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Holocaust ――The borders――
Chapter:4

玲巳――Reimi――   第6話


 五十嵐は、普段は優等生でも通じるぐらい真面目な生徒だ。
 クラスメートからも『変な奴』で通じるような生徒なのだ。
 何が変なのかというと――つまり、やりたい事だけをやる癖に、善悪の区別がないような態度を取るのだ。
「ありがとうございました」
 だから、職員室でよく見かける男子生徒の中では、唯一真面目な方だった。
「ああ、いつでもおいで」
 教師に信頼されて、お茶とお菓子まで貰った挙げ句の果て、質問に答えて貰うといういたせりつくせりの状況で、その日も引き上げた。
 どこまで自覚があるのか、にこにこしながら去っていく彼は、有る意味マスコットだった。
――少し、遅くなったな
 五十嵐は荷物をまとめて廊下を昇降口の方へと向かう。
 彼は特別部活に参加している訳ではないのだが、職員室に残る確率が高いせいで、いつも部活の終わる時間ぐらいまで学校にいる。
 今日はたまたま早く終わった。
――探偵さん、待ってるかなぁ
 ここ数日はオカルト部の動きはない。
 彼の御陰かどうかわからないが、少なくとも昨日までは接触はなかった。
 ついでに探偵も見かけなかった。
 彼は昇降口で靴を履き替えて、校門へと向かう。
 人気のない校庭を抜ける時、不意に五十嵐は足を止めた。
 誰かの気配を感じて、彼は一度左右に視線を向ける。
――…?
 だが、やはり誰もいない。おかしいと思って首を振って。
「――」
 五十嵐は首を左に振った状態で止まる。
 校舎の影の中に少女がいた。
 見覚えのある制服に身を包んだ少女は鋭い目を一瞬彼に向けて、すぐに逸らせた。
 濃い影の中でも目立つぐらい艶のある黒い髪に、緑色のブレザーの制服が映える。
――櫨倉の…娘?
 歳は判らない。吊り目がちな横顔やその雰囲気は年上のようだが、背が小さく丸い頭が幼く見えるのだろう。
 櫨倉統合文化学院付属と言えば、この辺では有名な進学校。
 大体駅で一駅以上離れた山の手の学校だ。
 こんな時間にここにいる事自体、少しおかしい。
――部活関係…なのかな
 声をかけようとも思ったが、喉の奥が痺れてしまったように動かない。
 何が起きたのか判らない。
 彼女は視線を逸らせたままなのに、まるで見つめられているように息が詰まる。
 巧く思考できない。
「……なにか、御用かしら?」
 その吊り上がった目が、まるで興味のない物を見つめる顔でついと動く。
「あえいえっ」
 何を言ったのか思い出せないぐらい五十嵐は慌てながらくるりと背を向けて走り去った。
 だがまさか自分の背を突き刺すような視線が追っているとは、彼も思っていなかった。
 走り去っていく五十嵐を、消えてしまうまで見つめていて――彼女は、まるで無機的に視線を校舎へ向けた。
――如月工業…
 嫌な名前。
 少なくとも、この名前に嫌な記憶が既に二つ以上ある。
 だから彼女は視線に更に力を込める。
「――何か用かね?こんな時間こんなところで女の子が一人でいるのはあんまり感心しないな」
 がらりと二階の窓が開き、教師らしい人物が彼女を見下ろす。
 つい、と視線を上げてその言葉を飲み込むと、彼女は顔色一つ変えずに答える。
「ええ、すぐに帰ります」
 彼女はくるりと彼に背を向けて、校門をくぐった。
――ふうん
 それを見送る教師は、僅かに口元を歪めて――自分の職務へと戻った。

 結局、明美と菜都美は帰ってきたが、二人とも冬実の姿は見なかったらしい。
 特に菜都美の表情は暗かった。
「おかえりなさい。二人ともご飯よ。今日はミノルくんの手作りサラダよ」
 実隆は母親と一緒に玄関まで出迎えにあがる。
「あのー……」
 彼の言葉すらも何故かむなしく玄関に響いた。
 さすがに二人の表情はそのぐらいで動く事はなかった。
 非難するでもなく無言で上がる明美は、それでも一瞬にっこりと実隆に笑みを見せる。
 そして。
「出番でしょ」
「うわっ」
 すれ違いざま脇腹に何かが突き入れられる感触と、耳元を撫でるような明美の声。
 明美はくすくす笑いながら、母親の肩を叩くと食卓の方へ向かう。
 実隆は明美を一度睨み返して、菜都美の方を向く。
 彼女は俯いたまま、靴を脱ごうともせず項垂れている。
「ほら、靴ぐらい脱げよ」
「…うん……」
 彼女はのろのろと靴を脱ぎ、ふらっと立ち上がった。
「あのさ」
 実隆の声に菜都美は立ち止まるが、振り向こうとはしない。
「昨晩はごめん。俺…その、心配かけてるんだよな」
「別に」
 素っ気なく言われて実隆は絶句する。
 一言言ってやろうと口を開く前に、彼女がくるっと振り向いて――僅かに上目遣いに睨まれる。
「ミノルが悪いんじゃないわよ。あたし…やっぱり身勝手だから」
 だから謝んないで。
 言外に聞こえる言葉に実隆はまなじりを吊り上げる。
「お前」
「何?今機嫌悪いのよ、喧嘩しようって言うなら道場に来なさいよ!」
 右手を大きく振って、彼女は家の裏側にある古い道場に向かって廊下を折れた。

 真桜紹桜流は、駅裏にある営業用の道場以外に古い小さな道場を持っている。
 以前はここで教える事もあったそうだが、いかんせん小さい事と、もう古くなった為に取り壊す事になった。
 が、がんとして反対したのが明美である。
 『朝早く練習するのは自宅の方がいいでしょ』
 今本格的に道場を仕切る彼女が、結婚してからもここに住んでいる最大の理由がこれである。
 そう思うと夫は可愛そうなのかも知れない。
 時々練習台やらなのか一緒に道場にいることもしばしばあったりする。
――なんでこうなってるのかな
 菜都美の啖呵から十分。道着に着替えた
 今、殆ど明美専用になったその道場に、向かい合って二人で正座している。
 彼女は目を閉じて、まるで精神集中しているようにも見える。
――うーん…
 既に時刻は夜の八時になろうかという時刻。
 道場の外は無論真っ暗で、完全に隔離されているようにも思える。
「もう、やるなら早くなさい」
「えへへー、ミノルくん頑張ってねー」
 無責任な外野の声が実隆と菜都美を煽る。
――参ったなぁ、謝れって言ったのは自分の癖に
 何にしてもこうなってはもう引くに引けない。
 やるしかないのだ。
 実隆がそうやって腹に据えると、菜都美はゆっくり目を開いて立ち上がった。
 それに合わせて彼も立ち上がる。
「なっちゃーん、わたし仕込みのミノルくんの腕前におどろけっ」
「真桜菜都美、参る」
 名乗りを上げる。
「柊実隆、参る」
 答えて名乗り、構える。
 その途端、今までの周囲のざわめきや外野の茶化すような応援が聞こえなくなる。
 全ての風景が、まるで白くとけ込んでいくように消える。
 突然世界が反転したように――まるで不自然に語りかけてくるように――他の気配は皆無。
 それが、かき乱されるように波打つ。
――!
 びしと硬く張った綱が立てる音と共に、何かが弾けた気がする。
 脱力。
 身体を左に捻る力。
 実隆はそれを、自然に利用しようとして左足を流して、右足で身体を反らせた。

  ひゅ

 そんな風切り音が、視界を一気に切り開く――同時、背中に衝撃。
 菜都美の瞬間の踏み込みからの右拳が実隆の顔面に向けて放たれた。
 だが、まるでそれが見えていたように実隆は身体を捻ってよけながら、右腕をアッパーカットの要領で振り上げた。
 が、それは菜都美の前手の払いによってかすりもせず、実隆はそのまま無様に転がる。

 本当の開始はそれからだった。

 実隆はバウンドする力を使うようにして身体を床に平行に回転させる。
 顔を狙い澄ました菜都美のストンピングは蹈鞴を踏むだけに終わり、その隙に実隆は両腕で弾いて起きあがる。
 バネ仕掛けのように地面を舞い、一気に間合いを切り――今度は実隆が先に踏み込む。
 大きく右腕を袈裟懸けに振る。
 後ろにのけぞるようにして避ける菜都美を、更に追いつめるように宙で一回転する――襲いかかる踵。
「っ!」
 縦回転する浴びせ蹴り、『龍尾脚』と呼ばれる技である。
「おお〜」
「明美ちゃん、ミノルくんって凄く筋が良いわね」
「でしょでしょ?わたしってば小学生の頃からあの子目をつけてたんだよ」
「唾つけてたの間違いじゃないの?」
「えへへへ。母さんそれって凄くやーらしいよ♪」
 実際に闘う二人の真剣さを茶化すようにがやがやとやっている外野。
 しかし、実隆にも菜都美にもその声は届いていない。
――白く、果てしなく白い意識の荒野の中で、ただその揺らぎだけが見えている。
 菜都美は深く浅く呼吸を乱さないように全身をリズミカルに律動させる。
 それは全身で呼吸するような動きだ。
 実隆の『化物』が動き、乱すその『流れ』を全身のリズムで読み、受け払い、そして叩き壊す。
 正確な律動と読みが出来るようになるまで十年。
 それに身体を合わせられるようになるまで十年。
 紹桜流柔術は普通の人間が『流れ』を読めるようになるまでになれば良いと言われている。
 それだけに、極めなければならないレベルは高く、一生物の武芸と言える。
 武士達が実践的な武術として使われたかどうか、そう言う意味でははっきりしない。
 菜都美の目の前で起きているのが、目の錯覚なのか。
 いや、菜都美はそれを否定しない。
 一度身体を小さく丸めて着地する実隆から離れるように跳び退き、間合いを整えて構え直す。
 それだけの動きが、まるで周囲の空気が粘着質のように感じるほど間延びしていて。
 実隆が立ち上がると同時前屈みに突進してくるのを避ける手段を考えられないほど。
 でもそれが、彼女の視界では白い、まるで牛乳をより濃くしたような空間の歪みのように見える。
――間に合わない
 そして彼女は、自分の体勢が作る『白い風景』の波がどのような形であれ間に合わない事を覚る。そして――

「勝負あり、だね♪」
 一気に風景はいつもの道場に。
 全身の感覚が戻ってきて、自分が床に倒れ込んでいる事に気がつく。
 しかし、どこも痛いところはない。
「きゃー、ミノルくんかーいぃっ!」
 先刻から、妙にきゃいきゃいした姉の声が聞こえる。
――何となく、起きあがりたくない
 実隆の抗議する声に、近づいてくる足音が重なる。
「大丈夫か?」
 そして、逆様の実隆の顔が視界の半分を覆う。
 何となく気恥ずかしくなって、顔を背ける。
「…痛いところは無いわよ。ちょっと、起きあがりたくないだけ。心配しないで」
 何故か、耳は雑音を拾おうとしていない。
 まるで自分の体内の音を全て拾おうとしているように、自分の動悸ばかり聞こえる。
 実隆の言葉も、まるで耳栓をしているように聞き取りにくい。
「じゃあ起こしてやるよ。掴まれ」
 ひょい、と彼女の視界に実隆の右手が差し出される。
 視線をふいっと向けると、実隆が僅かに顔を顰めて嫌そうな顔をしていた。
 だから、ちょっとだけ意地悪な気分になる。
「……ん」
 答えて顔を向けて、彼の手を両手で握って――

  ず だん

 手首をひっくり返して極めると、逆らえないように捻り上げて、彼をそのまま床に這わせようとした。
 が、実隆はそれを読んだのか力の加わる方向に跳んで、自分から床に背中を叩きつけていた。
「痛ぇだろうが、何すんだよ」
「何よ。自分から投げ飛ばされておいて」
 まだ手首を極める手は緩めていないが、はっきり言って先刻より極めにくい。
 と、言うよりも、極める方向が正反対だ。
 ただ実隆の手首を両手で掴んでいるだけになってしまっている。
「ふん、身勝手にも程があるだろ」
 もう極まってもいないのに、実隆はそのまま動こうとしない。
 丁度、それぞれ頭上に頭があり、トランプのカードのように上下互い違いになっている。
 顔を見ようとして顔を向けると、手首を掴まれたままの自分の腕があって菜都美が見えない。
「だからいいじゃない。あたしは一人で勝手に暴走してるのよ」
「それが」
 周囲に迷惑を掛けている、とは言えなかった。
 彼女はそれを知らないはずはないから。
 今更言うのはそんな言葉じゃないはずだと実隆は一度その言葉を飲み下してしまう。
「俺を心配させてるんだろ」
 無言が返ってくる。

  くい

「あががっっ」
 手の甲の方から、親指の付け根と人差し指の間に異物が差し込まれる。
 そのまま手首が捻りあげられながら、実隆はうつぶせに身体を引きずられていく。
「ふん、だったら一度でもまともに言う事を聞いてくれてもいいじゃないの」
 そしてぱっと手を離した。
 勿論支えもなく、半身が浮き上がった実隆はそのまま床にばたんと激突。
 これが50cmも浮き上がっていたならともかく、ほんの10cmも無かったから――間に合わない。
「痛ぇっ、お前…てて」
 鼻を押さえながらにじむ涙をぬぐいながら立ち上がる。
 菜都美は彼の様子にけらけらと笑っていた。
「もう良いわよ。何か安心した。ううん、心配しても無駄だって判ったから」
 笑い続ける彼女に肩を竦めて見せて、舌打ちする。
「何だよ。もしかして俺って馬鹿みたいなのか」
「もしかしてじゃなくて、馬鹿じゃないの」
 びしっと人差し指を突きつけるようにして見せて、満面の笑みを浮かべる。
 実隆はそれに何故か安心して、先刻明美達に道場から出ていくように頼んで正解だったと思った。
――こんなところを見られたら恥ずかしいじゃ済まない
 だから、菜都美の背を思いっきり叩いて、顎で出口を指して言う。
「馬鹿で悪かったな。それより飯だぞ飯。さっさと着替えて来いよ」
「はーん、少なくともミノルよりも早いわよ」
 べっと舌をだして駆け足で道場から走り去るのを見送って、実隆も道場の入口をくぐった。
「んふふふふ」
「ぬわっ、て、明美さん、何ですか」
 ひやりとした空気の漂う廊下に踏み出した途端、暗さや空気に驚くよりも早く背中から声が掛けられた。
 ひょい、と道場の入口から差し込む光の中に明美が全身をさらす。
 どうやら入口に背を預けて待ち伏せしてたらしい。
 多分というより間違いなく、走り去っていった菜都美は気がつかなかっただろう。
「早いのね、ミノルくん?」
「……何の話ですか」
 薄暗い廊下でもはっきり判るぐらい、彼女の顔はにやにやしている。
 いつもの笑みよりも、そう、何となく粘っこい笑み。
 通常『嫌らしい笑み』と呼ぶ、あの顔だ。
――どうにも
 だからこの女性はどうも苦手だ。
「んーん、さて?」
 明美は言いながら立ち止まった実隆の真横に並んで、彼が母屋に向かうのを促す。
 仕方なく促されるまま彼女と並んで自室へ向かう。
「でもなっちゃんがあんなにぶち切れたところ、久々に見たよ。ミノルくん?」
 覗き込むように首を傾げる。
 実隆はまるで危険を察知したように身を引きながら、怖々彼女の顔を見返す。
 にたにた笑いをやめずに彼女は肩を竦めて前に向き直る。
――そう言えば…そうだよな
 考えれば。
 菜都美が暴君と呼ばれて暴れていたのは中学で、ある時期を境にして突然喧嘩をしなくなった。
 理由は聞いた事もないし、『女の子ってのはそう言う物だ』というような認識もある。
 それが真実とは限らないのに。
「あの娘、わたしと比べても遜色ない柔術使いなんだけど、精神的な問題で拳すら作れなくなってたのよね」
「精神的…ですか」
 明美は頷くのも躊躇うように、視線を宙にさまよわせる。
 たっぷり一呼吸の間をおいて彼女は続ける。
「襲われたのよ、如月工業の生徒にね」
 どくん、と胸が一度大きく跳ねた。
 呼吸が詰まる。
「問題はね、どうにかなる前に相手の男が死んじゃったのよ。ボウガンで狙撃されて」
「え……」
 そう言えばそんなニュースを見た記憶がある。
 あまりに手口が酷い為にあの時期に連日報道されて、記憶にも残っている。
 ボウガンは『危険な玩具』に指定され、18歳未満での購入が禁止された。
 殆ど同時に一部のフォールディングナイフも禁止されたので、持ち物検査の対象にもなった。
 アンティークな金属製ペーパーナイフまで取り上げられて怒っていた友人まで思いだした。
「覚えてるみたいね。…報道された事件じゃ、側にいた菜都美のクラスの男の子も出てたけど、真実は報道されてないでしょ」
 事件は、公園で突然狙撃されて倒れた事になっている。
 たまたま側にいた少年からの通報で発見され、殺人事件として捜査されたが、犯人は見つかっていない。
 勿論その時、菜都美の名前も挙がっていない。
「それ以来かしらねぇ。喧嘩って名の付くことにどうも敏感で。本人も人を殴れなくなったみたい」
 それは嘘だ。
 思わず答えそうになった。
――高校生に上がる前までは、ぽこぽこ殴られて……いたんだけど?
 それも結構手ひどくやられていた気がする。
「まあ、『喧嘩』って事にかなり敏感なのは認めますけどね」
「何?もっと自慢していーよ。なっちゃんが気軽に構っていられる、世界でタダ一人の男の子なのに」
 明美は年の割には無邪気な顔で、今度はにっこりと笑みを浮かべた。
 何となくその笑みが、酷く羨ましくて思わず彼は顔をしかめた。
「そう……かも。明美さん、何を嬉しそうに笑ってるんですか」
「だってわたしはキミの事が好きだもん。こんなかーいい弟、欲しいなって思ってたんだし」
 既に決定事項らしい。
「それにやっぱり筋よかったじゃない。もう少し本格的にやろうよ」
「それは考えておくけど。…勘弁してください」
 彼の答えに、明美は声を出して笑った。
――弟
 ふと治樹の事を思い出す。
 確かに彼の位置に近いとは思っている。
 それだけではないのは確かだが。
「ミノルくん?先刻の話、一応内緒だからね。なっちゃんの事大切にしたいならね」
 少しだけ強い眼光を彼に向けて、小さく頷いて答えた。


 予定。
 ふと気がついたように彼女は顔を上げた。
 穹が既に紅い色に染まっている。
 こんな風に見上げる時は決まって、ぽっかりと大きく穴が空いてしまったような感じがする。
――いつからだろう
 それを思い出す事はできない。
 多分こうなる事は既に記憶とは違っていたから――そのギャップからだろうか。
 『生きる』という意味の純粋な不安、それが、突然穹を大きく感じさせた。

  人生に意味のある事なんかない――そんな考えが終止符を打った

 常に、何かで定められた一本の道のりというのが人生であると考えていた。
 良く使われる言葉で、『運命』というものに従うことが必要なんだと思っていた。
 多分。
 でも殆どの事象は何の歪みもなく予定通りに佇んでいる。
 その僅かな違いは、一体なんだろうかと考えるようになった。
 いや――そんな、僅かな違いこそ求めなければならないものなんだろうと、強く感じる。
――だから今、積極的に『生きて』いられる
 人間が生きるということはどういう事だろうか。
 結局世界というのは個人個人別に存在し、彼らの周囲というのはその選択の結果が生み出したものではないだろうか。
『玲巳、お前は何を見ている』
 彼女の師は、いつもそう語りかけてきた。
 でもそれも、彼女の選択によって生み出された外部の要因の一つだった。
 彼に意志がなかった訳ではない。
 彼女の選択に最も適したバランスの世界の中の『師』の一部だ。
 そして少なくとも師は、彼女にそう教えた。
 彼女にとって教えを請うというのは、思い出すための作業の一つに過ぎない。
 思い出す事で彼女の知識として定着してしまう。
 だから、彼女は覚えるという手段を行使する必要すらない。
 自分が覚えているはずの事を思い出すだけなのだから。
 だから彼女は自分の意志で事象に関わるつもりはなかった。
 関わる事もできなかった。
 だから。
 だから今のこの――穹を見上げる不安が心地よい。
「次は――如月工業ね」
 彼女は先日の夢を思い出しながら、暮れていく穹から視線を逸らした。
 次に世界の調和とは違う、事象がそこにある事を信じて。


◇次回予告

  一本の電話は、冬実のものだった。
  脅える冬実と起きた事件との接点に、再び玲巳が姿を見せる。
  「そう、これはあなたの世界なのね」
  彼女の求める事象の差異は、次に出会うはずの少年と――

 Holocaust Chapter 4: 玲巳 第7話

 くくっくく……丁度、良い時間に良い具合に材料が手に入りそうだ
                                            穹を識る者

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