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Holocaust ――The borders――
Chapter:4

玲巳――Reimi――   第8話(最終話)


 ふう、とため息をついた。
 簡単なキーワードだ。それを思い出す事すら難しい事ではなかった。
「変わってないなんて、滑稽すぎる気がしますわ」
 誰もいない河川敷沿いの道。
 先刻までここに満ちていた争いの気配は既にない。
 いつもと同じ、人気のない静けさだけが漂っている。
 時折車の音が聞こえるが、それでもせいぜい対岸だろうか。
 月明かりに蒼く染まった世界は、彼女以外の動くものを否定する。
――黒崎藤司
 今回介入した理由の一つを回想する。
 彼は既に失敗した理由を探して、困っている事だろう。
 もしかすると彼女の存在を察知したかも知れない。
 どちらにしても。
「そう、これはあなたの世界なのね」
 彼女も理解した。
 後は、ただ的を絞るだけ。
――もう戻る理由もないのですけれど
 後始末だけはしなければならないと思い、彼女は夜穹を見上げた。
 星は瞬きもせず、月の明かりの中に沈み込んでいた。


「遅い!」
 がんがんする頭を振りながら、何故かあちこち痛む身体を無理矢理引きはがす。
「んー…うぁえ?」
 ここは自分に与えられた部屋だ。
 そして、今自分が寝ているのは、布団の上だ。但し掛け布団はどこかに行ってしまっている。
 昨晩着替えたジャージ姿でちょこんと座っている。
「良いから早く目を覚ませ!」
 何故か菜都美がいて、顔を真っ赤にして怒鳴っている。
「…………あ、おはよう」
 何故か実隆の挨拶に、彼女はますます顔を赤くして眉を吊り上げる。
――何か、悪いこと言ったのかな
「いーから起きろっっ」
 直後実隆の意識は一度落ちる。
 何となく、真っ暗になる直前に足の裏が見えたような気がした。

「なっちゃん、あやまりなさい」
 時計はもうすぐ七時四十五分を指そうとしている。
 実隆は呼吸困難になりながら、つい先程目を覚ました。
 頬とか口の周りとかが、血でぱりぱりと乾いて気持ちが悪い。
「…でも、起きてこない方が悪い」
 応える菜都美はぼそぼそと言いながら目を実隆に向けようとしない。
「第一明美姉だって」
「ん?わたしがどうかした?」
 相変わらずの邪気のないにこにこ顔で応える明美。
 菜都美はもういつでもでれるような準備で、食卓に着いている。
「…ごめん」
 ちらりと視線を向けて、菜都美は頭を下げた。
「鼻血ぐらいなら、いいよ、もう」
 昨晩の出来事と、今朝の彼女のギャップに完全に毒気を抜かれた実隆は、草臥れたような口調で応える。
 冬実も何事もなかったように食卓についている。
 相変わらず無口で、時々会話する二人の顔を見比べるように視線を投げかけたり、朝食を見たりしている。
――いつもの朝食の風景だ
 実隆にはそれが奇妙に思える程、いつもと変わらなかった。
「いただきます」
 相変わらずマイペースの冬実の声に続いて、実隆を除く全員が両手を合わせた。

 朝食を摂って、実隆は菜都美が出ていった後玄関で出発準備を終えて冬実を待っていた。
 息を呑む気配に振り向くと、彼女が相変わらず無表情の硬い顔でこちらを見つめていた。
「行って来ます」
 実隆は頷いて、脇に身体をどける。
 彼女は玄関に並んだ小さな革靴に足を入れて、確かめるように靴底で床を叩く。
「大丈夫?」
 実隆は確かめたい事を、出来る限り凝縮した言葉で表現した。
 冬実は一瞬身体を硬直させて、やがてふいっと顔を上げた。
「大丈夫、かも知れません」
 そしてそれで終わるように視線を戻して、玄関のドアに手を伸ばす。
「昨晩のあの少年は、私が近づかなければあれで終わります。……でも、これ以上何かを起こすようなら私が赦しません」
 振り向きもせず答え、ドアを開いて彼女は出ていった。
――赦しません、か
 朝食を終えた時間、朝のニュースで衝撃的な報道があった。
 如月工業高校で、惨殺事件があったのだ。
 つい一月以上前に起きた『惨劇』と事情はよく似ていた。
 部活で夜中に借りていた部室で、その活動に参加していた男女合わせて六人の遺体がずたずたの状態で発見されたのだ。
 恐らく、冬実とあの少年が関わったというのはこの殺人事件の事なのだろう。
 『気の早い妖怪の仕業』『百物語の恐怖』等、いい加減で面白おかしい内容のワイドショーが組まれることだろう。
 冬実が何故こういう事件に積極的に関わっているのか、せめて聞いておきたかった。
 もしかすると、再び彼女とは交錯する可能性があるから、彼女の目的ぐらいは確認したかった。
 でもあの完全な拒絶の態度――実隆は、声を掛けることが出来なかった。
「いってきます」
 玄関から家の奥に向けて言葉を投げると、実隆も玄関をくぐった。
 もう四月末になろうというのに、空気はまだ冬の冷たさを残している。
 日差しが暖かくなければ、冬と間違えそうな程だ。
「ミノル」
 道路まで出た時、背後から声がかかった。
 聞き覚えは――かろうじてあった。
「レイミ、か」
 振り向くと道路の真ん中に彼女はいた。
 あの時と同じ白装束に、赤みのかかった黒い髪が、陽の光を反射している。
 あの時は夕暮れで判らなかった――この娘は、濃い赤味のかかった黒い艶やかな髪をしている。
「お前は何者なんだ」
 感慨よりも早く口は言葉を紡ぐ。まるで、身体は別の誰かに操作されているように。
 もしかすると、それを彼女は望んでいるのかも知れない。
「私は」
 言いかけてくすりと小さく笑う。
 自嘲の笑みにも、ただおかしくて笑っているようにも――どちらとも、取れる。
 口元を隠すように添えた右手のせいで背が丸まって、小さく見える。
「そうね。別に、用事なんか無いはずだったんですわ。本当は」
 彼女は小さく肩を竦めて笑う。
 その仕草は外見どおりの歳ではなく、大人の、それも落ち着きの感じさせるような女性の笑み。
 力のない、弱々しさをも感じさせる仕草に、実隆は戸惑いを覚えた。
「五十嵐幹久を、あんな風にした張本人を捕らえに来たのよ。それが目的」
 実隆は口元を歪めるだけで笑って見せて、彼女を見下ろすように言う。
「あんな、って、昨晩見ていたような口振りだな」
「ええ、陰から見てたのは私ですわよ。尤も非難するよりも助けたことに感謝して欲しい位ですわ」
 そう言って、彼女は流暢な英語で発音してみせる。
 昨晩聞いたあの歯切れ良く紡がれたkingdom Englishを。
 実隆はぞくっと全身を震わせる。
「――まさか」
「いいえ、あなたの考えは正しくないですわよ。私が本当に用事があるのはクスノキタカヤ、ですから」
 今度こそ実隆は絶句する。
「今彼はミノルに極近い位置で身を顰めているはずですの。もう私にも判らないのですけれども」
 彼女はこほん、と一息つくように咳払いをする。
「私があなたに関わろうとした理由。関わる事になった理由。そして、そのために今私は、あなたに助けを乞わなければならない」
 彼女は両手を大きく広げながら話し、そしてまるで祈りでも捧げるように両手を重ねて胸の前で交叉する。
「『ここ』が『あなたの世界』だから、ですわ」
 白い服を着た少女の言葉はまるで、装飾のない実用性だけを重視したナイフのように作り込まれている。
 まるでそれが当たり前のように感じられる程、的確な口調で心を揺さぶってくる。
――嘘だ
 今、彼女の言葉を信じようとした自分に、彼は叱咤する。
 助けを乞うと言った少女は、何故なら実隆の世界だからだと言う。
「…説明してくれ」
 声が枯れているような、声にしてやっと自分が異常に緊張しているのだと気づく。
 玲巳はその声色に気づいているのか、それとも彼女が理由だからなのか、全く頓着せず続ける。
「あなたは、自分の隣人が彼の意志だけで動いていると思いますか?」
 そう例えば、と彼女は更に続ける。
「水面に打ち付ける雨が、まるでアニメのように全く同じ波紋を産まないのと同じですわ。それはあり得ない
 両手を自分の真後ろで組んで、肩を丸めるようにして実隆の顔を下から覗き込む。
 何かをねだろうとする子供のように。
「彼の意志もあなたの意志も、必ずこの世界に波紋のように影響を与える。与えられた影響は、『新しい世界』を産む」
 今度は組んでいた両手を一度胸元に持ってきて、ゆっくり伸びでもするようにして大きくそのまま広げていく。
「それは、新しい世界。例えば今日のあなたの選択で、実は昨日まであなたの隣にいたはずの彼は――隣の世界に言ってしまった」
「じゃあ今いる隣の人は」
「新しく産まれた、いいえ、あなたの選択で産まれた世界にいる、その世界に尤も適した、一番近い可能性の隣人」
 彼女は跳ねるようにして一歩退き、実隆に背を向ける。
 こうしてみれば、良くて高校生、どう贔屓目に見ても中学生が良いところだろう。
 可愛らしいかも知れないが、得体が知れないのは確かだ。
「この理論は『世界樹』って呼ばれてるわ。人間の数だけ産まれる可能性を枝葉に見立てた世界の理想型」
 彼女――玲巳の知っている世界とは予定調和。
 意外な事なんか一つもない。
 巨大で複雑な、何かの方程式で固められただけの世界。
 全ての始まりから終わりが定められていて、まるで計算するように世界の果てが判る。
「でも、それは彼らの意志を無視してないのか?」
 実隆の問いに、玲巳はゆっくりと首を振る。
「その全ての『意志』を含んだ可能性を、この理論では方程式化してるわ。だから、『これ以上の可能性はない』」
 彼女は産まれて、産まれる時に既にそれは彼女の脳に初めから刻まれていたように『識って』いた。
 身体が覚えているという言い方があるだろう。まさにそれに近い形で彼女は判ってしまった。
 一分の隙もなく、まるでそれを一度体験したように世界が進んでいく。
 覚えている訳ではないのに、それが判る――次の瞬間が直前に知らされるように。
 予知や預言のように『あらかじめ与えられる』のではない。
「そして一度に見るのは、『選択』した人間の『可能性』を輪切りにしたもの。それには確かに隣人もいるかも知れない」
 読み慣れた小説の一節を読んだ時のような、一度見た映画の一シーンを見た時のような。
 諦めのような感覚――それが、極度に逸脱したものと思えばいい。
 それを誰かに言おうとするだろうか?その思考の直後、結論まで彼女の頭の中で構築されるとしたら?
 それは予想でも想像でもなく。
 彼女にとってはそれも現実なのだ。
「そうやって選択した結果進むその流れを、『幹』に見立てた場合、通常はあなたの視界にいる人間との関わりによる枝葉もある」
 実隆は頷いた。
――俺の、世界……ね
 もしこの世がゲームなら、と考えたことがある。
 少し昔の選択をやり直せるならと考えたことがある。
 でも、それはこの世にいる全ての人間の選択の一部なんだと考えるならば――それは飛躍しすぎのような気がする。
 だから逆に、選択し直した事により産まれる世界が、概念としてだけだとしても産まれていてもおかしくはない。
 でも、それはもう『実隆の世界』ではなく、誰かの選択によって産まれるであろう、どこかの幹に呑まれるであろう世界。
 その一部なんだと、彼女は言っているのだ。
「そんな風に世界が動くなんて、知っている人間は少ないんじゃないか」
 ふふ、と玲巳はおかしそうに笑って、小首を傾げた。
「全ての人間に言える事ですのよ。結婚しようと、恋人だろうと家族だろうと相容れない世界なのに、思い通りに行くと思って?」
 何故かその言葉がやけに空々しく聞こえた。
 選択によって生まれる世界――でも、それが『思い通りの利己的な』世界という意味ではなくて。
「むしろなんの意味も持たない、なんて――証明すらできないのに」
 それは知っていても知らなくても同じ、そう言う事に過ぎなかった。
 実隆が黙り込んだのを確認して、彼女は続ける。
「私の世界では、ミノル、あなたはこの時点でここまで深く事件に関わることはなかった」
 『彼女の世界』もまた彼女の選択の結果によって組み立てられている。
 これは彼女以外変える事は出来ない。
――魔術理論『世界樹』を、大きく揺るがす存在
 彼女のその『識』の限界は、彼女の世界に限定される事。
 でも普通は彼女の選択の結果がもたらした最も近い世界を選択していると言う事だ。
 だれも、介入する事は出来るはずはない。
 今でも先は幾分は理解できる。
 でも、既に狂い始めたように彼女は――この世界の、先を見る事が出来ない。
 それは不自然で、彼女がいかなる選択をも「別の他人の選択による結果」が影響を及ぼしてくるなんて。
 あり得ないのに今、彼女はそんな『運命の環』から外れてしまっている。
「その代わり、マサクラフユミちゃんに関わってあなたは『こちら側』から離れていた。…事件には、彼女と関わっていたわ」
 実隆はいつの間にか言葉を失っていた。

 『良かった。ヒイラギさんが調査に向かってるから、もしかしたらバレてるかと思ってました』

 判ってもおかしくなかったはずだ。
 なのに、何故気にもとめなかったのだろう。
「その世界では、あなたはマサクラナツミちゃんと仲は良くなかった。原因は、あの日道場に向かわなかった。喧嘩をしなかったから」
 選択の可能性が生み出す世界。
「――レイミ、お前――どこまで、何を知っている」
「ミノル、少なくともあなたと私の利害は一致すると思うんですの」
 くるっと彼女はもう一度実隆の方を向いた。
 その瞳に浮かぶ表情は、先刻までの物とは違う。
 強かな光。
「世界樹理論の歪みは私には判りません。でも、私が今までいた『私が辿るべき世界』から外れた理由はきっと、あなたと関わる事」
 実隆が複雑な表情を浮かべるのを、玲巳はまるで舌なめずりでもするような妖艶とも取れる貌で見つめる。
「クスノキタカヤに出会う方法は、私には判りますもの。そしてそれがあなたの選択の中にあったということ」
「…レイミ、お前とタカヤの関係は」
 玲巳は息を呑むように目を丸くし、やがて微笑みを浮かべて答えた。
「――師と、弟子ですわ」


「『煙草』が見つかった」
 城崎は携帯でいつものファミレスに呼び出しをかけていた。
 彼と、桐嶋だけが隅の席に陣取って向かい合っている。
「…しかし、お前」
「偶然だ。詳しくは、興信所とか探偵の暴露本でも読んでくれ。俺はあまり説明したくない」
 的を絞った理由はないから、彼は誤魔化すように言ってシートに背を預ける。
「物理教師の、黒崎…か。……理由は判ったが、ルートは…本人に聞き出させるか」
 剣呑な目つきで彼は呟き、同じようにシートに全体重を掛ける。
 『急ぎなさいな、ナツミちゃんが巻き込まれる前に』
 彼女はそう言った。
 玲巳――自ら『識る者(Wizard)』と名乗った彼女は、直接関わるつもりはそれでもないらしい。
 『あくまで私は、あなたの世界の枝葉。…もしかすると私の可能性というものがあって、私の『幹』があるのかもしれないけど』
 何故か彼女の表情が硬く、そして寂しそうだった。
 まるで既に世界には自分が存在しないような、そんな言い方だった。
 世界を構築する全てから足を踏み外した彼女は、迷い子のようなもの、だろうか。
 それとも全てを見下ろしている傍観者かも知れない。
 分厚くとても壊せないような大きなガラスで囲まれた、彼女。
 関わりたくても関われない、彼女の立場はそんなものだろうか。
 もしこの世界が実隆自身の世界で、彼の選択でいかようにでも動く――そんな世界なら。
 あの日、去り際に彼女に聞いた。
「俺はそんな、他人の世界を飲み込めるような化け物、なのか?」
 実隆の問いに果たして彼女はおかしそうに笑みを浮かべて応える。
「私の霊視でも、あなたは普通の人間と変わらない。遺伝子レベルで検査してもらったことはありませんの?」
 ついでに人間以外の存在なんか見た事もないわ、と付け加える
「でも」
「いつかのあなたの暴走や、真桜が関わるお話?アレは彼らの一族に伝わる話ですけれども…そうですわね」
 玲巳は小さく頷いて、上目遣いで実隆を見つめながら言う。
「あなた達は、まだ自分のことよく知らない精神分裂症の患者なのかも知れないですわよ。違って?」
「俺が狂っているとでも」
 玲巳はぱちくりと数回瞬くと、口元だけ笑みの形に歪めて真剣な眼差しを実隆に向ける。
「そうやって迷ったり、苦しんだりするのは人間の証拠よ。…『自分は化け物かも知れない』だなんて、滑稽だけど」
 彼女は――そう、何故か寂しそうな眼差しで目を細めて――笑いながら言う。
「……じゃああなたは人間よ。違うかしら。人間という名前の、怖ろしい化け物なのよ」
 決着はつかなかった。
 質問の回答が、『人間であり化け物である』なんて、それではまるで戯れ言だ。
 実隆は黙り込んだ城崎の苛々した貌を眺めながら時間が過ぎるのを感じていた。
 穹はいつの間にか黄昏から薄闇に代わり、しばらくも待つ必要もなく星が瞬くだろう。
――人間という名前の、恐ろしい化け物……か
 実隆は自分に言い聞かせるように口の中で唱えた。
――人間じゃなくても、自分が化物だなんて思わなくて良い世界があれば、多分こんなことにはならないんだ


◇次回予告

  「そろそろ、時間だ。準備はおおよそ整った」
  起爆剤は既に世界規模で蔓延している。
  「トリガーを、準備してほしい」
  リーナと呼ばれるようになった少女の命令は、いつの間にか願いに変化していた。

 Holocaust Intermission:ミノル 3 第1話

 一月だ。……世界を滅ぼすなんて戯れ言、それだけあれば充分だ
                                            崩壊への序曲

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