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Holocaust ――The borders――
Intermission

Lie   第2話


「何してるの」
 大学のサークル、高校、中学時代のアルバムを彼は押入の奥深くから取り出した。
「……お前の言い方だと、俺はお前と会っているはずなんだろ」
 新しい物から順に、彼は掲載されている名簿を追った。
 もし引っ越しでどこかに行ったのであれば、記憶にも残っているはずだろう。
 でもそんな印象もない。
 とりあえず片っ端から当たるしかないかも知れない。
 嵜山なんて変わった漢字でも、本当に忘れているのだろうか。
 鴻池、坂上、佐々木、佐藤……
 だがどのアルバムの名簿を見ても、彼女の名前は見当たらない。
 試しにひらがなの名前を探してみても――あくまで念のためだ――勿論、嘲るかのように見当たらない。
「へえ、これ、サトルだよねー」
「こらっ」
 人が真面目に、と言葉を紡ぎかけて言い淀む。
――こいつは、どこまで本気なのか
 そしてついと目を細める。
 彼女の態度も貌も、どれだけ信じて良いのだろうか。
「それよりさっさと風呂に入れ。邪魔だろ」
 ちぇ、とあからさまに舌打ちし、彼女は渋々立ち上がる。
「かたづかないもんねー……それに」
 じろ、と彼を見据える。
「調べ物してたら覗けないしねー」
「黙ってろ、男の癖に」
 まるでガラスが割れる音を聞いたように、彼女は全身を震わせて堅くなった。
 見る見るうちに吊り上がっていく眉。
 わなわなと体を震わせると――あれは多分怒りのためだろうが――顔を赤く染めていく。
「こんのばかっっ!」
 叫んでどたどたと風呂場へ消えていく
 ぴしゃりというドアの閉じる音すら、彼女の怒りを表現していた。
 だから。
――………まずい事言ったのかな
 あの怒り方は、馬鹿にされた時の女性特有の物だ。
――違うんだよな
 彼は、水音を立て始める風呂場から視線を逸らせて、アルバムを手に取った。
 結果。
 半時間の調べ物は、徒労に終わった。
 記憶から半分以上消え去っていた高校時代のアルバムを眺めても、彼女の姿はない。
――それ以外となると…
 向こうが一方的に知っているのか。
 どこかの街で、顔を見ただけとか。
 彼は実働しない事務員なので、聞き込みや張り込みで会う事はないはずだ。
「やめた」
 頭が痛くなってきて、彼はアルバムを放り投げた。
 そもそも何に拘っていたのだろうと天井を仰いで、そのままの体勢で背中をソファに落とす。
 ぽす、と軽い音が聞こえて、彼は身体から力を抜いた。
――別に、今という時間が続くならそれで良いような気もするのに
 何故それを否定しようとして努力しなければならないのか。

  とんとんとん

 風呂場から足音が聞こえた。
「風呂、空いたぞ、この馬鹿」
「馬鹿はよけっ…」
 言って半身を起こしてその体勢で固まる。
 に、と口元を歪めて笑う彼女は、バスタオル一枚だけ身体に巻き付けていた。
「へっへっへ」
 呆気にとられている暁に、不気味な笑い声を聞かせると勝ち誇ったように言う。
「見とれてる暇あったらさっさと風呂、はいんなさいよ。え?」


 その日、奇妙な夢を見た。
 どこか知れない場所で、自分は横たわっている。
 まるで悪い夢でも見ているように、全身が汗ばんでいる。
 周囲は暗く、ぼそぼそというか細い声が周囲に漂っている。
 もう止めどもなく。
 理由も前後の脈絡もなく、会話が成されている。
 それは会話として成立しないような一方的な言葉の羅列。
 理解しようと口を開こうとして――


 目覚めは最悪だった。
 夢の気怠さもあるが、何よりも不自然な静寂に眉を寄せて、顔をしかめる。
「…みらいー」
 返事がない。
 身体を起こして、反対側に仕切って寝ているはずの彼女の姿を探す。
――?
 仕切がない。
 寝ていても寝てなくても、普段から自分のベッドのある場所は仕切で部屋のように作っている。
 仕切を片づけることはなかったから、奇妙に思った彼はベッドから降りてみる。
 朝食の匂いがしない。
 朝の薫りがない。
「みらいー。いないのかー?」
 昨晩寝る時に見た彼女の場所には、綺麗さっぱり何もなかった。
 勿論荷物も、彼女が残すだろうもの――置き手紙すらそこにはない。
 掃除をしたふうでもないのに、まるで初めから何もなかったかのように人がいた形跡がない。
――まさか
 昨晩寝る前まで彼女と話をした。
 他愛のないいつもの話。
 彼女はいつもと変わりなく、変な所もなかった。

  なにも 変わらなかった時と同じ

――夢から目が覚めた……のか?
 彼は慌てて自分の荷物の中に入れておいた、あのコピーを取り出す。
 「嵜山未来」の書類は、やはりまだ残っていた。
――みらい
 まだ何も思い出していない。
 まだ何も思い出させていない。
 彼女の失われた記憶の中で、自分が一体どんな人間として映っていたのか、確かめていない。
 何より――何故、そんな彼女の事を覚えていないのか――

『今僕がいなくなったら、キミは当分まともな食事にありつけないだろーし、お金は減るし。いいことなしじゃん』

――ああ、いいことなんかない
 鮮明に思い出せる彼女の言葉。
 我慢、出来ない。
 暁は自分がこんなにも堪え性がなく、言う事を聞かないものだとは思っていなかった。
 今までの日常が帰ってきたのに、半年の間の非日常の方が大切に思っているなんて。
 彼は信じられなかった。
 でも何より信じられないのは、彼女が今ここにいないという現実。
――嘘だ
 彼女がここを出ていく理由が思いつかない。
 彼女が証拠も残さず消える理由なんかない。
 彼女の持ち物らしい物は一つも残っていない。
 でも、彼女には住所もない。
 彼女にはこの辺りにデータを持たない。
 本当に、彼女は一人きりのはずだ。
――どうして
 足が動く。
 手が求める。
 迷うことなく彼はふらふらと外に飛び出していた。
 会社に行かなきゃならないと、理性の一部がそれを止めようとする。
 でも身体は言う事を聞かない。
 まるでそうまるで、取り憑かれたような気分。
 自分とは違う物がそこにいて、それに向かって訴えているような。
「みらい」
 口はまともに意味のある言葉を紡がず。
 足はふらふらと意味もなく彷徨し。
 手は漂うように何かを求め。
 目は他の何も求めず――映さず。
「みらい」
 彼は街を、彼女を求めるように歩き続けた。
 数時間も歩き続けただろうか。

  どん

「こら、お前、どこを見て歩いている」
 突き飛ばされて、腰を強かに打ち付ける。
 痛みにやっと正気に返ったのか、暁は顔を上げた。
 二人組の男。
 一人は紫色のスーツに、金色の金属をちらつかせている男。
 品のないシャツに、歪められた口元は真っ当な生き方をしている人間じゃない事を主張する。
「あーあぁ、見ろよ、新調したばっかりのスーツをこんなに汚しやがって」
 後ろに控えている男も、派手さはないが妙にぴりぴりした獣のような気配を漂わせている。
「……」
 紫のスーツの男が指さす部分は、確かに染みのような痕がある。
 でもまるで、濡れているだけのようにも見える。
「ほら、ぼぉっとしてないでっ、こらっ」
 暁は弾けるようにして地面から立ち上がり、一気に背を向けて走り始めた。
――何を言っても無駄だから、逃げるに限る
 怒声を上げて、スーツ姿の二人組が追ってくるのが判った。
 前も見ずに路地に走り込んだせいか、そこは見覚えのない場所だった。
 それまでどこを歩いていたのかも判らなかったから、当然かも知れない。
 もつれるような足取りで、見覚えのない路地を駆け抜けながら。
 彼は、今何故走っているのか判らなかった。
 どうやって逃げようか、どこに逃げようか算段する余裕はあるが、自分の今いる位置が判らない。

  激痛

 唐突に意志とは違う方向へ、真上へ流れていく風景。
 同時に近づいてくる地面。
 遅れて、左足に伝わる――冷たい、余りに冷たい感覚。
 視界が暗くなると同時、初めて彼はそこで倒れた事に気がついた。
 頭の混乱をそのままに、彼はさらに半回転、身体を捻るようにして地面を転がる。
 逆さまの世界に、頭上から近づくやくざ者。
 にやりと笑みを湛え、右手に見慣れない黒い金属塊を握りしめた男が、にやにやと近づいてくる。
「よぉ」
 そして、冗談みたいに大きなそれを彼の額に突きつける。
「人生やり直そうぜぇ」
 引き金を、

  ひいた。

 多分、本来ならそこで意識毎死の世界へと導かれている事だろう。
 暁は必死だった。
 銃口と、引き金にかけられた指先が見えた時、死にたくないと思った。
 同時にそんなはずはないとも思った。
 だから、それに合わせて身体が動いた。
 まるで巻き付けるようにして左腕が動き、右手で銃身を左へと押した。
 死が撒き散らされる前に、背中が浮いた。
 衝撃と、リコイルで彼の身体が引き上がり、下半身を引きずるようにして。
 そこからの動きは彼には多分記憶がないだろう。
 彼はそのまま身体を丸めるようにして、両足を畳み込む。

  めきり、という嫌な音

 腕をねじり上げたままヤクザを引っ張って、丁度一本背負いの格好で――アスファルトに、叩き付けた。
 いつの間にか、入れ替わるように立ち上がっていた。
――痛っ
 そして、左足の激痛に転がりながら、銃を奪いもう一人の方に振り向く。
 馬鹿でかい銃を突きつけられた男は眉を動かしただけで、それ以上なんの反応もなかった。
「……撃ってみるか?」
「う、う、五月蠅い」
 ずい、と男が一歩踏み込む。
 暁は焦って――撃たないと思わせたくない、近づいて欲しくない、逃げたい――引き金を引いた。
 引いてから躊躇した。
 跳ね上がる銃身を両腕で感じながら、今更ながら懼れた。
 自分のした行為に対して。
 きーんと耳を聾する音に顔をしかめ、その衝撃が両肩を痛める。
――殺した
 人を殺した。
 こんな近距離で撃たれれば、こんな大きな銃ならば、間違いなく死ぬ。
 こんな激しい銃弾であれば、喩え防弾チョッキを着ていても耐えられない。
 まだ煙を吐く銃口を恐る恐る降ろして、自分の銃弾が抉ったモノを確かめようとした。
――!
 そして。
 それを見た。
――な、なんだ…これは…
 想像の中では、男は血を吹いてふらふらしているか、倒れているかだった。
 だが、そこに有ったのはそんなものではなく、ただ上半身のない人間のようなものだった。
 血を一滴も漏らさずに、まるで蝋人形をえぐり取ったようなそんなイメージ。
 驚いて地面を――先刻自分を抉りかけた銃弾の在処を探して、もう一度絶句する。
 すり鉢のような後があった。
 男の切断面のように、滑らかで不透明の痕。
 銃弾が地面を抉ったとは明らかに違う――
――どうして
 自分の左足も恐る恐る眺めて見て、臑を抉り抜いた弾痕がそれらと全く同じという事を確かめる。
 指で触れてみる。
 痛みはない。触れても、その感触はまさに蝋。
 そして、撃ち貫いた服の断面も、まるで初めから同じモノであったようにくっついてしまっている。
――…っっ
 ズボンを離そうとしてちりちりと肌が引きつるのを感じる。
 まるで肌に張り付いたガムテープを強引に剥がすような感じで、少しだけ奇妙な感じがした。
 視線を移す。
 自分の握りしめた銃は静かに、手の中であるにも関わらずも冷たく冷え切っている。
――な、何だこれは…
 よく見れば、銃にしては恐ろしく巨大な代物だ。
 『ハンドキャノン』――デザートイーグルに与えられた呼称を与えるべき代物。
 重さはそれほどではないが、サブマシンガンを一回り大きくしたような印象を与える程のサイズだ。
 全体的に丸みを帯びた、鋭い銃身と鉄板を張り合わせたような無骨さが入り交じる、きわどい代物。
 銃口は親指を悠々と飲み込み、ライフリングを持たない。
 どこをどうさわっていいものか――そう思っても、引き金とそれにかかる安全装置以外の全てはまるで組み立て式のおもちゃのようで。
 暁は困惑した。
「これは――なんだ」
 そしてこの馬鹿げた状況は一体何なんだ。
 何一つ説明できないまま、彼はそれを懐にしまうと――捨てておくのは憚られた――壁を使って立ち上がる。
 這い上がるようにして立つと、ほとんど役に立たない左足を引きずるようにして、彼は――他に行き場がないから――家に向かった。

 一体何があったんだろう。
 昨日と何が違うんだろう。
 素直に会社に行けば、元通りの人生が待っているんだろうか。
 そう言えば携帯電話はどうしたんだろう。
 何故みらいは近くにいないんだろう。
 俺はどこにいるんだろう。
 暁の頭を過ぎる思いをまるで虚仮にするように、道の向こう――まっすぐ、曲がり角すら存在しない向こう側に、彼女がいた。
「みらい――」
 表情は見えない。
 いつも来ていたTシャツにハーフパンツの格好で、こちらを見つめてじっと立っている。
「サトル」
 声が、何とか届いた。
 小さな、多分呟いたような声なんだろう、周りが静かでなければ気がつかなかっただろう。

  かちり。
  金属音がして、暗闇は矩形に切り取られた。

 ヴィジョンが浮かぶ。何の風景なのか、現実に視界に切り込むようにして開く。

  扉が開いたらしい。

――くっ、何だっ

 「結局ここまできたの」
  言葉が聞こえた。
  明るい言葉――安心しきった、暖かい口調。

  どこかで聞いたことがある声。

 それが自分の見つめる彼女の姿と何故かだぶる。

  荒い息をつき、肩が上下するたびに痛みが走る。
 ――草臥れた
  そんな、生きることに対して真後ろを向いた気分と。
 ――殺してやる
  誰かが生きることすら否定しようとする冥い衝動が。
 「…そのようすだと、皆殺しね」
  声を掛けてくるのは真正面。
  今くりぬいた光の中に見える――少し遠い。
  人影と言うよりもそれは人形のように華奢でしなやかで、脆い。
  荒い息と上下する視界、やがてずるずると脚を引きずるように彼女の姿が近づいてくる。
  右手に力がこもる。
  視線を落とすことはないが、この重さは良く知っている重さだ。

   頭の中で 自動的にそれを認識する

  彼女の言葉はなのに妙に落ち着いているような気がした。
  その声を聞いていると、理性が無闇に苛立たしくなる――感情は逆に落ち着こうと必死になっている。

 彼女は誰だ?――何故そんなことを聞く。

  お前は誰だ?――聞くまでもないだろう。

 ならここは――今俺が見ているこの映像は何だ?
 現実に近づく彼女の姿が、今垣間見えるこの幻像と重なりながら記憶を浸食していく。
「くっっ、みらい、お前は一体っ…」

  彼女が笑う。
  口元しか見えないのに、その笑みはまるで、天使が居るのならこんな笑みを浮かべるだろうと――
  あまりに幼く感じられる無邪気な笑みに、明らかに苛立ちが増す。
  逆に彼女に対する――先刻まで抱いていたはずの殺意が消える。
 「…この私を殺したいんでしょう?」
  そのとおりだ。

 いや――この幻像を『見ている自分』は、今ここで彼女を見つめる自分ではない。
「サトル、その銃――」

  脚を止めることなく進みながら、そう思う。
 「まさか初めから捨てられると思っていた?」
  そのつもりで創ったのだろう?
  わざわざ俺というイレギュラーな存在を。
 「違うから、裏切られたと思ったんだよね?」
  違う――それだけははっきり言える。
  俺が今抱いている殺意は――

   コノ サツイ ハ モット シズカナ ナニカ

 貌を判別できる程近づいて、やっと気がついた。
 そこまで見せつけられなければ、落ち着かない程彼は左足の無感覚に苛まされていた。
 まるでモノを引きずっているようなそんな感覚。
 戻ってこない感覚は、まさに足先が石で出来た偽物のようにも思えて。
「見つけたんだね」
「みらい、お前――」
 彼女は動こうとしていない。
「思い出したかな?その銃を手に入れたって事は」
 大きく両腕を開いて、寂しそうな笑みを湛えて。
 一瞬だけ戸惑う――彼女が、銃の事を知っているということに。
 サトルは首を振る。
「思い出せない。そもそも――この銃って、何なんだよ」
 多分青ざめているだろう。
 自分の貌を、思いながら。
――一体、これは
 非現実的すぎる。
「君の一部と言うべきものだよ。僕の事も忘れてるんだから、覚えてる訳ないのかもしれないけどね」
 彼女が笑みを浮かべた。
 背筋が凍るような凄惨な笑みを。
 今まで彼女に抱いていた感情のようなものが全て崩壊する。
「嫌でも思い出すよ。――その銃で、この僕を撃ち抜けばね」
 みらいは足を踏み出した。
 一歩、それはたった一歩、でも確実な一歩だった。
「さあ?撃てないかなぁ?」
 まるでからかうように口元を大きく吊り上げて、彼女は両腕を開いた。


◇次回予告

  「キミも嘘、僕も嘘、この世界も嘘、全てが嘘なんだよ」
  みらいの口から語られる言葉。
  そして歪む世界の中に、その理由を見いだそうとする。
  「帰ってきた?」

 Holocaust Intermission:lie 第3話

 仕方ないでしょう。やはり一度不確定の存在になったものを呼び戻す事など、難しいのだから
                                            識ると、言う事を知る

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