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魔王の世界征服日記
第23話 やまいだれ


 微妙な噂が流れていた。
 妙なのではない。
「最近ナオの様子がおかしいんです」
 彼の治療を終えたフユは、それから一週間経って姉の元に訪ねていた。
 姉――サッポロ常備軍退魔防衛陣営、俗称サッポロ防衛軍司令官アキ=ミマオウはばかでかい湯飲みを両手で持って、一口中身をすする。
 中は苔茶と呼ばれる、乾燥させた苔から作られるお茶だ。
 苦みが薄く、濃く深い緑色に、意外と甘いのが特徴。
「そうなの?せいぜいいつもよりうちで愚痴を言う量が減ってるぐらいじゃないの?」
 サッポロの女性は結婚しても家を出ることはない。
 既婚の彼女も、姓が変わらないのはそのためである。
 男性は成人すればただちに家を追い出され、『社会』の一員として働く事になる。
 男達は家へと帰るのではなく、家を護る為に家へ向かうのである。
 この為か、社会を構成するのが男性であっても『女尊男卑』社会という奇妙な構造をしている。
 単純には蜂なんかと同じような構造である。
 だから、職場に進出した女性が上司になることは珍しくない。
 サッポロ防衛軍は主要な役職の半数が女性だが、これは逆に多くて珍しい部類に含まれる。
「……姉さん」
 意外に良く観察されているナオを思って、僅かに眉を上げる。
「巫山戯ないでください。報告も上がっているはずです」
 事実だった。
 その報告は、僅か数日前から届いている。
「確認してるよ。一応なりとも私は司令官ですからね」
 そう言って、執務机の引き出しを開き、ファイルを一つ取り出す。
「ミマオウ=ナオの訓練成績。前期より成績は順調だからね」
 いいんじゃない?と言いながら小首を傾げる。
「最近行きすぎた打ち込みや激昂が見られない。違反行為もない。訓練に没頭するあまり怪我をする回数も減った、というか没頭しているように見られない」
「……悪く、ないですね」
 つらつらと述べられる内容を耳にして、フユも額に冷や汗を浮かべて釈然としない貌をする。
 そりゃそうだろう。
 『変』ではあるが、『良い』のだから。
 アキは笑うのを止めて真剣な貌で頷く。
「変なのは確かなのよねぇ。真面目じゃないあの子がここまで真面目な成績を出すのは」
「……散々な言いようですね、姉さん」
「だって、ね」
 アキは苦笑した。
「訓練成績不良の罰で前回、トマコマイ砦の最前線送りだったんだから」
 これは事実だった。
「だけど、実力も技術も、実戦で活きるタイプなのよね。だから、あれで判断は正しかったと思ってる」
「私も良い薬だったと思います」
 ずず、と湯飲みのお茶をすする。
「んー。ぶっちゃけ言うと最前線で周囲を見ながら死線をくぐれば、ましになるかと思ったんだけど」
 これじゃ変わり過ぎだけど。
 成績が良くなるのは良いことだ。
「でも私が言いたいのは、変わった境目がついこの間ではないかって事です」
 アキはぴくと眉を吊り上げる。
「この間?湯治の時?」
 こくり、フユは頷く。
「ええ。実は、この間の湯治」
 ゆっくりとアキに顔を近づける。
 アキは耳を彼女に近づける。
「女の子に会ったんです」
 にたあっとアキの顔が笑顔に変わる。
 どこにでもある、色恋沙汰の好きそうな顔だ。
 残念ながら、フユにはその表情の意味が判らない。
「どんな娘?」
「こんな娘です」
 沈黙。
「……フユ」
「ごめんなさい」
 まじめな顔で即答し、顔色一つ変えずまた謝る。
「丁度、同い年位の元気そうな…雰囲気は違いますが、ナツ姉さんに近いですね」
 ほうほうと言いながらメモ帳になにやら書き留めていく。
「何を書いてるんですか」
「ん。自分の弟の女の好みを。知っておいたら、後で役立つわよ?」
 にこにこしているアキに、露骨にため息をついてジト目を向ける。
 ……とは言っても、知らない人が見れば別に表情が違うようには見えないだろうが。
「何の役に立てるんですか」
「いーからいーから。ね、詳しく教えてよ」
 フユはため息をついて、その時のことを話し始めた。

「へくちん」
 微妙に棒読みの、本当にくしゃみなのかどうか理解に苦しむくしゃみを漏らす。
――……なんだろ
 そこは剣術道場、サッポロ防衛軍の施設の中でもかなりハードな訓練を行う事で知られている場所だ。
 ナオは鼻を擦って首を傾げる。
「大丈夫?」
 あぐらを組んで、ナオと同じ剣術装束が首を傾げながら言う。
 右手に木製の斬魔刀、両手に良く使い込まれた革製の籠手。
 もしその小柄で可愛らしい顔立ちを見たとしても、女の子だとは気づかないだろう。
「あ、ああ。何だか鼻がむずむずするんだ」
 ふーん、と言いながら立ち上がる彼女は、ナオと並べば背格好も大体同じ。
 つんけんしたその髪型と、大きな吊り目を除けばそっくりと言ってもおかしくない。
 かろうじて頬が柔らかく丸いのが女の子の証か。
「誰かが噂でもしてるんだよ」
「るせーなぁ、誰が噂するって言うんだよ」
 言いながら自分の身体を預けていた木刀から身体を離し、ひょいと蹴り上げて右手に構え直す。
「続けるぞー。今んとこ俺が今年に入ってから三十七勝二十五敗で勝ち越してるんだぜ」
 右手だけで器用に斬魔刀を振り回す。
 その言葉に女の子――カキツバタ=キリエは口元を歪めて強気に笑みを浮かべる。
「まだはじまったばかりだからねー。言っとくけど俺だって、昨年は百二十八勝百二十六敗で勝ち越しだぜ」
「またかよ、言っておくが俺は負けたつもりはないからな」
 すい、と両腕で木刀を構え直して、二人とも間合いを取る。
 よく見れば二人の木刀はかなり痛んで、使い込まれているのが判る。
 右手で握った木刀に左手を添える格好の、ナオ。
 対して柄の末に配した大きな輪にきちんと左手を握りしめるキリエ。
「じゃ」
「いこーか」
 息を合わせるようにして二人が手合わせを始めようとした時、道場の入り口が急ににぎやかになった。
「全員その場に気を付けぃ!」
「はいはーい、訓練ごくろーさん、続けて続けてー」
 ミマオウ姉妹、軍司令と将軍が現れたのだ。


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