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Holocaust ――The borders――
Chapter:5

菜都美――Natsumi――   第4話


 『檻』は、まずその形を視覚化しなければならない。
 黒崎藤司は、彼の視界の中で少女を捕らえる檻のイメージを形作っていた。
 これを維持する事で、彼女は『無意識下』で縛られてしまう。
 何故か足を止めたり、『偶然』目の前を何かが過ぎったり。
 気が向いて振り返ったり。
 大抵の場合足止め程度にしか効果はないが。
 まさに檻。その中から逃げるには、捕らわれた事に気がつかなければならない。
 でも、相手からただ一瞥されるだけで済むのだから、普通は逃れられない。
 唐突に自分の真後ろから伸びた影――腕に絡め取られ、きつい臭気のする液体に濡れた布を顔面に押さえつけられて。
 冬実は意識を失う。
 一瞬で闇に包まれた冬美は、同時に全身の毛穴が開くような嫌な感覚を覚えた。

  どくん

 同時に脳髄を痺れさせるような衝撃が全身を走る。
 全身の筋肉が痙攣しているような痛みに、呼吸すら困難になって指先も動かせなくなる。
 それが夢なのか、本当の感覚なのか、冬実は永遠に続くような苦しみに襲われていた。
――薬物
 すぐにそれが麻酔か何か人工的に調合された薬が原因だと判ったが、麻酔らしく身体が動かない。
 闇に落ちた感覚もない――時間概念すら、勿論喪失している。
 どれだけの間、どんな風にして、もしくはされていたのかすら判らない。
 だが、彼女は鈍い目覚めのように、ゆっくりとぼやけた思考の中で身体を起こした――

 そこはまず闇だった。
 幸運な事に服装も捕らえられた時のままだった。誰かに脱がされた形跡もない。
 細部を確認することは出来ない。真っ暗な中、奇妙なうなり声のような物が聞こえている。
 彼女の周囲で。
――誰
 数人の人間に取り囲まれている。
 でも、自分に対して何らかの意思を向けられている訳ではない。
 誰かの声がして、何かの水音がした。
 ぶちまけるような音と、何かが空を切る音。
 まだ身体の感覚がはっきりしないが、何となく危険な臭いがして彼女はふらりと立ち上がる。

  ばしゃ

 同時に何かの液体が彼女のスカートにぶちまけられる。
 目の前に。
「……貴方は」
 声をかけても、もう何の反応もない。
 大きく開けた口から、蒸気のように荒い息を吐きながら両肩からぶら下げた腕を揺らしている。

  るぅるるるるぅぅぅぅぅううぁぁああ

 意味のない唯の唸りを、それは零した。
「……そう」
 冬実は呟いて、ただ目の前の獣を睨み据える。
 獣は地面を蹴った。

 黒崎藤司は五十嵐幹久の様子が変化したことに気づいていた。
 オカルト部の部活――彼の箱庭での実験の最中、何があるか判らないとは思っていたからこそ。
――ふふん
 つい先刻まで普通に離していた彼の目が、突然焦点を失ってしまっていた。
 彼の目の前では五人の男子生徒と、一人の女子生徒が『光の書』に記されたとおりの儀式を行っている。
 儀式そのものは彼が判りやすくアレンジしてしまっていたが、その意味はそれほど大きな物ではない。
 第一リアリティ以外に、この手の儀式に必然はないのだ。
 彼らが精確な円形を形作り、その周囲に蝋燭が立てられている。
 中央に横たわる少女を取り囲むようにして。
 彼女はまだ生きている。当然だ――そうでなければ生贄の意味はない。
「あ――がが――う、」
 謳うように呪文を詠唱し続けていた一人が、突然奇妙な声を上げて身体を痙攣させ始めた。
 藤司はため息をつき、ちらと人形のように黙り込んだ幹久を眺めてからもう一度儀式円を見る。
 今命令を下せば、幹久は一息にアレを始末するだろう。
 周囲の生徒達は彼の変化に気づいていない。
 精神的な興奮状態に合わせて、一種独特の酩酊状態にあるからだろうか、恍惚とした詠唱が続く。

  ぱさり

 その中で意味のない言葉を上げる少年が、とうとう手にした藁半紙の魔術書を取り落とした。
 がくがくと大きく全身を揺らして、両膝をつく。
「失敗だな、そろそろ頃合いか――?」
 一瞬目を疑った。
 少女が身じろぎした。
――まさか。睡眠薬じゃないんだぞ
 嗅がせた薬は、ハロタンに植物系アルカロイドを混ぜた代物で、十二時間効果が継続するはずだった。
 第一方向が悪い。
 丁度、黒崎の座っている場所から唸っている少年まで結ぶ直線の中に、少女がいるのだ。
――冗談だろうが――降臨したとでも言うのか?それはいくら何でも有り得ない
 本当にこんな子供だましの『魔術もどき』が効果を発揮するなら、魔術師を止めることはなかっただろう。
 理由は判らないが、麻酔から覚めた少女より今は、『獣』化した少年が危険だ。
――仕方ないか。ちょっと大事になるが

  Open your eyes.Close your hand like Wings.

 途端、それまで黙り込んでいた五十嵐幹久はばね仕掛けのように立ち上がる。
 藤司は無慈悲に言った。

「皆殺しだ」

 冬実は周囲を確認する必要などなかった。
 もう遅かった。先刻まで人間だったものは、目の前の人間だった物によって唯のモノに変えられてしまっていた。
「貴方、もう」
 冬実はついと目を細め、そして彼の後ろに見える人影に視線を向けた。

  ぴ

――!
 視線を前に戻して、彼女は一気に飛び退いた。
 それまで彼女のいた空間は、何かに薙がれて空気の渦を作り、轟と音を立てる。
 唸りを上げる化物が、まるで刃物を構えた何かのように空間を切り裂いた。
 なにか細かな塵のようなものが、ばらばらと崩れるような絵を見たような錯覚。
「――く」
 迂闊に視線を逸らすことも出来ない。
 冬実は冷静に間合いを切りながら、何とか敵――男の行方を追おうとした。
 だがままならない。
 視界を遮るように、死角につけ込むように、確実にこちらの息の根を狙いつつ間合いを保っている。
「判りました」
 彼女はすっと目を細めると、踏み込んで大きく右腕を振り上げた化物の右側へと身体を滑らせる。
 そして、振るった化物の右腕が彼女の前を過ぎた瞬間に、容赦のない音を立てて彼女の右拳が走った。
 めきりと軟骨の砕ける音と共に、まるでおもちゃのように化物が弾けて転がった。
「逃しません」
 めきめきという床の軋む音が、びきりという砕ける音に変わり、冬実の周囲で空間が一瞬歪むような錯覚が生まれる。
 同時に光は――曇のような空気は彼女の後ろへと流れ去り、あるのは、彼女という一点。
 クリアな視界には何も残されていない。
 転がっていく化物に、一気に冬実は間合いを詰めて駆け寄る。
 右手を弓矢のように引き絞り、腰だめに構える。
 きりきりきりと、音を立てているようだ。
 全体を低く、前傾姿勢で疾駆する。だが。
――!
 まるで気がついたように頭を上げて、彼女は減速する。

  Open your eyes.

 今し方消えたはずの男の声が、再びそこに響き渡る。
 同時と言っていい程早く、冬美は振り上げられた化物の手を見た。
 僅かに身を捩り、右側へ逃がし相手の顎目掛けて掌底打を打ち込む。
 どん、と右足が地面を突き当てる鈍く低い音が響いて、綺麗に顎の内側にまでめり込んだ冬実の掌。
 突き刺さるようなそれを振り抜き、彼女は地面でゴムの軋む音を立てながら振り返る。

  く……はぁぁぁぁあああああ…あ……

 そこに。
 先刻まで何事もなく殺されようとしていた数名が立ち上がってこちらを見つめていた。

 何をするでもなくただ呪文を唱えていた唯の学生が、両腕を振り上げている。
 まるで、映画のゾンビのような、着飾ったイメージで。
 冬実は歯がみして一息で抜けられる方向へ走る。
 一瞬『魔王』を思い出しながら。
――暗示……

  どんっ

 突然全身を抗いようのない力で床に叩きつけられる。
 呼吸が詰まり、大きく咳き込みながらも彼女は冷静に身体をはじき、跳躍しながら体勢を整える。
――1、2…これで全部
 彼女は今体当たりしてきただろう、見落としていた学生を視界に納める。
――にげ……?

  ひゅん

 ぱしゃり、と液体の入った袋が弾けるように、彼女の目の前で一人学生が砕ける。
 血飛沫が上がる場所に、最初の獣がいた。
 あの少年が。
 口元を赤く滴る液体で着飾り、ゆっくりと口の端をつり上げて――笑みの形を作り。

  がはぁあああ……はははははははあああああああ!

――!
 冬美は痛みに顔をしかめる。
 眼前に、彼の顔がある。
 勿論人間を失ってしまった、獣の顔だ。
 彼女は右手首に左掌を押し当てるようにして、彼の振り下ろした腕を強引に止めている。
「ぅああ」
 楽しんでいる。
 冬美は足下のぬめりを感じながら、嫌悪感に襲われていた。
 それはいつもの人間に対するものではなく、この現在の状況に対するものだ。
 獣になった少年は、見境なく殺そうとしている。
 それが誰であろうと関係なく。
 彼女の後ろには彼女を狙う少年が。
――でも
 自分の思いが矛盾しているように感じた。
 彼女は、先刻までここにいたあの男、魔術師を追わなければならない。
――この子はもうダメかも知れない。でも他の子は
 被害者。
 ぎり、と冬実は歯ぎしりして身体を左に捻り、力任せに押さえ込んでいた力を逃がし、そのまま背負い投げのように獣を床にたたきつける。
 ばしゃんと血溜まりが弾ける。
 既に三人の学生が惨殺されている。
 思わず自分以外に向けられた殺意に、彼女は獣の牙を受け止めたが。
 奴は叩きつけた痛みを感じていないのか。
 獣は僅かに気を抜いたその瞬間に、勢いをつけて身体を起こすと、冬実に近づこうとする学生を両腕で引き裂いた。
 まるで、先刻の冬実の行動をあざ笑うかのように。
 ばきばきと鈍い音を立てて砕ける骨の音をBGMに、背を丸めて獣は振り返った。
 笑っていた。
 ただひたすらに、冥い笑みを湛えた獣がそこにいた。
「ぅあああっ」
 冬実は悲鳴のような雄叫びを上げた。
 鬼相を浮かべた冬実は地面を蹴り、一気に獣の懐へ沈み込む。
 右足を神速で踏み込み、一気に身体を捻り、掌底打を顔目掛けて打ち込む。
 まるでそれを読んでいたように、ゆらりと身体を逸らして避けられてしまう。
 そして、無造作に振り回した獣の拳が、伸びきって完全に無防備な冬実の脇腹に突き刺さる。
 眼前が真っ白に沈み込む。
 くの字に身体を曲げながら、よろりと身体を揺らせて下がる。
 どん、と何かがぶち当たる。
「ぁっ」
 戻ってくる視界を、さらに横に薙ぎ払うように側頭部に衝撃。
 それが、絶望を伝えてくる。
 崩れそうになる足を無理矢理支えて、彼女は真横にステップする。
 脳が揺れて、足下が崩れるが――彼女は耐えて、頭を上げる。
――二人
 護ろうとするものが、そんなことも知らずに襲いかかってくる。
 邪魔をするものが、彼女を護るように彼らを惨殺する。
 悪夢のような光景。
 彼女の目の前で、また一人が真っ二つに切り裂かれた。
「!」
 逃げよう。
 もう、どちらにしてもここには用はない。
 それに。
 ここでこれ以上、堪えるだけのものが残っていなかった。

 棄てる。

 冬実は彼らに背を向けて、教室から逃げ出した。
 逃げることしか思いつかなかった。だから一気に外へと飛び出す。
 外は星空の闇。
 周囲の気配は既に少なく、走る彼女の姿を見るものもいない。
 今見られれば、警察に通報されるだろう。
 彼女は学校から離れて一番近い公衆電話へと走る。
 タバコ屋の看板の下にある、緑色をした古い公衆電話。
 普段は見向きもしないものに、彼女は崩れるように身体を預けてポケットから財布を取り出す。
 小銭を入れるのももどかしくダイヤルし、しがみつくように両手で受話器を掴む。
 周囲の静けさと、耳元にで響く電子音。
 コールする音より早く、心臓が落ち着きなく耳を刺激する。
 周囲にはまだ、気配はない。
――大丈夫
『はい、真桜ですが』
 姉の声。
 思わず緩みそうになる手に力を込めなおして、一度深呼吸をする。
「姉さん」
 声が出ない。
 でも、向こうで息を呑む気配は伝わってきた。
『ちょ、ちょっと、今どこよっ』
「…あの、姉さん」
 思ったよりも声が出ない。心なしか、自分の声ではないみたいに震える。
「学校に、行く道にいる。今、川に向かってる」
『ううん、無事なのね…判った。念のためミノルに迎えに行かせるから』
 たどたどしい彼女の言葉を聞いて、全部を聞かずに菜都美は応えた。
「うん」
 実隆。
 思わず冬実は繰り返して、全身から力が抜けていくような安堵が襲った。
『いい?いつもの帰り道を使って帰りなさい』

『軽蔑するなら軽蔑して。その方がわたしも気が楽だからね。でもなっちゃんには内緒よ』

 護るつもりで、護られなければならない。
「姉さん」
『ん…なに』
「ごめんね」
 一瞬何を言ったのか、彼女は理解していなかったようだった。
 ただ、頷くような声で応え、最後に『すぐ行くから』と言って、切った。
 つー、という発信音が残っても、冬実は受話器を離せなかった。
 足音もない。
 気配もしない。
 自分の心臓の音と、呼吸する音、そして耳元の受話器の音を除けば、周囲は静けさだけしか残っていない。
――大丈夫
 誰も、まだ彼女の後をつけるような気配はない。
 ゆっくりと強ばった手を開き、受話器を戻すと自分の家に向かって歩き始めた。

 どこか遠くで、車が走る音が聞こえる。
 冬実は視線を落としてゆっくりといつもの道を下る。
 声が聞こえたような気がして、顔を上げる。
 星明かりの影に、ヒトの姿が見えた。
――ヒイラギさん
 声にはならなかった。
 息が詰まっているのか。
 姿が駆け寄ってきて、やがてはっきりと見覚えのある姿になる。
 顔を歪めて、彼は心配そうな声を出していう。
「大丈夫?どこを怪我したの?」
「怪我はしてない、大丈夫……つっ」
 言われて初めて気がついた。
 左腕に痛みが走る。多分、この感じは鋭利な刃物で切り裂かれた時と同じ。
 切られたという感覚は一切無かった。
「ちょっと、冬実ちゃん、これ…」
 実隆は冬実が血塗れになっていることに驚いているようだ。
 心配してくれている事は嬉しかった。
 冬実はゆっくり左腕を動かしてみて、筋が何処も切れていないのを確認する。
「私の怪我は大した事無いですから。歩いて…話します」
 足が、自然と早くなる。
 顔を上げられなくて、自分の足下しか見えないけど、俯いたまま歩く。
 今実隆の顔を見たら、いや、見ているのが辛くなったから。
「ちょっ…と、誘拐されたんです。どうしても確かめたくて、如月にいたら」
 何から説明したらいいだろうか。
 何を言えば良いんだろうか。
 でも、今話をしなければならないことは、いくらでもある。
「無理に話さなくて良いよ。落ち着いて、まとめてくれるかい?」
 顔を――上げてしまった。
 実隆の顔を見つめてしまった。
 同じ、はずの、顔がそこにある。
「駄目、今、話しておきたいんです。話さないと、話さないと…」
 崩れたくなる。
 心理学で言う『吊り橋効果』と言う奴だろう。
 冷静な自分はそう語りかける。
 本能の自分は、それを無視しようとする。
 今自分はここにいて。
 そして側には彼しかいなくて。
 そして彼は、彼からはヒトの臭いはしないから。
――今は、何でも良いから話していないと
 言葉が停まり、時間が留まる。
 一瞬でも、それが長く永く続いていられるように。
 それを望んで――望まなくても。

  理性がかけた枷は、どんな『たが』よりも脆く

 何よりも身体も心も震えて、耐えるのにはどうしても何かが必要だから。
――ごめんなさい
 もう一度、彼女は菜都美に謝った。
 何も考えない。
 額を実隆の胸に押しつけるようにして、彼のシャツを握りしめる。
 ふいと両腕が両肩を被うように背中に回る。
 どこに。
 誰に。
 何を。
 誰が。
 幾つも頭に浮かぶ、言葉の羅列のような塊。
 意味不明な代名詞の欠片。
 でもどの言葉を紡いだとしても、どれもが言い訳のようで、都合のいい嘘に聞こえて。
 ただ、間違いなく安心して、そのまま眠ってしまいそうな程で。
「良いから落ち着け。俺は逃げないし、誰ももう、いないから」
 うん。
 頷いて、抱きしめられるままにした。
――だれも、他にいないから。今だけは

「怪我はないよ。…事情は、落ち着いてからだ」
 途中『化物』の五十嵐の追撃があったものの、何故か彼は止めを刺さずに逃げ帰ってしまった。
 冬実と実隆は、それから何も言わずにただ自宅へと向かったのだった。
 実隆の言葉を聞いて菜都美は冬実を連れて玄関をくぐり、風呂場へと移動する。
「大丈夫?何があったの?」
 いつもより険のない、どちらかというと心配した貌を浮かべる菜都美。
「……姉さん」
 脱衣所としてかごが並ぶ部屋の入り口で立ち止まり、冬実は菜都美を見上げた。
 菜都美は扉にかけた手を離し、振り返る。
「明美姉さんは、きっと黙っておきなさいと言うと思います」
 呆気にとられる菜都美の横を抜けるようにして、脱衣所の入り口のドアを開いて身体を滑り込ませる。
「あ」
「……ヒイラギさんを、捕まえていられますか」
 僅かに緊張する空気。
 菜都美の表情が険しくなる。
 冬実は、いつもと変わらない冷たい人形のような表情を浮かべたまま。
「何よ、それ」
「今日あった出来事の殆どは、明美姉さんの知る中に有ります。多分、まだ姉さんは知らない事」
 そして知る必要のないこと――だがそれには敢えて触れず、冬実はついと目を細める。
――この娘、まだ何も知らないから
 後押ししてやらないと、動けない。
「でも一つだけ、私は言わなければならない事も在ります」
 理性と、本能がゆっくりと音を立ててずれていく。
「『ミノル』さんのこと」
 理性が訴える。
 彼女を助けて、彼女を護ってやれと。
 それが出来るのは、それをしなければならないのは彼女――『化物』の真桜の仕事だと。
 『家族』という一つのコミュニティを形成しながら、互いに互いを護り続ける『城』としての機能を支えるために。
「姉さんがもたもたしていれば、いつまでもそこにある、とは思わない方が身のためです」
 本能は欲する。
 失いたくないと。
 近づきすぎて彼の存在に気づいてしまったと。
 『化物』である彼女は、『独り』で居る事に耐えられなくなってしまったから。
 無言で睨み合う二人。
「……ハルの事?」
 一瞬冬実の顔が引きつった。
「言っておくけどね。あたしも譲らないから。これは姉妹であろうと同じだからね」
「……まだ。……私もいつまでも、同じだと思わないでください」
 菜都美の眦がついっと吊り上がって、くるっと勢いよく背を向ける。
 そして無言で立ち去っていった。
 冬実はため息をついて部屋に入り、さっさと血塗れの制服を脱ぎ捨てる。
 どうせもう使い物にならない。予備の制服を出して、また準備しなければいけないだろう。
――ちょっと、煽りすぎたかも知れない
 先刻の菜都美の様子を思い出して、ため息をついた。
 左腕の切り傷は酷くはないが、タオルを一枚縛り付けて止血しておくことにした。
 シャワーを浴びて、全身をくまなく洗って、バスタオルを身体に巻いてさっさと自分の部屋に戻る。
「……」
 階段を上りかけたところで、腕を組んで下を見下ろす菜都美と目があった。
「お風呂、終わり?制服、洗濯機に入れておいたから」
「ありがとう」
 菜都美の声が僅かに強く聞こえた。
 でも、彼女の表情は僅かに強ばっていて明確な貌を作っていない。
 どこか困っているような、そんな貌だ。
「ねえ、その腕」
 言われて初めて、彼女が左腕を見ていることに気がついた。
――……そう
 見れば、僅かに赤く染まっている。
「大丈夫です。このぐらいなら」
 綺麗に切れていたので、巧く止血して傷を合わせておけば支障はない。
 尤も、傷跡が消えるとは思えない。
「……あんた」
 絶句している菜都美に、せめて微笑みを浮かべて見せる。
「浅い傷です。気にしないで下さい」
「なんで」
 菜都美の顔が、先刻までの強気な物とは違い、困惑したような何かを咎める物に変わる。
 いや。
 どうして冬実がこんな目に遭って、自分はこんな風に何も知らないままなのか。
「菜都美姉さん。ハルが死んだのは誰のせいでもない。でも、それは私にも言える事なんです」
 唖然として何も言えなくなっている彼女の側を抜けて、自分の部屋へ向かう。
「冬実」
「姉さん、大切にしているものって、大事に箱にしまうでしょ?」
 振り向いて笑うと、菜都美を廊下に残して、自分の部屋に入った。
――あなたは普通の人間と変わらないんだから
 でもそれに気づこうともしない。
 気づくこともない。
 部屋に入った途端、ちくりと胸の奥が痛んだ。
 嫉妬なのか、それとも本気で実隆を奪おうとする『化物』なのか。
 冬実は静かに目を閉じて、唇をかみしめた。
――ハル……
 今の自分が、どちらを取るべきなのかはよく判っている。
 だから胸が痛いのだろう、彼女は自分に言い聞かせて大きくため息をついた。

 実隆が夜食を食べている間、明美はお茶を飲んで他愛のない話でつきあっていた。
 既に菜都美の茶漬けはなかったし、姿は見なかったが冬実の分ももう卓には置いていなかった。
「ごちそうさま」
 明美の用意した夜食を食べ終わると、明美はにこにこして食器を片づけてしまう。
「お疲れさま。じゃあ、お休み、ミノル君」
 返事を返して、台所から出る。
 大きく伸びをして、ばきばきと首をならすと大きく息を吐いて肩をすくめる。
 眠い。もういい加減に。
「あー……んあ?」
 自分の部屋の前で、人影――菜都美が佇んでいた。
 間抜けな彼の声に反応して、ふと顔を上げてこっちを見た。
「ミノル」
 彼女は真面目な顔でじっと彼を見つめている。
 何か気圧されるような気がして、実隆も黙り込んだまま彼女を見つめる。
「あの……今度さ、今度旅行に行こうって、誘われたのよ」
 実隆は目を丸くして、ゆっくり彼女に近づく。
 いや、彼の部屋に入るためには厭でも近づくことになる。
――だからなんだろ?
 全く意味が前後しない。
「それで?」
 菜都美は橙色の灯りの中で、焦ったような戸惑ったような、笑みを湛えたままでも判るぐらい彼女は口早に言う。
「一緒に行かない?ああ、あの、あたしの友人がミノルの事興味もったのか、会いたがってて」
「え?…いや、だって」
 不意に菜都美がすぐ側に寄る。
 驚いて思わず下がろうとして、そちらの方向に壁しかない事に気がつく。
 背としては上背の彼女も、こうして顔を寄せると丁度同じ目線になる。
 あまりに近い距離にある貌に胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
 子供の頃から近くにいたが、ここまで近づいたことはなかったような――そんな感慨に耽る。
「その娘、立花ひなって言ってね。ちょっと抜けたところがあるけど、可愛いの」
 逃げられない実隆に頭を預けるようにして、腕を背中に回す。
「一緒に行ってよ。あたしも断れなくて。それに…」
 そしてついっと身体を離し、いつもの距離で彼女は笑みを見せる。
「それに噂とかそんなのは関係無しに、ミノルのこと、あたし、好きなんだから」


◇次回予告

  駅前で実隆の姿を発見する菜都美。
 「お前は誰だ?」
  菜都美が姿を消したその日の夜、再び玲巳に接触する。
  複雑に入れ組んだ事件の裏側、男の影が。

 Holocaust Chapter 6: 菜都美 第5話

 大丈夫ですわ、ヒイラギミノルさん?お手伝い、願えますか――ここは貴方の世界なんですから
                                            棄てる、しかない

      ―――――――――――――――――――――――


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