魔王の世界征服日記
第62話 ナオ(後編)
キリエに何か考えがあったのか、と言われたら、彼女は多分顔を真っ赤にしてふてくされるだけだろう。
ナオが答えて、いつもの挑戦的な笑みを浮かべた時には、彼女は安心して思わず笑みを浮かべていた。
純粋に嬉しかった。
「じゃあ」
「ううん、わかったよー。うしろでみてるー」
とてとてとまおは、ヴィッツとウィッシュを追い立てるようにして下がる。
二人は渋々まおに従って、キリエとナオが距離を置くのを眺める。
斬魔木刀をもっての訓練は危険だ。
いつもミチノリが彼らの訓練場にいるのもこの為だ。
悪いと死人がでてもおかしくない立ち合いなのだ。
二人は木刀がぎりぎり触れる距離で、そっくりの構えで相対する。
ただし、ナオは片手で木刀を扱う。実戦でも薄手に鍛えた斬魔小刀を使う彼は、左手はあくまで添えるだけだ。
輪を利用して自在に刃先を向ける技術を駆使する。
キリエは、片手分しかない握りに加えその輪を握りとして両手で扱う。
女だてら斬魔刀を操る彼女は、逆に両手持ちのパワーファイターなのである。
女性だから、ではない。斬魔刀でも大きめの物を、彼女は自在に振り回す。
――男に負けたくない。彼女の意志の顕れが、この形を産んだとも言える。
――女だから。
そんな言葉が悔しくて、性格故に喧嘩っ早く、散々な暴れん坊として過ごしてきた。
体つきが近く年も同じナオは丁度良い『定規』のようなものだった。
ナオ自身性別を気にしないたち、というか、強烈な姉のせいでキリエのようなヒトがいたって別にいいじゃんと思ってたりする。
だから早々に二人が馴染んだ。パートナーとして戦場を駆けた事もある。
負けず嫌いなキリエはいつも何かにつけて張り合ってきた。
――今更
はっきり言って、それは当たり前の事。
彼女にとって大事な日常。
既に彼の居場所が彼女の中にある。
だからそれを変えたくない――変化する事が怖い。
今更ナオが別の何かに代わる事は考えたくない。
『ナオ』と言えば今目の前で木刀を構えて、自分の我が儘と気まぐれにつき合ってくれるヒトでなければならない。
それ以上でもそれ以下でもダメなのだ。
それが今はっきり判ったような気がした。
ゆっくり大きく腹で空気を吸い込む。
今度は、それ以上の時間をかけてゆっくり吐き出す。
訓練されたその呼吸を繰り返していくうち、両手足に力がみなぎってくる。
替わりに頭がクリアになり、目の前のナオだけが白い世界の中ではっきりと浮かび上がる。
何度も繰り返した世界の息吹。
やがて呼吸のテンポが上がり、心拍数が上がり始める。
ナオもそうだ。
同じだ。
全く違う、同じリズムを刻む二人――やがて我慢出来なくなったように、キリエが木刀を振り上げる。
切っ先が世界を切り裂き、ナオの右手で木刀がくりんと一回転する。
がん
衝撃は伝わらず、勢いは殺すことなく。
ひゅ
まるで見えない空気の刃が頬をかすめていく、そんな感覚。
キリエが飛び込むように踏み込んだ所を、斜めに切り上げたナオの木刀。
だが、それを読んだキリエは左腕で強引に切っ先を回し、はじき返した。
ナオはその勢いを使って、キリエの突進に対して踏み込んでかわしながら、体を右に半回転させた。
変則的な動きだったが、彼の木刀は狙いを過たず袈裟懸けにキリエを襲った。
踏み込んだ勢いを利用して体を強引に止めた御陰でそれは、彼女の左頬をかすめたに過ぎなかったが。
「おおー」
「凄いですねぇ」
既にまお達は観戦モードに入っている。
ぺたりとその場に座り込んで、どこから出したのかお茶をすすっていたりする。
「……」
何故かヴィッツは無言で二人の様子を眺めている。
ずず。
「こらヴィッツ、お茶を音たてて飲まない」
「でも、そうしないと飲んでる気がしなくて」
そんな外野を放り出して、一度間合いを切りなおす。
体勢を崩したナオに一撃を入れるのは確かに容易だが、ナオは体勢を崩しながら攻撃するスタイルを持っている。
わざと崩した体勢で相手を罠に誘う――平気でそう言う真似をしてくる。
「騙されないって」
「どぅだか」
ゆるりと姿勢をとりなおして、斬魔木刀を構える。
しゅるりと衣擦れの音がして重いはずのそれは手元で踊る。
「油断ならないってね」
が しぃん
今度はナオが踏み込んだ。
キリエの足下を目掛けて斜めに切り割かれる空間。
だが、ただ下げただけに見えた木刀によりそれは阻まれてしまう。
刃を上に向けた木刀が。
ごう
一瞬遅れれば顎を砕かれたかも知れない。
アッパーの要領で右腕を振り上げ、遅らせた左手が右手を支点にして一気に切っ先を跳ね上げた。
互いに全力、掛け値なしの本気モード。
軽快に踏み込んで大きく振り回しながらもコンパクトに急所を狙うナオに、大きな動きで重い刃を素早く切り返すキリエ。
時折響く木と木を打ち合わせる音以外は、リズミカルに刻む二人の足音しかない。
「結構長いですね」
「そだね。でもこのぐらい訓練してるってことなんでしょ」
まおの言うとおり、普段から試合でなければ彼らの打ち合いの時間というのは非常に長い。
まるで呼吸を止めていられる時間を競うかのように、寄せては返し素早く何度も打ち合う。
お互いに一歩も引かず、ただ自分の技を競う。
もう一撃、もう一撃、次の一撃。
踊るように、祈るように、謳うように続ける舞踏。
腹式の戦闘呼吸を短く繰り返し繰り返しする事で、心拍数があがり肉体は脈動を続ける。
踏み込むキリエ。翻るナオ。
ふ ひゅ
短く速い呼気が彼女から発せられ。
遅れて空気を裂く木刀の風切りが伝わり。
続けてがきんという鈍く低い音が、次の一撃を誘う。
どん
間合いを切るキリエの震脚に、倒れ込みながら追い打ちを仕掛けるナオの太刀筋。
着地と同時に両手で支えた木刀でこれを受け止める。
流して、反撃。
肩の高さに水平に振り抜く木刀。
片手とは言え、垂直に振り下ろした木の材質が材質だ、重みに耐えきれず地面へと沈み込もうとする。
「――!」
がっ
「っっ!」
体勢が崩れてしまっていた。
水平に薙がれた刃をかわすしかなかったが、刃が地面に沈んだ事に一瞬気を取られてしまった。
それが命取りだった。
キリエも、勢いのついた刃を止めることは出来なかった。
いかに木刀とはいえ、頭部への重い一撃。
ナオはその勢いに負けて真っ直ぐ右に弾けて、地面に勢いのまま転がる。
「――!」
総立ちになるまお達。
焦って木刀を投げ捨て、駆け寄るキリエ。
「く、ミチノリを呼んできてくれっ、急いでっ」
「大丈夫だ、かすめただけっ」
起きあがろうとするナオの腰を、右膝で体重をかけて押さえ込んで彼の右肩を左手で押さえて寝かしつけるキリエ。
「バカ動くなっ」
叫ぶ彼女に圧されて、ぴたりと動きを止める。
「いいか、頭への直撃だ、今意識があって異常がないようでもすぐ動かしちゃだめだっ」
必死。
ナオは目をぱちくりさせて、激昂する彼女を見上げる。
「動いちゃダメだ」
「……喋っても良いか?」
落ち着いた声で繰り返した彼女に、やっぱり落ち着いた言葉で聞き返す。
こうして土の地面に横たわるのはどのくらいぶりだろう。
草の感触と、土の冷たさがひんやりと火照った体を冷やす。
「何」
「巧く受け流した。ほら、ここんとここぶだけ出来てる」
と、こめかみの上に自分の左手をあてて、べとりと液体の感触を覚えて苦笑いした。
「切れてるな」
「だから動くな、バカっ」
怪我をしている本人より必死な形相で、だから見上げるナオの方が妙に落ち着いていた。
道場ではない。
ここは木の床じゃないから、切っ先を跳ね返すことができずにテンポが遅れた。
しかし、気づいて柄を叩くようにして身体を逃したのだ。避けられなかった訳だが。
「大丈夫だよ、別に死ぬ訳じゃないし、そんなに酷くない。安心しろよ」
「できるかバカっ、頼むから言うこと聞いて黙って動かないで待っててくれよっ」
訓練中に事故が起きるのは別に珍しい事じゃないが、木刀が直撃するような怪我は殆どと言って良い程ない。
「……今回は俺のミスだし、お前がそんなに慌てる必要はないだろ。痛いのは俺だ」
こんな時は本人より状態の判らない他人の方が焦る。彼もそれはよく判っていた。
「平気だって。大丈夫、大したことないから」
妙に落ち着き払って言うナオの言葉に、怪訝そうに眉を寄せて顔を近づけてくる。
「本当に、大丈夫なのか?」
「ああ。かすったから切れただけだし、こぶができてるけどその程度だよ。後で医者には診て貰う。これでいいか?」
落ち着いた顔というのは、それを見た人間を落ち着かせる効果があるという。
肩と腰の彼女の感触がふっと緩んで、ナオの拘束が解かれた。まだ足と手は載っかってるが体重は乗ってない。
「……悪かった。ごめん」
「だから、謝るなって。俺のミス。道場の床と勘違いして切っ先土に沈めちまったんだよ」
「バカ」
多分。
ナオは思った。
多分、今までにもこれからも、絶対に見ることの出来ない顔だと。
彼女は明るく笑いながら目尻に涙を浮かべて、おかしそうにおなかを押さえて。
「何やってるんだよ、ホントにバカ」
酷く安心していた。
ナオにはその貌をしばらく見つめて、目を閉じた。
「言っとくが、俺の上で泣くなよ。ミチノリが来たらなんていうか判りゃしない」
「わー、判……泣くかバカっ」