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The borders
第 話 出会い


 儀式用の装束から、スーツに着替えた彼女がテーブルの前で座っていた。
 まるっきり食事を待つ子供だ。
 まだ皿も、何も用意していない。
 通憲は苦笑しながらグラスと底の深い皿を二つ並べ、底の浅い小さな皿をその隣に置いた。
「今日はクロワッサンです」
 そして、先刻まで煮立てていたなべを、鍋敷きを敷いてその上に載せた。
 取りあえずお皿に注いで、勇佳に差し出す。
「お……」
 受け取りながら、彼女は気づいたのか言葉を失ってそれを見つめている。
 見た目はただのクリームシチューだ。
 だが、中に大きめの塊が入っている。
「ロールキャベツか」
 そう言って鍋を覗くと、二人分の割にはキャベツの塊が多いように見える。
「ええ、工夫してみました」
 クリームシチューそのものは味が薄く、濃すぎる味付けのロールキャベツは合わない。
 逆に、味付けを薄くするとロールキャベツその物がおいしくなくなってしまう。
 この組み合わせには妙味が必要だ。
 勿論、通憲の舌も重要な要素になる。
「取りあえず食べてみてください。パン、焼けてるのでだしますね」
 そう言って彼はバスケットに焼きたてのクロワッサンを入れて、バターと一緒にテーブルまでもってくる。
「さあどうぞ召し上がれ」
「いただきます」
 朝食の時は寝起きというのもあって何も言わなかったが、彼女は多少興奮気味にそう呟いてフォークを手に取った。
「すごいな、キャベツ、どうやって止めてるんだ?」
 普通ロールキャベツは楊子で止めたり、かんぴょうのようなもので結んだりする。
 だがこれは、ぴたっと止まっているのに楊子も、『紐』もない。
「それですか?型くずれしない程度に片栗で固めてるだけですから、すぐとれますよ」
 ふーん、と言いながら小振りのロールキャベツをかじる。
 その瞬間顔が変わる。
「!」
 それを見てにやりと通憲は笑った。
 熱いのか、びっくりしたのか、彼女は何とか口の中を空にしようとしてもぐもぐさせている。
 そして、水を一口飲んで、一言。
「うまいっ。通憲、これ昨晩のチーズ入っているだろう」
 にっこり。
「ええ、お肉も選びましたけどね」
 結構得意げ。
 そこからはもう無言だった。
 とにかく食べる。
 結局、晩ご飯にと通憲が考えていた分まで平らげてしまった。
 最も本気で晩まで残す気なら隠してしまっていたのだが。
 通憲も、思ったよりも思いつきが巧くいってちょっとほっとしていた。
 機嫌もいいし、今ならどう斬り込んでもうまく対応できそうな気がして。
「勇佳さん、ヒント、くれませんか?」
 食後にコーヒーを入れて、彼女の為に『生命の薔薇』をひとさじくわえて差し出す。
 油ではあるが、そのまま飲むよりと彼女は大抵飲み物に混ぜるように言う。
 飲みにくいのだ。
「ヒント?」
「ええ、昨晩寝る前ずっと考えてたんですよ。どうして記憶力がないのかなって」
 自分の分のコーヒーには何も入っていない。
 通憲はコーヒーに砂糖とミルクをくわえ、ゆっくり混ぜながら彼女の様子を窺う。
 勇佳は受け取ったコーヒーを自分の顔の前に持っていきながら、眉を歪める。
「でもほら、昨日、勇佳さんに話を聞けばそれなりに思い出したでしょう?だから」
「なんのだ」
 勇佳は急に不機嫌そうになった。
 これ以上聞くな、と暗に含むように彼女は通憲を睨み付ける。
 だが勿論通憲も退くつもりはない。
 今日は聞く。いや。――ここ最近時々見せる勇佳の態度の変化を知りたい。
 もしかしたら以前からかも知れない。
 しかし、極稀に見せる通憲に対する遠慮、いや、何らかの引け目らしきものはどうしても譲れない。
「一番最初に勇佳さんと会った時の事ですよ」
 表情は変わらない。多分、予想していた範疇の内容だったという事だろう。
 彼女は顔も口調も変えず即答する。
「ヒントは難しいな。それは」
 敢えて避けるように言うと、彼女は音を立てずカップを置いて、右手で頬杖を付く。
 そしてにやりと挑発的に笑みを浮かべ、右手の人差し指で自分をとんとんと叩きながら言う。
「どうした、そんなに知りたいのか?どうして。何か理由でもあるのか?」
「では逆に勇佳さん。……何故教えてくれないんですか」
 今度は笑わなかった。
 勇佳は頬杖を止めて右手でコーヒーカップを取ると、こくりと一口口に含んで、ちら、と通憲を見てから飲み込む。
 かなり甘い味が彼女の舌の上に残る。
「理由か。……先に答えてくれ。お前は、今までに記憶してる中で、眼鏡をかけた長身で細身の優男に関わったことがあるか」

 彼女の前に居た、小さな少年。男の子にしては背が低く、年は不明。
「こんな年端もいかない子を……」
 勇佳は、既に能面のような表情で自分を見つめているその子供を見て顔をしかめて、きゅと唇を噛んだ。
「ああ、重要だ。脳髄に発展の余地があり、肉体的には未成熟であり、これ以上の素養はどこにもないからな」
 少年の後ろから男の声がした。
 彼は、喩え少年が小さいとはいえかなり大きく見えた。
 長身で、酷く細身で、まるで針金細工か人形を見ているようにも感じる程、或る意味病的で。
 しかし恐らくこのまま町中に放置されたところで誰もそれを奇異に見るようなタイプではない。
 ただ若干細身であるというだけ。むしろ、その顔の造作から考えて、目立たず周囲に埋没してしまうタイプだろう。
 顔つきはどこか幼く、女性と言われれば信じてしまうような若い顔。
「貴方って人はっ!」
 勇佳は激昂した。
「これ以上、これ以上一体何をするというんですか!私のような人間をこれ以上増やしたいとでも!?」
 だが男は優しい笑みを浮かべ、小首を傾げて両掌を上に向ける。
「何を言っているんだ。君は私の弟子だ。彼は弟子じゃない――それは明確な差だと思わないか」

 勇佳の表情が苦々しく歪み、通憲から視線を逸らす。
「え、と、それって最近平均的な男性ではないですか。大学時代の知り合いもそんな感じでしたよ。もっとはっきりした特徴を」
 まず運動している方が珍しくなってくる昨今、大学で体育会系に所属していない限りそんなものだ。
 大人になって仕事を始めると、適当な理由を持ってますます運動しなくなる。
 そんなものだ。だから、痩せているというのは珍しい特徴かもしれないが。
 勇佳は通憲の言葉に苦々しく顔を歪め、顔を上げて固まる。
 ぱちくり。
 答えようとしていた言葉が喉を出かかっているが、それ以上動きようがない。
「?」
 通憲が不思議そうに首を傾げる、その約一秒の間でようやく勇佳は口元を歪めて笑う事が出来た。
「あー、ああ。その男の特徴、はな。非常に性悪で人当たりが良くて、自分の外観を利用して人を悪の道に引きずり込むって特徴があったな」
「はっはは。変わらないな、勇佳。噛み付かれそうな性格が少しは円くなったと思っていたのに」
 唐突に自分の頭の上で聞き覚えのない声がして、通憲は飛び上がりそうになった。
 真後ろに人が居た。
 それも、ほぼ完全に気配を殺して。いや、勿論今だって、後ろに人がいるのではなく真上にスピーカーがあるような奇妙な感覚だ。
 勇佳は彼ではなく、彼の後ろを睨んでいる。
 男の言うとおり噛み付きそうな顔つきだ。
「どうやってここに入ってきた」
「どうやってもなにも、カウンターを越えて来たんだ。ここは曲がりなりにも客商売だろう」
 カウンターを越えてくる客は居ないというよりも。
「あの、まだ準備中の札をかけておいたはずですが」
「鍵が開いていたしね、僕は客じゃない。一応なりとも身内だ。違うか?」
 言っている事が無茶苦茶だ。いきなり矛盾している。
 違うと即答が返ってきそうだったが、通憲の言葉に対する返答を聞いた勇佳は苦虫を噛みつぶしたような顔をしただけだった。
 思わず振り向いた通憲の視界に、彼の姿が映る。
 長身、勇佳の言葉通り細身で眼鏡をかけた優男。年齢は25歳ぐらいか?
「……性悪で人当たりが良くて、自分の外見を利用して人を悪の道に引きずり込む」
 男は乾いた笑い声を上げた。
「まさか二度も言われるとはね。通憲くん」
 男は慣れた感じで草臥れたようにため息を付いて、両肩をすくめる。
「自己紹介は必要か?私の名前は杜若桐荏。そこの、勇佳の師匠にあたる」
「今更何しに来た。もう貴様なんか師匠ではない」
 語尾に重ねるように、勇佳は叫んだ。桐荏は思わず両手を胸元まで上げて、「どうどう」と手を前後させる。
「悪かった悪かった。師匠だった、これでいいだろう」
 師匠。
 それにしては若すぎる。いや、明らかに若くないだろうか。この二人。
 ふと通憲はそんな事を思い、ちょっと椅子を回して二人の間から逃れる。
 勇佳は睨んでいるし、何時までも真後ろにお客がいるのは非常に嫌な気分だ。
「今日はそれに挨拶と連絡に来ただけだ。そんな毛嫌いしなくて良いだろう?ようやく見つけたというのに」
 残念そうにハの字に眉を寄せる。
「大した連絡ではないが、まずは吉報だ。勇佳、戻ってこい」
「なっ」
 彼女は取りあえず言葉に詰まる。
 男の顔は、感情をはっきり表さないせいもあるが――そのせいもあってか、勇佳がくるくると表情を変えるのがやけに目立つ。
 狼狽と言うよりも、疑い。
 躊躇と言うよりも、怒り。
「何を今更。私が見限って捨てたのだ、戻ってこいなどとは」
「だったら、是非来てくれないか。君の能力は惜しい、いや、君が欲しい」
 それはもう脅迫でもお願いでもなく、むしろ告白。
 人間は失って初めて、失ったものの大切さを知るという。
 またその逆に――喉元過ぎれば熱さを忘れる、とも言う。
 睨み合いを続ける彼らの姿は、通憲にとってはかなり奇異に映ったようだった。
 桐荏は続ける。
「と言うのが吉報だ。別に君は――勇佳、そんな顔をしないでくれ。誰も恨んでいないし、誰もけなしちゃ居ない」
 彼は眼鏡に手を伸ばして、ちょっと押し上げる。
 勇佳は何も言わない。ただ、彼を睨んでいるだけ。
 通憲もそれを眺めるしかない。他にできることと言えば、ちょっと思い出して流しに向かうことぐらいだった。
 コーヒーメーカーのコーヒーを、取りあえず三人分汲んでみる。
 一応なりともお客のはずだ。但し、砂糖もミルクも入れない。
 自分の分には両方。勇佳の分には砂糖たっぷり。彼女はミルクは嫌いらしいのだが、非常に甘くして飲むのだ。
「取りあえずどうぞ」
 と、ブラックを桐荏に差し出す。礼を言って受け取る彼に、怒鳴りかかる勇佳。
「そんな奴にコーヒーなんか出さなくて良い!もったいない!」
「ほら、勇佳さんも」
 今度は『生命の薔薇』は入れていない。一日に少しでよいのだ。
「あ……んん」
 既に冷め切った、とはいえ『生命の薔薇』入りのコーヒーを一気に呷って、代わりにその空のカップを通憲に渡す。
 通憲は一度自分と彼女のカップを流しに運んで、席に着いた。
「他に連絡があるんですか?杜若桐荏さん」
 彼は桐荏で良いから、と良いながら、平気な顔でブラックコーヒーを飲む。
「ああ。もう一つ。これは忠告に近いかな。『仕事はきちんとしろ』。ちゃんと後始末していない仕事は仕事とは言えないぞ」
 そう言うと、胸に手を入れて写真を一枚取り出す。
 暗い写真だ。妙に黒いので、思わず通憲と勇佳二人してそれを覗き込む。
 だが、覗き込んだってよく見えない。
 彼が軽く手を振ると、光の加減か何かの陰影が見えた――気がした。
「これが『我々』の間で話題になった。ということは、多分勇佳、君が関わっているのだろうと思ったのだが違ったかな」
 勇佳は写真を横から奪うような形で取ると、じっと凝視する。
 ぴくりと彼女の形のいい眉が動いて、すぐ困ったように僅かに首を傾げる。
 ぱちくり。
 無言でそのまましばらくの時間が過ぎる。
「何故――『私』だと」
 勇佳が訝しがったのはむしろ、その事についてのようだった。
 痕跡を残さないという1点においてはかなり気を遣って、それこそ魔術に触れる事すらこの仕事では禁忌のように触れていたというのに。
 彼らにはできれば見つかりたくなかったというのが本音だ。
 なんのためのこの数年間だったのか。
 だが桐荏はそんな事お構いなし、というふうに微笑む。
 そこには自慢も、まして、奢りもなければ恩着せがましいところもない。
 ただ単に。
 初めから彼女が逃げられるはずはないのだという事実を今更繰り返すつもりもない、というふうに。
「君の癖は変わらない。だから、私が呼びに来た」
 総て見当がついたというのか。
 ただこれを見ただけで、彼女がここでこうして隠遁して。
 時々起こる事件に関わって。
――結局逃げたつもりになっていただけだったというのか?
 いや。
 勇佳は即座に否定し、少なくとも動揺だけはしないように感情を切り離す。
 理知的に、論理的に思考する為だけに。
「そうか。いや、うまく身を隠したつもりだったが。いらぬ汚点だったか」
 もう一度思考する。
 もう一度思い出す。
 今回の『仕事』。写真に写った内容を考察し彼と話すのはその後でなければならない――

 それは彼女が気まぐれの買い物にでた、数ヶ月前の話。
 まだ残暑の日差しが辛く、秋とは呼べない暑さが続いていたある日。
『ちょっとー、勇佳さん、出かけるならきちんと連絡してくださいよ』
「五月蠅いな、私が出かける直前に姿をくらました方が悪いだろう。急がないと特売に間に合わなかったんだぞ」
 ドイツ直輸入の高級モーゼルワイン。本日限りの大特価。
 しかも販売前に購入権の取得が必要(無料)であり、あっても予約と違い『あればあっただけ買える』という凶悪な代物。
 ……さらに言えば、前日深夜に映画を見たせいで今日は寝不足。
 ちょっとのうたた寝で昼まで寝てしまったのだ。
 携帯電話から寂しそうな、何とも言えない情けない声が聞こえてくるのを罵倒するが、悪いのは彼女だ。
 別に通憲は悪くない。仕事の準備をしていたのだから、寝ていた勇佳が偉そうなのがむしろおかしい。
「いいから、もうすぐ帰るから待ってろ。全く、お前は仕事しておけ」
『それは私の科白ですよ勇佳さん。きちんと仕事してく』
 ぷち。
 最後まで聞かずに耳から離すと、彼女は電源を切って携帯を閉じる。
 晴れやかな表情。
 彼女は左手に、二本のワインが入った、緑で酒屋のマークが入ったビニール袋を提げている。
 きちんと緩衝剤でくるんでいるので瓶が当たる音はしない。
 彼女がその気になれば買い占める程の事はするだろうが、今回はこの二種類で満足なようだ。
 Erdener Praelat Riesling Spaetelse "Alte Reben" feinherbとKestener Paulinshofberg Riesling Spaetelese "Alte Reben"。
 共に普通に日本では見かけることのない醸造所のワインだ。
 ドイツモーゼル地方のリースリング種の白ワインは有名なワインであり、日本人に適した味であると言われる。
 ワインの中でも糖度が高く、甘みと『果実酒』らしさがその特徴だろう。
 日本食にも良く合い、勇佳はたまたま飲んだドイツワインの味にどっぷりはまってしまっていた。
 実は今回の特売、彼女も実はよく判らないまま適当に行って、『Spaetelse』(QbA、カビネットの上、シュペトレーゼと読む)だけ見て選んで来た。
 お金はあるがチープな6Pチーズとスライスチーズも一緒に買い込んである。
 取りあえず帰って冷やして飲むつもりで。
 何故かこの高級(『高貴な古木』と銘打たれたワインだというのに)ワインのあてには妙に合うと彼女は思っている。
 鼻歌でも歌いそうなぐらい上機嫌で歩いていて、ふと、本当に偶然その光景が目に入った。
 路地。
 ビルとビルの狭間。
 そこだけは、穹を縦に薄く細く切り裂いて、狭く酷く圧迫した空間を造り上げる。
 彼女が目を向けたのは何かの偶然なのか、それとも本当は何かの意図や感じるものがあったのか。
 奥に人がうずくまっているのが見えた。
――あ……ん
 その時思った事は間違いなく正しかった。
 まだその時は事件など思いも寄らなかったことだし、まして、恰好から浮浪者が蹲っているようには思えなかったから。
 ふと思いついて、彼女は一度引き返してから彼の元に向かった。
 路地は人が二人並ぶと狭いぐらいの幅で、ビルも二十階前後のそこそこ高いビルだ。
 窓らしいものは見あたらない。せいぜい、空気取り入れ口のような部分がある程度だ。
 窓があったって光を取り入れるには隣のビルが邪魔、初めからこういう設計にしているのだろう。
 異界。既に足を踏み入れている勇佳の前には男しかいない。
 彼女には元の世界とのつながりが、背中にしかない。
 ただひたすら沈み込んでいくだけ。
 男の元まで。
「おい」
 男まであと数歩。
 距離としては申し分ないところで彼女は声をかけた。
「何してるんだ?」
 酷くぞんざいに、彼の姿を見下ろして勇佳は言った。
 声に反応して、男はゆっくりと顔を上げる。
「……五月蠅いな」
 男の割には意外と甲高い声で、彼女を睨みつけながら顔を上げる。
 細面で、どちらかと言えば不健康そうな顔立ちの男。
 まだ二十代前半だろうか。
 睨み付けるその目の光にも、しかし力が感じられない。
 どちらかと言えば――こんな風に睨んでいる事それ自体が面倒臭い、と言った風に、それでも関わって欲しくないから仕方なく。
 と言うことは、今ここで退けば彼は再び項垂れるだけだろう。
 何も起きなかったのと同じ。
「端的に感想を言おうか。目障りだったんだよ」
 にや、と口の端を吊り上げて笑い、彼女は腰を折り曲げて顔を彼に近づける。
「そうでなければわざわざ来ることはないさ」
 ふん、と彼は鼻を鳴らして再び項垂れた。
 勇佳は思わず眉を吊り上げ、思った反応とは違う事に首を傾げる。
 こうすれば怒鳴るかいきなり襟首でもつかみに来ると思っていたが、まさかそれでも何事もなかったように項垂れるとは。
 一番予想外の反応に、面白くなくなってきた。
「なんでこんなところに座ってるんだ」
 勇佳の苛つきが言葉の端々に浮くが、朋飛二にはそれが通じなかったようだ。
「別に。そんなこと、どうだっていい」
 今度は顔を上げることもなく、殆ど感情を見せない声で彼は呟く。
 もう反応する気も失せた、そんな風に先程の勢いすら見せない。言葉にも力がない。
 実は勇佳は、もう一つやりたいことがあって用意した物があった。
 先刻戻った時に買ってきた物が先刻のワインと一緒に入っている。
 日本の安いワインと、幾つかのパンだったりする。
 大抵ヨーロッパの物語で食事といえばワインにパンだ。
 行き倒れに「これしかないが」と渡すのも大抵パンだ。
 飲み物は、これはお国柄から、水がないので代わりのワインだ。
 本当はむき出しの、パン屋で売ってるコッペパンかクロワッサンがいいんだが、高いのでスーパーで安売りの総菜パンだ。
 ワインだって一瓶五百円ぐらいの、本当に安い有名メーカー産の和製だ。
 近くのスーパーでわざわざ調達した物だ。合計千円も行かないお遊びだが。
 しかしこれでは。
――私は全然どうだってよくないんだが
 どうやらこの男、行き倒れではないらしい。
 この切り取られた誰もいない場所で、街から隔離された場所で、一人しかいない場所にいたいだけらしい。
 ここは狭く暗く薄汚く、街の中にありながら街ではない街――勇佳はその雰囲気を別の場所で知っている。
 だから不快感を憶えているのかもしれない。
 完全に街から隔離されていないと言っても、そこに人の目がまともに向けられることもなく。
 携帯電話を持たなければ連絡を取ることも出来ない場所、旧い言葉で言うコンクリートジャングルではないが。
 ここは街にスポットとして出来上がる空隙。あまりよくない、人が来るべきではない場所。
 しかし。
――それにしては、『死にたい』という意志の力すら完全に抜けていないか?この男
 先程の目の色といい、今の言葉といい、ここにいるのはまるで抜け殻だ。生きる意志どころか、死ぬ覚悟すらない。
 思わず彼女は無言で安いワインを彼の側に置いた。
 ごとり、という音に彼はそちらに目を向け、つい、と上目で彼女に目を向ける。
 もう、その視線は睨んでいるようには思えなかった。
 意志のない見せかけだけの抜け殻など、なんの役にだって立つことは有り得ないから。
「食事は」
「……」
 無言で返してきた。彼女はもう(初めからそのつもりだったので)袋入りの総菜パンだが、酒の隣に捨てるように置いた。
「なんで死ぬ気も生きる気もないのか判らないが、まだ死んでいない死人は消えろ。何度も言わせるな。『目障りだ』」

 それが、御堂坂朋飛二と笠下勇佳の出会い。
 本当になんでもない、ただ勇佳の気まぐれと悪戯心が与えた『奇遇』。
 面白くない、とむしゃくしゃしながら去っていく勇佳の背中を眺めながら、朋飛二は総菜パンの封を噛みきって、ワインの栓をくるくると片手で開ける。
 安物だけに、コルクではなくただのネジ式の蓋だったのは、勇佳でも少しは考えていたということだろう。
 からん、きん、と小さな金属製の蓋が音をたてて、しばらく無言で食事する物音だけがそこを満たしていた。
 やがてそこから人影が消えて――

 恐らく、事件の幕があいたのだろう。


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