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魔王の世界征服日記
第34話 へいき。


 フユは司令官室から出ると眉を吊り上げていた。
 アキとの話し合いが――というよりも、一方的なフユの意向と言うべきだが――巧くいかなかったからだ。
 特務の取り下げは有り得ない。つまり――フユはナオを差し出して協力しなければならない。
 『ナラク』がきっかけだから。
「ふう」
 合わせてため息を吐いてみる。
 アキがいい加減なのは今に限ったことではない。
 だから止めるなら力尽くでしか方法はない。
――勇者、ですって
 それには否定的な意見しか思いつかない。
 彼女の術、『ナラク』は確かに多大なエネルギーを消耗する、大きな術だと言える。
 しかし何故それと勇者に関わりがある。
 いや、まだ確かに勇者という存在を規定するだけの論理はこの世に存在しない。
 何故彼が勇者であり、どうして勇者が存在するのか――それを説明する論理的理由が。
 もっともそれを説明するのは彼女の生業でも仕事でもない。
 ユーカの仕事だ――だから『特務』の存在がある。
 軍としてそれを追うには、無駄が多く出来れば切り捨てたい。
 でもそれを見落とすにはリスクがある――そんな場合、切り捨てても構わない存在として特務があるのだ。
――それはともかく
 ナオは渡さない。止めないといけない。
 そればかりが頭の中をぐるぐると回っていく。
 対魔軍司令部から出ると、今度は思いがけず大きくため息をついて貌を伏せる。
 特務の方が優先であり、もしナオを必要とするならそれを止める手段はない。
 何故だろう。フユは気がつかなかったが、こんなにもやきもきしたことはない。
 少なくともナオに対して特別な感情を抱くことはないし、今もそんな感情で動いているつもりではない。
 だからこそ不自然なその感情――ナオをまるで独占するかのような。
 フユにとって大切な人。だがそれは、大事なものという意味であって、決してそれ以上ではない。
 尤も彼女はまだ一度も恋を経験していないのも事実――その前に大きな子供に対しての母性だだもれだからとも、言われているが。
――だったらナオを捕まえてしまえばいい
  拉致監禁して好き勝手に――って、何?
 おかしい。彼女は自分の中に自分以外の、違和感を覚えて足を止めた。
 何故か自分の視界に映る自分の腕が、胸が、足が自分のようには思えない。
 身体の奥底が冷たく沈んでいるような、麻痺してしまった感覚。
 その違和感に気づいた時にはもう遅かった。
 そして肝心な何かに気づくより早く、それが視界を過ぎって彼女はそれを忘れた。
 ナオが彼女の方に向かって歩いてきていた。
 両腕を上げて後頭部を抱えて。
 いつものように木刀を腰に下げた訓練スタイルで、彼女の方向に歩いてきていた。
 周囲には誰もいない。他に誰も。
 彼女の視界には彼しか見えていない。
「〜♪、おう、姉ちゃん」
 片方の腕を上げて、彼女に挨拶をする。

――聞こえない何かが聞こえたような気がした。僅かな、小さな虫の音のような

 フユは暢気な態度の彼を見て苛々と眉を吊り上げる。
 当然だろう、フユをさっきから苛つかせているというのに、本人は何もなかったような貌をしているから。
「ナオ。こんなところをうろうろしていて大丈夫なの?」
 少し声色に刺々しさが混じる。
 突然怒鳴られたナオの方は困惑する。
 何も知らないのに、いきなり怒り顔の彼女を見れば当然だろう。
 家族にしか判らない尖った表情の彼女に、ナオは眉を顰めて見返すと口を尖らせた。
「姉ちゃんこそ何やってるんだよ」
 司令官の妹だが、副司令官ではない。でも軍と言うよりはどこか家族の印象を受けるここでは、フユの立場はあまり司令官と変わらない。
「特務のクガとカサモトに会っていないの?」
 フユは、疑問と言うよりむしろ疑念に近い印象でそう聞いてみた。

――羽虫のように聞こえるその音は、

 少なくとも、ミチノリは彼を捜し当てて捕まえるはずだ。
 ユーカとミチノリは、アキは勿論彼女にとって古い知り合いだ。
 彼女達姉弟とユーカ、キリエ、ミチノリは単純な言葉でくくると幼なじみと言う奴だった。
 ユーカやミチノリの行動は、考えなくても理解できる。たとえば抜け目のないユーカ当たりは、書類仕事をさっさと終えて彼を拉致していてもおかしくないのだが。
 だがナオを見れば、それはないらしい事が判る。
 彼がゆっくり首を振るのをフユはただ信じられないように眺めているだけで。
「何。いや?どうかしたのかよ、姉ちゃん」

――羽虫のような音は、彼女に判る言葉でそう、呟いた

「ううん」

  彼は自分の物だ。

 フユはゆっくりと口元を歪めて小さな笑みを浮かべた。

  捕まえてしまえ。自分の物にしてしまえ。

 普段から表情のない彼女にとっては、それは微笑みよりも少ない反応だった。
「ナオは、元気そうだけど」
 何を考えているのだろう。何がどうなっているのだろう。
 フユは自分で、自分の言葉が自分のものだと感じられなくなっている。
 まるで薄皮一枚、自分の感覚を隠すように覆い尽くしたものがあるような。
 彼女の身体も自分のものではないと感じていた。
 何故?
 彼女は自分の中に浮かぶ疑問を、何故か否定する。
 今の状態を肯定する――納得する。
 思い通りに動かない自分の身体を――自分の、意志だというのか。
「この間の湯治で、どこもおかしくない?」
 まるで人が違うような、というのはこう言うことを指して言うのだろう。
 妙に優しい口調が、フユの口をついてでる。
 別に普段が優しくないわけではない、ただ、あまりにもそれに不自然さが混じってしまう。
 普段から言っているわけではないから――でも、彼を心配しているのは事実なのに。
 彼女の足が一歩踏み出されて、彼に近づく。
「ん、ぁあ、うん」
 さらにもう一歩。
 今見えているのは、彼の上半身だけ。
 それも肩から上しか見えない。
 腕も足も胸も腰も、彼女には見えないし――多分見上げるナオ自身も、彼女の顔の周囲以外は見えていない。
「そう、それは良かった」
 だからだろうか、フユの表情が僅かに変化したように、見えた。
 フユは普段からさほど表情を変える娘ではない。
 家族でなければその違いが判らないほどである。
 知らない人間であれば、彼女はいつもやぶにらみで無愛想だとそう思うだろう。
 実、今も殆ど表情は変わらなかった。
 それだけが、彼女の自慢とも言えた。
 だから。
 今度こそ彼女の口元が笑みに歪んだ。
「じゃ、安心してお逝き」


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