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Holocaust ――The borders――
Intermission

Lie   第1話


 嘘。
 それは、人を信用させておいて貶める為に嫌悪感を抱かせる。
 すなわち、使った人間に対しての悪意としてそれは現れる。
 しかしどうだろう。
 『嘘』というものは『正しくない物』。
 では正しい物とは?
 言葉が伝わるその瞬間に、『誰か他人が提示した言葉』を『正しく解釈しなかった』のか?
 言葉を伝えようとする努力を怠ったのか?
 それとも、意識せずただすれ違っただけなのか?
 意識させて悪意をもってすれ違ったのか?

 この世の全ては嘘で出来上がっているのであれば、この世から嘘は消えてなくなる。

 そもそも、『正しい』という認識があくまで『認識』でしかない限り、それは論理的に存在できない。
 非論理的な構造を持つのであれば、それは物理学では認識されない。
 すなわち――『正しいもの』が存在できる場合、それは非物理学的であり。
 すなわち全てにおいて正しい『神』というものは物理学を越え、論理を超える。
 彼を存在させようとして物理学は歪み、論理的に『正しくない』状況を存在できるように――すなわち『正しく』変容させてしまう。

 だから――正しさなんか求めてはいけないんだ。

 嘘にまみれ、嘘に埋もれ、嘘のなかで――嘘を吐く。
 でも、本当にそれは嘘なのだろうか――

「どうしたんだよ」
 ある土砂降りの日の朝、彼女と出会った。
 彼女は寒空の中、傘も差さずにそこに突っ立っていた。
 言葉遣いは乱暴で、喋る言葉も男と変わらないが、確かめた事はない。
 ただいつの間にか同居していた。
「五月蠅ぇ、朝から怒鳴るな」
 子供みたいな甲高い声で、ふてくされたような態度を取る彼女の名は、嵜山(さきやま)みらい。
「何だとこら、人が朝飯作ってやった上にこれから出勤するって言うのに」
 奇妙な話だった。
 あの日、頭から水をかぶったような彼女を助けるつもりはなかった。
 かといって、彼女に手を出すつもりもなかった。
 それでも彼女が玄関に突っ立っているとこちらも迷惑だ。
 びしゃびしゃで、いつからそんなところで立ちつくしているのか――もう地面も濡れそぼっていて判らなかったが。
 ただ言えるのは、それは出会いでも始まりでもなく、終末を意味していたという事実。
 たった一つの真実に直面している、と言うことだろうか。
 俺は、彼女を怨むべきなんだろうか。


Intermission : Lie


 嵜山みらい。
 もう同居(同棲に非ず)を初めて半年、当たり前のようにすぐ側にいる。
 御堂暁(みどうさとる)にとっては非常に迷惑な話だった。
「……そりゃ、悪かったよ」
 それでも金銭面では逆に助けられているところもあり、彼女を追い出す気にもなれずずるずると生活を続けている。
 彼女は朝、食事を作って出勤する。
 給料は『食費と家賃』と称して暁に渡す。
 そのくせ、しっかり家事をこなして食費を抑えてくれるので――考えれば餌付けされているような気さえする。
 暁はとある興信所の社員だ。
 だから、彼女の名前から身元を洗ったこともある。
 元々警察との繋がりの強い興信所のような場所では犯罪歴のある人間から洗う方が早い。
 そう言った調べ物の方が楽だから、というのもあったのだが、彼女の身元ははっきりしなかった。
 少なくとも生活圏内では、彼女という存在を認めるものはどこにもなかったのだ。
――そんなはずはない
 犯罪歴のない人間まで考慮したとしても、『嵜山みらい』という人物は存在しないのだ。
 日本全国に手を回すとなると――もう不可能に近い。
――かと言ってもなぁ
「ほーら、ちゃっちゃと食べるっ」
 みそ汁のいい匂いと、焼き魚の香りに誘われるようにベッドから彼は身体を起こした。
 ロビー兼客間兼食堂になる卓に、向かい合わせにきちんと食事が並べられている。
 みそ汁に塩鯖の切り身、小鉢に入った沢庵漬けとほうれん草のお浸し。
 日本人の為の朝食の風景。
 慣れた風に席について、箸を取る。
 向かいにつく彼女は、両手を一度合わせて拝むと箸を取って、ふと気づいたように顔を上げる。
「………なに。魚が死んだような顔をして」
 呟いてからお浸しにしょうゆをかける。
「お前、まだ記憶が戻らないのな」
 彼の言葉にまるで他人のことのように小刻みに首を縦に振り、目を丸くしながら一口ご飯を口に入れる。
 しばらく無言で、彼女は黙々と食事を続ける。
「早く食べなよ」
「答えてからな」
 む、と眉を寄せて困った表情を浮かべる。
 こういう表情はただの子供にしか見えない。
「人が気にしてる事を。仕方ないでしょーが、戻らない記憶をぐだぐだ言うな」
「って、半分ぐらい他人事なのな、お前。自分の事なのに」
「まぁね」
 答えながらみらいは、むぐむぐとご飯を口に放り込む。
「…それとも、何か戻ったら良い事でもあるのか?」
「だから何故俺に聞く」
「今僕がいなくなったら、キミは当分まともな食事にありつけないだろーし、お金は減るし。いいことなしじゃん」
 だからきーてんの、と右手の人差し指を器用に突きつける。
 勿論、箸は動いて塩鯖の切り身をほぐしている。
 返事を待つ間にも口に入れるつもりだろう。
「俺の事はいい。お前は……」
 それでいいのか、と言いかけてやめる。
 何だか話していて不毛な気がしたからだ。
 そもそも、こんな話をしたのはこれが初めてではない。
 ただ彼が興信所に勤めているせいで、直接聞かずに自分の仕事の合間に情報網を利用してしまったのだ。
 そのせいで、大きく遠回りになった。
 だがそれについては彼は決して後悔していなかった、つい先刻まで。
――馬鹿馬鹿しい
 多少は狼狽えたものの、この忌々しい小娘は自分の記憶喪失に関して気にしていない風を装う。
――こんなことならさっさと聞いておけば良かった
 ため息をついて彼は塩鯖に箸を伸ばした。
 一瞬みらいは目を丸くして彼を見つめたが、もう忘れたように朝食を続ける。
 彼女の言い分は確かだが、普通は自分の同一性に不安を覚える物だ。
 いかに曖昧であろうと、人間というのは自分の記憶を頼りに生きているのだから。

 その時彼女は彼を見上げていた。
 それまで激しく耳朶を打っていた雨音が全てかき消え、やがて同時に背景が無色の世界にとけ込んでいく。
 他の何も見えなくなる。
 他の何も聞こえなくなる。
 滲む色のない世界に、二人だけ。
 沈黙と静寂が、雫を冷たくさらしていく。
「入るか?」
 彼女の前髪の前を、髪を伝う雨の滴がよぎっていく。
 それでも彼女の視線を揺らす事はなくて。
 目を閉じて小さく頷いた。
 優しい沈黙。
 何を問えば良いだろう。
 まず、どうすればいいんだろう。
 暁はただ黙ってタオルを差し出して、風呂の準備だけを考えていた。

――どうしてまず怪しいと思わなかったんだろう
 それ以前に、彼女の事を思い出そうともせずに家に連れ込んだ。
 今考えても自分の行動を正当化する為の理由は思いつかない。
 そんなものだ――と、みそ汁を飲みきって思う。
「ごちそーさんっ」
 彼の目の前で朝食を平らげた彼女が、嬉しそうに両手を重ねて言う。
「ほらほら、急がないと時間ないよ」
 ちゃかちゃかと、まるでねじで回したように彼女は自分の食べた食器を片づけ始める。
――まあ、こう言うのもありなのかもな
 自分の出勤時間もない。
 彼は考えるのをやめて、ご飯の残りをお茶で流し込んだ。

 興信所の仕事と言っても、年がら年中警察やのぞきの真似事をやっている訳ではない。
 探偵というと聞こえが良いが、警察の許可を得た法に触れない程度の情報収集屋というのは所詮『のぞき屋』。
 実働している人間の良心が問われるとはいえ、余程の事がない限り保守義務を守らない人間はいない。
 それは大抵が離婚、不倫に関わる人の汚い部分だからだ。
 そしてそう言う物を法律――もっと極端な言い方をすると書類一枚、ただの紙切れでがんじがらめにしている現実を知る必要があるから。
 だから、有る人間は不信感から。
 有る人間は、わざわざ言葉にもしたくないから。
 それらの不快感がこそ、保守義務を守らせる所以なのかも知れない。
 さらに法律の知識がないと成り立たないだけに、様々な書類上の手続きを行う。
 警察とのやりとりがほとんどだから、警官とのパイプも持っている場合が多い。
 もっとも暁の場合はそう言った『興信所』のオーナーに雇われている事務員なので、深くは関わっていない。
 せいぜい自分の為にちょっとおこぼれに預かる程度のものだ。
 今日だって、実際に会社でやっているのはある依頼の為の、法的な手続きのための書類作成だった。
 いつもの仕事、ルーチンワーク。
 なんの躊躇いもなくただ淡々と続く仕事をこなすだけ。
「?」
 だから、そんなことはあり得ないはずだった。
 見覚えのある物を見つけて、ふとその書類を手に取った。
――これは
 書類そのものには問題はない。
 とある依頼、それは彼が最も良く見かける依頼、人捜しの依頼だ。
 依頼そのものではないが、調査報告の一部らしいそれはA4サイズで数枚の綴りの一部らしい。
 ページ数がうっているが、バラバラになってしまっていて初めの方の数ページは散逸してしまっている。
――嵜山未来?
 依頼目標は岸さより、押しも押されぬ大企業岸電子の社長令嬢である。
 調査中発見された時に同い年ぐらいの少年と一緒だったという。
 写真や尾行から少年の身元は判明していて、写真とともにプロフィールが印刷されている。
 高校を中退し、現在フリーターとして職を転々としているらしい。
 未来。写真は確かに彼女――少年、と言われれば確かにそう見える――だ。
 暁は眉を寄せ、睨むようにその写真を見つめる。
――なるほど、童顔な訳だ
 写真の下に小さく但し書きがある。
 『※高校時』
 高校生で男女の差違を見間違う事はまずない。
 だが写真の顔はどう見ても中学生位にしか見えないだろう。
 それでも腑に落ちない。彼女――みらいとうり二つの、しかも同じ名前で――
 普通この手の調査書はコピーを取ってはいけない決まりになっている。
――でも間違ってコピー機に束にして入れて、すぐにシュレッダーに放り込む事もある。
  たまたまそれが、自宅へ仕事を持って帰った時に混じっていても、おかしいことじゃない
 暁は目をついっと細め、白紙の様式を束ねた中にプロフィールを挟み込む。
 そして何喰わぬ顔で原稿用ホルダーにそれをおいた。

 電車が揺れるたび、足下が心許なくなる。
 窓を流れていく夜景を眺める余裕すらなく、暁は足下を見つめている。
 嵜山未来という少年は、決して犯罪者ではない。
 岸さゆりという少女(彼女のプロフィールは今手元にはない)と、何らかの関係が有るのは確かだろう。
 しかし報告書と、彼が作成した書類を考えれば――まだ、彼女は行方不明だ。
 それどころか「嵜山未来」なる少年も、同時に見失われている。
 不自然な話だが、二人一緒の写真まで撮られているにも関わらず、彼らがどこで生活しているかを突き止められていないのだろう。
 いらいら、する。
 脳裏にちらつく雨に濡れた彼女の姿。
――関係ない
 それにどう見ても『彼女』だ。
 だが今の性転換手術の技術は、美容整形を含めてほぼ完全に女性化することもできる。
――絶対に……違うと言いきれるのか?
 一瞬彼女を剥く絵を想像してしまって、彼は慌てて頭を振った。
 正体不明なのは変わらないのだがら――
――くそっ
 一緒に住んでいるのは女性、という完全に抜けていた感覚が、突然降ってわいたように襲いかかってくる。
 一度気になり始めるとまるで病気のようにそれが思考の端に引っかかってしまう。
 彼女のむくれた貌。
 いつもの笑った貌。
 哀しそうなあの貌。
 そして見た事のない怒った貌を――見たくなる。
――やめろやめろ、何考えてるんだ
 でも今家に帰って彼女がいたら自分がどうなるか判らない。
 頭を冷やさないといけないと思った彼は、本来降りる駅の隣で降りる事にした。
 家まで帰るには少し遠いが、歩いて頭を冷やすには丁度良いだろう。
 定期を見せて改札をくぐると、幾つもの小さな飲み屋が目に付く。
 典型的な繁華街――駅周囲には数多くの店がある。
 繁盛しているのかいないのか、人通りはあまりなく、代わりに車が何台も行き来している。
 きちんと整備された歩道を歩きながら、そんな人の流れを眺める。
 どこか投げやりな笑み。
 力のない、無感情な貌。
 無理矢理狭い道を、強引な速度で走り抜ける車。
 みんながみんなどこかに溜めたものを吐き捨てているように見えて、彼は眉を歪めてため息をついた。
 吐き捨てるだけ捨てて、彼らはどうするつもりだろうか。
 何となくこの場所が汚らしく思えて、急に家に帰りたくなる。
――矛盾してるな
 帰りたくなくてわざと一つ手前で降りたというのに、逆に帰りたくなるなんて。
 自嘲に口を歪めて一呼吸。
――俺、あいつの事が好きなのかな
 そうじゃないと否定する自分がいる。
 自然、あまりにそこにいる事が自然すぎて、あまりに自然だからおかしいんだろうか。
 唐突に彼女がいなくなったとして、その時自分はまともにいられるんだろうか。
――実際にいなくならないと判らないな
 でも、その時は遅すぎる。
 帰ってくると判って消えるのと、そうでないのとでは――
 そこまで考えた時、自宅が見えた。
 彼のような独身で住むには少し広いアパートの三階が彼の家だ。
――え?
 暗い窓。
 見慣れた光景なのに、彼はどきりとした。
 彼女が消える事を考えていたせいだと自分に言い聞かせながら、ポケットから鍵を出す。
 暗いだけじゃない。
 何故か鍵穴に鍵が入らなくて、焦って余計鍵ががちゃがちゃと音を立てる。

  こつ こつ こつ…

「あや?おかえり、暁」
 硬質な近づいてくる靴音と、相変わらず丸い声でそう呼びかけてきたのは、みらいだった。
「いっやー、久々に夜泣き蕎麦見つけたらから、思わず買って来ちゃったよ」
 と言いながら両手にポリエチレンのどんぶりを抱えている。
「……幾つか、聞いても良いか?」
 盛大に?マークを飛ばす彼女に、暁は言った。
「お前、俺が帰ってこなかったなら、それどうするつもりだった」

 みらいからラーメンを受け取ると、そのまま適当に腰掛けて食べ始める。
 家が目の前なんだから――でも彼女も倣って隣に座る。
「お前これからどうするつもりなんだ」
 何度も聞いた問い、何度か交わした繰り返し。
 みらいの答えはいつも同じ。
 『どうでもいいじゃないか――僕はキミの役に立ってるんだから』
 果たしてそれで良いんだろうか。
「んー。風呂入って寝る。今日の仕事はきつかったから」
 彼女は彼のコネで仕事に就いている。
 子供っぽい外見だが、コンビニの店員には丁度良いらしい。
 真面目に通っているので信頼もされているという。
「誰もそんな事を聞いてないだろ」
 不機嫌そうな暁の声を聞いても顔色を変えない。
 次の言葉は、彼女の予想の範疇だからか、それとも何も考えていないのか。
「そうだね」
 だから、それだけ答えるとずるずるとラーメンを啜った。
 シナチクとネギだけが入った、いかにも安っぽいラーメン。
 麺のこしとスープの味を思うと、このプラスチックの容器のチープさが妙にアンバランスに感じる。
「でも、わかんないよ。…僕の事調べても、何もなかったでしょ」
「……知ってるのか?」
 目を薄く閉じ、ゆっくりと頷くと食べ終わったラーメンの容器を足下に置く。
「僕だってバカじゃない。自分の記録がないか探してみたんだよ。…でもね、なんにもないよ」
 覚えていたのは名前だけ。
 何故名前だけなのかは、彼女も判らない。
 名前を頼りに行政機関に通ってみたが――勿論収穫などない。
「気がついたらここに立ってた。どうして良いのか判らないから待ってたら、扉が開いてキミがいた」
「それより以前の記憶は、お前の名前だけ。……それだけだと、ホントに都合良く聞こえるけどな」
 はは、と寂しそうな笑い声がして、彼女は夜穹を見上げる。
 今日も雲もなく、星は瞬きもせずにそこに留まっている。
「もっと都合のいい冗談を言おうか?」
 いつの間にか、彼女の視線を追うようにして目を穹に向けていた暁は、悪戯を楽しむような彼女の声に首を向ける。
「サトル、僕は、キミを見た時、初めてじゃないと思った」
 わざわざ区切って、まるで強調するように、焦らすようにそう言った。
 にこにこと笑う彼女の貌に冗談の気配が漂う。
「――お前、バカか」
「なんで僕を覚えていないの?」
 それが、一転して崩れた。
 彼女の話し方には真剣さが足りない。
 と、感じていた暁はそれを改めなければならなかった。
 同じ調子で言った言葉に、彼女は一瞬で笑顔を崩してしまっていた。
 自分の言葉に自分で傷ついたように。
「ごめん」
 そして、そう言うと再び笑みを浮かべた。
「――押しつけ、みたいな言い方になるもんね、これじゃ」
 暁はふいっと顔を背けて、食べ終わったラーメンの汁を排水溝に流す。
「なんだよ。…でも何かの間違いだろ?俺は、お前の事なんか…覚えて、いない」
「だよね」
 乾いた笑い。
 暁は僅かに首を振って、どんぶりを置くと大きく伸びをする。
「帰ろっか」
 隣で立ち上がる気配。
 それに合わせて彼も立ち上がった。

  なんで僕を覚えていないの?

 何となく話し掛けづらくなってしまい、彼はそれ以上何も聞かなかった。


◇次回予告

  「見とれてる暇あったらさっさと風呂、はいんなさいよ。え?」
  いつまでも続く日常。
  「人生やり直そうぜぇ」
  そして、訳の分からないままに砕けていく、日常。

 Holocaust Intermission:lie 第2話

 君の一部と言うべきものだよ。僕の事も忘れてるんだから、覚えてる訳ないのかもしれないけどね
                                            突然襲いかかってきた異常

      ―――――――――――――――――――――――


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