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The borders
第 2話 森と魔術


 通憲の回答はよっぽど勇佳の期待と思惑を外れたようだ。
 しかし別の意味でつぼに入ってしまったに違いなかった。
 彼女は大笑いしてソファの背もたれを押しつぶすように仰け反る。
 ひとしきり笑って、今度は腹を抱える。
「あっはっはは、はは、そうかそうだよな」
 ひいひい言いながら膝を叩いて大笑いする。
「悪い。悪かった。あー、もう涙でてきただろう」
 相好を崩して、両手で大袈裟に膝を叩いて、恰好こそ女性だがその笑いっぷりは女性らしくない。
 やっぱりその態度は子供っぽくて、どこかおかしい。
「勇佳さんのいつもの真似をしてみました」
 彼もすこし気取ったように言うと、にやっと笑って一口ビールを飲んだ。
「だから悪かったよ」
 本当に目の端をふき取りながら、彼女はむせつつ体を起こした。
「あー。大分酔いが回ってしまった。まだ二杯しかいってないのに」
 彼女は食べかけのオープンサンドを手巻き寿司のように巻こうとして、ぼそりと引きちぎれながらサンドイッチに化けるのを苦笑して見つめる。
 でも気にせず食べてしまう。
 そして流し込むようにビールを空ける。
「懐かしい。憶えてるか?それ、私の真似じゃないんだぞ」
 三本目に手を出して、彼女はもうパンではなくチーズとサラミに手を伸ばし始めていた。
 今度は通憲が目を丸くする番だった。
 質問は、より精確に。より確実にというのは彼女の口癖みたいなものだ。
 だから記憶を探っても、彼女以外がそんな話をした事など思い出せない。
 その彼の態度が気にくわなかったのか、彼女は何かをひょいと投げた。
「わ」
 慌てて手をだすと、ひんやりと冷たい感触にそれがビールだとすぐにわかった。
「空いてるぞ」
「あ、あの」
 飲め。
 無言の圧力に、通憲は屈するしかなかった。
 ぷしゅ、と炭酸の弾ける音と共に泡が吹き出して、慌ててグラスに注ぐ。
 御陰で泡だらけになるのだが、通憲は気にしなかった。
「それってどういう意味なんですか?」
 むしろ今の彼女の言葉の方が気になった。
 憶えていないのか。
 真似じゃない。
 どう言うことだろうか。
「ん?ああ、なんだ、開けてから考えるな」
「ビールの事じゃなくて」
 再び笑う勇佳。
 明らかにわざとやっていた。
「ああ、悪い。悪いな。今度は私が意地悪だった」
 通憲は、こんなジャンクな夕食になるとは思わなかったが、黒パンとチーズのオープンサンドは意外においしい。
 黒ビールも、日本のビールではない独特の風味があって飲みやすい。
 残念ながらヨーロッパよりもむしろアメリカのホームパーティのイメージだが。
 勇佳はサラミを一枚口の中の放り込んで、黒ビールを呷る。
「私の質問に対して、『もっと精確に質問してください』と言ったのはお前だ。初めて会った時だ」
 右手の人差し指をぴっと彼に向けて、そのまま手首を返すようにつまみに手を伸ばす。
 スライスしたチーズは全部ナチュラルチーズだから、食べきらなければ味が変わってしまう。
 普通にスーパーで売っている、火を通したプロセスチーズと違うのだ。
 明日の朝ぐらいまでなら冷蔵庫でもつだろうが、長期はかびが生えるかもしれない。
「初めて……」
「なんだもうろくしたか?」
 先程から何度も何度も見て飽きたはずの、彼が思い出せない記憶を探る様子を楽しそうに眺める勇佳。
 にこにこと、邪気のない笑みで彼を見つめている。
 子供のような、何かを楽しみに待っている顔。
 何がそんなに楽しいのか――いや、何にでも興味を持ち何もかもが楽しくて仕方がない、そんな人間なのだろう。
 あんまりに自分勝手で、あまりに横暴で、でも、何故か憎めない物を持っている。
 通憲はここにいるのが喩え意志ではなくても、きっと不満に思うことはないはずだと感じる。
「大学の時の話ですよね」
「おいおい……もっと前だ。なんだ、忘れたのか?それともお前、本当に何にも証拠もなしに……」
 勇佳は本気で呆れて絶句して。
 そして再び、おかしくて仕方ないと大笑いを始める。
 けらけら、けらけらと。
「今日はお前は何回私に謝らせるつもりなんだ。私が何か悪いことをしたのか?」
「何回って、勇佳さん飲み過ぎですよ。今の質問で何で謝るんですか」
 本気で判らなくて、一人納得して謝るという彼女に通憲は言う。
 勇佳は再びひいひいと呼吸困難に陥りながら、何とか話そうと試みている。
「ぜひ、ぜひ。……ふう。いや、最初の私の側にいるのはいやかどうかという質問だよ。愚問だったな」
 勿論勝手に納得している勇佳を見ていたって通憲は満足しない。
 むしろますます判らなくなってくる。
 自分の事でも自分に記憶のない内容を語られる事は、まるで自分が責められているのような錯覚を受ける。
 それも、話している内容が結構重要な気がするならますますだろう。
「お前にその意志を問うのはおかしいって事だよ。お前の受け答えは非常に正しかった」
「正しいって……」
 ダメだということに薄々気づいていながら、抵抗する何かがそう質問させてしまった。
 勿論それは間違いであり、彼は即座に後悔した。
 正解は受け流してしまって別の話題に進むことだった。できれば、『次、アイリッシュウィスキーでも飲みますか』、位。
 残念ながら、彼はそう言う意味ではまだ子供だった。
 ちびりとビールグラスをなめるように一口飲んだ勇佳は、ふむ、と一息つくようにして始める。
「そうだな。二元論的に表現せざるを得ないだろう。この場合の意志を問う可否は、意志の存在にある」
 間違いなく酔っぱらっている。
 どうでもいいことをどうでもよくないような、やたらと小難しい表現で難解に説明してくれるのだ。
 一緒に飲みたくない理由の一つがこれだ。一度『おいしい夕食』について延々訳の分からない言葉で二時間も説明された事がある。
 理にかなっていようといなかろうとまるで嘘おおぼらでも、取りあえず理解するまでの時間間違いなく後手に立たされてしまう。
「即ち、通憲。お前がここにいるということがお前の意志であったのか、消去法的にそれしか選択できなかったかの二つだ」
 もう黙り込んでじっと聞くのが一番だ。これ以上傷口を広げてはいけない。
 酒屋で自慢話をする飲んだくれ親父と大した差はない。
 そう思いこんで、通憲はくっとグラスをあけた。
「つまり、通憲はここに居たくているのではなく、いるしかないからここにいるんだ」
 違うか、とばかりにからのグラスを彼に突きつける。
 思ったより早く結論に到達して、思わず彼女を見ると――何故かにやついている。
 判らなかった。
 だが、今度こそ彼は彼女からグラスを受け取り、自分の空のグラスを持つと立ち上がりながら言う。
「勇佳さん」
「買い置きは、今日はワインにしよう。ハーフが一本あるはずだ」
 通憲も憶えている。
 普段ボトルといえば720mlのボトルしか知らなかったが、丁度半分のサイズしかない360mlのボトルもあるんだとボトルで決めて買ったから、実は中身はよく判らない。
 良くスーパーで置いてある馬鹿でかいものは、彼女にして見れば『あんなもの焼酎とおなじだ』そうだ。
 もし最近売られている紙パック入りの物を見たら発狂するのではないだろうか。
 そんな風に思いながら、彼は冷蔵庫から一瓶だけある小さな瓶を取り出して、棚のワイングラスを選ぶと振り返る。
「コルク抜き、ありましたっけ?」
 彼の言葉に無言で小さく二回。
 頷きながら手招きする。
 冷蔵庫を後ろ手で閉めて元の席に着こうとすると、何故か嫌な顔をする。
 そしてもう一度、全く同じ手招き。
 凍り付く通憲に、催促するようにソファの自分の隣をばんばんと叩く。
 既に左手に握られたグラスと、右手のワインの冷たさなんか判らなくなっていた。
「……コルク抜き、ありましたっけ」
 そう言えば既に机の上も片付けられている。
 正確には彼女が叩くソファの前に、通憲の分が先程と同じように置かれている。
 いや、もう少し精確に言えば、先刻と全く反対側にそのまま移動している。
 言うまでもなく、この魔女のしわざだ。
 その彼の視界の中に、ソムリエナイフがにゅと差し出される。
「使い方は判るか」
「……かろうじて」
 通憲は、一応自分の席の前で突っ立ったまま、ワインとグラスを置くとナイフを受け取る。
 片手で器用に開くと、ワインボトルのネックに刃を押し当てて、くりっと捻るように回し切る。
 そしてこじるようにそのまま開封して、封を取り除くと今度は両手でばね状の針を引き出す。
 ナイフを閉じて、軽い手つきでねじ込んでいく。
 最初に寝かせて先端を潜り込ませるのがこつだ。
「ほぉ。なんだ、妙に手慣れているな」
「実は練習してました」
 きゅぽ、と音を立てて抜けるコルク。
 同時にコルクに染みこんだ芳香が弾けた。
 濃厚な香り。濃縮したマスカットのような甘い、甘ったるい香りだ。
 それでいて酸味まで感じる。
 結構上等な白ワインかも知れない。
 彼はそう思いながらグラスに半分ずつ、軽く注ぐと瓶をテーブルの真ん中に置く。
「……そこですか?」
 ばんばんと主張する勇佳に、呆れたと言うよりも迷惑そうな顔をして言う。
 勇佳はきっと彼を睨み付けて、もう一度無言で叩く。
――ホストクラブのホストってこんな気分なのかなぁ
 そうかもしれない。
 彼は仕方なく、グラスを持ったまま彼女の隣に座る。
 恐ろしく沈み込む、非常に柔らかいソファ。
 合成ではない、本当の革は良く滑る。かと思うと、力を加えるとがっちりと食い付いて停まる。
 ビニールでできた合皮は滑らない。全くと言っていいほど。
 高級云々は抜きにして、高い理由はよく判る。
 無言で、彼女は体を寄せてくる。
 別に暑苦しい訳でもないし、寒いわけではないが言うまでもなく通憲は少し体をずらして間を開ける。
「なんだー、つれないなー」
「あんまりくっつくと食べにくいです」
 まあまあ正論か。
 彼は黒パンに手を伸ばして、その上にチーズのスライスを載せて、そのまま口に運んだ。
 黒パンは食感がどうも『おいしくない』。
 しかし、ぼそっとした食感といい、微妙に味のないところが米によく似ていて、具にあう。
 口の中で癖の強いチーズの臭いがマイルドに誤魔化されているようにも感じる。
「……それで、どう思う」
 彼女は呟いてワインを傾ける。
 勿論その質問だけでは何の意味も為さない。
 通憲は食べながら続きを待つ。
 勇佳はグラスを一度テーブルに置くと、サラミを一枚つまんで、くるっと回しながら言う。
「こないだの御堂坂朋飛二の件は」
 一般に知られるはずのないその名前を、彼女はさらりと口に出した。
 大きく関わったわけではなかったが、勇佳の関わった事件であれば多少は気にする。
「盗んだ銃器で発砲した事件ですか?」
 社会的には騒がれる事件かも知れないが、実際にはワイドショーで概要を説明しただけに留まった。
 元警察官の不祥事、けが人のない発砲事件だからだろう。
 新聞でも一面トップのような扱いは受けなかった。僅か十分の一にも満たない面積に活字が踊っただけで、しかも名前も載らなかった。
 誰も知らない事件。
「すぐに沈静化しましたね。もう憶えている人も少ないんじゃないですか」
 個人というよりも警察組織その物のパッシングの種になったぐらいだろう。
 それも所詮、ブームのように過ぎ去れば終わる。
 勇佳は、短く『ん』とだけ言って、もう一度ワイングラスを手に取る。
 サラミは既に口の中なのだろう。
「そうか」
 グラスから口を離し、すぐにそう零す。
「『森』は憶えているか?」
「……そりゃ」
 と応えながらも通憲は僅かに戸惑いを見せた。
 森。
 彼女が、彼に聞く『森』など二つもない。
 彼女が関わった事件の中でも、通憲に関する事件であり、そして通憲がここに居ることになる事件。
 『密猟の森』事件。
「憶えていますよ」
 当時は色んなワイドショーで取りだたされて、叩かれて、騒がれて、そして結局犯人は見つからず捕まりもしなかった。
 当然だ、警察は犯人を挙げるために動いた形跡もない。
 被害者の捜索をしただけだ。
 何故なら、あの事件はただの失踪事件としてしか、誰の目にも認知されていなかったからだ。
 失踪したのは大学生が二人。それも男女、同じゼミの大学生なのだから『失踪』としか受け止められなかった。
 もしかすると、もう一人居なくなっていたのかも知れない。
「今回の事件に似てるような気がしたんだ」
 ほう、と脱力しながら息を吐いて、彼女はグラスを持った腕を肘掛けにのせ、全体重を背もたれに移す。
 隣で見ていれば、このまま寝てもおかしくないぐらい弛緩しているのが判る。
「似てる?どこがですか」
「どこがって……キミは、いい加減な勉強しかしていないか、今回の事件をきちんと見ていないかのどちらかだ」
 呆れた。
 そんな感じに両腕を天に突き上げてみせると、その態勢のままグラスを口に運ぶ。
「それとも『森』を忘れたか」
 ちらり、と彼女はグラス越しに彼を見上げて、くいっとグラスの中身を口に注ぎ込んだ。
「ぷは」
 酒臭い息を吐いて、彼女はグラスを通憲に差し出す。
 彼は受け取って、それを机に置く。
「本当に忘れたか?私は、できる限り精確に質問するようにしてきたのはキミのせいなんだがな」
 え?と通憲は驚いた顔をして、腕を組んで考え込む。
「待て、考えなくて良い」
 と、彼女の腕が通憲の肩を抱くように回される。
 先程より密着するのだが、何故か嫌な気分にはならなかった。
 ほのかに暖かくて、そこに人が居ると考えなくても実感できるからだろうか。
 人が人に触れるというのは、本能的に安心感を与えるのかも知れない。
 僅かな不安まで無理矢理払拭する――そんなイメージで。
「考えなくていいから。私が説明する。『森』は記憶の操作もできる代物だったが、お前のそれは違うからな」
 通憲も食事を止め、彼女のように背もたれに体を預ける。
 思ったよりも大きく沈み込んで、彼の肩に回された腕も潰れるようなことはなかった。
「『森』は、そもそもそれを作った人間が居た。そして、そこは狩り場として提供されていた。それだけなら複数犯だし、誰が黒幕かは判らない」
 勇佳は通憲の肩をぽんぽんと軽く叩いて、自分は天上を見上げる。
 別に何もない天井、ただ白くて広いだけの天井。
 その周囲を壁で取り囲んで、四角く切り取られた制限を受ける空間。
「説明の必要はないだろう。間違った概念だよ。『生贄』を準備する為の密猟区と言う奴だ」
 これは流石に覚えの悪い通憲でも、よく判る話だった。
 魔術を行使する際に得られるエネルギーの中でも、死というものはかなり大きいものであると考えられてきた。
 実際にはそんなものは必要ないというのが今の常識である。
 確かに殺したての暖かい血にはエネルギーが多く宿っているし、また殺される瞬間に生命が産む感情もまた爆発的なものになる。
 だがそれがどれだけ儀式に影響するかというと、実は考えられている程ではない。
 むしろ精確なアスペクトを選択し、エネルギーの高い時間に儀式を行う方がより効果が高い。
 だが、生贄というものを好む人種もいる。
「儀式に性的な物を持ち込む風習を作ったクロウリーには、死んだ今更だがむち打つようだが責任をとって貰いたい物だ」
「そうですね、結局は星と意味の組み合わせからなる精神の高揚と扉の鍵……でしょう?」
 習った事を反芻するように答えながら、彼は大学時代を思い出そうとしてみた。
 しかし、何故か記憶は曖昧でぼやけている。確かに大きなイベントがあったわけでもないし、何より彼にとっては記憶に残るべき事件以外は関わりが少なかった。
 彼にとっての大学とはそう言う場所だったと言うべきかも知れない。
 きゅ、と左肩に乗った彼女の手に力が加わるのに気づいて、彼は現実に引き戻された。
 勇佳は殆ど無意識で握ったようだった。天井を見つめたまま、リラックスした姿勢で話を続ける。
「確かに。クリフォト的な歪みを求めるなら生贄はかなり効率的だ。対偶を沈めて目的を強引に引き出すには、そのぐらい大きく沈ませる方が良い」
 今度こそ、今度こそ彼女は腕に力を込めた。通憲はただ任せる事にして、何も言わなかった。
「効率……昔から魔術師というのは多くの人間を扱うものと、そうではないものがいたからな」
 本来山にこもって一人で研究を続けるような人種が、その秘術を秘として伝え続けてきたからこそ、オカルトであったのであり。
 クロウリーのようにいかがわしい宣伝を行うことによって、社会的に地位を剥奪されたような物だ。
 魔術とは、クロウリーの如く、非人道的でただ自らの欲望のためだけにおこなうものだ、と。
「あんな場所を提供しようとした人間は、どこかに嫌な欲望が有るに違いないのさ」
「人が、何らかの目的でもって人を狩る」
 何とかして思い出そうとするように、彼は言葉を紡ぐ。
 両手を何もない空間に差し出して、くるっとそのまま返して。
 ぎゅと握りしめてみる。
 勿論何も掴んだ感触なんかないし、彼は、未だに『色』が見えない。
「人が人を殺す。それは、感情をクリフォト的に揺らすには非常に効率的だから、儀式魔法と言う意味では悪くはない」
 勇佳はきゅ、と彼をそのままで抱きしめるように力を込めてから、ソファから立ち上がる。
 そして、グラスをとって残りを注ぐと、再び背をソファに沈める。
 今度は少し通憲から離れて、彼と横向きに向かい合えるように。
「『森』はそう言う意味で非常に効率的に作られた、巨大な儀式だったとも言えるだろう?」
 通憲は体を起こして、勇佳を眺めた。
 ゆったりと体をソファに預けて、女性らしい体を見せつけるような恰好。
 ノイズが入った画像を見ているように、ただそこにある物を何とか理解するのが精一杯。
 彼にとっては、それが勇佳であるという以外の意味は持たないのだが。
 それに気づいて、彼はすっと身を寄せようとする。
「おいおい」
 這うようにして、ゆっくり彼女の上に体をかぶせる。
 勇佳は動かず、片手に持ったワインを優雅に揺らしてみせる。
「意味は判っているのか?」
「会話する程度には」
 二人は目を合わせたまま、しばらく動かない。
 勇佳は通憲をじっと見つめると、ひょい、とグラスの中身で口の中を湿す。
 通憲にまで酒の臭いが漂ってくる。
「じゃあ、会話を続けよう。元の態勢に戻れ」
 通憲は、何の反応もなくただ体をずらすようにして元の態勢に戻った。
 それを見て、小さく肩をすくめて、勇佳はにやりと笑う。
「そういうところがな。……まあいい」
 本当は言いたいことがあった。
 でも、それを口にしてしまってはあまりに自分が利己的な人間であるような気がして。
――ふっ、今更
 彼女は迷う必要などなかった。
 しかし、その躊躇は大切にすべきだと感じた。
 人間が人間であるためには、必要な部品はさほど多くはない。
「お前という存在が、たった一人であの『森』を切り崩すきっかけになってしまった」
 両腕を大きく広げる。
「そうだろう?既に睨みを聞かせていた我々が踏み込んだのはその結果にすぎない」
 勇佳は右手の人差し指を彼に突き刺すように向ける。
 そして、くるりと掌を上に向ける。
「その時だよ。お前、初めて私に会った時と同じように呟いた」
「ああ、『何を言いたいのか、言いたいことは精確に言ってください』ですか」
 くすくすと、少女のように笑うとついっと目を細めて――にっこり笑う。
「思い出せたか?あれが2度目だ」
 よっと勢いを付けて掛け声とともに彼女は一気に立ち上がる。
 ゆらり、と僅かに体を揺らせるが、決してアンバランスではなくて、ただ勢いが残っていただけで。
 彼女は、傾いたまま彼を見下ろして笑う。
 ざざ、とノイズ混じりのテレビの向こう側にあるように、通憲の視界ではそれはただの笑顔であるという知識的な理解はできたが。
 しかしそれ以上ではなかった。
「どうせその様子じゃ、初めて私と会った時の事は憶えていないのだな」
「初めてって」
 2度目。憶えていない。
 勇佳の言葉が思わせぶりなように感じて、流石に通憲は弱った。
 彼の眉を寄せて悩み始める顔を見て、勇佳はすっと上半身を折り曲げて、そのままぎゅっと通憲の頭を抱いた。
「憶えてなくていいから。悪かった」
 そして戸惑う彼の頭をぽんと叩くと身体を離した。
「先にシャワーを浴びる。片付けてくれ」
 彼女はそう言って、事務所の外れにあるシャワールームへと歩いていった。
「もう、仕方ないなぁ。勇佳さんは」
 くすりと小さく笑い、彼はそれ以上なにもなかったかのようにテーブルの上を片付け始めた。
 本当に何もなかったかのように。


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