The borders
第 1話 魔女
なに?私の仕事?
なんだ、つまらないことを聞くんだな。お前がつまらない回答を望んでいるなら答えてやっても良い。
違うのか。なに、下らない言葉遊びだと?おいおい。
なら訂正させてやろう、言葉遊びがどれだけ非道で狡猾で、実用的で効率の良い武器であるかをその身で判らせてやろう。
……音を上げるのが早いな。なんだ、つまらん。
はは、からかわれたと思ってるのか。こら、むくれるな。
んーん、私が、そうだな。その前にお前も考えなければならないぞ。
人に物を尋ねるときは、より精確に。より確実に。
エクソシストは判るか?そうかそれはよかった。
奴らの仕事はなんだ?悪魔払い?まさか。それは些事に過ぎない。
何故なら、99%以上は本当の悪魔憑きなんかじゃないからだよ。
彼らの本当の仕事は、いかにして悪魔憑きじゃない悪魔憑きと自称する奴らを納得させるかだ。
多分、一生のうちに一度でも本当のエクソシズムを体験できる神父は少ないんじゃないか?
彼らは多くの経験と強い精神を必要とする。
若いは老練な連中が行うだろうし、経験を積むにも悪魔は少ないときた。
ますます経験する事が少なくなるだろ?
年を食ってから、この数少ない悪魔憑きに不幸にも、いや幸運にも出会わなければ良い訳だ。
これはあくまで譬えだ。
そう。今私は精確にキミの質問に答えるために、丁寧且つ親切な判りやすい卑近な例を挙げてみたわけだ。
……何処も卑近じゃない?
うるさい。
さあ次はキミの番だよ。今私は自分の仕事が、見た目とは違う事を例を挙げて喩えた訳だが、キミは?
キミの言う仕事というのは何を指し示しているのか。
さあ、是非私によく判るように説明してくれ。
こらにげるな。お前の好きなコーヒーだって用意してやってるんだから、話を続けろ。
なに?いそがしーだとこらっ!ケーキも付けてやる、甘いのが嫌い?そう言うと思って抹茶のシフォンにしておいたぞっ。
そうそう、素直にはじめからそうしておけばいいんだ。まったく、下らない事で時間を潰させるな。
なに?お前だろう始めに私の仕事を聞いたのは。
全く非論理的な回答しか答えられないのか。キミは、もう少し勉強して広い心を持たなければいけないね。
判ったか?ユウ。
―――――――― Chapter:1 最初の冬
都市部近郊にある、大きなショッピングモール。
そこは、平日も夕方の時刻を差し始めると高校生でにぎわい始める。
学校まで一駅しかない、比較的近距離でありながら、彼らに必要な最新流行から比較的マニアックな物まで揃っている。
いわば当然のようにたまり場になる場所だった。
ちなみに、高校生向けバイトもここでは結構な数を扱っている。
ますます高校生が集まる土壌ができあがっているのだった。
御陰で家への帰り道による者もいるし、無理矢理寄っていく者も出る始末で。
別に悪いことではない、生徒の自覚に任せるという責任転嫁をする適当な高校の為に色んな問題も起きているようだった。
とは、いえ。
別にそれは犯罪ではなく、彼らが権利を主張するので有れば手に入る程度の些細な問題だ。
「でさ、どうなの?彼氏ー」
そのモール周辺にも様々な店が軒を連ねる。
当然、彼らに影響を受けた店もある。
ここは特にそう言う影響の密度の大きな場所だったかも知れない。
アクセサリーショップ Malkth。
ここは元々はオカルトショップだった。
今でもそうなのだが、残念ながら当初の雰囲気は全く残っていない。
多分、こんなところに常連になってるような客にろくな奴はいないが、彼らは嘆くだろう。
重苦しい重厚な黒檀色の扉に金文字で刻まれたMalkth(王国を意味するヘブライ語)が、店内を広く見渡せるガラス張りの扉に変わってしまっていた。
そして、小さな札をぶら下げてあるのだ。まんがで使われる丸文字で、
「営業中:アクセサリーショップ まるくと」と。
店内を見渡せば、入ってすぐに見えるのが奥に設えた小綺麗な応接セット。
テーブルは三つ、椅子は全部で十二、今その席の半分は女子高生で埋まっている。
Malkuthの意味すら判らないであろう、果たして常識もどれだけ知っているのか判らない連中が、こんな場所にたむろっているのだ。
「お茶のお代わりは?お嬢さん方」
黄色い声が上がる。
声をかけたのは店員の青年、玖珂通憲。
すらりと長身で、無駄な肉がないというより痩せた男。
にこにこしていて、丸い眼鏡が妙に愛嬌を感じさせる。
が、優男とかそう言う一般的な雰囲気の合う男ではない。
「こっちーこっちお願い」
「はいはい」
気さくで明るい感じがするが、言葉遣いや態度が少しおかしいのだ。
しかも、年上。
彼女らにはそれが可愛く見えるのかも知れない。
白いポットをもって卓を回る彼は、大きめのエプロンに鍋敷きを持って、白い磁器のマグカップに紅茶を注ぐ。
それは喫茶店の店員でもしない不格好なものだ。理にかなったものなのだが。
「ね、この紅茶なんていうの?」
「はい?ええ、セイロンにローズマリーをブレンドした『魔女のバラ』です。店長のブレンドですよ」
感嘆が上がる。
彼の仕事ではないのだが。
さっと机を見回し、エプロンからスティックシュガーを取り出して補充したりと一巡りして、彼はカウンターの奥に戻る。
給湯施設に併設したカウンターだ。
だが喫茶店ではないから立派な物ではない。ただ従業員の呑むお茶を出してるに過ぎないのだ。
「勇佳さん、たまには仕事してくださいよぉ」
「ん。……そうだな、私の仕事があるんだったしてやろう。どうだそれで」
くるりと椅子を回して振り返る勇佳。
給湯器のあるカウンタ裏の向こう側に、ここのオフィスがあった。
勇佳は彼の目の前にある大きな机に座って、コンピュータに向かっているのだ。
「……勇佳さん?じゃあ、今仕事してなかったって事ですか」
「ふふん。私が仕事をするとでも?」
得意げに女性は答え、にんまりと笑みを浮かべて腕を組む。
通憲はがっくりと肩を落として、酷く残念そうな顔をして大きくため息を付く。
「……思いません」
彼はポットをコンロに戻し、鍋敷きを壁にかけると足下の冷蔵庫を開いた。
小さな冷蔵庫で、色んな種類の瓶が並んでいる。蓋の色だけが違う、同じ大きさの瓶の中は、黄色かったりする訳だが。
蓋の色は三種類。赤、黄色、白。中身の色もそれぞれ違う。
「あ、勇佳さん喜んでください。仕事です」
「喜ばない」
くるり。
返事を待たず彼女は再びコンピュータに向かう。
「ほほう、今ではアスペクトもコンピュータで計れるのか。慣れれば資料も器械もいらないんだが。
おおっ、専門外だがこれはかなり高機能だな、欲しいぞ!
……って、何だよ、18万って。高いぞ」
どうやらインターネットにはまっているようだ。
導入したのは、お金の余裕とビルの権利者との折衝により光ファイバーを引き込める事になったからだ。
これで電話も、インターネットも充分な余裕を持ってできる。
ただ問題は、勇佳がどっぷりはまって朝から晩までコンピュータにかじりついていることだった。
「無視ですか?」
「ああ、無視だ」
それも明確にはっきり意志を持ってやりたいことしかやろうとしないのを主張する物だから、子供何かよりもたち悪い。
無視してるなら返事する必要はないと思うのだが。
「でも勇佳さん。“命の薔薇”切れてるんですよ」
不機嫌そうな声が帰ってきた。
そして、振り返る彼女に赤い蓋のペットボトルを見せる。
ちゃぷん、と底の方で液体が音を立てた。もうほとんどない。
「振る舞いすぎだぞ馬鹿者」
「毎日きちんと計って使ってます。勇佳さんも朝昼晩飲んでるでしょ」
但し出すのは彼の仕事だ。
仕事、というか。勇佳がしようとしないが、彼が準備しないと怒るので準備するしかないというか。
悪循環のような気がするが、通憲は嫌な顔も呆れた顔も見せなかった。
「……仕方ない」
渋々、と彼女は彼の差し出す瓶を受け取って、自分のロッカーへと向かう。
「たまには、こういう仕事も覚えたらどうだ通憲」
と良いながら、気が付いたように渋い顔で振り返る。
「すまない」
「え?いえ」
通憲の快活ないつもの答えに、しかし勇佳は何故か表情を変えずに背を向けた。
営業時間は決まっていないが、客入りが少なくなってきたら適当に掃除を始め、そこそこ店内を整理したら明日の準備。
準備と言ったって、毎日売れる物などないし、せいぜい振る舞う紅茶を準備するだけ。
しかし市販品ではない銀細工やネックレスはこれでも売れ筋であり、高校生のおこづかいで充分買える値段設定である。
最近はバイトの御陰か、一万二万でも平気で売れる。
「終末の補充じゃ聞きそうにないですよ。ボーナスシーズンだからかなぁ」
倉庫から商品を取り出して、カウンターやショーケースに並べながらぐちる。
「そうだな。キリシタン共のお祭りというのはこれでも結構良い収入になるというものだ」
勿論それも通憲の仕事。
勇佳はそれを見ながら紅茶の香りを楽しんでいる真っ最中。
時計を見ると、丁度八時を指そうという時間だ。
「通憲、閉店だ。どうせもう客は来ないだろう」
「はい」
答えると、彼は入口を開いて看板をひっくり返し、入口の上にある防火シャッターを閉じる。
ドアには鍵をかけて、窓のブラインドを閉じ始める。
カウンター裏。オフィスになっているが、基本的な生活は実はここでできるようになっている。
オフィスはそのため土足厳禁、一応カウンター裏が土間みたいになっている。
ソファは折り畳んでベッドになるタイプだし、卓上コンロと給湯施設はあるから本格的でなくても充分料理はできる。
外に別に住居を構えるのも面倒だと、勇佳はこのオフィスに寝泊まりしているのだ。
この仕事場に生活環境があるのは結構便利な物で。
まず絶対に仕事に遅れない。極稀に仕事中に寝る事はあっても。
次に店屋物ですませる必要がない。精確にいいなおせば弁当が目の前にあるようなものだ。
「じゃ、夕食作りますけど、リクエストは?」
「そうだな。じゃあ……いい。チーズをくれ」
彼女は紅茶のカップを置き去りに、ソファに移動する。
ふっと体重がないかのように優雅に体を沈め、足を組む。
残念ながらパンツルックの彼女なので、これで普通だったりする。
「えっと」
彼女に苦笑いを返して、オフィス側に置いた冷蔵庫を開けてみる。
中には生鮮野菜・肉その他食品にくわえ、外国のビールやリキュールまで冷えている。
だけならまだしも、御家庭の普通の冷蔵庫に入っていないようなものも揃っている。
妙な小瓶に入った粉とか。奇妙な色の液体とか。だけならまだしも。
大量につめこんでいるので判らないかも知れないが、蟲とかも有ったりする。
こうして眺める分には佃煮のように見えて、精神的に害はない。
「あー、ゴーダもチェダーも切らしてます」
「……プロセスでいいよ」
「買い置きありません」
嘆息するのが聞こえて振り返ると、勇佳は額に手を当ててうずくまっていた。
彼女は、自分勝手好き勝手に過ごしている物の、こういうどうしてもどうにもならないという状況はある。
当然だが。
しかし、彼女の嘆きというのは、普段が普段だけに微妙に哀れみを誘う事がある。
逆に反発をさそうような気もするが。
ともかく、通憲はふと思いついた。彼の知ってる限り、まだ開いている店がある。
それも――最上級の物が。
「あー。……勇佳さん、この時間だったらモールの食品街に専門店がまだ開いてますが」
「行くぞ通憲、すぐ支度しろ」
それは、声をかけた方がどう対応すべきか迷うほど素早く、今まさに落ち込んでいなかったか?と突っ込みたくなる程の切り替えの良さだった。
信じがたい速さで立ち上がると、確認もせずさっさと裏口に向かう。
「ああっはいっ」
焦って冷蔵庫を閉めて、エプロンを外す通憲。
もし一手でも遅れよう物ならそのままモールに連れて行かれてしまう。
既に彼女は、部屋の奥のコートかけにかけた皮のコートをひっつかんではおり始めている。
まだエプロン一枚でも寒さよけになるかも知れない。
あたふたと追いつこうとする彼に、勇佳は自分のコートの隣にかかっている彼のダッフルコートをひっつかんで、投げた。
「わふっ、ちょっと勇佳さん」
「行くぞ」
と言って、そのまま裏口に並べた大きめの皮のブーツに足を突っ込む。
その間にぱたぱたとスリッパで駆け寄ると、スニーカーをつっかけてさっさと外にでる。
「うわ、結構冷えるなぁ」
言いながらコートを羽織ると、冷えたコートでも冷気を遮断してくれて、暖かい。
「ほら、行くぞ通憲。何もたもたしている」
「ってわわわ」
ぐい。
先刻まだ靴を履いていなかったか、という彼の疑問は彼方に追いやって、何時の間に鍵を閉めたのか、通憲の腕を引く勇佳。
階段でも気にせず引っ張る物だから、慌ててバランスをとりながら追いつく。
「危ないでしょう」
「落ちたり怪我しても私が居るだろ」
上機嫌なのか逆に不機嫌なのか判らないが。
こういう無邪気な態度というのは、外観が外観だけにきっと不釣り合いに子供っぽく見えるかも知れない。
「……で、モールの食品店というのはどこにあってどんなところなんだ」
勇佳は通憲の右を占拠して、自分勝手に話を進める。
彼は勇佳の言葉に呆れた顔を浮かべてみせる。
通憲は、きっとお使いに行かされるんだと思っていただけに、彼女のこの態度には懐疑的になる。
「だから勇佳さんが付いてくる理由はないでしょう。部屋で待ってたら買ってきますよ」
「言っておくが金は私が出す。だが私は一文無しだ。勿論カードは私名義だ。どうだ」
に、と笑みを見せる。
一件理にかなっているようで、肝心な点をきちんとかわしている。
いや、言及していないだけで質問の芯を捉えていない。
「どうだじゃなくて」
そこで階段を下りきって、通憲は彼女を先導してモールに向かう。
ここからなら目と鼻の先だが地下の食品街はかなり広い。
チーズのあるところまで一気に最短距離を進まなければ、無駄な買い物をする羽目になる。
「第一いいか通憲。お前一人に行かせたら、色んな買い物が出来ないだろう」
通憲は自分の額を押さえて天を仰いだ。
どうやら彼の思惑は既に差し押さえられてしまっていたようだ。
「……はじめからそのつもりでしたね」
「それ以外私がでていく理由はないだろう。頼むぞ」
ここで頼むと言っているのは。
――荷物持ちってことは、相当買い込むつもりですねあなたは
ため息をついて、彼はもう投げやりに答えた。
モールは専門店を謡っているだけに、普通スーパーで手に入らないようなものも結構並んでいる。
たとえば黒パン。ヨーロッパやロシア地方で、ライ麦を主体に使った黒いパンらしい。
話に寄れば小麦粉の質の問題とその味で、なかなか売れないのか普通に販売されたところを見たことがない。
「ほら」
「ってこれ」
「なんだ?知らないか?黒パンだぞ。ハイジも食べてるし貧乏農家の活力の元だ」
「私は料理方法知りませんよ」
籠に強引に突っ込んだ黒パンに手を伸ばすと、勇佳は彼の手の上に自分の手を載せて顔を覗き込むように笑みを湛える。
象徴的なぐらいそれは、彼女の『上位者』としての強さを見せていた。
「だったら私が教えてやる。チーズとサラミに良く合うんだ」
食感はぼちぼちだがな、と呟いて彼女は腕組みしてうんうん頷く。
「いいな、これならアイリッシュ・ビールも欲しいな」
「やっぱりお酒ですか」
実は彼女は結構酒飲みだ。
いや。ウワバミと表現した方が正しいだろう。
日本酒と焼酎を除けば殆どの酒を飲む。それもがぶがぶと。
その様子を思い出して、彼は頭を抱えた。
――魔女のたしなみ……魔女のたしなみ……
アクセサリーショップまるくとの売りは『魔女のたしなみ 魔女のお茶会をどうぞ』である。
でも魔女の実体はただの酒飲みだったら、きっと彼女らは幻滅するだろう。
思いっきり。
「当たり前だろう、通憲。折角黒パンがあるんだぞ?!日本の繊細なビールが通用するか!」
「ほめてるんですか?けなしてるんですか?それとも実は嫌いなんですか?」
もう訳が分からなかった。
特に判らないのが、彼女の食生活とか趣味だった。
通憲を拾ってから一度も――そう、ものの一度も――海外にでていった試しはない。
彼にとってはあのビルに住み着いた魔女でしかない。
おとぎ話にでてくる魔女のように、そこから決して離れず、怪しげな魔法を操って日がな一日を過ごす。
尤もおとぎ話と違うのは、大きく違うことは、彼女はむしろ怠惰でいい加減だということだった。
それなのに、妙に彼女の経験は豊富だ。
普通に過ごしていて手に入らない貴重な経験や、記憶、そして知識をやたらと無駄に持っている。
「通憲。それは食べ物に対しての侮辱だと思わないのか。食文化というのは、それぞれの国や歴史の背景があるんだ」
民俗学・風俗・文化・歴史。およそ人間の生活や歴史から大きくかけ離れて魔導を極めんとする魔女とは思えない。
「判りました。これでも僕は大学で民俗学を専攻ですから、言いたいことは判りますけど」
「ならいいだろ」
「それとこれは別でしょうがっ!」
有無を言わさない、勇佳の黒い瞳が通憲の瞳を覗き込む。
漆黒の髪、焦げ茶色の瞳。良く日にすかせば、彼女の髪は若干赤みを帯びて見える。
どこか日本人離れした印象を受けるが、やはり黄色人種独特の骨格と色素を持っているから。
「第一、どうすればそんなに海外の食事情に詳しいんです」
「そりゃ……決まってるだろう。私は食いしん坊なんだ」
胸を張って言う。
通憲は肩をすくめた。
「わーかーりーましたー。だったらそこの角を曲がって缶詰のコーナーでランチョンミートも買いましょう」
「そうだな、ラムレーズンとバターも忘れてはいけない。結構重いぞ」
「勇佳さんも持って貰いますよ。持って帰れなくて置いていく訳にいきませんからね」
結構大量に買い込んだ二人は、両手に抱える程の食料品を持って事務所に戻った。
「こんなに沢山買い込んでいったいどうするつもりだ」
どさりとドアの側に荷物を起き、懐の鍵を取り出す勇佳。
不機嫌と言うよりもその口調は真意を探ろうとするときのそれであり、また呆れているようでもあった。
通憲にとっては嫌がらせみたいなものでもあるが。
なにせ彼一人で持てる量なら絶対勇佳は持とうとしないからだ。
「え?でも勇佳さん、買い込むために今日はでたんでしょ、一緒に。これでしばらく保ちますからね」
「……いや、と、言うよりこれをどうやって保存するつもりなのだと」
あ。通憲の顔が一瞬惚けたようになるが、すぐにくすりと笑みに変えて、ドアを開けた彼女の側をくぐって事務所に入る。
取りあえず冷蔵庫前まで荷物を運び、戻ると彼女はブーツを脱ぐところだった。
彼女の代わりに荷物を取り、やっぱり冷蔵庫まで持っていく。
この冷蔵庫、業務用ではないが家庭用にしては充分過ぎる大きさのものだ。
「お酒は冷蔵庫から出すから大丈夫でしょう」
「え、あ……」
ぎろり、と睨み付けられると困った表情で後頭部をかく勇佳。
「たしかに、それは論理的だな。腐らないし、飲まなければぬるくても構わない」
すぐに呑めないが、とは彼女も続けなかった。
「今日の飲み物は買ったでしょう」
アイリッシュビールだが。
実際に本物ではないが、気分だけは充分味わえるだろう。
冷蔵しなくていいものを次々に取り出し、逆に必要な物を整理しながら片付けていく。
「食べ物は黒パンと、……チーズは適当に刻みますね」
「ああ」
応接に、出かける前のように座り込んだ彼女。
既に彼女の前には二つグラスが並んでいる。
有り体に言えば、『お前も飲め』という意思表示である。
ちらりとそちらを見て、うんざりしながら彼は取りあえずチーズを刻むことにした。
ゴーダ、レッドチェダー辺りは有名なチーズだから判るが、訳の分からないものも結構入っている。
「まて通憲。チーズはチェダーとスティルトンにしてくれ。薄いスライスで頼む」
短く返事を返し、さくさくと準備する。
「スティルトンって……これかびて」
「ブルーチーズだ。言っておくがイギリスのだぞ」
どこのチーズでも一緒だよと思うが、敢えて何も言わずざぶざぶと刻むと彼は皿に盛りつける。
サラミのスライスを一緒に並べて、それにスライスした黒パンの皿を用意して、取りあえずテーブルに運ぶ。
レーズンにバタークリームを取って、氷を用意すると簡単な夕食が出来上がった。
「どう見たって、これ朝食の方が似合いますよね」
「日本人だから気にするな。チーズと言えば酒だろう」
その発想だけはイギリス云々言っていた同一人物とは思いたくなかったりした。
「黒パンは、適当にサラミやチーズ、この辺の具材を載せて食べるんだ。こういうサンドイッチが普通らしいぞ」
「本当ですか」
信用していない。
いや、意外と事実なのかも知れないが。
そして、彼女はグラスに黒いビールを注ぎ始める。
勿論通憲の前のグラスに先に注がれてしまう。
逃げるなと言うことらしい。
「……以外と小心者だな」
きめ細かい泡が、グラスの上で層を作る。
このビールの特徴で、まるでクリームのように細かい泡立ちをする。
「何でですか」
「怯えていないか?」
通憲は、勇佳にあわせてグラスを取った。
冷たい。多分グラスはきんきんに凍らせてあったのだろうか。
「そりゃ、勇佳さん。飲み過ぎますからね」
「酷いな」
そう言って、かちんと。
甲高い音を立てて乾杯した。
この黒パンというものは、普通にトーストしても良いらしい。
何が自慢なのか、それとも嬉しいのか、勇佳は食べながら説明する。
「結構もそもそした食感だが、日本で手に入るのは本来もう少しもちもちしているな」
「でもこの濃い目の具がパンに合いますね」
塩のきついサラミと、味も薫りも濃いバターとレーズンが意外な程にしっくりくる。
尤も日本人好みかと言われるとそこは疑問点かも知れない。
「気に入った」
彼女は満足そうに言うとくっとグラスを空けて二本目を開ける。
「今度からあのモールに通うことにしよう」
「毎日これは勘弁してください」
勇佳は手元のナプキンで口を拭いながら、目を丸くしてにやりと笑う。
「本当に嫌そうだな」
かたん、とグラスが机で音を立てる。
勇佳は一旦食事を止めると椅子の背もたれに体重を載せて、体をソファに沈めるようにする。
ちょっと腰が沈み込んで、こうしてみれば彼女は抱き留められているようにも見えなくない。
勇佳はこの恰好が好きだった。
「……通憲」
大抵、こうしてるときは彼女は凄くリラックスしているか、その逆の事が多い。
だから、ここで呼び止められたら何か――そう、何かを彼女は期待して、質問してくるはずだ。
――魔女
彼女は本当に魔女なのか?という問いに答えるならば。
通憲は、多分その答えを知っているだろう。
だからこう問い返す。曰く――では、貴方の魔女というのはよっぽど了見の狭いものなんですね、と。
魔女というのは、欧米の概念ではきっとこうだ。
悪魔と交わって黒ミサを開く基督教の敵。
勇佳もきっと息巻いて説明する。あんな対外的に愛想の悪い宗教なんか信じてやるものかと。
基督教にとっては悪魔とは、彼らの唯一神に対して存在を許せない別個の神だからだ。
悪魔に心も人格も売った本当の悪魔のような魔女は、恐らく歴史上、それを吹聴した基督教徒の頭の中にしか存在しない。
善と悪という単純な切り分けだけで造り上げた世界、それは彼らの分析には非常に有益だったからこそ、そして判りやすく受け入れられやすいからこそ。
大きな間違いである事に誰も気づかずに、一般大衆はそれを真実として信じ込んだ。
自分で見たこともない癖に。
とは、いえ。
目の前にいる魔女は、そんな力強い存在のようにも思えない。
「私の側にいるのも嫌か?」
傲慢に聞こえる質問が、酷く心細く聞こえるのは存外不思議に感じられる物だ。
通憲は酔うと必ず確認するようにそう呟く彼女に、可笑しそうに声を上げて笑いながら答えた。
「その質問は私の心を確認してるんですか?それとも、今の立場を?」