Holocaust ――The borders――
Chapter:5
菜都美――Natsumi―― 第3話
それから二日、実隆の帰りが遅い事が続いて、結局ひなの話について触れることすらできなかった。
博人はこの二日間、明美にぼこぼこにされた御陰か、今日は病院に行ってそのまま自宅に帰ってしまった。
しかし、良く結婚した上続いている物だ、と菜都美は思う。実はこうして病院に行く程の怪我をしてしまう事は初めてではないのだ。
三日目の今日も実隆は帰ってくる気配を見せず、苛立ちは募るばかり。
いい加減に何か言ってやらないと気が済まない。
こちこちと鳴り響く秒針がやけに耳障りだ。
睨むように時計を見上げると、既に二十時を回っている。
「なんだか、姉さん、浮気してる旦那様を待つ奥様みたいです」
「誰が?」
菜都美の一睨みにしずしずと消える冬実。
そのうち、玄関の方で物音がして、書斎へ向かう足音が聞こえ――菜都美は弾けるように立ち上がった。
「姉さん」
冬実はぽつりと呟いて、明美を見上げる。明美もくすくす笑いを忍ばせたまま、彼女に言う。
「うん。判りやすい娘よねー。うふふ。そろそろ一押しよね」
なんだか思いっきり外野だけ妙な盛り上がりをしていた。
追いかけた菜都美は実隆の背中が見えて一瞬の躊躇をするが、部屋に入るのと殆ど同時に彼女はふすまを力一杯開いた。
さすがに驚いたのか、荷を床に置こうとしていた実隆はそのまま振り返る。
「……ミノル」
彼は荷を置いて、身体を起こすと眉を吊り上げながら言う。
「菜都美、お前」
「後で話があるから。夕食だよ」
菜都美は彼の言葉に重ねるように叩きつけて、同じようにばたんとふすまを叩きつけるように閉じる。
同時。
ぼんと音を立てる程顔に血が昇るのが判った。
食事の準備は既に整っていて、全員席に着いていた。
廊下を歩いているうちに醒めた菜都美は、食卓に入る前に大きく深呼吸をして落ち着こうとする。
――顔、大丈夫だよね
ひょいと入り口をくぐって自分の席に着く。
「なっちゃん、顔赤いよ」
ばっと慌てて両手を頬に当てる菜都美に、くすくすと笑う明美。
無論――菜都美は次の瞬間きっと睨み付けながら顔を赤くしている。
「ほら、赤い」
「………!」
いい加減に何も言う気は失せ、彼女は明美を無視して苛々と顔に縦皺を作りながら自分の席に着く。
――くそう、一体あたしは何でこんなに苛々してるんだ
既に目的と理由を失っているような気もしてきた。
「……おまたせ」
それからしばらくして実隆が食卓に姿を現した。
「もぉ、遅いよミノルくん。なっちゃんなんかぶつぶつ文句言ってるんだから」
「な」
絶妙の間合いで先に口を出されたせいで声がのどに詰まり、そんな意味不明の声を絞り出す。
そして、恥ずかしさに再び顔を赤くする。
――にゃろっ、一度とならず二度までも!
「明美姉!」
「まあまあ、ミノルくんも早くつきなさい。料理が冷めるから」
二人の間に割り込むように、母親は言い、実隆を席に着かせる。
このまま言い争いをさせておいても時間が無駄に過ぎるだけだと、彼女は判断した。
それが菜都美の目にどう映ったかは知らないが。
「いただきます」
そして、夕食はいつものように滞りなく終わった。
要するに菜都美はそれ以上癇癪を起こさなかったと言うことだ。
菜都美にとっては隙を窺っていたに過ぎない。
――既に、食事の前に話はしているんだし
今日こそは逃がすつもりはない。
彼女は既に当初の目的からかなりずれた思考をしていたのだが、周囲は勿論本人は全く気がついていなかった。
「ミノル、コーヒー、部屋に持ってくね」
食後のお茶の習慣は、食事毎やっていれば一週間もしないうちに覚え込んでしまう。
菜都美は機先を制して立ち上がり、睨むように強い眼光を実隆に向けてコーヒーメーカーに近づく。
実はコーヒーを煎れるのは得意な方だ。豆だって、彼女が選んで用意しているぐらいだ。
食事の間に落としているコーヒーを注げばいいのだが、カップをお湯に浸して暖めなければ行けない。
手早く準備を進めているうち、後ろでなにやら騒がしい。
「あははは、可愛い♪ねーなっちゃん、あたし先にはいるよ〜」
返事を返そうと振り返っても、何故か同じ方向を睨む実隆が居るだけで、既に彼女は食堂には居なかった。
――まあいいか
二つ並べたカップにコーヒーを注ぎ、お盆を用意する。
お茶菓子は…残念ながら饅頭しかない。日本人なら別に饅頭でも構わないかも知れない。
茶色い、真ん中に胡麻を数粒ふった薄皮饅頭だ。
――本当は日本茶の方が……明美姉の趣味、ね
明美はアレで実はかなり古風なお茶の趣味がある。寿司屋で使うようなばかでかい湯飲みを自分専用に持っている位だ。
但し人前では絶対使おうとしないのだが。それが恥じらいかどうかも不明だ。
お盆に小さな皿とコーヒーを載せ、ぽんぽんと二つ饅頭を乗せる。
――うし
満足げに一度息を吐いて、彼女はそのお盆を持つと実隆の部屋に向かうことにした。
多分見る人が見れば、楽しげにも見えたかも知れない。
「お待たせ」
右手にお盆を乗せ、左手で手早くふすまを叩くように開き、返す腕で勢いよく閉める。
開ける音より早く踏み込み、最初の一歩が離れる方が、閉じる音より早い。
結果、閉じた音に驚くように振り返った実隆の前にお盆を置く方が、彼よりも、彼の言葉よりも早い。
「今日は、お饅頭しかなかったけど、いいよね」
言いながら彼の机にコーヒーと饅頭を移して、自分の分はお盆の上に載せたまま少し彼の前から動かす。
自分の分のカップを取って香りを嗅いで、少し心を落ち着けようとする。
「…お前、母親みたいなのな」
でも、実隆のその一言で思い切り台無しになった。
身体が殆ど無意識のうちに弾ける。
右手でコーヒーカップを器用に支えたまま、振りかぶった左腕は物の見事に実隆の右側から後頭部を撃ち抜く。
やたらと激しい音がした。
「誰がよ、全く」
その勢いを殺さずに身体を回して、お気に入りの窓の桟に腰掛ける。
ここには何度か来たことがある。無論、彼が来る前の話だ。
その時も――同じように、やはり自分でコーヒーを煎れて御菓子を持ってきて。
この窓の桟に腰掛けたものだった。
――あ――あれ?
少し違和感を覚えた。
――今のは――何の記憶?
「殴る事ないだろうが」
実隆の言葉に現実が還り、コーヒーの香りに包まれた部屋の中に戻ってくる。
彼は相変わらず自分の机の前で椅子に座っている。
「うるさい。…どうせ、今日は機嫌が悪いからぶん殴ってやろうって思ってたのよ」
でも御陰で少し気分は晴れた。話ぐらいは出来そうだ。
睨み付けて熱いコーヒーを口に含む。
「あんた一体何をしてるわけ?如月工業にこんな時間まで?」
――御陰で、話が出来なくて苛々するじゃないの
「何をって、そりゃ前に言ったけど『薬』について調べてるんだよ。丁度バイヤーらしい奴も根っこ捕まえたし」
「どうして。危ないでしょ?一体何の根拠があって、それがタカヤにも通じてるって決まってるのよ」
自分で言葉を紡ぎながら、言いたいことがずれていく事に気づいていた。
――違う。……いや、如月に行ってるミノルを止めたい、それはそうだけど……
遠回しに言おうとする自分が居る。だから、話がずれていく。
それが自覚できるから、尚のこと苛々する。
「『魔法』って辺りがあの薬は臭い。それに実際その『魔力』って奴を信じて動いてる奴らもいるからな」
――別に正当化して欲しい訳でもないし、訳が聞きたいんじゃない
話を逸らせようと、彼女はコーヒーを口に含み、腕を組む。
「こんなに遅くまで……」
――そうよ、どうしてこんなに遅くまで
――ミノルは自分の目的のために動いて居るんだから止める義理はないじゃない
――でもそれじゃ、ゆっくり話も出来ないじゃないの
――ミノルに生活の場所と目的を与えたのは、あたし?
――違う、明美姉だ。確かにあたしは一言伝えたけど
――もしかして、一人で舞い上がってるだけでただの邪魔者……
かつん、というお盆にカップが当たる音で目ざめたように引き戻される。
視線は自然とそちらに向いていた。実隆も、彼女の方を向いている。
それで、言葉を詰まらせたみたいに沈黙していた事に気づいて、言葉を紡ぐ。
「『あたし達』とは重ならない連中だよ、あいつらは。そんなところよりあたし達の方が」
「確実にタカヤを呼び寄せるって、そう言いたいのか。…違う。以前の『殺人事件』や『魔法』と彼は関わっている」
――あああっっ、もうっ、あたしは何でこんなに苛々してるのっ!
話が微妙にすれ違っている。違う。自分の中で何が言いたいのかが僅かなずれを伴っている。
立花ひな。
別に笑って誤魔化して置けば、高校時代と変わらない結果が生まれる。彼女はそれで良いはず。
問題は、彼女のお誘いの話じゃない。そもそもその話を実行しようにも、実隆が――
苛立ちに机を軽く小突いて――でもそれだけで誤魔化せなくて、顔が熱くなる。
恥ずかしいのか、感情が溢れているのか。
「だからって、どうしてそこまで…危ないってことが判らない?」
――何でミノルはそこまで、身勝手になれるの
「これはただ危ないだけよ、タカヤは関係ないわよ」
止めたい。
彼女は大きく腕を振って叫ぶ。
丁度コップに溜めた水が溢れそうになっているイメージ――もう、一押しで感情がこぼれ出す。
不意に実隆の姿が動く。焦って一歩下がる。
でも身体が支えきれなくて、左肘が窓の手すりに当たる。
追いつめられたように見返す実隆の貌は、険しさを湛えている。
「――お前何か知ってるな?誰かから、今回の事聞いたんだろ」
――え?
思わぬ言葉。
冗談を言ってる訳ではない目を見て、ゆっくりと醒めた部分が囁く。
今は何を行っても無駄。実隆は、あたしのことを何も見ていない
それまで溢れかけていた感情は、まるでどこかに消えてしまったようにすっと熱が引いていく。
きっと眉を吊り上げると、実隆から少し離れようとして脇に退く。
「ミノルっ!あたし、っ!」
冷静な自分が判断した内容を、緩やかに理解する自己。
遅れて喉を詰まらせてしまう感情。
まるで道化のように、ただ彼の耳元でざわめく虫と、同じだなんて
――駄目
焦って彼女は自分を押しとどめ、顔を崩す前に彼に背を向けて逃げ出した。
今、怒る事なんか出来ない。
怒ったりしたら、絶対に実隆の前で泣き崩れてしまう。
殆ど無意識のうちに階段を駆け上って自分の部屋に駆け込んで中から鍵をかけて、ベッドに突っ伏して声を殺して、泣いた。
冷静で冷徹な部分が自分を――そんな感情を抱いている自分を見つめている。
それに耐えきれなくて、彼女はしばらくそのままでいた。
――ミノルの、馬鹿
目が醒めたのはいつもより早い時間。
どちらにせよ今日は彼女の番だ。朝食の準備をして、さっさと食べてしまうと大学に向かった。
『急いでいるから』
母親にはそう伝えておいた。
実隆に会いたくなかったから、そして出来ればひなとも顔を合わせたくなかったから。
いつもより早い電車に乗っていつもより早く大学へむかう。
まだ一年だから目一杯授業が詰まっている。
と、いうか――詰めておかないと、先に進む際不利になる。単位数の問題だ。
あとは彼女の性格の問題だった。
大学での講義を終え、サークルに顔を出してから帰ると――丁度、六時を過ぎる位の時間になる。
「ただいま」
勿論その時間であれば――いつ帰ってくるか判らない実隆を除き――全員そろっているのが普通だ。
「おかえり、菜都美」
母親が彼女を出迎える。それも、少し様子がおかしい。
「どうかしたの?」
「冬実が帰ってこないの。電話してみたんだけど学校はもうとっくに出たって」
冬実は部活にも、塾にも通っていない。それに既に受験を目指して勉強を始めているのだから。
――行方不明?
彼女はどこかに無断で寄る事はない。何かある際には必ず電話連絡を入れる。
暴走気味になったとしても、必ず。
「丁度良かった、じゃあわたしと一緒に探しに行こう。ほら、携帯だって借りてるから」
菜都美はすぐに頷いて、鞄を玄関に置くと既に出る準備をしていた明美と一緒にそのまま出た。
「でも、帰ってきてないっていつ判ったの」
「気になって先刻連絡してね。みーちゃんの性格判ってるから、さ」
明美は笑いながら言う。
彼女は普段、どんな状況でも笑みを絶やさない。
彼女が笑わない状態というは、どうしようもない状況だということだ。
だから――不謹慎でも何でもない。
まだ何とかなる、菜都美はそう思った。
「どこから探そう」
「実は、ちょっとね…目星はあるんだ。ここから如月に向かうよ」
菜都美はあからさまに顔をしかめる。
それに気づいたのか、判っていたのか、明美は明るい表情で彼女を見返して言う。
「冬実、今色々調査してるの。あ、勘違いしないでね、別にミノルくんとは関係ないから」
無言で返答して、二人は再び顔を前に向ける。
僅かな間を開けて、ふと気づいたように言う。
「明美姉、いつから『ミノル』って呼ぶようになったの」
「うん、昨日からそう呼ぶことにしたよ。あれ?……」
明美は答えて眉を寄せて困ったように顎に手を当てる。
「もしかして何もなかったの」
「明美姉!」
けらけらと笑って流された挙げ句、菜都美は肩を優しく叩かれて憮然と黙り込むしか出来なかった。
相変わらずきつい冗談を素面で言う。
「どっちにしても、好きなんでしょ。ここ数日ミノルくんになにか言いたそうにしてた癖に」
ついっと目を細めて優しい微笑みを浮かべる、が、菜都美は見慣れない彼女の顔にとまどいを覚える。
仕方のないことではあるが、でも、その笑みがあんまり無邪気で、誤魔化す気も失せてしまう。
「……うん。……あの、馬鹿」
明美は菜都美の呟くような言葉を聞きながら、ついっと視線を巡らせる。
――みーちゃん、深入りしすぎたかな
実際に先兵として飛び出す彼女に引き替え、全てを見渡してそれを抑える必要のある明美。
彼女にしてみれば冬実の行動というのは止めるべきではないが――しかし。
――あなたが捕まっちゃったら、もう、誰がそれを助けるっていうのよ、全く
如月に『敵』がいるらしい事は既に聞いた。
多分捕まったのであれば明美一人でも、まさか菜都美を巻き込んだとしても助けられない。
戦力不足すぎる。せめて菜都美が捕まっていたなら――明美はすぐにそれを否定する。
――みーちゃんなら大丈夫ね。きっと。……似非やもどき程度じゃ束になったって
そうでなかった場合の事、つまり、本当に事故や何かの事情があったら大変だから。
「明美姉」
「ん?」
菜都美は、おずおずといった調子で声をかけてきた。
「ミノル、何も……あそこまで必死にならなくても良いと思うのに」
眉を歪め、僅かながら悔しそうに貌をしかめる。
その表情に微妙な色を見たのか、明美は首を傾げる。
「そう?彼必死だと思うわよ。自分の居場所を探して居るんだから」
「だって」
菜都美は何かを言いたげに口を開いたが、それ以上の言葉は続かなかった。
一呼吸彼女の言葉を待ってから明美は続ける。
「何をやって良いのか判らない。何をやってはいけないのか判らない」
足場がない不安。
自分を否定された不安。
そして何よりも、存在の耐え難き軽さ。
「そうでなくたって、ミノルくんだって男の子だからね。今の状況が良いとは思えないんじゃない?」
「他人の事なんかかまってる暇はない、って事?」
にこにこ顔を崩さず、側に寄ると彼女の肩を叩く。
「言いたい事をはっきり面向かって言いなさい。じゃないと、今のあの子には聞こえないから」
それから二人は冬実の通学路を遡って、ぐるっと川沿いを回るとそのまま帰宅した。
家に帰るまでの間、それ以上口を開くことはなかった。
「一度、帰ろうか?」
時計を見ると既に十九時を回っている。
冬実は結局見つからなかったが、明美の表情は変わらない。
「結局見つからなかったからね。そんなに焦っても仕方がないの。無理するより、効率のいい方法を選ぶ方がいいよ」
「うん」
菜都美は素直に頷くことにした。
――ミノル
明美に言われて、少しだけ思い返してみる。
いきなり態度を変える事はできない。
実隆に不満があることに変わりはないのだから。
――面を向かって、か
玄関をくぐる。明美の底抜けた明るい声の『ただいま』に、とてとてスリッパの音が響く。
「おかえりなさい。二人ともご飯よ。今日はミノルくんの手作りサラダよ」
何でもない他愛のない言葉でも、こう言う時は響く物だ。
実感として感じながら、菜都美は不機嫌に顔を歪める。
顔を上げてため息をつきそうになった。
母親の隣に実隆が居る。
「あのー……」
母親に対する非難だろうか。
尤も、その声だけがむなしく響いた。
今度こそため息をついて、額を押さえた。
明美はさっさと上がって母親と一緒に台所へ向かう。
――ん
気配が残っている。
実隆だ。
「ほら、靴ぐらい脱げよ」
「…うん……」
そのまま靴を残して玄関に上がる。
実隆は少し身体をよけて、菜都美に道を開けるようにして彼女の横につく。
「あのさ」
彼に呼び止められて、重い足を止める。
止めても、何故か妙に草臥れたような気がして、それ以上動けないみたいに立ち竦んでいる。
「昨晩はごめん。俺…その、心配かけてるんだよな」
「別に」
素直に言われたところで、今更言われても嬉しくない。
――実隆が悪い訳じゃない
それに、何故だか彼の声に苛々が募る。
今は声も聞きたくない。
「ミノルが悪いんじゃないわよ。あたし…やっぱり身勝手だから」
何だか実隆に謝らせているみたいで、胸が痛んで気分が悪い。
つい言葉に険が混じり、刺々しくなる。
彼女の態度と語調に、案の定実隆も顔つきを険しくする。
「お前」
――なんでそこで腹を立ててるの
限界。
「何?今機嫌悪いのよ、喧嘩しようって言うなら道場に来なさいよ!」
噛み付くように叫んで、同時に後悔する。
――何で、今そんな風に言ってしまったんだろう
でも振り上げた拳を振り下ろしたら、もう止められない。
くるりと実隆に背を向けて、彼女は家の裏にある道場へ急ぎ向かった。
どすどすと勢いあまる足音が廊下を軋ませて、それでも落ち着かずに勝手口から出る。
道場は廊下が続いているだけの離れになっていて、その入り口側に小さな更衣室が設えてある。
そこに、通常道着を片づけている。勿論選択済みの奴だ。
ちなみに女性専用である。念のため。
彼女は自分の道着に袖を通し、ぱしん、と襟を掴んで弾くように音を立てる。
その途端、周囲の闇が一瞬だけ濃くなったように、きりきりと空気が張りつめていく。
彼女は柔術をやっている間よりも、この切り替わるような瞬間が好きだった。
一気に違う自分に変わる。そんな錯覚。
――何も考えない。とりあえず
ここ一月ほど、実隆がここで明美に柔術を教えて貰っているのは知っている。
それを考えた上での事だ。
綺麗に清掃された道場の床を眺めて、彼女は入り口から遠い方の開始位置に着くと、そのまま正座をして待つことにした。
ゆっくり目を閉じて、精神を集中する。
実隆なら大丈夫。そう言い聞かせて。
ことりと言う扉の立てる音がして、道場にヒトが入ってきた。
目をつぶった彼女にとっては、違和感のあるモノが彼女の意識を横切ったように感じていた。
つい、と半眼を開けて見ると、道着姿の実隆と、その後ろに母親と明美の姿があった。
「もう、やるなら早くなさい」
「えへへー、ミノルくん頑張ってねー」
実隆は正座をして、彼女らを困った顔で眺めている。
それを確認して、彼女はゆっくり目を開けて立ち上がる。
「なっちゃーん、わたし仕込みのミノルくんの腕前におどろけっ」
――明美姉
結局楽しんでいる姉を一瞥して返して、彼女は構える。
「真桜菜都美、参る」
腹から絞るようにして叫ぶ。
紹桜流古武術自体、昔の立合や仕合の形式をまだ色濃く残すところがある。
ルールを使ったスポーツとの最大の違いは、この『仕掛け』と呼ばれる独特の名乗りである。
尤も実際の草試合でそんな事をしたのか、と言われれば否定するだろう。
と言うのも、武士の風習の一環として残した色が濃いからだ。
だからといって否定せず、伝統として守り続けている。
「柊実隆、参る」
彼の構えは左手を軽く掌をくぼませる手刀にして前に出し、右掌を自分の鳩尾付近で構える基本型。
左足を前に出して斜めに身体を傾ける半身と呼ばれる格好で、僅かに背を丸めている。
変わって菜都美は右掌を前に突き出し、左手刀を手首に添えるように構える。
半身は同じだが、右足前で軽く爪先を内側に入れたボクサースタイル。
彼女の構えの方が素早く、懐で掌打、肘打ちを狙い間接技を主体とした構えになる。
実隆の基本型と呼ばれる構えは、どれにでも対応でき、どれが主軸というわけではないために難しいのだが。
――攻めるのも難しいのよね
特に初めて相対する場合、彼が何を得意としているかを知らないからより不安になる。
――とりあえず
とん、と一瞬地面を蹴る。
無防備に構えた実隆の眼前まで一気に間合いを詰めると、構えた右手を捻るように突き出す。
掌打。
左足を引くのが見えた。
――!
素早く右手をひき、自分の首を護るように掌を顎から左腕へ向けて落とす。
ぱしん、と小気味よい音を立てた掌は、実隆の拳を流して、彼女の左頬の前へと送る。
同時に菜都美は右足で彼の右足首を左足裏で刈り取る。
実隆の上半身が、自分が振り上げた右腕の勢いで一瞬浮いて――無様に転げる。
左足を一歩。
身体を捻り気味に実隆の顔面目掛けて、菜都美は一気に右足を踏み込む。
だが実隆は身体を半回転捻ってそれをかわし、腕立て伏せをするように全身を弾いて立ち上がって一気に間合いを切る。
左足を踏み込んで間合いを詰める菜都美。
しゅ
空を裂く音に足を止める。
それが致命的な遅れになる。
無理に避けようと胸を反らせて、仰け反るところへさらに――
「っ!」
菜都美は両腕を咄嗟に交叉させて、襲いかかってくる踵を受け止める。
そして、受けた衝撃を殺しながら彼女は足を引いて体勢を整える。
一回転する縦方向の浴びせ蹴り『竜尾脚』は撃った本人も体勢が大きく崩れる。
――何とか逃げられる――!
身体を丸めて着地する実隆は、そのまま身体を伸ばすように突進してくる。
体勢が完全に崩れている菜都美は、それを避ける術がない。
――間に合わない
彼の攻撃を受けることも避けることも、そして、カウンターを合わせる事も。
出来たのは彼の攻撃を受けて、勢いを殺すように倒れ込むだけだった。
「勝負あり、だね♪」
実隆は竜尾脚の次の一撃が綺麗に極まったのは手応えで判ったが、手加減無しに振るった事の方が気になった。
だから、油断していた。
むぎゅ
いきなり真後ろから柔らかい感触が頭を押さえ込むように襲いかかった。
「きゃー、ミノルくんかーいぃっ!」
「うわっ、ちょっと、いきなり何するんですか!」
明美が抱きついてきたのだ。
「やったーっ、やっぱりわたしの見込んだとおりの子だったっ!」
むぎゅうぅ。
喜んでくれるのはありがたいのだが、実隆は腕を叩いて彼女をほどく。
「先に出ていってください。菜都美、起こしてそっちいきますから」
「変なことするなよ〜」
「しません!いいから手当の準備して置いてください」
会釈するように出ていく二人を見返して、自分の方に頭を向けて倒れている菜都美へ近づく。
彼女は、倒れてから動こうとしていない。
「大丈夫か?」
ひょい、とそのまま彼女の顔を覗き込む実隆。
ぷい、と顔を背ける菜都美。
「…痛いところは無いわよ。ちょっと、起きあがりたくないだけ。心配しないで」
実隆はため息をつくと頬を少しゆるめて、右手をそのまま差し出す。
「じゃあ起こしてやるよ。掴まれ」
考えるとこっちからだと起こせない。
「……ん」
しまったと思うが、気がついたように顔を向ける菜都美に両手で握られてしまう。
そして、そのまま指先を手の甲へと――逆らえない力で思い切り曲げる。
両足で身体を弾き、彼女の左横に身体を投げ出して逃げると、丁度トランプのカードのように互い違いに床に這う格好になった。
手首に菜都美の両手が絡んでいて、離そうとしない。今更、この状態だったら極める事もできないのに。
「痛ぇだろうが、何すんだよ」
「何よ。自分から投げ飛ばされておいて」
何となく。
菜都美は顔に微笑みが浮かぶのを止められなかった。
「ふん、身勝手にも程があるだろ」
「だからいいじゃない。あたしは一人で勝手に暴走してるのよ」
「それが」
菜都美は実隆を――自分の手の甲の向こう側にあるはずの、彼の顔を見つめた。
何となく、彼もこっちに視線を向けている様な気がした。
「俺を心配させてるんだろ」
口元を笑みの形に歪めて、菜都美は思いっきり両親指を彼の手の親指と人差し指の間に差し込む。
悲鳴を上げる実隆の声を聞きながら身体を起こし、一気に捻り上げていく。
「ふん、だったら一度でもまともに言う事を聞いてくれてもいいじゃないの」
実隆は丁度、片腕を背中側に捻られる形で半身を床から浮かせている。
菜都美は容赦なく手を離す。
避ける間もなく、蛙を踏んだような声を上げる実隆。
堪えきれなくて。
あんまりおかしくて。
何故か、嬉しくて。
「もう良いわよ。何か安心した。ううん、心配しても無駄だって判ったから」
何だか可笑しかった。
鼻を押さえて起きあがる実隆を見て、菜都美は笑っていた。
◇次回予告
襲われる冬実。そして、『如月工業猟奇殺人事件』の真相。
「駄目、今、話しておきたいんです。話さないと、話さないと…」
暖かさに独りでいた事を思い出して、忘れていた物を欲しくなって。
「言っておくけどね。あたしも譲らないから。これは姉妹であろうと同じだからね」
Holocaust Chapter 6: 菜都美 第4話
姉さんがもたもたしていれば、いつまでもそこにある、とは思わない方が身のためです
『女』
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