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魔王の世界征服日記
第68話 天使


 千年以上も前、初代魔王の時代。既に伝説になっている世界と歴史においてそれは存在した。
 天使という名の異形。
 童謡で語られ、口伝で残され、畏怖すべき最悪の存在として既知のもの。
 その最初の光臨は魔王と共にあったとされる。
「――こいつらまだ生きてたのかよ」
 伝説に残る程昔の話なのだ。
 生き残り、そう呼びたくなる程古い魔物だ。そう、ユーカの知識を借りて言うならば『有り得ない』はずの代物。
 魔物の中でも『種族』を構成する魔物は、所謂『雑魚』は魔王の消失と同時に消える。
 つまり今代の魔王が創造しない限り存在し得ない。シーラカンスのように、生き残るという表現はおかしいのだ。
 勿論今の魔王が作ったので有れば何ら不思議はない――のだが。
「馬鹿油断するなっ」

  ず ん

 天使が船の上に落下した。
 着地と言うにはあまりにお粗末で、甲板が陥没し樫で出来た板が簡単に真っ二つに折れて弾ける。
 嫌な甲高い音がして、決して柔らかくないそれらをまき散らしながら、天使の足が再び甲板に降ろされる。

  く はぁぁぁぁあぁあぁあぁ

 大きく裂けた口から白い蒸気を吐いて、目の前の小さな人類に向かって口を大きく吊り上げて――凄絶な笑みを浮かべる。
「うぁあああああっっ」
 我慢ならなかった。
 ナオは地面を蹴り、両腕で思い切り斬魔刀を振りかぶり、取りあえず天使の足目掛けてそれを振り下ろした。
 ひゅか、と空を裂く刃を、天使は苦もなく跳躍してかわす。
 手応えなく宙を滑る刃、その勢いを殺さず踏み込み――一回転。
 思い切り胸を張り、腕を伸ばして、でも、刃はそれでも届かない。
 キリエは案外冷静だった。
 天使の姿それ自体、怖ろしい物ではあったが――何故か、それ以上の何かが彼女を支えていた。
 ナオが雄叫びを上げて突進するのをまるで予想していたように、彼女は身体を真横にスライドさせると、姿勢を低く突進する。
 天使は目を持たない。音、振動などで獲物の場所を感じるのだろうか?
 いや、ともかく――斃す。そのためにはあらゆる手段を行使する。
 自分より巨大な相手を敵に回すならば、機動性を発揮することが一番重要になる。
 逃さない事。逃れること。それが重要なのだ。
 だから彼女は一気に天使の真後ろに走り込むつもりだった。
「!」
 ナオの攻撃を素早い動きで回避した天使。
 跳躍は足の力によるものではなく、彼の翼によるものだった。
 思った以上に、細かい動作を翼で行うことができるようだ。
 そうなれば、大きな体を持っていようとも、地面を走ることしかできない彼女達の方が不利だ。
 機動性を活かした攻撃――そんなもの、機動性が相手より優れていて成り立つものだ。
 そんな小さな絶望に驚いていた矢先、彼女が見つめていた翼が奇妙な動きをした。
 跳躍のためではない、威嚇のような無駄な動き。
――何か――来るっ
 ばさり、と大きく広げられた翼が、一瞬見えなくなった。

  ひゅ か

 視界が幾筋も遮られ、突然回転する。
 違う。
 キリエは全身を打つ衝撃に、自分を襲った銀色の風を理解しようとして。
「――っ」
 別の痛みに思わず声を上げた。
――切れている
 脚、腕、頬。
 明らかに鋭い何かで切り裂いた突き刺す痛みに、彼女は体が起こせなくなっていた。
 ふと見る足元。
 足が、何カ所も切り裂かれていた。
 出血はともかく、これでは力が入らない。転んだのはこの為だろう。
「キリエっ」
 叫ぶナオ。
 彼の目には、天使が翼を、丁度投げナイフを振り上げるような動作をしたのが判った。
 そのまま、無数の刃がキリエに向かったのも。
――勿論、それはキリエだけではなく、ナオ自身にも襲いかかっていた。
 瞼が薄く切り裂かれて、左目が出血で開けられない。
 他、しかし動けないほど重傷ではない。
――負けるか
 彼はさらに一歩、跳躍して天使との間合いを詰める。
 勢いに任せた一振り。

  が いんんん

 それはまるで冗談のように、甲高い音を立てると細かく振動して表面を滑る。
 堅い――まるで鉄か岩のような感触に、反動の衝撃。
 そしてそれをまるでかわすかのように――圧力。
「っ」
 ナオの一撃は、狙い過たず天使のすねを内側から切り裂く形になった。
 しかし、まるで冗談のように堅く、刃が突き立つどころかその表面を滑ってしまい、反撃の天使の蹴りを受けて彼は真後ろに転がっていく。
 甲板の入口にあたる壁に叩きつけられてやっと止まり、彼はそれでも斬魔刀を手放さなかった事を感謝しながら。
 朦朧とする視界がゆっくりと現実に戻るのを、

  多分彼は後悔した。

「キリエーっっ」
 動けないキリエ。
 天使の翼が振り上げられる。
 二度目の洗礼。
 距離は――無理だ、届かない。
 今から斬魔刀を投げたところで、もう振り上げられた天使の翼は止まらない。
 それに。
 奴の口はこちらを向いている。
 笑みを形作ったまま。
 嘲り――否。その生命体にそんな感情があるかどうか。
 だが確かに、ナオはその笑みに悪意を感じて、無理矢理に身体を起こそうとして、そして。

 目の前で、翼は振り下ろされた。

「大概悪趣味だよね」
 だが、天使の背中に生えた四枚の羽の洗礼は、キリエにもナオにも降り注がなかった。
「床を踏み抜いた、キミのミス。全く――こんなところで邪魔されちゃ敵わないから。“ストームブリンガー”」
 声は、天使が踏み抜いた足跡から――甲板の大きな穴から聞こえてきた。
 ふわり、とその穴からでてくる人影。
 これだけの大嵐の中で、不自然にゆらゆらと揺らめく長い髪を纏わせるウィッシュだった。
「大丈夫?」
 天使は羽を大きく後ろにたわませたまま動けなくなっていた。
 理由は判らないが――いや、空中で何かが光っているのが見える。
「ウィッシュ……」
 彼女はすぐ側に倒れるキリエを抱きかかえて、ナオの所まで下がる。
「傷は深くないよ」
 ナオに伝え、くるりと天使の方に振り向く。
「ウィッシュ」
「援護に来ましたー、と言えば恰好良いんですけど」
 ちらり、と背中にいるナオの方を向き、にこっと笑う。
「私も、この魔物には少なからず因縁があるんですよ」
 個人的な、と付け加えると彼女は右手を人差し指と中指だけ立てて、掌を天使に向ける。
「『縛』」
 同時。
 それが偶然だったのか、魔法だったのかを理解するよりも早く、空気を震わせる轟音。
 暗転する世界。
 いきなり天使が発光したように、それはすさまじい光に呑まれた。
 落雷だろう、聞いたことのない悲鳴が上がる。
 嫌な、肉の焦げるにおいがした。
 みしみしという音がして、天使の影がうずくまる。
「とりあえず、これで一匹捕らえたからね」
 こんな物では、この程度では死なない。
 ウィッシュはそれを良く知っている。

  だがそれでも 認識は甘かった

 ナオは、倒れたキリエを横抱きにするように、彼女を支えている。
「はは、面目ねぇ」
 油断していた、と後悔するよりも安堵と『生きている』嬉しさの方が勝っていた。
 痛みに顔をしかめていても、何処か嬉しそうだ。
「逃げるか?」
 しかし、ナオは逆に悔しそうな顔でそう聞いた。
 助けられなかった――すぐそばにいながら。
 勿論死んだ訳じゃない、でも。
 血に塗れて苦笑する彼女は彼にとって拷問にも近いものだった。
 喩え彼女がなんと言おうと、彼は自分を責めるしかない。
「まさか、と言いたいけど」
 ここは海上。
 逃げ場はない。
「……正直、足手まといにしかならないから」
 彼はウィッシュが魔術で足止めしているうちに、と懐から布を取り出して彼女の足に巻き始める。
 よく見れば彼女の太股とふくらはぎには親指の先ぐらいの幅で数カ所の切り傷のようなものがあった。
 それは見事に彼女の足の真裏まで届いている。
「足の感覚は大丈夫か?」
「指まできちんとあるよ」
 布を巻き付けながら、骨にも異常がないことを確認して少し安堵する。
「こら、スケベ臭いぞ」
 くすくすと笑うキリエに、ぎりっと睨み付ける。
「もう少し色気ぇ出してから言え馬鹿」
 纏足のようにきつめに布を巻き終えて、端を紐のようにして縛り付けると彼は立ち上がった。
「立てるか?」
 キリエは自分の足に力を入れてみて、思ったより力を加えられる事に安心して身体を起こしてみる。
「――歩けるぐらい、かな」
 その時。
 天使の叫び声が上がった。
 それまでの戦闘の声ではない。先程の悲鳴でもない。
「ウィッシュっ」
 彼女は油断していたというのだろうか。
 既に長い髪が波打ち、『髪』を針状に変えた武器で天使を縫いつけて、間違いのない勝利を確信していた。
 動きを封じてしまえば、弱るのを待つだけだからだ。
「まお様?!」
 殆どの感覚器官が普通の生物とは大きく異なるこの生命体でも、言葉で会話する。
 悲鳴ではない声、それは確かに仲間に合図する為の声だ。
「――しまった、この二匹が『斬り込み役』!」
 甲高く鳴く天使の声は、獲物を捉える為の本能が発するものだった。


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