魔王の世界征服日記
第38話 姉、その後
二人が走り去っていくのを、フユは見送ったまま立ちつくしていた。
そこへ、ひとりの女性が現れる。
「大丈夫?お待たせ」
膝まである長い髪の、ラフな格好の――そう、ウィッシュだ。
「ん……大丈夫」
くるり、と声に反応して振り返る。
「サポート無しでよくやったね。って、うわ」
ウィッシュは驚いて思わず目を丸くした。
「ちょ、本当に大丈夫?」
「え……あ」
彼女、ヴィッツはそこで初めて、自分がぼろぼろと涙を流してる事に気がついた。
「これは効くよぉ。うん、このボクですら驚いたし」
はしゃぐウィッシュ。
でも、自分が姉と呼ぶ彼女のはしゃぎぶりを見ても納得できない。
自分が涙を流している――自覚があるわけではなかったから。
だから、両手で自分の涙を受け止めるようにして、呆然と彼女は。
「早く元に戻りなよ」
ウィッシュはまるでつまらなさそうに彼女に言った。
ヴィッツは、それをあまり快く思えなかった。
だから。
「ううん、もう少しだけこのままで」
彼女はウィッシュから背を向けて、ぼろぼろと涙を流し続けた。
――ああ、魔王様
まだ両腕に温もりが残っている。
感触が残っている。
それが偽りで有ればどれだけ救われることか。
――そう、何ですよね
きゅと自分の身体を抱きしめるようにして、それを大切に。
消してしまうのが惜しくて。
――きっと
魔城でマジェストに指令を受けた時の事を思い出す。
『魔王陛下の御為に、この二人を始末しなさい』
少年と少女。
「それは、今代の勇者なんですか」
ウィッシュが聞く。
マジェストは揺るぐ事のない澄まし顔で、眼鏡の向こう側の表情を完全に隠したまま。
「違う。魔王陛下の世界征服に支障があるからだ、お前達」
表情のない、硬い貌で言うマジェストの科白。
少なくとも今のヴィッツにはそれが理解できるような気がした。
「それは困った事になったわね」
司令室でむうと唸っているのはアキ。
その前で困った貌をしているのがフユ。
困ったと言っても、やぶにらみなのか本当に困った貌なのかどうか判別はつきにくいかも知れない。
「はい。ですが、先程の魔物、そして以前に報告した少女型魔物を見るに、魔王軍の魔物の質が変わっています」
「それは本当と言える?実は昔からいたけど、人間の前に出ていなかっただけかも知れない」
アキの指摘は正しかった。しかし、何故わざわざ知性のない、弱い魔物ばかり大地に放っているのか。
フユはむしろ、魔王軍が故意に出し惜しみしているような気がしてならなかった。
先程の魔物にいたってはまさにその最たる――『戦略的』な仕様の魔物だ。
「だからです、魔王軍が本気になったか、さもなければ」
そこで一呼吸区切る。
「……さもなければ?」
「私が狙われています」
アキの表情が僅かに硬くなった。
そして、訝しげに眉を寄せ、首を傾げてあさっての方向を見つめる。
「トマコマイの件、ね。確かにあれは世界的な記録を見てもあまりない事例だし」
『ナラク』規模の魔術が他にないわけではない。
でも、トマコマイ砦を使った殲滅戦のような甚大な被害のモノは今まで歴史的に例を見ない。
狙われる理由としては、前例がないというだけで考えられなくもないが。
「しかし、ヒト型魔物はまだ他にもいるという話でしょ。そっちは困るよね」
「私が狙われているのであれば、多分数は少ないかと思いますが。被害も考える必要はないでしょう」
彼女は、自分の仮説を説明しながら魔物の行動について予測できることを報告する。
「……ですから、潜入している魔物はターゲットのみを殺害するということです」
「安心ではないけれど、被害は、こちらの方で何とか避けられるかも知れないということね」
アキは、報告を受ける最中もずっと考え事をしてるのか、フユの方を見ずに顎を叩いていた。
その右手の人差し指をくるっと反転させてフユに向ける。
「フユ、貴方は特務の間、この司令室にいなさい。これは命令ね」
ぱちくり。
フユは何を言われたのかを理解できなくて、瞬いて首を傾げる。
「簡単に言いましょうか。貴方をここに監禁します」
「アキ姉さん」
だが彼女の顔は、今までの巫山戯た貌とは違い、至って真剣だった。
「魔物に狙われている将軍をほっぽりだしておけると思うの?冗談。自分で今言った癖に」
「……判りました」
見て判るほど力無く言う彼女を見て、ため息をついてにたりと笑みを浮かべる。
「まさか、特務についていくつもりだったとかいうんじゃないでしょーね」
「いえ」
短く即答。
「じゃ、判ってるよね」
「あの、姉さん」
きっと顔を上げるフユの鼻の頭に、ぴしっとアキは人差し指を突きつける。
機先を制されて、言葉も継げず顔を下げる。
「今日一日。魔物も体勢を立て直すはず。必ず明日朝までに『準備を終えて』ここに戻りなさい」
「はい、判りました」
言うが早いか、彼女はそのまま振り向いて司令室を出ていった。
実はこの司令室には、着替えを除けば殆ど泊まるだけの施設が整っている。
準備などは着替えをとってくるだけだから一日も必要ない。
「まあ、正直なんだよね、あの娘は」
不器用だけどね、と思ってクスリと笑うとポットを出して湯飲みに麦茶を注いだ。
真っ暗なナオの部屋の中で、彼は毛布を頭からかぶってがたがたと震えている。
――うーわーあーうー
ナオは取りあえず思考を停止させるために、口は閉じてても取りあえず何か叫んでいた。
扉には鍵をかけている。誰かが叩いたかも知れないが、彼は聞こえなかった。
まだ感触を覚えている。
今まで無理矢理抱きかかえられたり、引きずられたり散々されたが、先刻頭にしがみついてきたような事はなかった。
突然、今までの絶対者が、自分よりも弱く思える事がまずショックだった。
過保護としか言いようのない彼女の態度に辟易しつつもそれが当たり前だった。
この間会ったまおの影響かも知れない。
だから彼の中で、『あのフユは別人だった』という結論に到達することはなかった。
自分の中の変化に怯え、震えて。
こん こん こんこんこん だんだんだん だだだだだだ
「くぉら出てこいナオーっ」
半分ぐらい悲鳴を上げて、毛布を跳ねとばして起きあがる。
扉が無茶苦茶な音を立てて鳴り響いている。
「飯だ飯、めしーっ」
「五月蠅ぇっ!壊れるだろう、やめろっ」
音に負けないように大きな声を上げて、つかつかと扉に近寄って鍵を開ける。
ばたん。
「キリエ。お前、何でここにいるんだ」
「そりゃ、俺同伴だからだよ、ナオ」
扉の向こう側には、完全武装にバックパックという出で立ちのキリエに、にやにやした――というか、いつものように緩んだ顔のタカヤ。
「お前、明日から特務だって?俺に報告したか?」
キリエは既に準備完了という感じで、多分報告したところなのだろうか。
「準備してるわけでもないし。……先刻、夕食にも集合した気配なかったが」
咎めるような表情で、言葉尻を伸ばすように言うとひょいと部屋を覗き込む。
勿論真っ暗で、せいぜい毛布がベッドから落ちている程度。
「何だ、寝てたのか」
「ああ。ちょっと調子悪くて」
咄嗟に嘘をついて、キリエの方に視線を向ける。
キリエは一瞬目を伏せてそれを避けると、今度は口をへの字に結んで上目に睨み付けて言う。
「何が調子悪いだ!お前、明日朝早くにトマコマイに行くんだぞ!」
掴みかからんばかりの勢いで、がーっとまくしたてる。
「夕飯!」
ばん、と右手に提げた弁当箱のようなモノを突き出す。
「先刻来なかった分、おばさんに包んで貰った物だ」
「喰え!そしたらすぐ準備を始めろ馬鹿!」
あ。
呆気にとられていたナオは、無言でさらに突きつけてくる弁当箱とキリエを見比べながら。
――こいつ
彼女の顔が少し子供っぽく見えて、おかしくなった。
「判ったよ。飯喰いながら準備するから、良いからお前、もう戻って休んでろ。兄ぃ、頼む」
ひょいと弁当を受け取って、彼は身体を翻す。
何度か忘れているような気がするので重ねるが、ここは男子寮で女子は入ることは出来ない。
で、キリエは勿論女の子だ、これでも。
「じゃ、用事も済んだから出ようか。キリエ」
身体を引っ張られて扉が閉じるままに、キリエは引き剥がされる。
目の前で閉じる扉。
――むぅ
彼女にとってはそれが結構悔しかったようだった。