Holocaust ――The borders――
Chapter:1
実隆――Minoru―― 第7話
保健室は誰もいなかった。
誰の気配もしなかった。
だが、そのぐらいで実隆は落ち着こうとも思えなかった。
むしろここでは逆に落ち着かない。
臭いが――怖気の走る臭いがする。
不快な臭気と、空間に残留する気配は隠しようがない。
きりきりきり ちきり
声にならない悲鳴を上げて頭を抱え込む。
――耐えられない
扉を開いたままできびすを返して、彼は走り出した。
――どこだ
どこか落ち着ける場所。
それは何もなく、ただ彼だけがいられる場所。
そこに、 は絶対に来ない、いない所。
――どこ…
右手で顔を押さえ、頭を抱え込む。
ふと、まだ午前中の授業の最中であることに気がついた。
それなら間違いなく部室の付近は無人のはずだ。
中央の昇降口で靴を履き替えて、そのまま入り口と反対側の扉を抜ける。
一年と二年の教室が収まる校舎に挟まれた空間は、野球部の為のグランドになっている。
その狭い空間を、まるで隠れ住む者がこそこそと逃げるように、端を歩いていく。
人気のない球場は寂れていて、酷く自分が場違いなところにいるように錯覚する。
でも。
何故か、今は吐き気を催す程それがさわやかな気がした。
そのまま校舎を伝って敷地の奥へと向かう。
こちら側はあまり人気もないし、何より自然が多い。きっと青空を見つめていれば少しは楽になるはずだ。
その提案は異常なまでに彼の心に共感した。
今までにキャンプやアウトドアに興味がなかったと言えば嘘になる、が、特別好きな訳でもない。
だから不思議だった。
――こういう日もあるのかな
どうせ教室をでてしまったのだ。何処にいても同じ事。
彼は何故か気が楽になって、裏手側から草の絨毯になっているであろう小高い学校裏へと急ぐ。
校舎と、目指す坂の中程、小さな建物が並んでいる。
野球部の部室他――先日、菜都美と話をした体育館側とは反対側にある球技系クラブの部室だ。
講堂の方は学生も朝礼以外では式典がない限り使用しないので、この周囲ともなると、この時間は誰もいない。
いない――はずだ。
たばこの におい
だから、授業をさぼっている人間もここに集まりやすい。
その時の実隆はそれをすっかり失念していた。
何の気なしにその領域に足を踏み入れて、初めて気がつく。
粗野な声と、悲鳴のような声。
両方とも、子供の声――高校生の、男の声だ。
「んぁあ?チクってたのは判ってんだよ、お前がタレコミ屋だってこともな」
その声に背筋がびりびりとしびれた。
不用意に煙草の煙を吸い込んでしまう。
ますます脳髄が白く白くしろくしろくシロクシロク――
「ち、ちが…」
少年は数人の高校生に囲まれている。
どうやら一つか二つも違わないのかも知れない。
同じような格好をして、同じようにここにいるのだから、仲間かも知れない。
その、取り囲んでいるうちの一人が、こちらを指さして何か言った。
どくん
白い白い意識の情景に、一つの結論が映し出される。
その結論は何故か兇悪な、自らの紅い未来。
手を出すなと誰かの声が聞こえた気がした。
その未来から逃げなければならないと思った。
コロ――せ
取り巻きが、一人を残してみんなこちらを振り向いた。
ゆっくりと近づいてくる。
間違いなく――
ツギ ノ エモノ ハ オマエダ
見つかった。
言い知れない気配が彼の周囲を包み込む。
足が震える。
指先まで自分の内側から漏れる怖ろしさに満たされていく。
先程まであふれかかっていた感情は、その直後に堰を切った。
地面が踊る。
一瞬の視界の変化――先刻まで自分の遙か遠方、百メートルは向こう側にあったはずの景色が目の前にある。
驚きの視線が、彼の方へと向けられる。
気にしない。
気にならない。
そのまま恐怖の対象――人間へと右腕を振るう。
唯一背中を向けた、もっとも油断している愚かな存在へ。
勢いよく、思いっきり。
拳を打ち付ける瞬間、手首から肘、そして肩へと快哉が伝わっていく。
びくびくと筋肉が震え、その快感にたまらず左腕を全身で振り回す。
反時計回りに回転しようとしていた男は、倍以上の勢いで振りかぶられた拳に強引に弾かれる。
たとえようのない音がした。
拳から、今度は一気に後頭部、頭頂へと電撃が走ったような感じだった。
「は、はは、ははははははははははは」
だから思わず笑い声が零れた。
自然――肉体が呼んだ自然な笑い。
獣じみた、あまりに人間からかけ離れた狂気の笑い。
その声を聞きながら先程までの犠牲者は、自分を壁に押し当てていた男が冗談のように目の前で一回転するのを見た。
誰かが来た事は、周囲の奴らの動きで知ることはできたが、まさかいきなり全て無視して自分の目の前で何かが起こるとは思わなかった。
そして確かに聞いた――骨が、骨によって砕ける音を。
まるで横にぶれるかのように顔全体を引きずって、真横に回転しようとする男を。
へそのあたりを中心にして、まるでサーカスの見せ物のように、立ったまま身体が真横に一回転する。
何かの液体をまき散らしながら。
それが、のれんをかき分けるような絶対的な力で真横に弾かれてしまう。
多分死んだのかも知れない――あまりに極端にくの字に身体を曲げて、それは少年の右手へと転がって動かなくなった。
「はぁははははは、はっはっはっはっは」
彼の目の前にはその代わりに一人の、どうやら高校生らしい人間がいた。
どうやら、と言ったのは、その様子が尋常ではなかったから。
「やろっ」
彼の背中側に、今転がった地面に男の取り巻き連中がいる。
六人。全員が全員、武道系クラブをかじって止めた程度のだらしのない連中だ。
それが手にナイフを持ち、振り向いて襲いかかってくる。
まだ笑いながら背を向けている。
――危ない
とっさにそう思って彼は目を閉じて耳をふさいだ。
そして彼は思っていた。
少なくとも、今起きている出来事は、自分のために起きているんじゃないと。
――いつ殺されるか判らない
その事態だけは把握していた。
まるで扇風機のファンのように回転した男があまりに哀れで、おかしすぎて笑いを止められなかった。
か きぃん
多分それは金属を金属が弾く時の音。やけに鋭敏になった聴覚と感覚がそれを本能的に教えてくれる。
一、二、三…六。
地面とゴムが立てる靴音を確認して、彼は悠々と振り向く。
「ははは、ひゃはっ」
襲いかかってくる人間の動きはあまりに緩慢だった。
右手方からのびてくる、ナイフを持った腕を僅かに右の手刀で弾く。
ほんの一センチも軌道はずれなかった、のにそのナイフが目指していた彼の右肺には届かない。
ひゅん
瞬時に握り込まれた右拳は、さらなる快哉を求めて男の眼前へと滑り込んだ。
「はっ」
ご り
腕を捻り、骨をこじる音を拳で感じる。
同時に地面を蹴る。
左にいる男へと身体を滑らせるように。
彼は右腕のナイフを振りかぶっていた――愚かにも。
がら空きの脇へと滑り込んだ身体を、右回転にねじる。
その時奴の腕をつかむのを忘れない。
肘から下が耐えきれずに回転して地面へと転がろうとする――それを、実隆は許さない。
回転しながら左足を逆方向へと裏回し蹴りの要領で打ち付け、顔面を砕く程の勢いで振り抜く。
ごきり
肘の関節が外れる音が響いた。
強制的に身体を反対側へ叩いたために完全に男の腕はねじりあがっていた。
人間がまた一人壊れた。
そのたびに、抗えない快楽が彼の脳髄を揺さぶる。
ここまできて、やっと少年達の貌に怯えの色が走り始める――もう遅いのに。
いまさらもう遅いというのに、少年達はそこで怯え始めた――今までとは、全く逆に。
滑稽だった。
何故今までこんな連中を畏れていたのか、それすら判らないぐらい。
恐ろしい怖ろしい畏ろしいから――排除する。
その先にある安寧が、彼を刺激する――快楽へと。
だから繰り返し繰り返す、拳を振るうというその行動を。
目の前の人間を壊すと言うことを。
まるで、理解する事を忘れたかのように、ただ本能がそう告げている事を知るように、繰り返す。
「はは――ははははっはっはっはっは」
笑い声をあげる。
両腕の快哉が、彼を突き進める。
怯え――面白い
震え――可笑しい
こんなにも畏れを振りまく連中が、壊れてしまうのが楽しい――
「なにやってんのよ!」
その声が聞こえた。
その声は、彼の真後ろから聞こえた。
何故か聞こえた。その時、何故聞こえたのか理解すらできず、彼はゆっくりと振り向いた。
――その時もし彼の貌を誰かが見ていたのであれば、多分それは泣き顔だったのだろう
彼の視界には、一人の少女がいた。
確かに、その時間そこにいることは不自然な少女だ。
もちろん、一緒にいたはずもない。
いきなり背後に現れたのだ――菜都美が。
「な――つ、み」
最初の音が口をついて出て、初めて彼は何を言おうとしていたのか気づいて、一文字ずつ区切って発音した。
と、同時に。
今彼の目の前にいる少女の事を認識した。
「菜都美」
確かめるようにもう一度、彼は呟いた。
彼女に、ではなくそれは自分に向ける言葉。
「早く、こっち」
彼女は眉を吊り上げて怖い貌をしていた。
ずんずんとすぐ側まで近づいて、彼の腕を思いっきり引っ張って立たせると、引きずるように山へと向かった。
何の気なしに、彼は周囲を見回した。
自分の状況を確認するために。
一瞬判らなくなった自分の状態を確かめるために。
――そして。
地面には数体の少年だったものが転がっていた。
たしか、つい先刻まで人間の姿をしていたはずだ。何故なら、ぼろ切れのような制服を着ているから。
一人は顔も首も区別できない程腫れ上がり、腕があさっての方向を指して奇妙にねじれている。
一人は真横に、とても曲げられない程折れ曲がり、白目をむいて泡を吐いている。
とても言葉にできない情景。
先刻まで生きていた、営みのあった場所とは思えない惨状。
その向こう側に唯一呼吸をしている――哀れな、気絶した少年が倒れていた。
「あ、ああ、あ」
「黙りなさいっ」
声を漏らした実隆を叱咤して、更に強く腕を引く菜都美。
「早く、人のいないところへ行くわよ、惚けてないで!」
小さく音を立てて、彼女に肩を借りるようにして引き寄せられる実隆。
彼は、自分の受けた同様よりも、今見た情景よりも。
力強い彼女の叱咤の声とは裏腹に震える彼女の方が印象的だった。
だから、何も言わずにそのまま一緒に坂道へと向かった。
学校の裏側に位置するススキの原。
そこは学校に隣接する山へとつながっている。
最近特に宅地開発の波に飲まれて禿げ山になりつつあるものの、まだまだ自然と呼べる光景が残っている。
山の一部を削った部分に、ススキを植えたのはこの学校の初代校長の考えだという。
根が細かく、土を堅く締めるには適度な草だとの判断だそうだ。
今では体育館や新しく建てられた講堂や部室の御陰で影になってしまいがちだが、知っている人間は良くここに来る。
日当たりも良く、昼寝には最高の場所だからだ。
だが今は、まるで建物に隠れるようにして菜都美と実隆が並んでいた。
冷たい風が当たらないように、と言うわけではない。
実隆は訳が分からなかった。
つれてこられたのは確かだが、菜都美は何も言わずに彼を座らせて、自分もその隣に座っていた。
以来何も言わないのだ。
ただじっと風景を眺めている貌が寂しそうな、何故か苦しそうな貌に見えた。
それを見ていると切なくて、実隆も視線を向けられなくなった。
――結果、何をするわけでもなく二人はそこに座り込んでいる、という訳だ。
彼は先刻までの自分を思い出そうとして、酷く興奮していたことしか思い出せなかった。
真っ黒い、としか表現できない意識がそこにあった。
高揚した身体ももう収まろうとしている。
まるで自分の身体ではないような、浮ついた感触が消えていく。
火が消えて、全てが冷めて凍てついていくように。
白んでいた風景に闇が戻ってくる。
明るすぎた場所――カメラの絞りを間違えたような風景から、元通りの風景へ。
音のない場所――いつの間にかかさこそという小さな虫の足音まで戻ってきた。
そこは――いつもの学校。
「落ち着いた?」
声をかけられて、彼は現実に戻ってきた。
学校の裏にある山肌で、隣り合わせに腰を下ろした彼女を思い出した。
「……うん」
思いの外優しく感じた彼女の声に、彼は安堵の溜息のような声を出した。
素直な子供のように。
――今朝から感じていたものも、忘れてしまったようにすっかり元通りに感じた。
今側にいる彼女からは、そんなものは一切感じないから。
「なんか、今朝から妙だったんだ」
「……そうね」
何故か顔を見せるのは恥ずかしくて、学校の方に顔を向けて。
「凄く敏感になったみたいに。…思わず人を殺してしまいそうになる程」
「……うん」
それだけしか、言葉にならなかった。
菜都美の言葉を待っても、いつまで経っても帰ってこなかった。
なんとか口を開こうとしても、それもできなかった。
「否定してくれないんだ。……やっぱり、さっきのは本当の事か」
返事はない。
代わりに、彼女は背中から突然腕を回して――抱きしめた。
後頭部にこつんと当たる気配。
菜都美の額だろうか。
「怖かったよね」
母親に抱かれているような気分で、彼女の声に耳を傾ける。
「でも、大丈夫だから。何があったとしても、大丈夫。あたしもいるから」
言いながら彼女はきつく腕に力を込める。
「自分を見失いそうになっても忘れないで」
まるですり抜けていくものを必死になってつなぎ止めているように。
「お願い」
最後は、彼女はかきむしるように彼にしがみついていた。
泣いていたような気もする。
でも、その記憶も曖昧ではっきりしない。
ただその時、遠くで聞こえる救急車のサイレンが耳に残っていた。
それが、実隆の高校生活の最後を告げる鐘の音のようで、実隆は急に寂しくなった。
午後の授業は受けなかった。
気がつくともう夕暮れになっていて、多分大騒ぎになっているんだろうと思いながら校舎を眺めていた。
菜都美も、付き合いよく彼の隣にいた。
「俺達、莫迦みたいだよな」
頷く彼女を横目で眺めて、実隆は溜息をついた。
「菜都美、お前、知ってたのか」
ただ確認するだけの作業。菜都美が頷くだろうと思っていた。
でも菜都美は頷こうとせず、戸惑いの表情で彼の方に顔を向けた。
「判らなかった。――特別な人間なんだって、そう思ってた」
多分、と彼女は息を継ぎながら途切れ途切れに話す。
「あたしにとって特別なんだって。気心知れたって言うか…でも、そうじゃなかった」
それは落胆したような声。
『そうであって欲しかった』んだと、実隆は口を堅く閉じる。
「はは、あたし何言ってんのかな。…あ、いい、忘れて。ちょっとした気の迷い」
止めようとして差し出した手を彼女はすり抜けて、スカートをぱんぱん叩いて立ち上がった。
一歩後ろに下がって、彼から離れるように。
「元気になった?喧嘩の後始末はあたしがしておいたから。もう行くよ、遅くなるしHRまでさぼっちゃったし」
戻らなきゃならない。
それは本能の強迫観念。
今菜都美を引き留めるのは、『危険だ』と囁く。
――お前も戻るんだ、人間に
まるで自分の意志ではないように。
『人間』という響きが、まるで他人の言葉のように心の中に満ちていく。
「――そうだな。そうだよな、そのうちクラブの連中が来るし」
「そうそ。噂になったら大変だよ」
「何言ってやがる、俺達がどんな噂されてるのか知ってるのかよ」
へっへーん、と菜都美は元気に笑って答えた。
「そーだったらいーなって、思ってたよ♪」
彼女は叫ぶように言い残して、実隆に背を向けた。
「じゃあ明日ね!絶対遅刻しないよーに!」
一瞬くるっと振り返って叫び、彼女は走り去っていった。
――…あの、莫迦野郎
一瞬どきっとした自分に毒づいて、彼は自分の教室に向かった。
◇次回予告
「窓を開ける。部屋の入り口に突っ立ってないで、手伝ってよ」
隆弥はいつものように彼の前で振る舞う。
安堵と共に覚える――違和感。
「ほら――振り向いて見ろ、お前のために用意した、歓迎の挨拶だ」
Holocaust Chapter 1: 実隆 第8話
俺か?――ああ、俺の名前は、柊 ミノルだ
狂気じみた現実が
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