魔王の世界征服日記
第26話 たぶんたびだち。
サッポロはあちこち氷付けになっているものと思われている。
でもじつはそうでもない。
トマコマイから東におよそ馬で一週間の距離に、唯一不凍の大地がある。
「……ふん」
そこは万年雪に囲まれていながら、雪つもらない不自然な場所。
どこから切り出してきたのかログハウスが建てられている。
「どぉしたのぉ〜」
とてとてとて、と足音が聞こえて、声の主に顔を向ける。
そこにはとろんととろけた貌に金髪に、胸から腰まで覆うような前垂れをかけ、肩を隠しもしない格好で。
「ミチノリ。服を着ろ」
青年が立っていた。
大きな垂れ目に、小さめの鼻、丸い顔立ちは性別をまちがったんだろ!と突っ込みたくなるぐらいだし。
小さな肩に細い腕はますますそれを強調する。
「えぇ〜?そんなぁ、みっちゃんとゆぅちゃんのなかじゃなぁい」
「見てるこっちが寒いのだ。私を凍えさせる気か」
答える方は、深々と背中を預けて椅子に座り込んだ、女性がいる。
こっちは対照的にどこかつかれた表情に、眠たげな――また、どちらかというと面倒臭げな目をしている。
「んふ。だったら」
「つきまとうな暑苦しい」
「むぅー、ゆぅちゃん言ってることむちゃくちゃだよぉ」
ミチノリ――クガ=ミチノリは哀しそうな貌でふるふると首を振る。
「何を、今忙しいのだ」
女性はため息をついて、再び机に向かいなおした。
彼女の名前はカサモト=ユーカ。
彼女の目の前に置かれたのは、机に広げた大きめの洗面用の桶。
「いそがしぃって、いっても、ゆぅちゃん、桶覗いてるだけぢゃなぁい」
「……いつ聞いても眠くなるから、集中してるときに話しかけるなと言ってるだろうが」
声だけ彼に向けて、彼女はふっと水面に息を吹きかける。
すると、どうだろう。
普通なら波紋を描いて揺れるはずが――何故か、細かく細波を打って水面が粉々になる。
砕けて砕けて、やがて収まり始めると、そこには奇妙な陰影が浮かんでいた。
それを見て、ミチノリも眉を顰める。
「判るか」
「そりゃぁ、わかるよぉ。何年連れ添ってるって思ってるんだい?」
「精確に今日今の時点で4年と5ヶ月23日3時間44分という所かな」
「……ゆぅちゃんいぢわる」
戯れながら、ユーカの表情は硬くなっていた。
その彼女の真後ろから、全身で覆い被さるようにしてミチノリも覗き込む。
右手で、彼女の髪に手櫛を当てながら。
「この間の、防衛軍の言霊だけじゃ説明できない」
「んー、キリちゃん大丈夫かな」
ミチノリが触れた彼女の頬が、引きつるのが判った。
「あー、ゆぅちゃん怒ったぁ」
「怒ってなどいない」
ぶん、と音を立てて右腕が走る。
ぱそんと情けのない音を立ててそれが、妙に柔らかい何かに埋まる。
それは――ばかでかい手袋。
ミチノリの左手が、いつの間にか彼の身体より大きな手袋に包まれていた。
「ままま、ね、ゆぅちゃん。じゃ、誰かが故意に歪めたって事でしょぉ?」
つい、とユーカから身体を離して、くるりと身体を一回転させる。
ふわり、といつの間にか彼の姿が、頭から足の先まできちんと黒装束に着込んだ祈祷師独特の服装になっていた。
額を覆う白い布と、ばかでかい手袋が妙に目に付く以外は、首もとから腰まで下げた前垂れが特徴的だ。
「ここと、おんなじでさ」
「まだそうと決まっている訳ではないが、論理的に説明できない限り、そうとしか思えない」
ユーカが振り向くと、ミチノリはそのでかい手袋の人差し指をたててゆっくり横に振る。
あんまり大きすぎて現実離れしてるのと、その可愛らしい顔立ちのせいで全く緊張感がないが。
「正直になろーよぉ。知りたいんでしょ?調べたいでしょ?ね?」
カサモト=ユーカはだてにこんなところに住んでいるわけではない。
ユーカは魔術師と呼ばれる、この世界では数少ない存在のひとりなのだ。
彼女達は、世界というある一つの塊に存在する法則を突き詰め探す、そんな存在。
たまたまその法則を利用して、色んな奇跡じみた所行を起こすこともできるのだが、そんな物は付属品以下に過ぎない。
彼女はこのサッポロで唯一緑の生えるこの地を調べるためにここに住み着いているのだから。
ただ、研究は行き詰まっていた。
魔術師達が行き詰まる理由はいくつか有る。
この世界、どうしても論理的に説明できない、『存在する法則』に当てはまらない例外があるのだ。
溶けない氷、変わらない気候、そして魔物達。それら総てが彼女、彼達の追う『謎』なのだが。
――例外にこそ、真の法則があると信じていても、本当の真実はどこにあるのか。
にっこり笑いかけてくるこの青年も、何故こんな人間がいるのかどうしても不思議で不自然で、興味がわいたから。
だからこうして、何にも考えていない笑みを見ると、迷う自分が馬鹿らしく感じられて。
「こんなへんぴな場所は嫌だから出ていこうって、魂胆がありありだぞ、ミチノリ」
わ、と驚く彼に笑いかけながら、立ち上がる。
あわわと慌てる彼は、あたふたと何か言い繕おうとしている。
「あわ、ね、あのぉ」
「行くぞ、ミチノリ。まずはサッポロのトマコマイに行くぞ。丁度ナラクを撃った辺りからおかしくなってるみたいだからな」
部屋の端に立てている帽子かけからコートと三角帽を取る。
ふわりと不自然に風を孕むそれが、生きているように彼女の身体に巻き付く。
「もう準備できてるんだろう、お前のことだから」
「あ、そりゃもちろんだよぉ」
くりん、と右手を振ると彼の手袋に収まるほどの大きめの背負い袋が現れる。
「水に食料、火打ち石に手斧、料理セットもあるよぉ」
「……触媒に水晶玉、羊皮紙に羽ペン、インク」
あ、という貌で彼はぽりぽりとでかい指で頭をかく。
「すぐ用意するねぇ」
とてとてと背中を見せるミチノリ。
「ミチノリ」
くる、と振り返る。
「『命の雫』は、持ってるから」
「あーい♪」
世界の歪みの理由を求めて。
勇者を追う者達が、歩き始めた。