Holocaust ――The borders――
Chapter:1
実隆――Minoru―― 第5話
『今日、一緒に帰れないかな』
彼は、いらつきをできるかぎり押さえ込んだ。
もう薄暗い。
まさか、待っているとは思えないが、自分の教室と彼女の教室の前を通り、昇降口に向かう。
人気のしない下駄箱で靴を履き替えて、昇降口を出る。
音を立てて風が彼の側を通り抜ける。
『とめたんだけど、さ。……ちょっと今、家の方で騒ぎになってるんだ、弟のこと』
誰の姿もない。
夕日を等の昔に通り越して、既に暗がりになりつつある人気のない校舎を抜ける。
校門までの僅かな距離に人が見えない。
声を掛けられるかとも思ったが、菜都美の姿どころか教師の姿すらもうここにはなかった。
――やっぱり帰ったか
昼食の時突然泣き始めた彼女。
どういう経緯があったのかは判らないが、それが治樹に関係のあることには違いない。
治樹はつい先日駅裏で喧嘩をしていた。
路地の裏で、数人に囲まれていた。
彼がそれを見つけたのは本当に偶然だった。別に、野次馬とかそういう趣味は彼にはない。
駅裏から、一人の青年がぼろぼろの姿で飛び出してきたのだ。
いや、言葉通り飛び出してきたのだ。
地面に叩き付けられるように転がった彼は、顔をぐしゃぐしゃにして、痣と血にまみれていた。
――酷い
彼は思わず、その路地の向こう側にいる存在を知りたくなった。
地面に転がる息も絶え絶えの男を見て、ここまでできる存在を知りたくなった。
多分、今までに一度もそんな事はなかったはずだ。
――知らない
いや、そうじゃない。
彼は記憶の端に引っかかるものを覚えながら、路地裏へと視界を移動させた。
「はははははははははは」
乾いた笑い声があがる。
感情のこもらない、ただの呼吸音のような声が聞こえる。
緊張感の切れた路地裏、少年はまだ拳を振るっていた。
目は虚ろで、目の前にあるものを正しく認識しているようには思えない。
鈍い音が続く。
間違いなく被害者は既に意識を失っている。
「こら、坊主、何やってやがる」
だから声を掛けた。
あの時の治樹の様子は尋常ではなかった。
恐らく、状況から一対十は遙かに上回る人数だったはずだ。
治樹は何も言わなかった。
壊れかけた拳を治すために病院に行った程度だった。
喧嘩なんて生やさしいものじゃなかった。
あれは殺し合い――いや、一方的な殺戮に近い。
警察には連絡が行ったのだろうか。
ただ、家族に絶対言わないだろうから、ただ柔らかく『喧嘩』とだけ菜都美に伝えた。
それが――一体何を引き起こしたのだろう。
菜都美は泣いていた。
――騒ぎになってるって言ってたよな
どういうことだろうか。
人の家のことだから――何故か、胸騒ぎがする。
やめておこう――それは興味本位とは別の感情で。
やめたほうがいい――本当にそうだろうか。
二重にひしめく自分の理性と常識。
一瞬自分が二人にダブっているような気になって思わず頭を振った。
――俺らしくない、行こう。行って確認すればいいだけの話だろうが
菜都美の家は、自分の家に帰るのとは実は方向が違う。
彼は腕時計を眺めて溜息をついた。
もう、とうに五時を回っている。
今からまっすぐ帰ったって、いつもよりも一時間以上遅い。
言い訳を考えながら、どうせ数分のことだと菜都美の家へ向かうことにした。
人気のない夕暮れの通学路。
元々商店街から離れている上に、住宅地の真ん中にある学校のせいか人通りも少ない。
学校は僅かに丘にあるので、見下ろす風景に住宅地が見える。
時々子供のはしゃぐ声がして、走り去っていくのが見える。
もう夕食の時間だ。きっと家路についているのだろう。
買い物帰りの母親らしい、自転車に乗った女性。
そんなごく普通の風景が薄闇に沈んでいく。
流れていく風景、日常の臭い。
もう少しすれば星が見えるだろう。
下り坂、ふとそんな気持ちになって空を見上げた。
だが、今日はあいにく曇り空だった。
ざわざわとざわめくものが脳裏の奥をかすめる。
言い知れない不安。不安の理由が多すぎて、どれに対してなのかわからない。
もう一度大きく溜息を吐く。
――…全く…
言わない方が良かったのかも知れない。
菜都美は、中学以来喧嘩に弱い。
血を見ることすら嫌いになっている。
でも、長いつき合いの仲で泣き出したのは今回が初めてだった。
泣かされかけたことがあっても、彼女が泣いたところは見たことはない。
――ん
彼は静かな住宅地からやけに騒々しい気配を感じた。
獣の気配、とでも言うのだろうか。
あってはいけないもの――何故か直感でそれがやばいものだと思う。
ざわざわと心がささくれ立っていく。
喧嘩を目の当たりにした時のような殺伐とした気分。
それが――不意に目の前に現れた。
ざかっっ
地面を蹴立てる音。
彼の目の前でだが――それは思わず身体を止めてこちらを窺っていた。
距離にして、数メートル。
時間が急に引き延ばされたように感じる沈黙。
手を伸ばせば届きそうな暗闇。
四つん這いでそれは退く。
夜闇に輝く双眸は煌々と彼を見つめている。だから、夜行性の動物かと思った。
それは動物ではなかった。
一瞬思考が跳ぶ――ありえない、と。
前傾姿勢で彼を睨みあげている貌、地面に立てる腕、何よりその体躯――それは明らかに人間だった。
「お前」
びくっと体を震わせると、突如跳躍した。
その動きや脚力はやはり人間ではない――なのに、今跳んだ瞬間彼の身体が見えた。
同時に薫る 死と血の 臭い
彼は自分のすぐ側を通る時に全てを確認した。
Tシャツを着た獣なんているだろうか。
スニーカーを履いた四つ足の大型獣なんかいるだろうか。
なにより――
「治樹っっ」
彼が走り出した途端、治樹らしい姿は一瞬振り返り、地面を蹴った。
――!
まるで映画か何かを見ているような気がした。
車で弾かれてもあんな風に跳ぶことはない。
治樹は大きく宙に舞うと、目の前の家の屋根に音もなく着地した。
「……嘘だ」
実隆は頭が真っ白になりそうになった。
治樹は人間を遙かに超越した動きで、文字通り獣のように屋根づたいに飛んで行ってしまった。
方向は判る。
あれは、彼の――真桜の家だ。
――行けば判るかも知れない、なにか
酷く嫌な予感がする。
今の治樹の姿を見ても判る。恐ろしく良くないことが起きている。
でもそれが何なのか――今は理解すらできない。
だから足を進めるしかなかった。
心ばかりが焦って、足がもつれそうになる。
こんな時ばかりは普段から走って鍛えておけばよかったと後悔する。
――毎朝走ってるってのに、な
今は行くしかない。
それから十分もしないうちに、彼女の家が見えた。
何故か光が見えない。二階にも居間にも。
まだ時刻は夕食時のはず。
嫌な予感と同時に人気がないことに気がついて、妙な安堵感を覚えた。
よく見れば車もない。家族で出かけているのだろうか――そこまで想像して首を捻る。
――じゃぁ、先刻見た獣は?
たとえあれが治樹ではなく、謎の獣だとして、あんな動きをする動物がいるだろうか。
途端に自分の記憶が曖昧に消えていきそうになる。
それは確かに、不自然だ。あまりに超越的すぎる幻だった。
そう否定したくなる自分と心が打ち鳴らしている警鐘。
同時に、今の自分に何ができると考えて、踵を返すしかなかった。
留守と判る他人の家に押し入るのか。
いや、そんな事なんかできるわけがない。確たる証拠のない譫言を頼りに何かできるはずがない。
――譫言
じゃぁ今のは何だ。
目がおかしくなったとでも言うのか?――
でも、戸惑いも恐怖も感じていない。
あれだけ、普通では信じられない光景を見ながら、彼は動揺すらできない。
ふと気がついた。
そう、これを見るのは初めてではないはず。
初めて――そう、彼は夢の中の光景を思い出した。
――…まさか
警察に呼ばれた。何かの捜査の対象にされた。
そしてあの、河川敷近くにあるスクラップ工場での出来事。
――確かめてみよう
星は見えそうにない薄曇りの夜空。
めき
麻縄をねじるような音がして、激しい呼吸が続く。
それ はお れ じゃない
途切れかかる意識の流れ。僅かな間でも気を緩めると、身体が動く。
気を抜く――スパークする火花が目玉の裏側でしつこく鳴り響いているようで。
その火花のせいで、何度も何度も視界が白く濁る。
ふりほどいても、突然身体が重くなるように言うことを聞かない。
丁度、徹夜明けの眠気の中で無理に起きようと必死になっている感覚に似ている。
意識が墜ちて、記憶を削りながら身体を動かす――何故。
なぜ?――今逃げなければ、殺してしまうから。
どこかで誰かが嘆息する声が耳に届いた――ような、気がした。
本当は違ったのかも知れない。
でもほかのかき消えそうな小さな雑音とは違い、かすれかかった音程の中でもそれだけはやけにはっきり耳朶を叩く。
「興味深い結果だ。……この素体の反応は、予期していた物とは全く違う」
何故それが聞こえるのか――それだけは何故か耳元で囁かれているのと変わらない。
おかしい。
今自分がどこにいるのか、夢でも見ているように曖昧で。
「最高のサンプルパターンだ……ミノルとはまた違う」
鈴を鳴らしたような甲高い少女の声。
凛としたその声は、何故かスピーカを通したようなざらざらとした声になって耳に届く。
――誰――だれだ
ぴくり、と声の相手の表情が変わった。
そう、見えてもいない相手の顔が変わるのが判った。
説明できない感覚で――
その時、不意に全身が痙攣した。
激しい痙攣に思わず身体をすくめて、初めて自分が地面にうずくまっているのが見えた。
がたがたと全身が震えている。
何に震えてるのか――彼はただ必死になって地面を蹴った。
それは間違いなく畏怖の感情。
敵わぬ力をもったものに対する本能的な拒絶反応。
脅え、という名前の殺意――いまここにいてはいけない、いたらころされる――
――なぜ こんなことに
治樹は記憶の中を探り続ける。
自分の身を助けるために地面を転がるように駆け抜けながら、何があったのか思い出そうとする。
少しでも気を抜けば白い闇に落ち込んでいきそうな脳髄を叱咤して。
――俺は――
数日前 菜都美の顔 白い しろい そして注射器 かこまれ た そこは血の海で
断片的な記憶が脳裏をかすめる。
はっきりしない単語の羅列のような記憶。
そもそも今何をしようとしているのか、数秒前の記憶ですら曖昧だというのに。
頭の中が真っ白になる。意識が飛ぶ――いや、僅かにそれだけは残っている。
手の感触を楽しむ。
薫る香を慈しむ。
それが自らの恐怖を和らげてくれる――だから更に振り上げる。
恐ろしいものが消える。
手の中でただの肉塊に変わる。
何かの作業に没頭するように――ただひたすら腕を振り上げ、足を振り抜く。
笑い声が聞こえた。
それが自分の笑い声だと気がつくと目が覚めた――醒めない方が、よかった。
いつからそこにいたのか、そこは見たこともない地下のバー。
砕けた酒瓶、砕けた酒瓶、砕けた酒瓶、砕けた酒瓶、砕けた酒瓶、砕けた酒瓶
酒瓶が砕けている。
そこにあるものを、それ以外に認識できなかった。
真っ赤な地面。
コンクリートの壁が、ただれた赤黒いものに染まっている。
くだけている
それがにんげんであったものだと思うと、罪悪感と同時に大きな安堵感がわき上がってくる。
だから、人間であるかれはそのばをたちさろうとする。
愉悦を覚えた彼の方は、全身を大きく振るわせる。
もっと暴れたい、と――
バーの扉は次の瞬間爆発するように弾けた。
木片は登り階段に散らばり、その煙の中を弾丸のように影が大きく跳躍する。
階段の一番上で、彼は更に跳躍した。
とりあえず ここから離れたい
明らかにその動きは人間を凌駕したものであることにも気がつかず。
彼――治樹は身体の動くままに身を任せて自分の家に急いでいた。
無意識のうちに、帰巣本能のように。
周囲に感じる恐怖の元から離れようと必死になって。
あと数歩。
あと数回跳躍すればもう――
その時、それと出会った。
警戒を解かずに地面に降り立ち、相手を睨みあげる。
恐怖にまみれたこの殺意を振るうべきだろうか。
畏怖に脅えるこのふるえを教えるべきだろうか。
――必要ない
何故か、先刻まであったものはこの――目の前の男からは感じられない。
戸惑い。
何故同じ人間を――ヒトの姿をしておきながら違うのか。
――ああ、そうか
理解する。
目標を変えるために地面を蹴り直し――彼は更に自分の家へと急ぐことにした。
先刻の男が追いかけてくる。追えるはずなど、ない。
彼は自信を持って跳躍すると、一瞬だけ彼の方を振り返った。
唖然とした表情で何か叫んでいるが、もうその叫び声も、耳には届かない。
届こうとしない。
自分の家へ――
もう疑いようはなかった。
ここで何かがあったのだ。
――切り崩したみたいに
確か、夢の中の風景と同じ。
スクラップ工場を河川敷の土手から見下ろして、彼は胸の中がざわざわとざわめくのが判った。
自分の家からはかなり遠い場所だが、もう彼に躊躇はなかった。
もう人気のない工場にゆっくり近づいていく。
あの時の鮮明な記憶を引きずり出すように、頭の中に戦いを再現していく。
――あれだ
人間以上の何かが、その怖ろしい怪力でぶん投げた車のフレーム――投げつけた相手は無事だった。
日本刀のような物で斬りつけたからだ。
切り落とされた破片は――そう、そこだ。
彼が向けた視点の先に、同じように斬りつけたような疵が残っていた。
全く記憶通りに。
記憶とは違う――それは、途中で夢から覚めたからだと思った――車の崩れ方。
それはむしろ、この車の山が崩れるような何かがあったという証拠だろう。
――兄貴
確認しなければならない。
彼はそのまま自宅へと急いだ。
母が心配そうに実隆を迎える自宅は、昨晩と様子が変わりようがなかった。
夢ではない――いや、今までが夢だったのかも知れない。
「遅かったじゃないの、何かあったの?」
玄関で出迎えてくれた里美は心配そうな顔で実隆に声をかけた。
奥の食卓ではもう夕食ができあがっているようだ。
香ばしい油の匂いがする。
「……うん、ちょっと先生に呼び出されて」
靴を脱いで玄関に上がると、まず聞かなければならないことがあった。
「夕食できてるから、まずご飯にしましょう」
「兄貴は?」
彼女の顔が曇る。
右手をやがて、口元まで寄せて言う。
「あの子、急に様子が悪くなったので先刻病院に連れて行ったわ」
「え?」
里美が顔を曇らせてくるっと背を向けるのを、実隆は黙って追いかける。
台所までの短い廊下。
「様子が悪くって…」
「判らないの。顔の怪我のせいかもしれないけど、昼頃まで退いていた熱がまた出てきて」
破傷風かも知れない、と彼女は言って自分はキッチンに向かう。
卓につくと、家族全員の分の食事はあるものの、重政の姿はない。
「父さんが一緒なの?」
「車で運んでもらってね、今ついてもらってるから」
炊飯器からご飯をよそい、彼の前までもって来る。
なすとジャガイモを煮込んだもの、焼き魚、みそ汁という純和風な夕食。
「……そうなんだ」
大根おろしにしょうゆをかけながら、違和感を感じる。
自分が感じていた世界と、今ここにいるというちぐはぐにずれた感覚。
夕食の味付けは決して悪くなかったはずなのに、どんな味も感じられなかった。
「実隆ちゃん」
里美の声に、ふと我に返る。
自分の母親は、にこにことした表情で彼を見つめている。
「心配しなくても大丈夫よ。きっと」
ちくり、と胸の奥が痛む。
だからこの人には決して心配させたくない――隆弥だってそう思っているはずだ。
「うん」
答えて、彼は食事を終えた。
ずしゃ
地面を砕く音。
それが見事な破砕音であると意識する前に、再び全身を跳躍させる。
――人外の領域
そこへと足を踏み入れた瞬間に、それは人間とは認識できなくなる。
認識されなくなるのではない。
「中立たる灰色のものは地獄を語り、おお偉大なる主の目は今こそ地上へと」
"Gray others talking of hell. Eyes lie landing."
何かの詩の一節だろうか。
高らかと唱えられる言葉は闇夜を貫くようにして響き渡る。
正確に発音される英語が、どこからなのかは見当もつかない。
しかし、地上を這う者はそんな事はお構いなしに方向を見定めていた。
次の獲物――人間の姿は、風に乗り匂いとして確実にその場所を教えてくれる。
彼にとって、その獲物は決して難しくない位置にいた。
小刻みに地面を跳躍し、ジグザグと方向を変えて近寄っていく。
揺れる。
地面と同時に、風景が揺れる。
――畏ろしい
その時の彼は、間違いなくその存在に対して畏れていた。
絶対的な強大な力――違う。
その存在が恐ろしいのだと彼は知っている。
脆弱な身体、薄氷のような精神、薄紙の皮膚に弱い骨格。
決して丈夫とは言えない生命体――人間。
殺そうと思えば、ほんの僅かに力を加えるだけで良い。
それを、何故あんなにもがちがちと強力な力で攻めきるのだろうか。
何故完全に武装して殺すのだろうか。
でも――
彼は間違いなくそれを畏ろしいと感じていた。
高らかに詠唱を続ける人間は、稲妻のように予期せぬ動きを繰り返し近づく存在を見つめていた。
今から数分前、住宅街から河川敷へと誘い出した個体は、予定通りのコースを辿っている。
連絡から想像していたよりも素早く、今までに見たことのない程その身体能力は高いようだ。
ぞくり、と背筋に氷を押し当てられたような感慨にふける。
――一年前に屠った天狗に匹敵する
小刻みな跳躍、その合間に人間は全身を捉えていた。
見覚えのある小柄な身体は中学生の男子――これも情報通り。
間違いなく目標の個体だ。
――……真桜の者か
ただ、それは彼の記憶にある、ある特定の個人として認識できた。
人影は躊躇いもなくただ淡々とその事実を確かめる。
高速で闇の中を動き続けるその姿を捕らえる瞬間、彼の頭の中にある記憶がまざまざと蘇る。
「下らない技術者共が、ずたずたの散文を解析する」
"Deadly engineers analyze texts hashed."
その間にも彼は決して詠唱を忘れない。
奴を拘束するための言葉を。
自分の唱えている文章に意味など必要ない――ただその言葉の羅列こそが大切なのだから
「病気であれ、うそつきは地下に横たわっていた」
"Keep ill, liar lain yard of underground."
即座に組み合わさっていく単語。
それは期待されているよりも上手く彼の口から滑り出し、相手の意識よりも奥深くへと突き刺さる。
意識にではなく――この世界の、彼らを取り巻く空間を。
しゃぁああああああ
甲高い音が鳴った。
鞘走る刃が立てる特有の音――硬質な白木と、剃刀のように鋭い刃が立てたきしみの音。
人間は右手で自分の身長ほどもある刃を握りしめていた。
左手に、白木の鞘を構え、月の光を弾きながら夜の闇を一条切り裂く。
じゃ、と兇悪な声を上げる刃は間違いなく真剣で、彼の周囲に刈り取られた草を巻き上げていく。
刃を嘗める光が深く、薄くその刃の下にこもっているような艶やかな輝きに変わる――それは鉄独特の重み。
鉄の刃だけが返す光の輝き。
日本刀――美しい波目が刃の上に施された、非常に値打ちの高い一振りに違いない。
今はそれが、十キログラム近くはあるそれが美術品の域から確実に逸脱して彼の手元で唸る。
ばしゃ
地面から身体が離れる感触。
同時に手応え。
彼は地面に身体をしたたかに打ち付けながらも器用に腕を捻り、刀を保護しつつ鞘で身体を叩きおこす。
妙な格好で立ち上がりながら、更に刀を構える。
その途端、血の匂いが濃厚になる。
――残念だ
声になるのは、唱え続ける忌みの言葉だけ。
彼はそんな行動から完全に独立した思考でそう感じていた。
――人間あれば、『枠』に収まってさえいれば見逃したものを
見逃す、そう思考して思わず口元を吊り上げる。
見逃さなければならない。
人間ではない存在を。
何故?言うまでもない。
それをなくしてしまえば今の自分の存在意義がなくなるではないか。
今こうやっている自分が、意味がなくなるではないか。
でも、自分は人間ではないならば排除しなければならない。
そんな二律背反。
背筋がぞくぞくする。
ヒトの姿を押し込めながらその中にヒトに対する殺意を持つ獣――『化物』を狩る悦びに。
でも彼は表情にそれを表せない。
声に震えも許されない。
だから詠唱を続けながら斬りかかる――まるでそのために存在する機械のように。
彼の詠唱を飾るのは血。
糸を引くような粘っこい液体。
体液。
血飛沫。
罪悪感なんかそこに存在しない。
欲望と呼べるものもない。
ただ刻む。
刻み続けるため腕を振るう。
その存在が今まさにここにあったことを否定するためだけに。
たとえ人間として存在し、戸籍も住民票もあったとして。
警察の目が届いているはずのこの場所で。
今まさに、人間であったはずのものは彼の目の前で肉塊へと姿を変えた。
◇次回予告
何故かそこは夜の河川敷だった。
唐突に夢から醒める実隆。そして襲いかかる隆弥。
「…お前はわたし達ではない。以上の理由から消去する。それが役目だ」
そして突然訪れる、自分の中の異変とは。
Holocaust Chapter 1: 実隆 第6話
何をしている、ミノル!遊んでいないで還ってこいっ
人間が、襲いかかる
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