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The borders
 オカルトショップ・Malkth


  響き渡る、乾いた甲高い音。

 音と共に、暗闇が光に切り取られる。
 一瞬だけ闇の空隙がそこを満たし――餓えたように再び闇がそれを喰らい尽くす。
 再びそれを嫌うかのように閃光、同時に咆哮。
 本来なら響くはずの音は全く彼の耳に届かず、彼の指先にもそれは至らず。
 静寂と同時に餓えが、彼の指先をくすぐる。

 そして三度目の――それは銃声。

 途端、銃口炎とは別の光が、闇を払い彼を照らし上げた。
 小さな円形の、闇を円錐形に切り取ったそれに無理矢理切り落とされた空間の中に、蒼い制服。
 眩しいのか左手で貌を覆い、彼は初めてそれとは違う音を聞いた。
 ばたばたという足音。
 怒声に似た声が響き渡り、甲高い金属音に混じって言葉らしい物が明確に耳朶に届く。
 彼は呆気にとられたように初めて現実に帰ってくる。
――ああ。終わりか
 彼の感情はまるで枯れてしまったように、淡々とそう思った。

 何故?
 彼の中にそれを問う是非がない。
 ただ引き金に指をかけて、弾く。
 彼にとってはとても簡単な事、それはまるで楽器でも操るのとさして変わらなかった。
 ばね仕掛けで押さえられていた撃針が解除されて、薬室に収められた弾薬の底を、雷管を叩く。
 途端衝撃波が周囲へ、彼の掌、肘を抜けて肩へ、そして僅かに遅れて空気を裂いた弾丸からの衝撃波が耳に届く。
 断定に刻まれたCARTRIDGE, CALIBER .45, BALL, M1911の文字。
 ブローニング社設計の11.43×23mmの.45ACPの230グレインある弾頭が切り裂く衝撃波。
 遅い初速ながらただそのエネルギーを砕く為だけに、破壊の為だけに生み出されたモノ。
 もし理由を語るなら、文字やスペックの中にある訳ではない。
 右腕に走るむず痒いような疼き。乾いたような餓え。
 言葉にしてもきっと伝わらないから、男はただ一言言った。

「撃ってみたかった」

 と。

 男の名前は御堂坂朋飛二(みどうさか ともひさ)と言った。
 新聞の隅すら騒がせなかった彼は、県警本部で巡査部長の肩書きのまま退職した。
 当時まだ二十歳にもなっていなかったと言われている。


 日本某所。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、お前、おかしいだろっ」
 繁華街の裏路地、ビルに囲まれた谷間。
 薄汚れた、誰も掃除をしないゴミ置き場。
 饐えた匂いと夜の闇が人々を遠ざける場所。
 だのにそこに今、二人も人間がいた――一人ですら一杯一杯だと、言うのに。
 ざり、と掌を引き裂く砂利と欠けたガラスの破片。
 痛みに――でも、彼は掌からそれを払うような真似もせず。
 しりもちをついた格好のまま、それから離れようとする。
 彼の目の前にいるのは、ただゆらりと立ちつくす男――二人の男は、しかし決して同質ではなかった。
 彼は狩人、目の前にいるのは獲物。
 黒いジャケットが揺れて、ゆっくりと近づいているように見える。
「お前はやり過ぎた。行き過ぎた。まだ戻れる場所にいたというのに」
 だがそれはジャケットだけではない。
 彼の周囲までまるで歪んでいるように感じるそれが、彼の右手に握られていて。
 ふと、僅かにそれが隙間から差し込んだ街灯の光に照らし上げられて、鋭く照り返して存在感を示す。
 拳銃――黒くて金属質で、そして沈み込むような冥い輝きと安っぽい玩具のような存在。
 こんな場所でお目にかかるはずのない、まごう事なき本物。
 最近の玩具は良くできているが、それでもこんな風に、禍々しい存在感はない。
 丁度飾られた刀剣に比べ、幾多もの人間の血を吸った刃は喩えどんな安物でもその姿を変えるように。
 そこにあった。
 男は銃をただ右手に握り力無くだらんと腕を伸ばして、歌うように唱えるように言葉を紡ぐ。
「もう少しまともな場所で、ヒトとして生活する事が出来たはずなのに」
 何の意志もないように揺れる銃口が、ぴたりと男の眉間に吸い寄せられる。
 距離は僅か数メートル。
 なのに、男ははっきりとそれが押し当てられているように感じた。
 あの引き金を引けば、死ぬ。
 それが間違いのない事実であると――それは訴える。
 玩具ではない、この男は本気だ。
「は、はは、お前、何言ってるんだ」
 判る。
 目の前に居る人間がおかしいと言うことは判る。
 今の科白だってそうだ。
「俺が、人以外の何だって言うんだ」
 ぴたり。
 彼の目の前で、まるで滑るように動いていた男の動きが止まる。
 まるで何かに逡巡するように。
 それまで暗くて見えなかった男の貌が僅かに変化する。
 彼は――後悔して驚くしかなかった。
 貌が有る部分の影が歪んだ、そう感じた時に爛々と輝く瞳が二つ、彼を睨み据えている事に気づいたからだ。
 無様にも彼は地面で足をばたつかせるだけで、彼の意思に従わずにただ藻掻くだけ。
 足掻くだけ――その身体が僅かにも男から離れることはない。
 まるで、化け物のようなその貌、いや、瞳の輝き。
 照り返して居るだけとは思えないぐらい、それはぎらぎらと輝いている。何かに餓えているように。
 目の前の男は左手で自分の胸元を探り、彼に放り投げる。
 ばっと光を反射させる四角いものが、それが写真であると気づいて彼は一枚それを掴んだ。
 ぺらりと照り返しがその表面をなめて、一つの風景を描く。
 そこに写されていたのは夕食。
 彼のアパートにある食卓に並べられたステーキだ。
 それだけなら何の変哲もない写真だ、が。
 彼にはそれだけで充分な意味があった。
 料理屋などで並ぶソレではなく、歪な肉の塊は僅かに焦げている。無論見覚えがある。
「こ……」
 いつ撮られたモノか。
 どうやって。
 そして、こいつは何故それを知っているのか。
 彼が絶句したのはそれだけの理由ではない。
「判るよな、『同族喰い』」
 彼は、引き金に掛かった男の指に力が加えられるのが理解できた。
 何故理解できたのかが判らない。
 でも叫ばなければならない事も、今間違いなく理解している。
――殺される
 理由は?
「待て、お前どうして警察」
 写真を投げ捨てるようにして見返して初めて、差し込んでくる街灯の明かりに照らされた男の貌が見えた。
 嗤っていた。
 間違いなくそれは『笑み』だった。
 何か期待した歪んだ笑み。見覚えのないはずの彼のその貌に親近感を覚えて。
 同時に戦慄――その笑みの意味に。
「悪いな」
 僅かに一歩。動けない彼に近づく為に男が踏み出す。
 今度こそ、銃口が――サイレンサー越しにそれが押し当てられる。
 彼の、眉間に。
「『仕事』と『趣味』ってのは、両立すべきだと思わねーか?」
 言葉尻が上がる。興奮する声。
 そして彼は初めて男を理解した。

 その本当に幽かな音は、カラオケや料理店の建ち並ぶ繁華街にとってはとるに足らない大きさで。
 むしろ、その直後の液体が飛び散る音の方が大きく響いたぐらいで。
 丁度。
 彼にとっての、ハンマーが起きる音や引き金が逆鉤を外す小さな金属音と変わらないモノだった。

「残念だ、私とはそりが合わないはずだ」
 彼が銃を懐に入れた途端声がその路地に響く。
 ハスキーな女性の声が紡いだ言葉が、自分の言葉に対する返事であると気づいた時には、女性の声はさらに言葉を継いだ。
「私はそうは思わない。趣味はただ趣味であるべきだし、仕事は自分の最も能力を引き出せる物であるべきだ」
 男は肩をすくめ、ため息をつきながらその声の方向に向き直る。
 まるで小学校の教師が生徒をたしなめるようなその声に、彼は感慨を感じない。
 否。
 彼にとって、それ以外何も感じないように出来ている。
 それがこの世界だから。
 この世界に棲むという理由だから。
「では、自らの能力が発揮できるのが趣味の場でしかなかったら?」
 彼の目の前で女性は腰に手を当てて、にやにやと笑っている。
 こうして見ればスレンダーで魅力的かも知れない――男には理解できないが。
 そして多くの男は驚くだろう。彼女が既に、二十代どころではないという魔性に。
「その時は、新しい趣味を見つけるさ。世界には異性と同じ数だけ趣味があるんだ」
 くすり、と女性らしい小さな笑い声を遺し、彼女は背を向ける。
 両腕を左右にぴんと伸ばし、反り返した手の甲が芝居っ気たっぷりに踊る。
「今の私の趣味はお前の子飼いだ。お前のために仕事を探してやってるんだ」
 闇から――彼女は表の灯りに全身を晒した。
 蒼い夜の灯りに浸した彼女の姿は、神秘的に光の欠片を纏う。
 ただの黒い服ではない。スーツのようだが、仕事着ではなく洒落着なのだろう。
 落ち着いた雰囲気ではあるが、そつなく着こなしているというよりは、何処か着崩した印象を与える。
 決しておかしなところはないのに。
「どうだ、たまには夕食でも」
 彼女は薄っぺらい笑みを湛えたまま、どこか気怠そうに問う。
 男も彼女に合わせるように路地裏から姿を現した。
 彼の黒いコート姿も決して珍しくない12月の寒空、夜中だというのに全く人気が消える様子はない。
 眠らない繁華街、その中で佇む男女――組み合わせも悪くない。
「お前と俺と、そりが合わないのにか」
 先程の会話を混ぜっ返しながら素っ気なく問う。
 男の言葉は感情を決して感じさせず、ただ疑問を感じたから発した、そんな印象を与える。
「私とはともかく星埜(ほしの)が喜ぶだろう」
 彼の態度には慣れているのか、既に読んでいたのか、間髪入れず彼女は応える。
 からかうような響きが混じっているのに、男は苦笑して肩をすくめた。
「……なぜあいつの名前が」
 何処か先程とは違う響きが、その音に含まれている。
 彼自身まだ理解できていないようだったが。
 女性はにんまりとしか言いようのない、何かを隠して何かを楽しみに待つ小悪魔の笑みを浮かべる。
「私が彼女に、お前のために準備させてるからだよ、ヒサ」
 戸惑うように貌を動かす彼を面白がるように、彼女は言う。
 男は断る理由がないので黙って彼女の様子を窺う。
「ん?どうした。確かに私はいい女だが、珍しくもあるまい」
 動く様子もない彼に、女性は言った。
 しかしそれ以上言葉はないようだ。
 既に歩き出そうとしているのか、彼女は首を傾げて笑みを浮かべることもなく言う。
「本当にそう思っているのか」
「まさか。馬鹿言ってないでいくぞ」
 馬鹿言ってるのは自分じゃないか。彼はその言葉を継ぎかけたが、やめた。
 それこそ何となくばからしいからだった。

 彼女に連れられる形で車に乗り込んだ。
 『最近の首都高は狭いから、遅いんだが』などと言いながらどこぞの外車を乗り回す彼女に呆れながら、僅かに疑問が残っていた。
 口に出すほどではないし、また聞いたところで返事など期待できないだろう。
 彼女の生活そのものが金持ちの道楽に見えるというのに、彼女自身の収入源がはっきりしないのだ。
 端的に言えば、働いている風でもなければ、借金を作っているような気配もないのだ。
 だからといって財産を食いつぶしているようにも思えない。
 どちらかと言えば、金に縁のない人間のように感じられるのに――金に不自由している訳でもないようなのだ。
 尤も彼も、彼女に普通に働くより充分な生活を与えられているから文句を言う必要もない。
 ただ『奇妙』だと感じるのが関の山、だ。
「どうだ?」
 だが向こうには疑問があったようだ。
 いや、あるからこそ、子飼いにしているのだ。
 視線を前に向けたまま彼女は問うてきた。
 周囲の風景は飛ぶように流れ、うねる入り組んだ道路の起伏を正確になぞりながら目的地へ向かう。
 こうして見るなら彼女はかなり美人の部類に入る。
 だからこそ「魔性」と呼ぶに相応しいのかも知れない。
「……そうだな」
 その質問が何のことかは難しくない。彼はすぐに思いついた。
 彼女が今日の仕事の際初めて渡したオプション。
 彼は懐から銃を取り出し、銃口からそれを外した。
 細長い、丁度手に余る程度の大きさの筒。
「やはり使っている気がしない」
 銃を懐に戻し、それを掌でもてあそぶ。
 サイレンサー。銃口に取り付けて銃腔を抜ける瞬間の弾薬が立てる破裂音と火薬のガスが抜ける音を消す物。
 無骨な実用品だ。
 払い下げではない、どこかの軍隊か特殊部隊にでも使用されている新品だろう。
 塗装は剥げていないし何より――この手のパーツは通常消耗品だ。
 彼の態度と言葉に彼女は目を丸くして頷く。
「そうか。…やはり、お前は音に嗜好があるようだが」
 言うと僅かなショックがシートから伝わる。
 素早く彼女はシフトレバーを3速へとたたき込む。
 エンジンはそれまでの静けさを振り払い、一気に雄叫びを上げる。
 ヒトによってはこのどこまでも伸びゆくような甲高い音を好きこのんで車を選ぶらしいが、彼女がそうだと言うわけではない。
 もしかすると、この時のために購入したのかも知れない――そう思えてしまう。
「どうだ?こういうのは」
「……いや。うるさいだけだ」
 そうか、と彼女は言うとシフトを元に戻し、ため息をついてカーオーディオのスイッチを叩いた。
 どこかで聞いたことのある日本のポップスが流れ出す。
 彼女が編集したMDが十連装カートリッジに詰め込まれている。
 ここから南へ向かったって、全部聞くことはまずあり得ないだろうに。
「音というよりは直接空気が耳朶を叩くのが快感なのかもな、お前の場合」
 どうだろうか。
 彼は運転席に座る彼女をちらりと一瞥して反芻する。
 記憶を。自分の行為の記憶を。
「……さあな」
 だがはっきりした回答が出る事はなかった。
 そもそも、彼が銃を撃つのは理由があってはいけないのかも知れない。
 しかしその銃弾を必要とする理由はあっても構わない。
 趣味は、仕事と両立されるべきだ――彼は、今の自分に少しの満足感を得ているような気がしている。
「そうか」
 だが彼女にとっては男は興味の対象に過ぎないようだった。
 幾つかの質問も、仕事を持ってくるときの条件も、その時次第で全く違うのも。
 それを調べたいが為だけのようだ。
 それだけのために殺しをさせる――それは金持ちの道楽どころではない。
 だが男はそんな思考など出来ない。
「まあ、それだけなら心配はいらないみたいだからな」
 興味をなくしたように言う女性に、男はかぶせるようにして聞いた。
「『これ』は、お前にとって仕事なのか?趣味なのか?」
 それこそ興味のある内容ではなかった。
 どんな答えを期待して、聞いたのだろうか。
 質問した本人が驚き、質問された人間は目を丸くして別の意味で目許を歪めて。
 彼女は何かを見つけたような笑みを浮かべた。
「さあ?どちらだと思う?」
 男は返事を返さず、女もそれ以上何も言わなかった。
 彼女の家は、環状線を降りて少し奥に入った小さなビル。
 家、ではない。生活の拠点と言うべきだろう。
 古びた大きめのビル。五階建てで、最上階の窓からだけ明かりが漏れている。
 外観通りの年かどうかも不明だが、彼を住まわせる事ができるぐらい余裕はあるようだ。
 地下駐車場に車を入れ、二人は最上階へ向かう。
 階段を上る最中、四階にさしかかった途端きらきらした装飾のあるフロアに出る。

『各種装飾品 Malkth』

 扉にそう刻まれ、電気の通っていない看板がその向こう側に見える。
 だがそれを無視して通り過ぎ、さらに上に上る。
 『関係者以外立入禁止』と書かれた階段を上りきると、他の階と同じ配置の入り口がある。

『Malkth事務所 Keep Out』

 彼女は何の躊躇いもなくその扉を開いた。
「おかえりなさーいっ♪」
 可愛らしい声が扉をくぐった二人に浴びせられる。
「ああ、ただいま。どうだい?」
 彼女の声に、テーブルの前でひょいっと身体を起こす少女。
 非常に若い。まだ高校生とも見える彼女は、しかし制服ではなくワイシャツにセーターという地味な格好にストレートのセミロングな髪を揺らしている。
「うん、笠下さん、大体準備おっけーだよ♪御堂坂さんもお帰り」
 無機質でいかにも事務的な場所が、ほんの僅かな飾り付けとただ白い布を巻いただけなのに。
 静電防止カーテンの漂白されたようななめらかで白い色さえ映えて見えるような錯覚。
 アクセサリーショップ『Malkth』の事務所は、その瞬間だけ確かにクリスマスの雰囲気に包まれていた。
 テーブルの上に並ぶ大皿に乗った七面鳥、ケーキ、フライドチキンにポテト。
 並べられた蝋燭にはまだ火が灯っていないが、燭台まできちんと準備している。
「ふん」
 彼――御堂坂朋飛二(みどうさかともひさ)はやはり何の表情も見せることなく僅かに目を伏せ、草臥れたような吐息を吐いただけだった。
「おいおいトモ、今のは戴けないと思わないかい?思わないんだったら教えてあげるよ」
 妙に明るい声で、彼女と一緒にテーブルの飾り付けを行っていた男が妙に明るい声で言う。
 彼も若いが、どちらかというと年齢不詳を自称できるような不思議な雰囲気を漂わせている。
「せめて『おいしそうだね』とか、『苦労したんじゃない?』ぐらいは聞けるようじゃないと」
「お前に言われたくない。第一俺に食事の味は関係ない」
 全くとりつく島もないと言う感じで、朋飛二は奥のソファに腰掛ける。
 その隣に少女、星埜悠(ほしのはるか)が腰掛ける。
「じゃあ、御堂坂さんの奥さんになる人は楽だねー。料理の味なんか考えなくていいもん」
 変わらず明るい調子の少女。鼻歌でも歌いながら踊り出しそうな調子で食器を並べていく。
 その向かい側に、目を丸くする笠下勇佳が立つ。
「成る程、良いところに気がついたな、ユウ」
 ざんばらと女性らしくない髪型の彼女が悠にそう言うと、悠はきっと眦を吊り上げる。
「ユウじゃありません。ハルカです」
「あのねお二人さん。女性が料理をあんまり否定する物じゃないと思うんですがね」
 ため息をつきながら、彼――玖珂通憲(くがみちのり)はそれぞれに並べられたグラスにシャンパンを注いでいく。
 朋飛二の目の前のシャンパングラスが炭酸特有の弾ける音を立てて、泡をその淵に飾り立てる。
 独特の刺激臭が彼の鼻腔をつくが、ただ、それだけだった。
 そこにあるのは、炭酸水と変わらないものだとしか、彼は認識しない。
 御堂坂朋飛二というこの名前が、社会から縛られるための縛鎖でしかないのと同じ。
 周囲の色に意味がなければ灰色であると認識しかしないのと同じ。
 彼にとって、その瞬間のあの音と光以外、この世には意味を為さない。
 だから料理は水と同じ。空気と同じ。ただ彼の肉体をこの世に縛り付けるためだけの縛鎖。
 ここで生活を続けている理由は、あの瞬間のあの時のためだけに。
「ヒサ」
 机の一点を睨み据えるように座っていた彼に、容赦ない声で勇佳が声をかけた。
 いや、彼にとってはどんな抑揚で言葉をかけられても同じではあったが。
「――そろそろ、パーティを始めるぞ」

  ワスレロ

「いつまでも俯いてるんじゃない。さあ、グラスを手にとって乾杯だ」

  ハヤク コチラガワニモドレ

「ああ」
 二重にだぶる彼女の姿と、甲高く彼を揺さぶる声。
 そして、彼は何故か口元だけを歪める笑みを見せる。
「じゃあ乾杯だ。メリークリスマス!」
 聖夜は、血腥さをも払拭するのだろうか。
 そう想像して、彼はシャンパンを口に含んでみた。
 僅かに鉄の味がしたような気がした。


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