Holocaust ――The borders――
Chapter:1
実隆――Minoru―― 第8話(最終話)
「おかえり、実隆ちゃん。学校から連絡あったわよ、さぼったの?」
玄関をくぐって、ばったりと心配そうな顔に出くわしてしまう。
電話の子機を握っている所を見ると、電話を終えたところだったようだ。
――しまった
言い訳も考えずに帰ってきたせいで、彼女の貌を見て罪悪感にさいなまれる。
「あ、いやその…気分が悪かったんだ」
電話がどこからなのか――それは、ほぼ想像通りだったようだ。
彼女は電話を充電器に置きながら小首を傾げる。
「でも保健室からもいなくなって。…本当に心配したのよ」
学校には『帰ってきて病院に行った』と連絡してくれたらしい。
この辺は機転のきく人である。
叱る、というよりもその困ったような心配顔に胸が締め付けられる。
「気分が悪かったのはホントだよ。保健室でも気分悪かったから外で涼んでたんだ」
それでもすらすらと言葉がでた。
――自分の身体では、ないかのように。
「こんな寒い日に?」
それにしては都合の悪い嘘だ。
真冬もいいとこ真冬である。『涼む』という言葉がいかに不自然なことか。
案の定、彼女は訝しがって眉を寄せる。
「……まさか、なっちゃんとかと悪い事してたんじゃないでしょうね」
ぎくり
正確には違う。が、彼女の名前を聞いた時、脳裏にあの出来事がよぎる。
「ま、それこそまさかだよ。そんな事してない」
両手を大きく振って否定しながら、動揺を何とか誤魔化す。
――もし、そうだったらその方が良いのかもな
殺人。
あの少年達が死んだのかどうか、それは判らない。
菜都美が何故あそこにいたのかも、理解できないのだから。
今になって、自分のしでかした事を思い出して後悔する。
既に後戻りできないのではないか――それであれば、彼女の言う通りの方がどれだけましか。
――まだ人間としては、考えられる行動だろうから。
「ほんとにー?実隆ちゃん結構女たらしっぽい雰囲気あるから」
ころっと彼女の表情が変わる。
無事な彼の姿を見たからだろう――目が、興味津々と輝いている。
こうなっては何を言っても――たとえ、それがなんであろうと――聞きはしないだろう。
「なんですかそれは」
胸をなで下ろしつつ、額に冷や汗を浮かばせる。
ふふふと笑いながら彼女は台所の方へと向かう彼女を追って、彼はため息をついた。
「もうすぐ夕食できるから、お茶でも飲む?」
入り口で振り返る彼女に首を振ると、鞄から弁当を出そうとして顔を曇らせる。
「あ…」
昼前に保健室へ向かって、それから夕方まで何も食べていないことを思い出した。
あけた鞄に手をいれたまま間抜け面で硬直する実隆。
弁当は中身がぎっしり詰まったままだ。
とことこと里美は近づいて、鞄を覗き込みながら笑う。
「あらあら。本当に気分が悪かったのね。お弁当を食べていないことを忘れるぐらい」
そしてひょいと弁当をつまんで、彼の顔の高さに差し上げて揺する。
弁当の向こう側で里美の人の良さそうな笑みが見え隠れする。
「お夕食、どうする?」
「……ごめんなさい。お弁当を食べます」
にこっと笑うと、彼女は実隆の頭を撫でる。
「じゃ、今日のお夕食はラップして明日の朝か、お弁当にしてあげる」
「すみません」
彼女の後ろを追って、実隆は台所に入る。
里美はてきぱきと弁当を開くと、少しずつ皿の上に載せて行く。
時々匂いを嗅いだり首を傾げながらラップをして、電子レンジに入れる。
プリセットの時間を選択してスイッチ。
ぶーんという特有の音がして、ライトの中で皿が回る。
冬だから大丈夫よね〜とか言いながら、お茶の準備を始める
「兄貴の様子は?」
「熱は下がったみたいよ。でも明日まではかかるみたいね。お医者さんもそう言ってたわ」
里美はレンジから離れて鍋の様子を見ながら席に着く。
そして、湯気の立つポットからお茶を注いで実隆に差し出す。
「ありがとう。そうか…」
目が覚めていたら、話をしたい。
昨晩の、悪い夢を否定してもらいたい。だから、彼は複雑な表情をしていた。
頭が真っ白になる感触
さもなければ、あれをどうにか――夢だと思いたくて気が狂いそうになる。
自分でも、夢が夢でないような不自然な感覚を覚えている。
夢の中での出来事のようなあの感覚。
人を殺そうとする、感情。
あの夢のせいだと思いたい。
――だからだろう
ふとそう感じた。
人間を殺そうとする自分を否定しようとするから夢の中にいるような気がするのだ。
意識との乖離は、自己否定から始まるものである。
アナクロなベルの音が、彼を再び現実へと引き戻した。
ガラス越しに見る、現実に。
「はい、できた。冬だからほとんど痛んでいないし、充分食べられるはずよ」
ことりと小さな音を立てて、元弁当は彼の前で湯気を立てていた。
「いただきます」
考えれば…
――いや、考えるのはよそう
きっと後悔する。だから、今はとりあえず夕食にしよう。
暖まった弁当はいつも食べる昼食よりも美味しかった。
少し熱いぐらいのお茶を飲みながら、居間のテレビを眺める。
「嫌な話よね、変な病気が流行ってるんですって」
昨日聞いた気がする。
テレビのテロップに映る『今世紀最大の奇病』という文字が、うねうねと踊っている。
「へぇ。兄貴もそれじゃなきゃいいけど」
里美の溜息が聞こえた。
まずいことを言っただろうか、と彼が手を口に当てたが、里美の表情は別の感情を映していた。
心配というよりも、訝しがっている感じがする。
「大丈夫よ、隆弥ちゃんは。だって、症状が一致しないもの、一つも」
いたって平気というよりも、むしろ何かを思考しているという感じの表情だ。
――どうかしたんだろうか
病気ではないと確信している割には、晴れた顔ではない。
「…じゃ、いいじゃない」
ぱちくり、と不思議そうに実隆を見返す里美。
「あれ?…なに、私変な顔してた?」
「うんしてたしてた」
実隆が答えると、あははと笑って手を振る。
「ごめんなさいね、ちょっと考え事してたから。気にしないでね」
実隆は頷くようにして、弁当を一口口に入れた。
ニュースはもう別の事件を映し出していて、病気の話はこれっぽっちも触れていなかった。
食事を終えると、彼は風呂に入ってから自分の部屋に戻る。
階段をてくてくとと登りながら、軽い鞄を自分の肩越しに握りしめる。
――今世紀最大の奇病
熱が出て寝込む。でも、すぐに回復して何事もなかったような風になる。
数日以内に失踪する。
直前までいなくなるような形跡は一切なし、まだ一人として死体も発見されていない。
それだけ聞けば病気の関わりはないようだが、ここ数日の失踪者全てがこの奇病にかかったものらしい。
病気の原因も分からなければ、失踪も不明。
だからだろう、いつの間にか『呪い』だの『魔術』だのオカルトな話まで出てくる始末である。
――兄貴…大丈夫かな
ふと、隣にある隆弥の部屋の扉を見る。
気になる時は確認するに限る、と、彼は自分の部屋に鞄を放り投げて彼の部屋を覗いた。
真っ暗。
扉の隙間から漏れる灯りだけが部屋を嘗める。
「…ん」
人が動く気配。
それだけでも安心して、実隆は溜息を大きく吐いた。
「ミノルか?」
出ていこうと思って身をひいていたのを、彼は足を止めて再び部屋へと戻す。
真っ暗な部屋だ、顔も見えていないはずだ。
「ミノルだろ?里美さんなら電気をつけて入ってくるだろうし、重政さんだったらまず声をかける」
動く気配がして、部屋の中の灯りがついた。
さっと暗いカーテンが流れて、閉め切られた部屋が急に露わになる。
電灯の真下に彼は立っていた。
締め切った淀んだ空気に、彼も僅かに顔をしかめていた。
「窓を開ける。部屋の入り口に突っ立ってないで、手伝ってよ」
彼は笑いながらそう言った。
窓を開けて雨戸を戸袋にしまう。
星空が見える。住宅地の中央でこれだけ星が見えるなんてことは珍しいだろう。
「起こした?」
「いや、丁度目が覚めたところだから気にすんな」
風の音が、部屋の中の淀みを一気に洗い流していく。
寒いぐらいに。
「大丈夫なのか?兄貴、熱が出てたって」
さすがに肌寒さを感じた実隆が言い、窓を半分閉める。
隆弥は電灯の下で素顔をさらしている。
柔らかい微笑みを浮かべた顔を。
「ああ、さすがにもう大丈夫だよ。ちょっと大きく切ったからだろうね」
うーん、と伸びをしながら応える。
そして、まだ絆創膏を貼っている自分の頬をとんとんと指で叩く。
「師範代、真剣で斬りかかってくるんだから。ふざけてるだけならともかく、本当に切られるとは思わなかった」
『え?でも、三年になってから練習で姿を見かけたのは試合の前の週だけですよ』
後輩の鈴木の話を思い出して、実隆は僅かに筋肉を硬直させた。
――斬りつけられたのか?
「真剣って…」
隆弥は笑いながら自分のベッドに座る。
その様子に、何の不自然さも感じられない。
「うん、剣道部に来てもらってる師範のね、道場にあるんだ。……これは内緒にしてくれよ」
「え?」
「家には学校のクラブに顔を出す事にしてるからさ。……本当はね、駅にある道場に行ってるんだよ」
実隆は思いっきり溜息を吐き出しそうになった。
何のことはない、タカマルが見たのもどうやらその道場に向かう途中か、帰りのことだろう。
――そうだよな、兄貴だからな
一瞬でも疑っていた自分に少し毒づいて、気づかれないように胸をなで下ろす。
――だから
そう、それに、あの時腕を切り落とされたのに元に戻っていた。
目が覚めると、汗だくで自分のベッドにいた。
あり得るはずのない可能性を否定できて――やっと、彼は安堵した。
「剣道部の連中にも話してない。…まぁ、試合前には稽古を付けに行ってるけど」
隆弥は自分のベッドに腰掛けて、膝の上で両手を組んだ。
「その話だけど、鈴木が来てたぜ。休んでたら無駄だけど、一応言っとく」
机に腰掛ける実隆に隆弥は右手を挙げて応えて、くたびれたような安心した表情を浮かべる。
「結局剣道って面白くてやめられないんだよ。まぁ、この時期になってからだと二年が育たないし」
「この剣道莫迦」
実隆の鼻先に音もなく指が現れる。
隆弥が人差し指を突きつけたのだが、その動作が全く見えなかった。
――もし彼がナイフを持っていたら
間違いなく、今鼻をそぎ落とされていただろう。
そんなタイミングだった。
反応しきれずに思わず目を丸くする彼に隆弥はにやっと笑ってみせる。
「ほら、何でも正直になって打ちこんでみろって。一つぐらい好きなものがあった方が良いぞ」
しかめっ面で応えると、実隆は彼の机の椅子をとって座る。
酷く疲れた。
人から突きつけられた噂や、自分で勝手に見た夢の御陰で振り回された。
隆弥の話では刀傷の深さによっては、それが原因で熱が出る事もあるという。
動けないほどではないが、安静にした方がいいらしい。
傷口からの感染症の恐れもあったので、診察を受けて学校に行くのは見合わせたらしい。
「じゃぁ病気でもなかったんだ?」
「そうなるかな。…なんだよ、不満かよ」
むっと顔をしかめてみせる隆弥に、実隆は鼻で笑うと言う。
「莫迦、逆だっての。折角心配してやってるのになんて言いぐさだ」
実隆の言葉に肩を揺らせて笑い、彼はひょいっとベッドの頭の方にある棚に手を伸ばす。
そして何かをつかんで実隆に投げる。
「おっと」
受け止めて――革の感触に、それが財布だと判る。
「コンビニで飲み物とお菓子買って来てよ。俺は暇だし…少し話でもしよう」
「ああ。…おごり?」
「何だよ、お金持ってるだろ?自分で払ってよ」
「ちぇ。じゃ行って来る」
隆弥ののんびりした声に送られて、実隆はとんとんと一階に下りる。
普段から二人は勉強中におやつを食べることもないし、夜食も食べない。
おやつというのは里美がわざわざ買ってくるか、食べたいものを用意する事ぐらいしかない。
料理好きな里美は自分でケーキを焼く事も多い。
だから、菓子の買い置きのようなものはこの家族にはないのだ。
食べたい時に、食べたいものを買ってくる。
それは二人についても同じだった。
――お茶ぐらいだったら、いくらかあるよな…
ちょっと台所を振り返って見て、彼は玄関へと向かった。
最近、住宅街にもコンビニができることがある。
それはきちんと区画を分けたものではなく、順次拡大していった住宅地であることが多い。
ごくまれに、そうでもない場所で見かけることもあるが、店舗を持つには敷地が狭いと困る。
残念なことに、彼らの住む家は初めから住宅地を考えて作られた地形だ。
そう言う事情もあり住宅地の外れにまで行かなければならない。
駅まで出るなら自転車がいるが、コンビニまでなら歩いてで良いだろう。
彼はそう思って門をくぐった。
本当に色々なことがあった。
ほんの数日なのに、一週間分の事件に巻き込まれたという感じだろうか。
奇妙な夢を見て、その妙な夢の中で隆弥を見て。
隆弥に殺されかけて、何かの事件の参考人にされて。
――でも、それもきっと夢の一部に違いない
どこからが夢で、何処までが現実なのか、それをはっきりさせられない。
曖昧な意識。
でも今一つだけ確かに言える事は、隆弥はやっぱり関係ないという一点だけだ。
それだけでも嬉しかった。
コンビニで買い物を済ませた彼は、そう解釈した。
店の前についた時から、奇妙な視線を感じ始めたのだ。
だがその視線は消えるどころか気配をより一層強くする。
――誰だ
全身をなめ回してくるような、獲物を見据える視線。
少なくともその視線には好意的な物を感じる事はできない。
刑事ではないと思う。刑事なら、こんなに悪意ある視線を無遠慮にぶつける事はないだろう。
――ならば
一瞬、自分の思考に躊躇した。
気のせいではないのか。
何に敏感になっているのか。
――疲れてるんだろうな
さもなければ神経が過敏になっているんだろう。
そう思いこもうとした。だが、気配はだんだん強くなる一方で、消えるどころではない。
それに無意識に逃れようとして、足が自宅とは反対方向に伸びる。
――なんだ
それは実感として、物理的な圧力まで感じる。
道の脇の、街灯の影に何かが潜んでいるようなそんな想像まで鎌首をもたげてくる。
――っ、くそっ
この謎の追跡者を振りきってから家に帰ろう。
思いこみかどうか確認するためにも、振り切れるかどうか試そう。
駅の方なら路地も多い。逃げるには不都合が少ない。
相手も土地勘のある連中が来ているはずだから、注意した方が良い。
――だったら
古くからある土地よりも、最近できたばかりの場所の方がいい。
駅裏みたいに古くからある場所よりも良い――
――!
気配の質が、突然変わる。まるでそれまでの思考を読んでいたかのように。
気づかれたと悟ったのだろうか。
――来る
簡単に行きそうになかった。
視る気配から、明らかに攻撃的な意志を持った気配へ。
動きが変わる。先刻までの小さな人の気配から、墨汁で気配を溶かして流したような漠然とした『殺気』へと。
その純然たる殺意の塊に――居場所のはっきりしない殺意に背筋が凍る。
丁度草食動物が自らが獲物になった瞬間を知るのと同じように。
いつでも どこからでも 牙をむく事ができる
捕食者が獲物を自らの顎に捕らえた――そんな、背筋を走る悪寒。
実隆はコンビニの袋を下げたままアスファルトを蹴った。
取り囲み始めるその殺意に。
追いつめられ追われる事は初めて――いや、初めてじゃない。
ただ純粋に殺意と呼べるものを持った『隆弥』に追われた時と同じ。
だが紙をシュレッダーにかけるような彼の殺意とは違う。
もっと生命的な、肉食動物が気配を殺して食料を狙うような、そんなしたたかさを感じる。
追ってくるものは得体の知れないモノ――少なくとも、それは夢で見たあの隆弥とは違う。
追われているのは自分――夢の中で彼が追っていた化け物とは、絶対的に違うひ弱な生物。
――比較にすらならない
アスファルトの上を滑り落ちていく風に、『意志』と言う方向が与えられる。
今そこに残した身体よりも早く、意識は地面を蹴る。
一瞬にして闇の路地が、大きく視界を後ろに過ぎっていく。
ひゅ ごう
耳元をつんざくような聞き覚えのある音。
いつの間にか闇が流れ去っていく。
一度見た風景。
それを肌で感じている。今までに感じた事のない程の肌の引きつれる感触。
耳朶を叩く風圧――それはまるであの時の夢のように。
「ひっ」
転がるように受け身をとる。
突然自分の視界に割って入ってきたのは――自転車。
今、それを大きく跳ねるようにして避けた。
――!?
そんなはずはない。
自転車に乗る女は驚きよりも怯えを呈した表情を浮かべていた。
「ひ」
悲鳴を上げて背を向けると、よたよたとペダルをこぎ走り去っていく。
アスファルトの上で一回転して立ち直った彼は、それを呆然と見送るしかなかった。
――今、何が起こった――?
どくん どくん どくん
心臓が、痛い程鳴り響く。
自分の心臓の音なのに、ヘッドホンステレオで聞いているようなそんな妙な感覚。
――俺は…
ぎりぎりとバネ仕掛けの人形のように、自分が走ってきたはずの道を振り向く。
だが、『先刻までいたはずの場所』は、既に判らない程遠ざかっている。
――ここ、は…
そんなに速く走った訳ではない。
今息切れすらしていないし、アスファルトで一回転して受け身をとったのに、身体には痛みを一つも感じていない。
ゆっくりと周囲を見回す。
いつの間にか走り込んでいた路地裏。
ここがどのくらい奥にある場所なのか、それも判らない。
自分を狙っていたはずの殺意ももう微塵にも感じられない。
それが――逆にこの暗い路地裏に溶けて隠れてしまったかのようで、全身の血の気が引いていく。
――逃げなければ
時刻はもう午後八時を過ぎようとしている。
逃げられたのだろうか、逃がしてくれたのだろうか。それとも、今まさに狙われているのだろうか。
少なくとも今自転車が入ってきた方向は、何もないのだろうか。
――信じるしか、ないか
実隆はゆっくり周囲を伺いながら立ち上がった。
かさり、と未だに握りしめていたコンビニの袋が音を立てる。
そして苦笑した。
――なんて言い訳をしよう
ふと顔を上げると、川に沿って走る道が見えた。小さなコンクリートの橋も架かっている。
先刻走り去っていった自転車はもう見えない。
月明かりが差し込んでいるので真っ暗でもないから、彼はその道を進む事にした。
ふと、彼は足を止めた。
水音
水滴が落ちる音が聞こえた。
ぽたり、ぽたりというような音だ。水面を叩いたり、川に何かが落ちた音ではない。
真後ろで聞こえた音。
それが何故か心臓に染み渡ってくる。
同時に――足が凍り付いたように動かなくなる。
金属音。
有り体に言ってそれは、自転車が倒れる時に立てる音だった。
からからというタイヤが空回りする音がしている。
――何だ
やがて静寂だけがここへと戻ってくる。
ビルの影を這い登っていく闇――路地の向こう側に見える川沿いの道がやけにくっきりと見える。
一歩足を動かす。
ズボンの立てる衣擦れの音が上着を伝って聞こえてくる。
いつの間にか握りしめていた拳が汗ばんでいる。
縦に長く延びた穹が今、この闇を縦に切り裂いていて――星穹でできたビルのようにも見える。
このまま走れば助かる――今振り向かなければ殺される
同時に全く逆の意識が浮かび上がり、彼は思いっきり歯を食いしばった。
意を決して振り向く。
見えるのは、路地の入り口と自転車が逃げ去っていった方向。
白々しく映える路地の向こう側で、闇が入り口のように開いている。
何故かその向こう側は見えない。
実隆は音を立ててつばを飲み込んだ。
――逃げなければ
振り向かない方が良かったのだろうか。
そのまま歩いていけば逃げられたのだろうか。
まるで惹き付けられるように、一歩足を踏み出すと――もう止められなかった。
闇から抜け出して、月明かりの路地から再び闇へ。
そして――
そこに充満するのは生臭い脂の臭い。
嗅いだ覚えはある。
夢の中で。
だから容易に想像できた。
奥は袋小路になっていて、灯りは見えない。
想像できる――足は止まらない。
何がこんなにも臭いを放っているのか――
「久しぶりだな」
その時、唐突に真後ろから声をかけられた。
躊躇なく振り向いた彼の視界に、いつの間にか男が立っていた。
灯りのない路地裏にも人の姿を切り抜いたような影が浮かび上がっている。
どくんと心臓が跳ね上がり、きりきりと締め付けられるような感覚に、脂汗が滲む気がした。
その姿が、口元を歪めて笑う。
邪悪な笑み。
それは星の灯りだけを身体にまとい、殺気を放っている。
どこの誰ともあずかり知らぬ殺人鬼ではない。
もっと――そう、懐かしい気配。
だから彼は後ずさりした。
後ろはもう――ないのに。
退がるしか、今思いつかなかった――あまりにも大きすぎる衝撃のせいで。
「……やっと目が醒めたのだろう?」
音もなく近づく影は、間違いなく先刻から彼を追っていた姿。
気配を間違うはずもない――たとえ、その顔を見間違えていたとしても。
「ほら――振り向いて見ろ、お前のために用意した、歓迎の挨拶だ」
ぬるり、とした足の裏の感覚。
餌場に追いつめられていく獲物。
――嘘だ
そう思いたい。
でも、勝手に気圧されて足は後ろへと動く。
奴は一歩、無造作に彼を――押す。
踏ん張ろうとしても足に力は入らない。
柔らかいモノを踏む――考えない。考えたり見たりしたらきっと気がふれる。
奴は無言で、ただその気配だけで彼を後ろへと――押す。
「誰なんだ」
それでも出た声は以外にもしっかりしていたから、妙に安心できた。
奴の威圧感がなくなる。まるで、急に姿を消したかのように。
そして、彼は自嘲をするように苦笑を浮かべ、やがて気の抜けたような声で言った。
――その聞き慣れた声で。
「俺か?――ああ、俺の名前は、柊 ミノルだ」
――それは、闇。
無機質な少女が携帯電話を片手に持っている。
その後ろで男が無言で側に控えている。
それだけなら、二人は他人のように見える。
男はまだ、かなり若い。
それなのにかなり死線をくぐってきたのだろうか、穹を見つめる眼には油断を感じられない。
だから年齢不詳――少なくとも、高校生以上の年齢であることは確かだろうが。
くたびれたペインターズボンに革のジャケット。
そのさまは、丁度丈夫な皮のシースに納められたナイフのようで。
――だから、少女には巨大な剣を与えられていた。
その剣は彼女が扱うには大きく見える。
でも少女は誰よりも上手くその剣を扱える。
彼女の右腕よりも、何よりも確実に。
間違いなく彼女の敵をしとめる。
「よくやってくれた。
御陰で助かった。後始末は任せて欲しい。
ああ、殺したのは間違いなく人間ではなかっただろう?
……今私の手元にいるのは、まだ実験中の素体だ。
ビジネスはビジネスだ。…お互い詳しくつっこんだ話を聞きたくないだろう。
まだ命は惜しい。互いにな。
ふん、不用意な話だ。ああ、確かにそうかも知れないし違うかも知れない。
口の利き方には注意した方が良いぞ。
ふん?その口では、私もいつばらされるのかわからんな。
冗談だ。最近の若造は冗談も聞き分けられないか。
だがお前達にとってはそれで充分な理由なんだろう。
だから――いや、おっと、話が過ぎた。
ああ、我々はこの辺で撤退させてもらうさ。
もう充分だからな…次にまた、会うことがあれば殺し合う時かもな」
殺伐とした会話が流れた後、彼女の手元で携帯電話は電子音を立てて電源が切れた。
「――行くぞ、ミノル」
少女は自分の剣に声をかけた。
剣は何の反応もせず、ただ彼女の後ろについて歩き始めた。
◇次回予告
「私としては、以前のお前の方が面白かった」
ミノルの存在理由。
少女は鈴を転がしたような声で残酷に呟く。
「お前を壊すことができるのは、私だけだ――」
Holocaust Intermission ミノル 1第1話
でもだとするならば、この記憶はいったい何の記憶なんだ
わたしはだれなのか
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