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The borders
第 3話 料理


 シャワーを終えて、ソファをベッドに変形させながら通憲は考えていた。
 もう勇佳は自分のベッドに潜り込んでいる(彼女はベッドなのだ)。
 今この空間で動いているのは彼一人。
 照明を完全に落としたオフィスは、外の都会の灯りが差し込んでいて、決して真っ暗ではない。
 人工の青白い光がブラインドによって切り裂かれ、部屋の闇を寸断する。
 通り道にある金属がそれを反射して、不安定にきらめいている。
 喩え、太陽の灯りのないこんな世界でも。
 夜という輝きに満ちた世界においても。
 通憲はその力を感じることが出来ない――見ても、それが平板な板に書かれた模様と区別は付かない。
 彼は先程勇佳に言われたことを気にしていた。
――何故、私は記憶をできないのだろう
 実際に記憶出来ないわけではない。
 しかし、これは彼の精神的な物であろう、という結論が既に導き出されていた。
 疾患という程の物ではなく、ただの記憶力不足という事だ。
 記憶とは、記銘、保持、追想、再認という四要素に区分されて考慮される。
 少なくとも通憲はどの機能も問題なく正常に働いている。
 ただ記憶能力というのは喩えそれが正常に働いていようとも、人間には記憶力の差が出来てしまう物だ。
 良く雑誌の裏に『超記憶術』というのが載せられていることはご存じだろう。
 記憶というのは意識的な技術の一つで、忘却という破綻を来さないための保護機能をいかに回避するか。
 この一点に、記憶の保持期間・保持速度が関わっていると言っても過言ではないだろう。
 その証拠にただ一瞬見ただけで薪の束を数えられたり、何年も前の天気を憶えているサヴァン症候群は脳の異常からくるものだ。
 通憲は、自然の忘却の方が、記憶を保持するという意識に比べて強い――そんな事はない。
 ないはずだが、「記憶しよう」という意志、言い換えれば「記憶」を引っ張り出す為のインデックスを彼は付けようとしないのだ。
 それこそ無意識的に普通行うこれらを、彼は出来ないのだ。
 すなわち、それが彼の記憶が精神的な問題であるという理由なのだ。
 原因ははっきりしていない。
 彼はすっかりベッドになったソファの上に座ると、ふむ、と足を組んで考え込んだ。
 時計を見ると23:30過ぎ。まだ、時間はある。
 自分のことを考えるのに、幾ら時間があっても余ることはない。
 試しに思い出してみることにした。過去、そのまた過去の、本当の子供時代。
 小学生時代の友人は?
 幼稚園時代に泣いた記憶は?
 もう少し易しく、高校生時代の記憶は?
 彼は自問自答を繰り返しながら、頭の中に乱雑に浮かび上がるヴィジョンを定めていこうとした。
 しかし、幼稚園・小学生時代はおろか、大学時代に至るまで記憶がはっきりしない。
 ある一つのイベントを忘れる事はあるだろう、そのぐらいの時代は生きてきている。
 しかし――欠片も思い出せない。
 両親の顔や声、それらが存在したのかどうかすら思い出せないというのは問題ではないだろうか。
 困りはしない――彼は今のところ戸籍に用事はなく、触った記憶がないから『本籍地』は変わっていないだろうし。
 それら身分を示す書類は今のところ、彼は財産と一緒に保管している。
 銀行の貸金庫と呼ばれる場所だ。但し、金庫そのものは勇佳の物だ。
 勘違いされるかも知れないが、これでも通憲は勇佳とは付き合いも浅く、また別に内縁というわけでもない。
 社会的には全く無関係の二人だ。ただの雇い主と雇われ。それだけに過ぎない。
 彼もそれは理解している――少なくとも字面上は。
――思い出すという方法を知らないのか
 仮定してみる。でも、すぐ否決する。
 思い出そうとはできるが、思い出す切っ掛けが用意できない。そんな感じがする。
 Indexがつけられないと、記憶というのは封じたままになってしまい再生する事ができないのだろう。
 バイナリデータのヘッダ情報がなくなって、ただのゴミになったり、2バイト文字を1バイトずらして文字を壊してしまうのと同じように。
 結果思い出せない――記憶できないという状況になるのではないだろか。
 ごく最近のできごとはなんの問題もなく思い出せる。
 昨晩の夕食ぐらいなら味やどうやって食べたか細部まで思い出せる。
 だが記憶とは大抵そう言う物だ。
――でも
 そう。
 普通は憶えているような強烈な出来事が、今までに一度もなかった、それどころか勇佳と出会う切っ掛けになったはずの事件すら思い出せないのはどういうことか。
 先程の『二度目』という言葉もやけにひっかかった。
 勇佳は結構、はぐらかすような言葉遣いで、真面目に話さない癖がある。
 結構人を振り回すたちだ。それが総てとは言わないが、少なくとも一緒に生活してきてそれは判った。
 しかしまた、逆に振り回そうとしてもこっちのスタミナが持たない。
 体重ではないが、簡単にいえば振り回す・されるのは重さの差で、彼女は重く振り回すのに適している訳だ。
 そしてそれを喜んでいる節もあり、端的に言うとたちが悪い。
 尤も、勇佳にとってのコミュニケーションであり、大切な物らしい。
 仲の悪い(そんな人間を見たことはないから断言できないが)人間に対して決して絡もうとはしないだろう。
 彼ほどべったりと絡んでいれば、恋人のようにも思われて仕方がないだろう。
 実際には母と子、その関係に近いというべきなのだが。
 だが、そう言う関係であるという切っ掛け、つまり『一度目』を彼は憶えていない。
――どういう意味だろうか
 一度目。
 勇佳はさらりと『思い出すな』と言った。
 あれは彼を思いやっての発言だろうか。通憲はそれを即座に否定した。
 あれは自己否定だ。自分は思い出させたいのだが、彼女はそれをさせようとしていないのだ。
 何故なら――
――そんな。なんの利益がある
 そこまで思考して彼は総て否定して首を振った。
 彼女が酒を飲んだ状態で話した言葉は、殆どが本音だ。
 自分で自分を騙していない限りという、限定的な否定がつきまとうので100%ではないにせよ。
 今どうやっても思い出せない事が証明されてしまったので、彼はそれを『おもいやり』と思いこむことにした。
 彼がこうしてここにいて、生活をしながら彼女の生活を支えているのはこの間の事件の御陰だ。
 喩えそれが二度目だったとしても、彼にとってはあの事件が彼女との出会いなのだから。
 就職難の世界で、あっさり彼を拾って、将来の心配を総て取り払ってしまった彼女には感謝しなければならない。
 ……のだろうか。逆に考えると、未来の総てを刈り取られてしまった被害者ではないのだろうか。
 考えれば考えるほど泥沼に陥っていく思考を、彼は一旦止めて毛布の中に潜り込んだ。
 多分このままでは明日の朝になるまで考え続ける事が可能だろう。それも、かなり無意味に。
 無意味である事は別に問題はないが、寝不足で仕事が出来ないのは多大な被害を被る可能性が大きい。
――……しかし……勇佳さんは私が居なかった頃はこのお店はどうなってたんだろうか
 彼が来てから若干の改装をして、今のような感じに仕上げた。
 多分客もかなり少なかったのではないかとか、そんな風に思う。
 別に関係ないのだが。
――もしそうだとしたら。勇佳さん、お金どこでどうやって貯めてるんだろう
 それは最大の謎で、多分一生判らないだろう。
 教えてくれれば別だが。
 何故かどこかに巨大な力とお金を持ったパトロンがいて、彼女にお金を注ぎ込んでいるのではないかと思ったりする。
 ふと、彼女が左手で扇子を開いて、優雅にそれを扇ぐ様が頭に浮かんだ。
 妙に似合ってる気がした。

 朝の仕事というのは、取りあえず勇佳を起こす所から始まる。
 ベッドをソファに戻して(事務所には基本的に誰も入らないが)、応接セットを用意する。
 毛布とシーツを畳んで棚の上に片付けると、事務所の端っこ、シャワー室入口のすぐ側にある彼女のベッドに近づく。
 別についたてもカーテンも何もない。
 ついでに言うと、ベッドと言っても折り畳みの小さな奴だ。尤も小柄な彼女には充分なサイズとも言えるが。
 勇佳はそのベッドで、断熱されたこの部屋だから上に毛布一枚被っただけで横になっている。
 横向きで丸くなって。
「勇佳さん、朝、起きて下さい」
 取りあえず近づきながら声をかける。
「あーさーですよーっ」
 大声で声をかけてみる。
「うんうぅん……五月蠅い」
 案の定、はっきりと文句を言って否定した。
 そして大きめの枕をぼふ、とひっくり返して頭に載っける。
 多少は静かになったのか、彼女はまた寝息を立て始める。
「はぁ」
 彼のこのため息は、最終手段にでなければならない憂鬱さがもたらすものだった。
 ここで勇佳を叩いたり揺らしたりしようものなら問題だ。
 一応女性だから、ではない。ではないのだ。
 最終手段というのは古典的且つ、普通有り得ない方法なので使いたくないのだ。
 しかしこのまるくと事務所の朝はこれが普通だった。
 だからこその憂鬱さだ。
 くるりと彼女に背を向けて、通憲は流しの下を開けて、フライパンとお玉を取り出す。
 そしておもむろにこれを振り上げて――

  かんかんかんかんかんかんかんかん

「あさー朝だー朝だぞー起きろー」
 何故か棒読みで、大声で叫ぶ。
 お玉といっても普通にスーパーで売ってる物ではなく、中華用の大きな、首の曲がりが小さなものを使う。
 フライパンも大きめのものの方が響きがいいので、炒め用の27cm径の丸底を使う。
 所謂ホームセンターで500円だ。
 この事務所周囲は事務所建物なので、誰も生活していない。
 そして、もし早朝まだ電車も通っていない時間帯の東京や大阪繁華街をご存じならば説明はいらないだろう。
 このコンクリートのジャングルに二人っきり……という或る意味静けさのあるシチュエーションだ。
 起こしているのは男で、眠ろうとしているのが彼より年上の女性であるという黄金パターンの全くの逆ではあるが。
「があぁぁぁっ、くそ、五月蠅い、うるさいうるさいっ!」
 ばしん。
 かんしゃくを起こして枕を床に投げ捨てて、やっと上半身を起こす勇佳。
 それを見てフライパン攻撃を止める通憲。にぱ、と笑みを見せて言う。
 勇佳曰く『まるで自分が悪いという事を知らないからこそできる』笑顔。
「おはよう。勇佳さん」
「……くそ、手慣れたな」
 くしゃくしゃの髪で、酷く悔しそうに言うとぶつぶつ文句を言いながら彼女はベッドに腰掛けた恰好でスリッパを突っかける。
 膝上まである長いTシャツだけと言う、扇情的な恰好で。
 一応男の前なのだが。二人とも気にしない。というより、彼も気になってない。
「じゃ、朝食の準備しますからね〜」
 ぶつぶつ文句を言いながらそのままシャワールームに消える勇佳。
 その間に通憲は、昨晩の残りを冷蔵庫から出す。
 パンをトーストに。チーズはサラダに添えて。
 ドレッシングは、実はこれは勇佳の手作りで、サラダにかけて黒こしょうを軽くふる。
 勇佳は(何故か)ドレッシングは自分で作ると言って聞かない。
 軽く熱したフライパンでベーコンエッグを二人分。
 勇佳がいつもの凛とした雰囲気で着替えてくる頃には、テーブルの上に朝食が並んでいた。
「はい」
 彼女が出てくるのを見て、通憲は冷蔵庫から牛乳を出して注ぐ。
 自分の分にも注いで、席に着く。
「いただきます」
 勇佳は無言で、通憲は小さく両手を合わせて、それぞれ朝食を拝む。
 パンとチーズは昨日のあまりだが、量は丁度良い位だ。
 実は一部細かくしてドレッシングに混ぜてしまっているので、サラダはかなりこってりしている。
 勇佳は気づいていないようだが。
「今日は銀細工に手を入れるから」
 トーストにベーコンエッグを載せてかじる勇佳。
 昔から目玉焼きを見るたびに彼女はそうするが、何かの真似か何かなんだろう。
「判りました。じゃ、後で準備しておきます。聖別は任せます」
「……」
 無言でパンの上のベーコンエッグにとりかかる勇佳。
 どうやらベーコンが予想外に手強いらしい。
 そうかも知れない。通憲はブロックで買ってきたベーコンを自分でスライスして使うからだ。
「聖別ぐらいは、大丈夫だろう。全部一通りのやり方は仕込んだだろう?」
 勇佳の言葉に一瞬何を言われたのか判らない、というような、丸い目をして彼女を見た。
 ぱちくり。
「どういう気の触れよう、いえ、風の吹き回しですか」
「酷い奴だなお前。……いや別に、嫌ならいい」
 そう言ってミルクに手を伸ばす。
 彼女はかなり素っ気ない。素っ気ない上に口数が少なく何を考えているのか判らない。
 しかもとどめに話しながら勝手に納得して、話を切り上げてしまうのだからもうどうしようもない。
 ちなみにそれを彼女に言ったところで治そうともしない。
 自分勝手な癖に、変に気を回したがるので対応する周囲の方が大変なのだ。
 が。
 通憲も長い付き合いではないが、喩え一年でも触れるほど近くで生活したから彼女の様子ぐらいは理解できる。
「気にしてますね」
 だから単刀直入に言ってみた。
 案の定ミルクを飲む手が止まる。
 彼女は音をたてずゆっくりミルクのカップをテーブルに置くと、その手で頬杖をついて彼を見返す。
 少しだけ、彼女は挑発的な笑みを湛えた。
「……これはテストだよ、テ・ス・ト。何時までも何も出来ない弟子のままでは困るし」
 彼女は体を起こして、先程から苦労しているトーストに手を伸ばした。
「お前が魔術を使えるようになれば、私はさらに楽ができるだろう」
「それが本音ですか」
 今日はここで退こう。
 通憲は呆れたような顔を見せてため息をつくと、やれやれといった風に肩をすくめる。
「じゃ、取りあえず聖別まで終わらせますよ。言い切った限りは文句言わないでくださいね」
 む、と勇佳は眉を逆八の字に吊り上げる。
「馬鹿、文句は言うに決まってるだろう、何を言ってるんだ。テストだっていっただろう?点数を付けてしっかり補習してやる」
 ふん、と鼻息荒く言い捨てて、彼女はぐっとミルクを呷って食事を終えた。
「さっさと片付けて、準備にかかれ。私もすぐ準備する」
 かつかつと靴音を立ててシャワールームに着替えに向かう。
 靴音を立てるのは彼女の機嫌が本当に悪いときだ。
 失敗したと彼は思った。
 どうやら本当に触れてはいけないものに触れてしまったのかもしれないが、本気で彼女の補習があるのであればそれはむしろ望むところなのかも知れない。
 いつも放りっぱなしの彼女が、実地で教えてくれるというので有れば。
「……今度から言葉に気を付けよう」
 ばたん、と五月蠅いぐらい音を立てて扉を閉じる彼女は、今までにないぐらい機嫌が悪かった。
 追記になるが、補習のために店の準備が相当遅れたのは言うまでもなかった。
 さらに、彼女は準備を手伝うどころか、そのまま儀式に入るためにカウンターにも入る事が出来なくなる。

  「本日商品整理のため15:00から開店します」

 店の入口にホワイトボードをかけて、彼は開店準備にとりかかることにした。
 儀式に入ると食事は一切とらなくなる。
 朝食は最後の食事だった。後は儀式が完全に終わるまで何もできない。
 銀細工に手を入れる、というのは、それぞれの護符としての機能をより効果的にするために、儀式により祝福を行うものだ。
 通常アミュレットと呼ばれるものは、その形状と一定の儀式、文様でほぼ効果を発揮するようになる。
 ただその儀式はそれほど重要な物ではないので、ある取り決めで定めた方法により作成し、保存さえすればいい。
 しかし勿論、ある時期ある材料ある方法でもって、それを組み立てるのに充分な時間を消費することで儀式を執り行えばより効果が上がる。
 単純に薬草を摘む時間、呪文、さらに複雑になると呼びだしたエレメントの影響下に置くという手段がそれにあたる。
 エレメントというのは俗にでオカルトとも呼ばれ、姿形のない方向性だけあるエネルギーの塊のことだ。
 封じ込めるなどと大層な事は通常出来ないが、この力を帯びさせる事は難しくない。
 鉄が磁石になるのと同じ理屈だ。
 ある、こちらが望む力のベクトルに向くように、エレメントの影響下に置くこと、ただそれだけでいい。
 これは所持した人間に同じように影響を与え、望む効果をもたらす。
 そう言うわけだ。
――なんで、勇佳さんあんなに怒ったのかな
 確かに口調も態度もかなりやばかったと今は反省している。
 そのぐらいは流石に思っているが、ここまで怒った事は今までないだけに気になった。
 正直に聞いてみて教えてくれるだろうか。
 それとも本当にただ自分が悪かったのだろうか。
 彼女の態度もかなり不可解な点がありはっきり言いきれない。
 テストだ、と言い、補習もしたからそこは本気だったのかも知れないし、通憲に聖別はできないだろうと思っていたのかもしれない。
 聖別というのはある物品を『清め』る事で、儀式で使用できる状態にすることを言う。
 言葉としてはカソリックの神学用語として今は知られているが、魔術でも同様に使用されている。
 通常儀式で使用する剣、布、その他雑具は彼女の手製で、そのものがかなり高度で強力な魔術道具になっているのだが、使用前に聖別する。
 これは何も難しいことではない。物としてではなく、呪術的な、魔術的な意味において、そう、単純な譬えをするなら銃に油をひいて弾を込めるのと同じ。
 だから難しくない……はずなのだが。
「聖別はただ行えばいいというものではないぞ」
 彼女は言う。
 魔術道具の魔術的性能を最大限に引き出せるようにまで準備するには、たとえばただ聖水を振ればいいというものではないのだと。
 呪文を唱え、必要なセフィラーに意識を向け……彼女は丹念にそれの重要性と方法を何度も何度も通憲に言い聞かせた。
 通憲は憶えているどころか完全にそれをマスターしているが、勇佳にはご不満が有るようだ。
 果たして彼の儀式に問題があるのか、本当に聖別できていないのか、実はただ虐めているだけなのか。
――……ロールキャベツ、煮込んでおこうかな
 そのまま聞いても教えてくれはしない。
 だから、絶対におなかをすかせて出てくる勇佳に、好物を用意しておくのが一番だろう。
 料理はドリア、ロールキャベツ、クリームシチューで、単品で好きな物は鶏肉、ウナギ、豆腐だ。
 問題なのはウナギと豆腐で、他に料理のしようのない単品だということである。
 まさかウナギドリアとか、豆腐入りロールキャベツというような逸品を作るわけにも行かない。
 きっちり締まったおいしそうなキャベツを冷蔵庫に入れている。既にロールキャベツが確定したようなものだ。
 通憲は店の掃除と商品の展示をしながら、彼女をうち砕くための料理のレシピを冷蔵庫の在庫と照らしながら考えた。
「!」
 これだ。
 ショーケースを磨き上げて、彼は取りあえずオフィスの流し台へ向かった。

 時刻は14時をまわっていた。
 カウンター裏、オフィスの出入り口付近をカーテンと簡易の壁で隔てた小さなスペースがある。
 この中がアミュレット用儀式スペースなのだ。
 中には金製品で三つ又の燭台と、黒染めの絹で作ったテーブルクロスをかけた小さな机と他細々した物が置いている。
 壁には鏡、そして奇妙な文様の、やはり黒い布製のタペストリがかけられている。
 机の上、燭台の前に、彼女の目の前に銀細工が一つ鈍い輝きを湛えていた。
「ふぅ、これで終わりだな」
 既に儀式は終了していた。剣は布にくるんで机の上に置いているし、杖は今まさに彼女が布でくるみはじめているところだった。
 手で蝋燭の火を消して、最後の銀細工を手に取ると紫色の絹で包んだ。
 これは本物のアミュレットと呼ぶべき代物である。
 しかし、これが一万円で手にはいるのだ――掌サイズの銀のブローチである。決して高くないはずだ。
 尤もこんなもの、誰が好きこのんで使うだろうか、とも思えるのだが。
 これが意外と売れるのである。デザインの御陰かも知れない。
 また、少し毛色の違う人種もこの店にはやってくることがあり、普通使えないようなこの手の代物を大量購入していく。
――あいつらに売るには勿体ないんだが
 客には変わりない。
「通憲ー、み……」
 終わったぞ、と言おうとして彼女は思わず顔をゆるめた。
 いい匂いがオフィスに充満していたからだ。
 部屋ではないが、区切った中でお香を焚きしめるために顔を出さなければオフィスの匂いなど判らない。
――これは……クリームシチューか
 勇佳は作ったアミュレットを総て包装して、箱詰めしたそれを抱えると匂いの元へと向かう。
「お疲れさま」
 案の定、エプロン姿の通憲が鍋をかき混ぜていた。
「すぐご飯できるから、着替えてきてください」
「あ、あ、うん。商品ここに置いておくぞ」
 とカウンター側冷蔵庫の側に段ボールを置くと、彼女はさっさとシャワールームへと急いだ。
 その様子を見て通憲はにやっと笑みを浮かべた。
「取りあえずは成功かな」
 勇佳のこういうところは、妙に年不相応に幼く、非常に判りやすかった。


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