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魔王の世界征服日記
第35話 それが望み


 言葉に反応する暇など、与えてはくれなかった。

  じゃっっ

 空気を裂く金属的な音と共にフユの右手が走った。
 そしてそれが彼女の出来る精一杯の抵抗で、間違いなく彼女の意志だった。
 ナオの姿が一瞬かき消え、フユの視角外へと滑る。
「うわった、ちょ、姉ちゃんっ」
 上擦った声で、弟は焦った貌を彼女に向けて、一歩後ずさる。
「五月蠅い」
 声のする方に、右足を軸にして回転する。
 彼女の右手には、いつのまにか――背中に隠し持っていた鉄扇がまとめて握られていた。
 ばしゃ、と音を立ててそれが広がる。
 鋼を薄く叩き鍛え、要の筒には特殊な表面加工を施したタイトな物を使っている。
 怖ろしく鋭く、その表面に刻まれた複雑な文様と、穿たれた穴はただ振り回すだけで独特の韻律を奏でる。
 笛の原理を利用した『言霊自動発声装置』になっているのだ。
 ただ念を込めて振るだけで、刻まれた言霊が発動する、そう言う代物だ。
 そして今、封じられた言霊は、『ノリト』と呼ばれる邪気を払い浄化する為のもの。
「ナオ。あなたは、特務に連れて行かれそうになっているの」
 彼女はくるくると言霊扇を回すたび、ひょうひょうと音を立てる。
 見える人間には、それが魔力の霞をまとっているのが判るだろう。
「それとこれと、いったい何の関係が!」
 ぱしん。
 彼女は言霊扇を閉じ、自分の顔の前で両手を合わせた。
 ナオの必至の言及にも、フユは決して貌をゆるめようとしない。いや、緩みっぱなしだが。
 何故か彼の方を向いて言うのではなく、まるで自分に言い聞かせるように、手元を見つめて言う。
「あなたを連れて行かれては困るから。だから、いっそ私が引導を」
 本気だ。
 カタカナでマジと書いて漢字で本気と読むんだ。読めなかったとしても。
 彼女は顔色一つ変えずに、目の色だけゆらゆらと揺らめく色に変えて。
「渡してしまおう」
 花が開くように、言霊扇が鋭い刃へ再び姿を変える。
「ここらっ、口調変わってるっ、第一なんだその理屈はっ!」

  すい

 ナオは一気にしゃがみ込んで、難を避ける。
 滑らかな動きからの踏み込み。
 一気に間合いに入ると同時に襲いかかる鉄扇。だが、斜めに振り下ろされたそれをぎりぎりでかわした。
 揺れる視界の向こうに歪む姉の姿、それをまるで遮るように何か――はらりと視界を遮る物は髪、今し方姉に切り裂かれた前髪。
 直接触れたのではない。触れずにそれが切り裂いた――何もそれはおかしな事ではない。
 本来の鉄扇というのは、彼女のような細腕が振るう武器ではない。
 その形状と重みで叩き斬るという、比較的闇器の色の濃い、美しくない武器だ。
 だが彼女の『言霊扇』は違う。文字通り切り裂く為だけに研ぎ澄まされ、斬魔刀と同様の手法でミリグラム単位で軽さとバランスを兼ね備えた物。
 武器としての工芸品的価値に、技術の粋がそれを美術品の域にまで押し上げている。
 扱いを間違えば自分自身を切り裂く、怖ろしい武器でもある。
 彼女はそれを構え直すと、口元に浮かんでいた愉悦を消してナオを睨み付けた。
「――まだ化けの皮を被っていますか」
 つい、と目が絞り込まれる。
 屈強な男ですら震え上がるという『冷血』の表情。

 彼女は先程から感じていた違和感が完全に消えてしまった事に気がついていた。
 言霊扇が彼女の周囲を浄化するたび、半分寝ぼけたような半覚醒状態からの目覚め、鈍っていた思考と感覚がよみがえってくる。
 ナオを『絡め取ろう』とする『意志』を、何処か肯定していた自分。
 それを否定しようとしない自分を戒めるように、逆に彼女は鼓舞した。

  手に入らないなら、殺してしまえと。

 それも彼女の本心だったから、あっさりと束縛から逃れることが出来た。
 先程まで満ちていた他の気配と意識――違和感の正体は、彼女を取り巻く『言霊』の力が消失していた事だった。
 彼女程の術者になれば、殆ど無意識のうちに自分の念を浮かび上がらせる魔力を身に纏う。
 瞬時に、紡いだ言霊を『魔術』へと変換するために。
 呼吸と同様に行っているせいで普段は忘れてしまうのだが。
 今は大丈夫――フユは確信する。
――魔物風情が、私から術を奪うなどとは
「いい加減に本来の貌を、拝ませていただけません事」
 ぱしゃ、と彼女の右手の中で鉄扇が開く。
 きりりとワイヤーが軋む音が聞こえ、彼女の手の中で僅かに開き、数十枚に重ねられた剃刀の刃となる。
 隙間は僅か数ミリ、切り裂かれたなら縫合などできないだろう。
「姉ちゃんっ、何を言ってるんだよ!訳わかんないってば」
 尤もフユにも自信があったわけではない。むしろ疑っていた。
 自分が感じている違和感は、自分の中の変化なのではないか、と。
 忘れてしまうような違和感より、ナオの方が大事だったから、でも。
 見逃してはならない、一つの大きな間違いを犯した。
「黙りなさい化物(けもの)――よりにもよって弟の姿なんか」
 まるで周囲の冷気がそこに集められたかのような、鍛えられた鋼の如き冷たい声。
 既に彼女の『言霊』が影響を与え始めている。
 彼女は間合いを取ったままつい、と両腕を大きく振り上げる。
 そして、まるで舞でも舞うように大きく言霊扇を振り抜く。
「『柔らかい豆腐』」
 飛び退こうとして足下を踏ん張ったナオ――いや、ナオの姿をしたものは、思わぬ感触にバランスを崩した。
 今の今まで堅い地面だったそこに足首が埋まる程沈み込んでいる。
「わわ」
 尻餅をついた途端、一気に腰まで土に沈んでしまう。
 ついた両手もずぶりと深く沈んで、体勢を整えることもできない。
「っ」
「『岩』」
 両手だけは――そう思うより早く、次の『命令』が地面を変化させた。
 手首まで抜けかけていたのに、そこで突然、引き留められるように手首が動かなくなる。
 見た目は変わっていない。土は、フユの『命令』によってなりきってしまったのだ。
 『柔らかい豆腐』に、そして今は『岩』に。
 これが本来の彼女の戦闘能力だ。軍団に命令を与えて運用したり、莫大なエネルギーを必要とする術を使うこともできるが、1対1での言霊を使った戦闘こそ彼女の真骨頂。
 完全に動けなくなったナオの姿に、フユはゆっくり近づいていく。
「『湯治』の話を、今平気で聞いたでしょう」
 ぱしゃり、と鉄扇を閉じて右手に提げる。
 もう逃がさない、彼女はついと目を細めて彼を睨み付ける。
「そ、それが」
「ナオは、その話をする度に怒るから。貌を真っ赤にして」
 くすりと小さく笑う。
「『五月蠅い、もう二度と行かねーからな』って」
 見上げたナオの貌は、一気に血の気がひいて蒼くなっていた。
「ちょ、お願いだよ、頼むから止めて」
 逃げようともがくが、両手も足首も、まして腰が『岩』になりきった土の中に沈んでいる。
「ああ――断っておきますが、その姿を保つのならそれでも構いません」
 くすり、とフユは小さく笑って、右手の鉄扇をぱしゃりと開く。
 この距離で、この体勢なら逃げようがない。確実に殺すことができる。
「私は、弟を折檻する事に何の躊躇いもありませんから」
 ついと細められていた目が、笑みの形に歪んだ。
「ば、馬鹿野郎!俺はナオだぞ!そんな、死んでしまうっ!」
「それはそれで結構。いなくなってしまうぐらいなら私が殺してしまう方が余程いいから」
 話し合いの余地は残されていないようだった。
 右手の鉄扇をすいと自分の前に持ってくると、両手を合わせるようにして鉄扇を持つ。
 小さな金属音がしたと思うと、鉄扇は二つに分かれて両手に収まり、そのまま腕を交差させる。
「偽物でもそのままでいいですよ?『弟』を殺すなんて滅多にできませんからね」
「こ、この人でなしっ!」
 金切り声で悲鳴を上げるナオを、フユは何の感情も示さない貌で見つめる。
「ええ、よく言われます」
 彼女は。
 まるで何かを抱きしめるような仕草で、両手の鉄扇を音を立てて閉じる。
「――では予行演習ということで、覚悟」
 もう彼も必死だった。
 ナオの姿が幾層も平行線が走るようにずれて、かしゃりと硬質なものがぶつかり合う音が聞こえて。
 その下から、先刻の姿とは似ても似つかない痩身の女性が姿を現す。
 肩までの切り揃えた黒い髪に、優しそうな丸い顔立ちの女性。
 彼女の着込む服は薄手ではあるが、見た感じも堅そうな身体にフィットした物だ。
 ノースリーブシャツに半ズボン。長い前髪が鼻まで隠れる程で、僅かに覗く目は大きめ。
 多分普段なら可愛らしい顔立ちなのだろうが、今は両目に涙を湛え、死への怯えで顔をぐしゃぐしゃにしている。
 そしてナオより一回り小さい体――と言っても、手元がゆるむ程度でしかない。
「……人間臭い格好ですね」
 腰は緩んだが、手足は両方とも間接が埋まってしまっているから、少し緩んだぐらいでは抜けようがない。
 変身を解けば逃げられると思ったせいだろう――彼女の必死な表情が酷く痛々しい。
 フユは腕をそのまま背中に回し、鉄扇を再びしまう。
 今着込んでいるのは軍の簡易服で正装ではないが、それだけに戦闘を行うには申し分ない。
 尤も正装であったとしても、織り込まれた言霊と将軍としての特注の設計が術を強化する。
 今構えた服にも、鉄扇の他呪符を数枚仕込んでいる。
 でも今はそのどれもが必要ない。
「たっ…助けっ……」
「魔物に見せる余裕も、慈悲も私には在りません」
 彼女の武器は言霊、この状態で在れば詠唱を邪魔するものがないので、無駄に体力を消耗するより精神集中した方がよい。
――でも、こんな魔物……
 数ヶ月前のトマコマイを思い出しながら彼女は術の体勢に入る。
――違う、あの時の魔物はもっと魔力があったから、この程度の束縛なら振り切れるはず
 逆に言えば、人間によく似た魔物がまだ別に居るというのだろうか。

「っっ!」

 フユは唐突な真横からの圧力に転倒する。
 術の為に集中したせいで反応が遅れた。
 それは致命的な隙になってしまった。目の前の魔物が術を使えないなら、先刻までの『違和感』の正体は。


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