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Holocaust ――The borders――
Chapter:4

玲巳――Reimi――   第7話


「え?」
 もうすぐ中間テストがある。
 ほとんどの生徒にとってはただの休み前の休みだが、五十嵐には試験の対策のための時間だった。
 いつものように質問のために職員室の訪れた彼は、物理の教師である黒崎と一緒にお茶を飲んでいた。
「なんだ、五十嵐。最近やけにぼーっとしているな」
 彼に言われてはっとした。
 記憶がはっきりしない。
 今、どうしてここにいて、ティーカップを掴んでいるんだろうか。
「どうした、勉強のしすぎで体調でも崩したんじゃないのか?」
 にこやかに声を掛けてくるのは、見覚えのある顔。
――いや、物理の先生じゃないか
 彼は思わず一度頭を振った。
 ここは教室でも自分の部屋でもない。職員室だ。
 毎日のように質問にくる、比較的見慣れた――良く知っている場所。
「い、いえ。寝不足だから、寝てたのかも知れません」
 五十嵐は言い直して、それでも自分が何故ここにいるのか判らなかった。
 完全に、その部分の記憶が欠落している。
「そんな様子じゃ、今教えた事も忘れてるんじゃないか?」
 人の好い笑み。
 五十嵐が愛想笑いを返すと、彼は思わぬ事を続ける。
「どうだ?丁度良い、今晩ウチの部員が学校で活動するんだが、遊びに来ないか?」
 気晴らしには丁度良い、そんな気軽な口調だ。
――あれ、この先生の部活は確か……
 夜中に活動する部活がない訳ではない。
 だからと言って限定できる訳でもない。
――たしかオカルト部のはずだけど
「先生、それって」
「ん?ああ、君は怪談とかお化けとか、怖いものは嫌いだったかな?」
 そんな風に言われてしまうと、断る事もできない。
 だから、彼は今夜、教室に向かう事を承諾した。
 黒崎は彼を見送ると、僅かにため息をついて自分の席に戻る。
 まだ一つだけどうしても足りないものがあるから、今晩はあまり効果が望めない。
 これで最悪の事態だけは防げるのだが、少なくとも最高の結果を望めない限り期待は出来ない。
「おや、黒崎先生、確か今日……」
「ええ、オカルト部の話ですか。確かにそのつもりですよ」
 彼は手早く机を片づけて、荷物をまとめながら隣に座る教師に答える。
「通りで早い訳ですか」
「まあ部活動に顔を出すのも仕事です。では済みません、お先に」
 そう言って、彼はいつもよりも早く職員室を出た。
 二階あるここからは、丁度校庭を見下ろす位置に出る。
 職員室から見える訳ではないが、御陰で出入りする教師は必ず校庭を見下ろす事になる。
――ん
 ふと、気になる者が目に入った。
 濃緑のブレザーの制服。
 少なくともここの学生ではないだろう。学生服にセーラー服、それもまともに着ている者が少ないのだから。
 それに彼はあの服に見覚えがある。
 知らないはずはない。あれは、櫨倉統合文化学院付属の制服だ。
「……まさか」
 たった一人でこの校舎を見つめているその――『少女』?!
 彼は窓を開いて少女を見下ろした。
「――何か用かね?こんな時間こんなところで女の子が一人でいるのはあんまり感心しないな」
 言いながら、ぼんやりと形作られていく――焦点のずれた像。
 それは彼女を取り囲む形でまるで霧のように姿を現し、やがて彼の視界の中で金属製の檻として確定する。
「ええ、すぐに帰ります」
 くるりと踵を返す彼女を、まるで追跡するように動くそれは――彼の意志の内で既に固定されてしまっている。
 もう駄目だ。
 彼女は『檻』から逃れられない。
――くくっくく……丁度、良い時間にいい具合に材料が手に入りそうだ
 予定を変更する。
 今日は、徹底的に儀式めいた事を行う。
――それでもし、反応が進むのであれば――アレを採用する事にしよう
 窓を閉めると彼は自分の車へと急いだ。
 今夜は儀式だ。儀式の内容はその意味に彼はあまり興味はない。
 そんな事よりも重要な事があるから、彼は彼女をとりあえず捕らえる事を決めた。

 夜の十一時を過ぎた頃、突然電話が鳴り響いた。
 既に寝静まった真桜邸のあちこちにその音は聞こえているだろう。
――なんだよ
 電話のある廊下に面していて一番近い実隆は、苛々して起きあがるとふすまを開いた。
 廊下を小走りに移動する音と同時にベルが止まる。
 起きたのが無駄になったのか、と引き返そうとして、応答する声がそれを引き留めた。
「はい、真桜ですが」
 出たのは菜都美だ。
――冬実の……
 実隆は気になって、止めた足をもう一度電話口へと向かわせる。
 薄暗い常夜灯に照らされる彼女は見えたが、表情までは判らない。
――眠れなかったのか
 その彼女が、驚いて息を呑む。
「ちょ、ちょっと、今どこよっ」
 素早くメモを開いて、興奮しているのか震える手でボールペンを押し当てる。
 無言で思い直したのか、ボールペンをそこに置くと受話器を持ち替える。
「ううん、無事なのね…判った。念のためミノルに迎えに行かせるから」
――俺?迎え?
 あと一言二言頷いたりしてから電話を切る。
 そしてきっと目をミノルに向ける。
「ミノル、鉄橋判る?ここから川に向かって、川沿いに鉄橋を目指して」
 薄暗い明かりの中でも、まるで夜行性の動物の目のように彼女の目が輝いて見える。
 その様子に背筋が寒くなるのを感じて、答えが遅れる。
「冬実が……今、帰ってくるから迎えに行ってあげて。あたし、お風呂とご飯用意してるから」
 一瞬脆く泣き崩れそうになるが、すぐに台所に通じる廊下を駆けていく。
――何だろう
 実隆は一度部屋に戻り、上着を羽織ると素早く玄関を抜けて、いつも使っている自転車にまたがった。
 真桜冬実は高校三年に上がったばかりでもう受験勉強を始めている。
 普段遅くなる事はない。彼女の成績はかなり良いらしく、塾にも通っていないにもかかわらず、勉強の心配は無いという。
 だから、下手すれば菜都美よりも早く帰ってくる。
 夕食の時には母親と明美にならうように準備しているぐらいだ。
 だから彼女がいないということはそのまま何かに巻き込まれたか、事故かどちらかしかない。
 覚悟を決めて、人気のない道を駆け抜ける。
――……冬実ちゃん?
 川沿いの道に出た時、一人人影が見えた。
 息を整えながら彼女まで一気に近づくと、案の定、制服姿の彼女だった。
「ふゆ…!」
 だが彼女の名を呼ぶ事は出来なかった。
――!
 思わず口を噤んだ彼を、疲れ切った表情で見返す冬実。
 別に黙り込んだ訳ではない。沈黙は別の意味がある――口を閉ざされるような刺激臭、それも危機的な程、覚えがある。
 実隆は自転車から降りると、彼女の側まで自転車を押して歩いた。
――血の……臭い?
 暗いが、この匂いと彼女の制服に付いた染みは間違いなく血液だ。
「大丈夫?どこを怪我したの?」
「怪我はしてない、大丈夫……つっ」
 答えながら彼女は一瞬顔を顰めて左腕を押さえた。
 慌てて駆け寄るが、彼女の制服についた血は不自然な位置に染みを作っている。
 スカートの前面と、背中の中央ぐらいだろうか。
 スカートに至っては滴るほどしめっているのが見ただけで判る。
「ちょっと、冬実ちゃん、これ…」
「私の怪我は大した事無いですから。歩いて…話します」
 彼女は右手を離すと、確かめるように左腕を動かす。
 その間も足を止めることなく、まるで急かすように歩く。
 彼女は自分の足を見つめるぐらい俯いているので彼女の表情は窺えない。
「ちょっ…と、誘拐されたんです。どうしても確かめたくて、如月にいたら」
 声は比較的落ち着いているが文脈が無茶苦茶で、そのままでは何を言いたいのか判らない。
 口調にも呼吸にもおかしいところはないが、まだパニックを起こしている可能性がある。
 なにせ――全身浴びるほども返り血を浴びているのだから。
「無理に話さなくて良いよ。落ち着いて、まとめてくれるかい?」
 実隆の言葉を聞くと、弾けるように顔を上げた。
 彼の想像とは全く逆だった。
 縋るような、脅えた貌は強気な彼女の表情とは思えなかった。
「駄目、今、話しておきたいんです。話さないと、話さないと…」
 そう言って彼女は実隆に飛び込むようにして彼の胸のシャツを握りしめる。
 実隆は思わず自転車を投げ捨てそうになっていた。
――震えている
 小刻みに痙攣するように震える彼女。
 実隆は左腕で彼女の後頭部を撫でるようにして、自分の胸に抱き締める。
「良いから落ち着け。俺は逃げないし、誰ももう、いないから」
 抱き締めた彼女の頭も震えていた。
 もしかすると寒くて凍えているのかも知れない。
 怖さに震えているのかも知れない。
 ともかく、しばらくそのままで立ち止まっていた。

 冬実の震えが収まると、実隆は彼女を解放した。
 少し乱暴だったかも知れない。後悔しても――少しだけ、遅かった。
「……済みません」
 幾らかしっかりした口調で、彼女は答えた。
 いつの間にか、ぼろぼろの貌ながらいつもの強気な顔立ちに戻っている。
 形のいい口と鋭い目がそんな印象を与えるのだろうが、彼女は特別強気というわけではない。
 彼女の顔を見た人間が、そんな風に感じるのだ。
 きつい印象を与える鋭い吊り目と、美形にありがちな冷たさを感じて。
「良いよ。あ、ああ、服の事は気にしないで」
 彼女の服から滲んだ血が、抱き締めた時に服に少し染みこんでいた。
 だけどむしろ彼女から漂う血の臭いの方が、今は気になった。
「……はい」
 落ち着いても彼女はまだ血にまみれている。
 早く帰らせた方が良い、と判断した実隆はぽんぽんと自転車の荷台を叩く。
「乗れるか?」
 不思議そうな顔で実隆を見上げて、荷台と彼を見比べるように視線を動かして小さく首を振る。
「歩かせて、ください。こんな…格好だから」
 実隆も頷くと、彼女と並んで歩き始めた。
 元々言葉数も少なく、あまり話した事のない冬実に、どう接して良いか判らない。
『冬実の事、良く知らないでしょ。どこに行くとか、何が好きだとか』
 そう言った母親の言葉を思い出す。
 だがそれでも聞かなければならない事は決まっている。
「大丈夫?」
 こくり、とやはり小さく頷くと、彼女は一度実隆を見つめてから話し始めた。
「……私が、如月に行ってた事、知ってますか?」
 思わず言葉を飲み込んで驚いたのを隠したつもりだったが、くすくすと笑い声を上げて彼女は実隆を見つめた。
 澄んだ黒い瞳が、月の光を反射しているのか蒼く輝いている。
「良かった。ヒイラギさんが調査に向かってるから、もしかしたらバレてるかと思ってました」
 目は月の光を蒼く照り返し、口元には笑み。そして、血臭と帰り血を浴びた少女。
 ちょっと考えればあまりに猟奇的な風景かも知れないのに、実隆はそれを平然と受け入れていた。
 自分の感覚がおかしくなってしまったのかどうか、思わず自分に尋ねていた。
――慣れ?
 確かにそうとも言えるかも知れない。
 でも、これだけ血を浴びていて、それでも無傷であることは喜ぶべき事だろう。
 彼は自分に言い聞かせる。
「――姉さんには、特に気をつけてたのに」
 しばらく沈黙。
 からからと音を立てる実隆の自転車のギアの空転する音だけが、やけに寂しく響く。
「どうして?何で如月に」
「……まだ教えていないことがあるからです」
 突然周囲がざわめき、直後――耳が痛くなる程の静寂が訪れる。
 いつか、感じた感触――菜都美が教えてくれた感覚。
「多分菜都美姉さんから少しは聞いていると思いますけれども、まだ姉さんも全て知ってはいませんから」
 きりきりという空気を伝わる感覚が、周囲をまるで見えない細い鋼糸で張り巡らされたように感じさせる。
 絡み取られたら最後、ただの肉片のように変わるまで離さない蜘蛛の糸。
――これは
 ふ、とそれが緩む。でも彼女はその刃をまだ、鞘に戻していない。
 まるで刃を突きつけられているのと変わらないような剥き出しの殺意。
「…!」
 風の音が戻ってくるような、激しいざわめきと同時に人影のようなモノが二人の目の前、通り過ぎてきた道の中央に降りる。
 影の中からそれが実体化したような明確な姿を取った殺意。
――五十嵐!?
 両手を地面について、猫科の肉食獣のように身体全身を撓めている姿は、間違いなく五十嵐幹久。
――いや
 かき消したはずの冬実の殺意が膨れあがる。
 同時、実隆も構える。
「これが『化物』、今回の事件の首謀者です」
 荒い息をつき、同じように血の臭いを全身から放つそれを、冬実はそう表現した。
 両手を大きく得物の方へ伸ばし、下肢は全身を撓めるために高く腰を上げ、また適度に膝を曲げて力を溜めている。
 まさに獣、五十嵐は小さく開けた口から白く蒸気のような息を荒く吐き出している。
 冬実は困ったように眉を歪め、それを見つめている。
――私達と違って、人間だったのにね…
 だが冬実はそれは口にしなかった。
 地面を擦り立てる特有の音。
 二人は正反対の方向へ、同時に跳んだ。

  きゅ きゅき

 甲高い不自然な音。
 それが耳に入った途端、実隆の視界が大きくぶれる。
 ぶれる視界の左の隅、一瞬だけ顔のようなモノが見えた気がした。
 同時。
 世界は乳白色で半透明の世界に包まれる。

  それは幻のようで、実隆が当たり前に受け止める世界。

 動きよりも早く確実に見える、その『乳白色』のミルクのようなもの。
 その震えは全ての物が発し、そしてあらゆる物を司っているかのようにも思える。
 左下。
 実隆が身体を一気に右に旋回させる。
 左頬を抜けていく空気の渦。
 普通ならば攻撃された方向に身体を捻るのは、衝撃を受け流すのにもかわすのにも向かないだろう。
 だが読み通りの動きであった場合、そのままカウンターが相手の急所へと入る。
 実隆の右手は勢いよく飛んでくるそれを僅かに捌き、左手は拳を作って相手の鳩尾に滑り込んでいた。
 何か、小動物を踏みつぶした時のような音が聞こえた。
 世界が――元に戻る。
「ヒイラギさん!」
 冬実の声。
 間合いを開けるように一歩退いた彼の目の前に、蹲る五十嵐だった物がある。
――まだだ
 今度は体中に響く低音が、襲いかかってくる。
 否、それは彼自身が蹴立てた地面が上げた悲鳴。
 瞬時に流れる風景に合わせ、彼は右足で蹲る五十嵐だったものに向けて一蹴する。

 思わぬ手応えのなさ

 空振りと同時に再び空転する視界。
 膝から上に激痛、膝より下の感覚が突如失せて同時に平衡感覚が途切れるように地面にうつぶせに叩き付けられる。
「べっ」
 噛んだ砂利を吐き、両手で立ち上がろうとしても、右足がまだ完全に捕らわれている。
 足首を捻られていて自由が利かない。
――くっ
 更に捻り上げる――激痛。
 が、それは同時に解放されて、痺れたように地面に放り出される。
「っ、五十嵐っ」
 叫んで身体を弾き起こした時には既に小さな人影になって宙を舞っていた。
「早く避けてっ」
 冬実の叫び。
 瞬時に理解する。
 右足に絡みついたアレは充分な手傷を負わせたが止めを逃された。
 だから、冬実の攻撃を避けた上での反撃に移った――奴の姿は間違いなく実隆に向けて大きくなってくる。
――望むところだ
 負傷は。
 右足首捻挫、膝にある筋の損傷。
 右膝を地面に折り押しつけ、左足で地面に踏ん張る。
 右拳を腰に当て、両腕を大きく振り上げて襲いかかってくる五十嵐を真正面に据える。

  視界は 再び 乳白色に染まる

 音が消え、色が消え、形が消え――そこに残るのは、力の描く波紋。
 意識している訳ではない。
 ただ、まるで初めから物がそう言う風にあると理解しているように。
 その波紋を砕くように。
 受け流すように。
 自分が生み出す白い波紋を、綺麗に沿わせて振り抜いた。

  手応え

 同時に音が蘇る。
 甲高い音と同時に自分が五十嵐の頭部を打ち抜いた事実を知る。
 右拳は完全に振り抜かれて自分の視界を遮り、五十嵐の姿は無惨に腹を上に向けてのけぞっていく。
 糸を引く体液が、僅かに紅く滲んでいる――それも、一瞬。
 引き延ばされた時間感覚が戻ってきて、音を立ててそれは一回転して再び四つんばいになる。
「――、そんな」
 冬実が声にならない驚愕を見せて、一歩退く。
 もう実隆は足も動かない。
 もう一度五十嵐が地面を蹴れば、多分次の一撃で勝敗は期する。
 すなわち、
――殺される
 実隆は歯軋りした。
 地面ぎりぎりにまで這い蹲ってこちらを見上げる色を失った貌。
 確かに造形は間違いなく五十嵐だが、胡乱な目と獣の表情は、あの『五十嵐』とは別人だ。
 気弱な表情を浮かべていた、あの微笑みのような恥ずかしそうに笑う顔。
 そんな人間性を全て廃してやれば、ここにあるマネキンのような貌が出来上がる。
 否、人間ですらないだろう。
――治樹
 その姿に、実隆はあの少年、真桜の末弟を思いだした。
 彼の目の前で同じように四つんばいになって、獣の目で見つめていた彼を――

  Close your eyes.

 続くかと思われた永遠の緊張感は、第三者のその言葉により乱された。
 停止していた空間が、時間を取り戻す。
 まず動いたのは五十嵐だった。全身を使って大きく跳躍し、真後ろへと飛び退く。
 追いかける暇もなく、その姿は跳躍を繰り返して夜の闇へと消えていった。
「何……だったんだ」
 実隆の言葉に、冬実はため息のような吐息をついてから言った。
「帰りましょう。明美姉さんにも話さなければいけないですから」
 それ以後、緊張とも静寂とも言えない無言のままに二人は帰宅した。
 実隆は掛ける言葉を失い、冬実も自分から何かを言おうとはしなかった。
 そんな完全な沈黙の中、家が見える位の場所で、玄関から飛び出す菜都美の姿が見えた。
「っ、あ、おかえり」
「只今帰りました、菜都美姉さん」
 思わず彼女の方を見る程、その声は柔らかくて心細かった。
 いつもよりも僅かに気弱そうに見えるだけで、特に変わりないのに。
 駆け寄ってくる菜都美は、直前で立ち止まって青ざめる。
「すぐ風呂に入った方が良い」
 おろおろした貌で実隆を見返してくるので、実隆は首を横に振ってやる。
「怪我はないよ。…事情は、落ち着いてからだ」
 彼の言葉に頷いて、彼女は冬実を連れて家に入った。
 続いて玄関をくぐると、菜都美の背と明美の姿が目に入った。
「お疲れさま。お夜食用意してるけど」
 実隆は彼女を見上げて、無言で頷く。
 もしかすると明美は、全てを知っていて笑っているのかも知れない。
 菜都美も冬実の姿を見て蒼くなっていたが、以前にも似たような目に遭っているのかも知れない。
 そう思うと、聞きたい事もあれば言わなければならない事もあるのに、無言になってしまう。
 靴を脱いで上がった実隆の真横から不意に抱き締める。
「うわ、あのっ」
 道場で抱きすくめられた時のように、全く抵抗ができなかった。
 焦る実隆とは裏腹に、自分の頬を実隆の耳の上に押し当てながら明美は囁く。
「ミノルくんだけじゃ、ないのよ」
 聞いたことがない程静かで重い口調。
 実隆はどう答えて良いのか躊躇して口を噤む。
 どちらにせよ頭をがっしりと抱き締められていて、振り向くことも頷くことも出来ない。
 だから、彼も重い口を開いた。
「……はい」
 廊下で抱き締められて立ち止まっている二人。
 誰かが見たら奇妙にも思えるかも知れない。
 そんな事を考えていると、明美は力を緩めて少し明るい口調で続けた。
「冬実から聞いた?」
 実隆は、今度は軽く首を振って応える。
 くしゃくしゃと頭を撫でると、彼女は実隆を解放する。
「説明が必要?」
 む、と赤い顔で明美を見返しながら実隆は明美の顔を覗き込んだ。
 笑っているが、どこか寂しそうな表情。
 いつもの巫山戯た雰囲気のない貌。
「…一つだけ。確認ですけど」
 だから実隆も真剣な表情で言った。
「楠隆弥は、あなた達の敵ですか」
 廊下で向かい合ったまま、明美と実隆は沈黙していた。
 ほんの一呼吸も無いはずなのに、やけに長く感じられる程。
「――そうね、彼から見れば敵、だと思うわよ」
 そして諦めにも似た微笑みを浮かべて肩を竦める。
「でもわたし達にとって彼は敵じゃないわよ、勿論。そのぐらいは理解しているから」
 勿論キミも含めてだよ、と掌を上にした人差し指で実隆の鼻先を指す。
「ミノルくん、タカヤくんにそう言われなかった?」
 人差し指を起こしてくりんと一回転させる。

  『…お前はわたし達ではない。以上の理由から消去する。それが役目だ』

 実隆は視線を床に逸らせて歯がみする。
「ああ、返事は期待していないから。ね、ミノルくん、決めるのも進むのもキミ次第だし、わたしは教えないし聞かないよ」
 一方的に言うだけ言うと、彼女はキッチンへと彼に背を向ける。
「でもこれだけは言わせてね。わたし達は、いつでも家族として扱うからね、なっちゃんが諦めない限り」
 入口で振り向いて、彼女は悪戯っぽく笑った。
――クスノキタカヤ
 菜都美は、既に『隆弥さん』ではなくなっているのに。
――判らないな、この家は
 もしかすると一生判らないのかも知れない。
――でも、人間は『解り合えている』と思うことで妥協し、馴れ合うものなんだろうな
 自分を取り囲んでいた、『楠』と言う名前の家族。
 あっと言う間に掌を返されるとは思っていなかった。
「変わってるよ」
 実隆はため息をついて肩を竦め、明美に続いてキッチンに入った。
 夜食はお茶漬けだった。
 食卓に着くと、明美が四つ茶碗を並べていた。
 茶碗には、いかにも刻みましたと言わんばかりの海苔が載った、鮭の身をほぐした茶漬け。
 意外に凝っている。
「食べたら寝るの。もう、遅いからね」
 実隆を見るなり言うと、彼女はお茶をつぎ始める。
「……明美さんも食べるんですか」
「何よ。ふふーん、太るとか言うのかな?ミノルくん」
 相変わらずの口調で言いながら、さっさと自分の席に着く。
 その時足音が聞こえて、菜都美が顔を覗かせた。
「風呂、空いたわよ」
 実隆は自分に声を掛けたことに気がつかず、一瞬遅れて返事する。
「いや、俺は」
「良いから入る!服だって汚れてるでしょーが!」
 迷惑だ、と言わんばかりに怒鳴り、ふん、と顔を横に向ける。
 明美は明美でくすくす笑っていて何も言わない。
「…はいはい、わーったよ」
 彼が風呂場に向かうのを入口で見送って、菜都美は明美の隣に座る。
 お茶漬けが湯気を立てているが、彼女はそれには手をつけずにお茶を手に取る。
「何笑ってるの、明美姉」
「だって。なっちゃん、正直なのに全然素直じゃないもん」
 明美は両肘をついて自分の頬を手の甲に載せる。
「…五月蠅い」
 菜都美は否定も肯定もせず、むすっとした貌でお茶を一口飲み込んだ。
「それより明美姉、冬実…」
「みーちゃん、はるくんの事まだ気にしてるから」
 はるくん――治樹の名前が出た途端菜都美は顔を顰めた。
 あからさまに、それが、決して突然いなくなった弟を悼む物とは思えない貌で。
 明美を非難する険しい表情を作りながら目を伏せて彼女から視線を逸らせた。
 どちらも我慢がならなかったから、かも知れない。
 自分に対しても、そして、治樹の事にしても。
「拘るのは判るけど」
「みーちゃんの態度が?それとも」
 明美はわざとそこで一区切りして、じっと目を細めて菜都美を見つめる。
「彼女が何をしているか、が?」
 菜都美は案の定そこで口ごもった。
 明美は、彼女がそれ以上何も聞きたがらないのを知っている。
 『知ってしまったせいで』動けなくなった自分を彼女は知っているから。
 そのせいで、不安定な中学時代を過ごしたのだから。
「大丈夫よ。みーちゃんはわたし達の誰よりもお祖父さんに近いから」
「だから怖いんじゃないの!」
 叫んでから慌てて口に手を当てて、頭を振る。
「違う。…違う、あたしは」
「彼女は全部知っている。自分の事も良く知ってるから、彼女は強い」
 優しい口調で明美は言いながら、自分の妹を眺める。
 脅えたような表情。
 いつもどこか辛い貌を浮かべている彼女が、『優しすぎるせい』だと言うことも良く知っている。
「あの娘はね。……あの娘は、辛いはずよ。あなたとは違うから」
 菜都美はぴくっと表情を変える。明美が『あなた』などと言うのは本当に久しぶりだ。
 だから、逆に菜都美も黙り込んで明美を真剣に見返す。
「大丈夫よ。まだあの娘は誰も殺してないから。殺したら――後戻りしないから」
 明美がにっこりと笑みを湛えるのを、菜都美はまるで不思議な物を眺めるような視線で応え、やがて無言で頷いた。


◇次回予告

  玲巳の求めるものと、彼女が見ている物は。
  そして『識る』ということと、その不安に通じる先にある物は。
  「ミノル、少なくともあなたと私の利害は一致すると思うんですの」
  謎の少女『玲巳』の正体は。

 Holocaust Chapter 4: 玲巳 第8話(最終話)

 ……じゃああなたは人間よ。違うかしら。人間という名前の、怖ろしい化け物なのよ
                                            訣別

      ―――――――――――――――――――――――


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