびりした口調で、きゅと彼女を抱きしめる力を強める。
 勿論、動けない状態は変わらない。
「すぐになぉしてぇあげるかぁら」

  どんっ

 ユーカに理解できたのは、床が眼前に迫ってくる映像だけだった。
 何が起こったのか判らない。ただいきなり身体が、足下から後ろに引きずられるようにしてバランスが崩れた。
 その時大きな音がして、彼女が倒れたのではなく船首が叩かれたように持ち上がっていたのだ。
 危険な音が、一帯に響く。
 悲鳴、驚き――そして、それが為に反応が遅れる。
 有り得ない動きに、理解できなかった。
 まさか、それが。

 海中からの、天使の船に対する攻撃だとは。

「――!」
 滑りやすくなった甲板の上を、船尾に向かって滑っていく。
 甲板の三体の天使は、その勢いで既に海上に投げ出されて。
「っ」
 背中に走った衝撃。
 滑った先に運良く特等船室の出口があったのだ。
 強かに背中を打ち付けて、ちかちかする視界の向こう側、キリエが床を蹴るのが見えた。
――ナオっ
 キリエと壁に圧迫されて一瞬気が遠くなったミチノリは、思いがけずキリエを解放していた。
 彼女の視界には、真っ直ぐ穹に向かって持ち上げられて床から投げ出されるナオが映っていた。
 迷わなかった。
 気が付けば、地面を蹴って宙に舞い。
 穹――海に向けて投げ出されたナオ目掛けて、彼女は自分で身を投げ出していた。
「馬鹿、どうしてっ」
 特等船室入口の御陰でそれ以上の落下が止まったユーカは、二人に手を伸ばした。
 だが届かない。
 全力で地面を蹴った彼女と、投げ出されたナオは剣一本分以上遠くの空中を舞っていた。
 無情にも、彼女にそれ以上彼らを救う術はなかった。
「っっ!」
 いきなり持ち上がった地面に慌てて伏せたウィッシュが振り向いた先。
 投げ出された天使に追いかけられるように、海面に向けて落下していくナオとキリエ。
 そして、船尾に向けて止まらない前転を繰り返すまおが見えた。
 自分も堪えきれず滑り落ちていく。
「まだっ、間に合えっ」
 叫ぶとウィッシュは自分の髪の毛を数本纏めて抜くと一瞬精神を集中させる。
『堅』
 それを、天使を縫いつけた時のように硬化させて両手に構える。
 フユとの戦闘時にも使った『毛針』である。
 そして床に対して垂直に『立ち上がる』と船尾に向かって駆け出す。
 加速的に落下しながら、落ちていく二人を追いかける。
「――――っ!」
 もう少し早ければ対応できたかも知れない。
 ウィッシュの髪の毛が伸びる速度では間に合わない。
 落ちる二人に追いつけない。

 迫る海面。

『堅』
 彼女が自分の髪を最大限に伸ばしながら、受け止めようと作ったゆりかごの向こう側に二人の姿が吸い込まれていく。
 と、同時。
 船が、浮力により元の体勢に――行き過ぎて逆方向に傾く。
「ナオーっっ」
 唐突に勢いを殺されて、ウィッシュは再び床にたたきつけられる。
 既に気を失っているまおは、回転する勢いのまま、船尾からはじき出されてしまう。
「まお様っ」
 そしてウィッシュは、そこで気を失った。


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