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魔王の世界征服日記
第40話 わかれ


 そして、ナオの頬に優しく触れる。
「――先刻、ここで魔物に襲われた」
「な」
 ナオは絶句する。
 その様子を見てフユはくすりと笑い声を零し、満足そうに頷く。
「良かった。ちゃんと信じてくれた」
 一歩、二歩。
 そしてむぎゅ。
「姉ちゃん」
 自分より少し背の低い姉でも、抱きつかれているというよりはやはり抱きしめられていると表現する方が正しくて。
「ナオ、私の側に居ればなにも怖がらなくてもいい。怖がらせるつもりはない。でも、今回は駄目」
 フユの手はナオの後頭部を優しく撫で、子供をあやすように落ち着いた声で言う。
「今回だけは」
 彼女はそこで言葉を止め、腕に力を込める。
 自分の頬をナオに押しつけるように。
「お願いだから私の言うことを聞いて怖がりなさい」
 そして突き放すように離れて、両腕で彼の肩を押さえる。
 ナオの目が少し丸く大きくなって、それが苦笑に変わる。
「変だよ、それ。姉ちゃん」
 姉の顔色は変わらない。睨むような貌でじっとナオを見つめている。
「もう俺は、子供じゃない。何時までも子供な訳ないだろ」
「でもナオ、あなたは私の弟です。それはいつまで経っても変わりません」
「姉……」
「弟である限り、私はあなたを」
 言いながら彼女は両手を彼から離し、さらに一歩退いて自分の両手を胸の前で重ねるようにして握りしめる。
「愛します」
 掛け値なしの言葉で、やはり顔色も声色もいつものまま。
 何の動揺もなく彼女は言いきった。
 フユにとって好きだとか嫌いだとか、迷惑だとかそう言う感情すら関係なしにただひたすら自分勝手で、我が儘な言い分で。
 彼が弟であるから当然であると、まるで自分の息子に言い聞かせる母親のように。
 実際彼女に感情的な物は殆ど感じられなかった。
 彼女自身何とも思っていなかった。
 それが『冷血』と呼ばれる所以だと言うことに、彼女は気づいていないのだが。
「そっか。じゃ、僕が姉ちゃんに逆らえるはずもないのか」
 ナオは微笑みを浮かべて彼女を見返す。
 表情は変わらない。変えようがない。
 ナオはくるりと背を向けて、彼女を無視してこの訓練場を見渡す。
 見慣れた風景。子供の頃から遊んだ風景の中に、ここがある。
 サッポロの外れの方が、彼の遊び場だった。
 僅かに暖かい日が、狙ったように緑の大地を覗かせる時には、今の同僚と駆け回った事もあった。
 その中で変わらない表情を浮かべて彼を見つめていたのがフユだった。
 フユはいつも側にいた。何故か、泣きはらした貌で彼女を見上げた記憶の方が遊んでいた記憶より鮮明に残っている。
 そう言えば何も言わずに抱きしめられたり、頭を撫でられた様な気がする。
 あのころのフユは顔色も変えなかったし、言葉も殆どかけてもらえなかった。
 だから、逆に、鮮明に記憶として残っているのかも知れない。
 じゃりと足音が彼の背中に近づいて、息づかいを背中に感じた。
「……何時帰ってこれるか、判らないんだから」
 すぐ側に、背中に彼女が居る。
「この風景を忘れないで」
「何時でも何処でも思い出せるよ」
 姉がいつも側にいて、今も側にいて、子供の頃の風景は今も変わらず。
 きっとこれからも変わらない。
「忘れようがない」
 彼の言葉に嘘はない。
「忘れられる訳ないじゃんよ」
 ぽすん、と彼の頭の上に、姉の手が乗った。
 子供をあやすように、彼女はそのまま頭を抱き寄せて、ゆっくりと髪の毛を指ですく。
 それも変わらない。
 日が暮れてから、こうしてずっと慰められていた様な気がする。
――……もしかして、いじめられっ子だったのかな
「怪我なんかしたら私が赦さない」
 笑いたくなったが笑うと後が怖いし、何より何が起こるか判らないからやめた。
「すぐに戻れないなら、必ず連絡を入れなさい」
「うん」
「変な女に絡まれたらまず逃げなさい。それから教えなさい」
 教えたら絶対ぶち殺すつもりだ。
 微妙に答えない方が良いような気がした。
「無事に帰ってきなさい」
 自分勝手で。
 いつも側にいて。
 身勝手に振り回しながら、間違いなく自分の事を大切に思ってくれているけど、こっちの事は一切合切考えない姉。
 でも、どうやっても嫌いにはなれなかった。
 そんな姉らしい不器用さが、可愛らしく思えた。
 思わず僕と呟いてしまう程、姉の側にいたいと思った。
「うん」
 答えを返して、しばらくそのままでいた。
「そしたら、また温泉に連れて行ってあげる」
「〜〜〜!フユ姉!」
 暴れて振り向こうとする彼を、彼女は嬉しそうに笑いながらそれでも離さない、としっかり抱きしめていた。
 少なくとも、今だけは彼は彼女の物だった。

 アキは書き物をしていた。
 丁度書類仕事がたまってきたので、或る程度減らさなければならないと思って、机の中からごそごそと定型を出して机に積む。
 これに、羽ペンに墨汁を載せてかりかりと書き込む。
 ちなみに定型は、職人が作ったガリ版である。
 巨大なローラーで墨をシルクスクリーンのような器械にかけて刷るのだ。
 一瞬巨大なゴーレムが、運動場をならすような巨大なローラーを右手に掲げているさまを想像してくすりと笑う。
 丁度25×20ぐらいの桶に、がりがり書き込んだ版を置いて、それに樽に二つも三つもある墨をどぼどぼと開ける。
 そして、コンダラもびっくりなローラーでぐしゃぐしゃと潰すようにして刷ってみる。
「くすくす」
 あんまりに面白そうなので、それはこんどフユに頼んでやってもらうことにして、取りあえず書類に色々書き込む。
 食事とか、着替えとか増加してもらわないと長期間の滞在になれば色々かさむ。
 今彼女がやっている書き物は、そう言った申請のための書類だ。

  こんこん

「はーい。開いてるから早く入ってきなさーい」
 扉の音に、彼女は声だけを扉に向けて書類の上にペンを走らせる。
 がちゃりと音を立てて入ってきたのは、フユ。
 ここまでは想像通り。
 彼女はちらと視線を向けるだけ向けて、書類仕事を続ける。
「早いじゃないの。もう終わり?まだ夜半も過ぎてないわよ」
「……はい。それよりもアキ姉さん、どうやって魔物を狩るつもりですか?」
 ぴたり、とアキは羽ペンを止めると、それをペン立てに立てる。
 別に書類が終わったわけではない。ただ、今のフユとの会話はきっと長引くだろうと思って、手を机の下に伸ばす。
「そんなつもり、毛頭ないけど。何?あなたの安全を確保したかった、じゃ駄目なのかな?」
 机の上に戻ってきた右手にはポットが握られている。
「私は麦茶は」
「残念、わたし手製の苔茶だけど?」
 う、とフユの顔色が変わる。
 実はサッポロ名産の苔茶だが、アキの苔茶はマニアたるフユの舌をも唸らせる代物なのだ。
 とは言え。
 フユはぎりぎりと歯ぎしりして、苦虫を噛みつぶしたような表情のまま続ける。
「……では魔物は野放しですか」
「まさか。それは考えてるけど。二人組で、目標に対して近づいて攻撃する一人と、何?術で押さえ込む一人の二人組なんでしょ?」
 魔物ですが、とフユは口の中だけで呟く。
「だったらさ、魔術を監視するようにお願いするしかない。違う?」
 魔術を行使すると、すぐにそれと判る『痕跡』を残す。
 これを『魔術痕』といい、あらかじめレーダーのように感知網を引いておけば魔術痕が発生――すなわち魔術が行使された事を知ることが可能だ。
「……そうです。確かにその手は有効ですが、ノイズや日常的な魔術も引っかかりますよ」
「その辺は高等術者のフユ将軍におまかせ」
 む。
 フユはじとっと睨み付けるとため息をつく。
「……それだけ策を懲らして最後は人任せですか。良いご身分ですね」
「私は司令だから、他人に仕事をさせるのが仕事」
 にこり。
 悪びれることもなくそう笑う彼女に、フユは草臥れた貌で笑う。
「わかりました姉さん。その代わり、後でその苔茶下さい」
 明日にはナオが出立する。
 それを見送ってやりたかったが、仕事もできたし今は離れられない。
――見てなさい、魔物。狩り立ててぶちのめして必ず追いかけて見せる
 音もなく静かに燃える彼女を、くすくす笑いながらアキは見つめていた。


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