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魔王の世界征服日記
第69話 階下


「上から来る橋頭堡を作ったみたいです」
 飛び出したナオを追え、とキリエに指示して、困惑するキリエの顔を覗き込むように笑みを浮かべる。
「私とヴィッツ、まお様にはユーカさんがいますから」
 にっこり。
 未知数とは言え、この状況で冷静に判断した上、掛け値のない笑みを向けられれば信じるしかない。
 キリエは頷いて、ナオの後を追って駆け抜けた。
「――さてウィッシュ」
 ユーカは既に臨戦態勢を整えていた。
 魔術使いが戦いに直接赴くことは稀である。
 何故ならば、体術を収得した魔術師などこの世には居ないからだ。
 そもそも数がやたらと少ない魔術師が、どうして身体を鍛えているのだろうか。
 戦うことなど考えていないと言うのに。
「斬り込み役は、集中砲火を受けて終わり。むしろその後の先頭が来る事を先読みして抑えなければ」
 このメンバーの中で最も戦闘力があると言えるのはむしろまおであるが。
 ちらり、とまおを見ると困惑した表情を浮かべておどおどしている。
「私が盾になって直接魔物を封じます。ユーカさんはサポート、クガさんはまお様を。ヴィッツ、一緒に行きましょう」
「うん」
 てきぱきと指示を与えるウィッシュに、ユーカはかけた言葉を継ぐタイミングを失していた。
「何か?」
 だから、ひょいと顔を向けて来た彼女に思わず吹き出した。
「こんな時に、余裕だな」
「余裕なんて。アレを狩れるのは正直、久々だか、ですから」
 慌てて言い直して、てへりと舌を出す。
 ユーカは口を歪めて笑みを見せる。
「猫を被るのは良いが、手を抜いて戦われては困るな」
「ふふ、それはないですから安心して下さいな」

  ざかっ

 廊下に出ると、叩きつける雨音と、明らかに人間ではない声が響いていた。
 何の躊躇いもなく早足でその声に近づき、破壊された壁を超える。
 ヴィッツは彼女の後ろで、やはり怖いモノもないような貌で続く。
 ウィッシュのその行動が、狩り慣れた狩人のようでもあり、また初めから何もかも判っているようにも見えた。
 だからユーカは、一つの疑問が浮かんで改めて自分の装備を確認する。
 右手、掌の方へ命の雫の欠片。
 甲には言霊を刻んだ飾り布。
 ウィッシュの手袋とは異なり、こちらは即席魔術を撃つ代物だ。
 万能でもなければ破壊力があるわけではない。ただ衝撃波が発生するだけだ。
 それに耐えるための呪いも施してある為に、彼女の腕が弾け飛ぶ事はない。
 但しコントロールを間違えれば肘から先を持っていかれることだろう。
 布に刻む言霊を変えれば、撃てる魔術も変わってくる。
 このアミュレットは、身を護るためのモノだ。
――何者なんだ、あの女は
 しかしどう見てもあのウィッシュの装備は、『魔術』を行使する為のものだ。
 決して強力な魔術が施されていたり、彼女のアミュレットのように魔物から身を護る事ができる代物ではない。
 余程の自信家か、もしくは馬鹿か。
「最近の錬金術師は、みんな殴り屋だな」
 彼女が裂けた船体に足を触れた時、悲鳴が上がった。
 覗き込むと。
 ウィッシュのゆらゆらと揺れる髪の向こう側は、闇だった。
 いや。
 真っ黒い髪に覆われた世界に変わっていた。
「これで大丈夫」
 そう言って振り向くウィッシュの向こう側、それは、彼女の髪で全身を床と天井と壁に縫い止められた、哀れな白い姿だった。
 指先が痙攣している。まだ生きている。
 あまりに手際の良い、そして徹底して完璧な拘束。
 髪の毛を媒体とし、それを金属以上の硬度に変質させた。
 ウィッシュの特異さはその髪にある。
 彼女の意志で好きなだけ伸びて、自由に扱うことのできる『髪の毛』。
 そもそも魔物として特殊な戦術目的に作られた彼女独特の戦闘能力だ。
 潜入してピンポイントに暗殺などの工作を行うのが主任務の彼女はまおから完全に独立している。
 目の前の天使は彼女にとって、許せない存在なのだ。
――キミみたいのがボクと同じだなんてね
「でも、見張ってて下さい。ヴィッツも良いよね。いざとなればがつんとやっちゃって」
 にっこりと物騒な事を言い、ついと頭を上げる。
「ナオ達に加勢するのか」
「こいつらだったら、きっと二人の手には負えませんから」
 急がないと二人が危ない。
「ヴィッツも居ますから、ユーカさんなら大丈夫ですよね。お任せします」
「そう、二人をよろしく」
 無言で頷くヴィッツに、くるり、と背を向けて上に向かうウィッシュ。
 彼女はつい、と天井を見上げて。
 ユーカは彼女が駆けだしていくのを見送ると、もう一度白いものを見た。
 もう指先の痙攣もなく、完全に沈黙している。
――これが、嵐を呼ぶ魔物の正体
 ぬめりのある光沢、どう見ても人間の身体のような姿。
 彼女の目の前に差し出された指は、むしろミチノリの手袋のようでもある。
「天使、か」
 ぴくん。
 指が、まるで彼女の言葉に応えるように動いた。
 ユーカはしゃがみこんで直接触れてみる。
 髪の毛は、まるで細い金属製のワイヤーの様に堅く、弦のように甲高い音を立てる。
 天使の肌に触れた彼女は驚愕に目を見開いた。それでもどこか眠たそうな貌だが。
――堅い、それもこれは……
 今までに一度も触れたことのないような堅さで、まるで岩石に触れているような錯覚を憶える程。
 これが自在に動いている事が信じられない。
 ユーカはぐるりと部屋を一周してみて、半壊した部屋の床全面に縫い止められた姿を眺める。
 生命体というには不自然なこの『天使』を、いかなる手段をもって拘束するのか。
 ウィッシュの髪の毛に触れて、完全に拘束された天使の無害さを確認して。
――とんでもない事だな
「うわぁ……これ」
「まお様」
 まおの声に、彼女は振り向いた。
「お前達」
 いつの間にか、彼女の後ろにまおとミチノリが居た。
 まおの真後ろで、まるで抱きしめるように彼女に腕を回すミチノリ。
 何時からそこにいたのか。じっと天使を見つめている。
「だって、帰ってぇこなぁいんだもぉん」
 まおの不安そうな貌を見て、ミチノリの言葉に苦笑すると軽く会釈するように頭を下げる。
「それはすまなかった。私は無事だ。ウィッシュは手伝いに行った」
 その言葉にミチノリもにこりと笑みを湛えると小首を傾げて。
「もしぃ、大丈夫ならぁ」
 くい、と人差し指を立ててミチノリはちらりと上を見る。
「私は構いません。この程度の魔物なら手助けは不要」
 と言いながら、ちらりと視線を向けるヴィッツ。
 視線を合わせたユーカは小さく頷くとミチノリに目を向けて応える。
「……ああ、良いぞ」
 こくり、と頷いてまおの背中を押すと、くるりと振り返るまおに手を振って、彼はぱたぱたと上へ向かう。
 不安げに目を天使へ戻すまお。
 まおは、ウィッシュの髪の毛で完全に縫い止められた天使の姿を見て、眉を寄せて居る。
――なんだろ、これ
 覚えがない。
 彼女にとって、この『天使』は覚えのない魔物だ。

  魔王が、知らない――魔物。

 魔物ではない?
 まおの不安そうな貌を見て、ユーカは彼女を懐に引き寄せる。
「大丈夫」
 いや、違う。
 まおは口を開こうとして、何を言って良いか判らなくて何も言えなくなる。
 少なくともこの魔物を創造した記憶はない。
 それが喩え過去の自分の記憶と照らしても、だ。
 ゆっくり触れようと手を伸ばす彼女を、きゅと抱きしめてそれを止める。
「魔物には触れるな。近寄るな。何があるか判らない」
「う……」
 反論出来ず、でも視線を外せない。
 ただ、じっと、ゆっくり見つめる。
 髪の毛の森の向こう側、幾つも張り巡らされた細く鋭い繊維の壁の向こうに、人影のように姿が浮かび上がってくる。
 大きさだけならまおの倍以上。
 勿論、その程度の魔物で有れば、喩え彼女に襲いかかったとしても気になるほどではない。
 ひとひねり、である。

  ぎょろり

 恐怖というのは。
「っ」
 力量の差から来るモノではない。
 絶対的な『未知』が、『既知』と一切を異にする事が、判らないと言う事が恐怖と怒りを産む。

  ひぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいんんんん……

「な、何だこれはっ」
 二人は慌てて自分の耳を塞いでその場にしゃがみこんでしまう。
 まおは思わず天使から目を背けて。
 突然空間を切り裂いたその音波は、しかしヴィッツは意に介さず目を丸くして立ち竦んでいた。
「――何故」
 驚きに目を見開いて。

――捕獲対象……発見、集結、集結、集結集結集結集集集

 轟。
 拘束されたはずの翼が音を立てて開き、局地的な圧力を産む。
 空気を切り裂く音を立てて、光の粉が舞った。
「何」
 丁度その時、ミチノリが扉をくぐったところだった。
 彼の視界の中で、ウィッシュの向こう側で何かが弾けるのが見えた。
「無茶を」
 ウィッシュが一歩退いて術の準備を開始する。
 その間にキリエを遮るようにしてナオが立っている。
 彼はひょこひょことキリエの側まで向かう。
「ウィッシュっ、何だ今のはっ」
「仲間を呼びました、すぐ……」
 ウィッシュが言葉を継ぐよりも早く、四周を取り囲む重圧感が『発生』する。
 と、同時に、まるで空間をくりぬくようにして、球体が突如顕れ――
 球体の表面を濡らすようにして、舐める光の揺らぎが、形作る球体をかき消しながら、その影からゆらりと――
 両腕両脚を折り畳んだ形の天使が、産み落とされる。
 一、二、三。
 ぽとり、ぽとりと水滴を落とすようにして、それが船目掛けて落下する。

  ばきゃん ばりばり がり

 幾つかは船をそれて水面を叩き、そのまま沈んでしまうが、甲板上に落下した個体は全身を軋ませて身体を起こし始める。
「何だよ、何だってんだよ一体っ」
 地獄絵図は、まだ始まったばかりだった。


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