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Holocaust ――The borders――
Chapter:1

実隆――Minoru――   第4話


 そして昼休みになる。
――弁当
 今日は隆弥もいないし、別段誰かと食べている訳でもないので机の上に弁当を載せる。
 外に行こうか、と一瞬思ったが、外は寒い。
 窓から外を覗くと、それでも結構中庭には生徒が見える。
 雪が降りそうなぐらい寒いのに、良く外で食事をする気になれる物だ、と思いつつ弁当の包みを開こうとする。
「……?」
 視線が、気になる。
――まさか
 昨日の今日だが…と周囲を見回すと、案の定クラスの視線がちら、ほらと実隆とある一点に向かっている。
 一点……は、教室の入り口付近だ。
――あの莫迦
 目を向けると――案の定、菜都美が教室の前をうろうろしている。
 彼は後頭部をぼりぼりとかくと、弁当の包みをもって彼女のいる教室の外へ向かう。
「あ」
 くりっと振り向いた目の前に実隆がいて、彼女は驚いて目を丸くする。
 態度としては可愛い物かも知れない、が。
「……昨日言わなかったか?教室の前を彷徨かれると困るって」
 らしくない。
 菜都美が、今の言葉に反論もせずにただ頷いて、黙り込んでしまう。
 実隆は溜息をついて両手を腰に当てる。
「おまえ、なんか病気かなんかか?全然らしくねーじゃねーか」
「そう?……そ、かな。そうかも」
 彼女はびくっと震えて、形のいい眉を八の字に寄せる。
 にこにこと笑うその貌は、余計に痛々しく見える。
 一瞬戸惑い、自分のそんな態度に逆に腹を立てて、彼はふん、と鼻息を荒くする。
「いいや、飯でも喰おうぜ。…屋上あたりで。詳しく話を聞いてやるよ」
 屋上、とわざと言ったにもかかわらず、反応は芳しくない。
 実隆は無言で彼女に背を向けてため息をついた。
 はっきり言って、気弱な雰囲気の菜都美なんか見ていておもしろくも何ともない。
 中学時代の『暴君』を見ているからなおそう思うのかも知れない。
――そう言えば、俺のことをミノルって呼ぶよな、こいつ
 ふと目を向けると、案の定弁当が入っているのだろう、小さな鞄をもってうつむいたままついてくる彼女が見えた。
 実隆は、他人の名前を意識して呼んだことがない。
 家族である隆弥にしても、『兄貴』だ。
 名前を呼ぶことに抵抗はない――事実、菜都美を名前で呼ぶ。
 ただしおい、とかこら、とか代名詞以下の呼びかけで彼女を呼ぶことの方が多い。
「…外は寒いよな」
「冬、だもんね」
 半ば挑発的に言っても反応は変わらない。
 何故か、奇妙な会話になる。
 わざとらしく聞こえる彼女の明るい声にまで彼は苛々と反応してしまう。
 沈黙。
 実隆は溜息を一つ、彼女に向けた。
 一瞬惚けたような表情で菜都美は彼を見返す。
「お前、今日は本当にどうかしてるぜ」
 ぱちくりと数回瞬くと、乾いた笑いを見せて実隆の肩を数回掌ではたく。
 それも奇妙に力無く感じた。
「…屋上で話そうよ。こんな息苦しいとこじゃ、なくてさ」
 何故か今の顔が、笑みが、それを見ただけで苦しいなどと下らない想いが脳裏を過ぎる。
 そのぐらい、今の彼女は彼女らしくない、腑抜けた感じがした。

 穹。
 蒼穹は視界いっぱいに広がっていて、白い雲を率いて自らの存在を主張する。
 でも、その存在は決して『存在』に非ず、見る物の認識こそが『存在』であると――誰かが言った言葉。
 事実こうやって見上げていてもその底は知れず、永遠に遠くまで届くようで、決してそんな事はない。
 物理的な限界もあるし、それにそれ以上に――そんな、無粋な感情を抜きにしても、青空には限界がある。
 嫌いじゃないけど、好きになれない。
 それは多分、そんなところにあるんだと、実隆は感じていた。
 彼女が、話し始めるまで。

 屋上は広かった。
 思いの外、誰もいないし――そりゃそうだ、こんな時期にわざわざ屋上で弁当を食べようなどと思うのは酔狂だ――
 何より、静かだった。
 冬なのに風もなく、ただくすんだ青い空だけが彼らを迎えていた。
「寒いね」
 最初に呟いた言葉がそれだった。
 でも、その代わりそのおかげでそこには他に誰もいない。
 中庭と違って遮るものもなく吹き付ける寒風。
 日差しだけは変わらなくても、ここは寒い。
 多分、これからも。
「ああ、寒いな。……何か文句あるか」
 ぶんぶん。
 菜都美は音を立ててもおかしくない勢いで首を横に振って、少し赤い顔で笑った。
 ……やっぱり、らしくない。
 『五月蠅いわね、誰が屋上に行こうって言ったのよ』
 そのぐらい反発してきてもおかしくないというのに。
 だからわざわざ、『お前だって行こうって言ったじゃねーか』という科白まで用意しているのに。
「じゃ、ともかく約束だ、まず話してもらおうか」
 彼らはとりあえず入り口のある小さな、屋上に飛び出したひさしのような下にしゃがみ込んだ。
 菜都美はハンカチより大きな布を自分の座る場所に敷きながら、戸惑ったような顔でぱちくりと目を丸くする。
「え」
 彼女が非難するより早く、実隆の方が続ける。
「屋上で話してくれるんだろ、ここなら息苦しさもないし」
 先刻聞いた彼女の言葉をそのまま返す。
 ぺたん、とそのまま座り込むと、覗き込むような上目で苦笑する。
「あは♪……」
 許しを請うような視線が来るが…
「言うよな」
 実隆はがんとして譲ろうとしない。
――そもそも、菜都美の方から言い出してきたくせに
 今朝の事を思い出しながら彼女の様子を見つめる。
 やがて菜都美は本当に泣きそうな顔を浮かべると顔を正面に向ける。
「……酷いな、ミノル…」
 ぐす、とぐずつきながら彼女は弁当を取りだした。
 四角い紙の箱に入った弁当は、どうやらサンドイッチらしい。
「それだよ。俺のこと、ミノルって呼ぶ女、お前だけなんだよな」
 何を今更、そんな感じの顔をちらっと向けると、箱を開く。
 箱の大きさに敷き詰められたサンドイッチが並んでいる。
「だから全校公認だっての。もう、今更呼び方変える気ないからね」
 今度は実隆が絶句する番だった。
「お前」
「何。……ミノル、誰か他につき合ってるの?あたしじゃ駄目な訳?」
 きっと吊り上げた目で睨む菜都美。
 突然のことで頭が混乱している実隆は、とっさに対応できない。
 実隆の反応に気をよくしたのか、てれっと笑って小首を傾げて言う。
「冗談だよ、そんなに目を丸くして見なくても良いじゃない」
 冗談には聞こえなかった。だからこそ――でも、彼女は笑っている。
 やがて彼の眉が吊り上がっていくのが見えて笑いながら少し腰を引いていく。
「ごめんごめん、意地悪だったよね、さすがに今のは。……て、ミノル、まさか本気にしたの?」
「馬鹿野郎っ」

  ごずん

「いたいじゃないのよ!女の子に何すんのよ!」
「五月蠅いわ!ふざけるなこのぼけなすが!」
 両手で頭を抱えて涙目で睨む彼女は、ふん、と鼻を鳴らして水筒の蓋を開いた。
 小さなジャーになった水筒からは湯気が立ち上っている。
 どうやら紅茶のようだ。彼女はそれを蓋に注いで、自分の手元に置く。
「……えっと、あたしの、ことだよね」
 彼女は背中にある壁に身体を預けて、少し空を見上げた。
 狭い、狭い狭い蒼い空。
 こうやって覗くだけなら、灰色に濁った空に落ち込んでいくような錯覚を覚えるから、実隆は嫌いだった。
 菜都美はぱくっとサンドイッチを一つかじる。
 ちなみに実隆の弁当は一つの箱に、三分の一のおかずが入ったごくごく一般的な弁当である。
 実隆も弁当の包みを開いた。
「…昨日のこと、なんだ」
 すう、と急に消え入りそうになる。
 一つ呼吸をおいて、先刻までの笑みがかき消える。
「とめたんだけど、さ。……ちょっと今、家の方で騒ぎになってるんだ、弟のこと」
 自分の太股に乗せたサンドイッチの箱を見つめるようにうつむく。
 風が止まる――なのに、空気が張りつめるように凍てつく。
 肌を切り裂くような冷たさ。
 何故か話を始めた途端に彼女の存在が軽くなったような気がした。
 境目――そんなものが感じられたような、錯覚。
「治樹か」
 こくん、と頷いてサンドイッチをかじると、紅茶を手にする。
 咀嚼した後もしばらく黙っている。
 その間に実隆は自分の弁当をかき込んでいく。
「……ミノル、恐いものってある?」
 いつの間にか残りを口の中に放り込むと、菜都美は空を見上げていた。
 実隆の答えを待たず、彼女は言う。
「すごくこわいもの。あたし、そのこわいものに普段は気づいていないの」
 背筋をゆっくりと伸ばして反り返っていく。
 空の流れる雲を追いかけているように。
「はは……だけどさ、一度気がつくともうだめなんだ。…しばらく、忘れらんなくてこんな感じ」
 右手でサンドイッチをつまむとくるくると手元で回す。
 やがてそれをぱくっともう一口かじって、頭を下げる。
 音もなく髪が流れて、一瞬風に舞う。
「こわいもの、ねぇ」
 何の話をしているのかよくわからなかった。
 少なくともそれと治樹との関係はさっぱり判らない。
――判らなくても良いのかも知れない
 彼女は誰かに聞いて欲しいだけなのだろう。
 とても人には言えないような話。
「情けないよね」
 両手で紅茶を包みながら、少し小首を傾げたままこちらを窺う。
 弱々しい笑み。
 少なくとも、こういう仕草をされると改めて彼女が『女の子』であることを認識してしまう。
「情けないことか?それは俺には判らないよ。俺に恐いものがあるのかどうか、それも今は判らない」
 それより。
「……何で、こんな話を、俺に」
 実隆の問いには真面目な顔をしてみせて、優しい微笑みを浮かべた。
 それ以上聞いても多分無言だろう。もしかすると言いたくないのかも知れない。
 だから、彼は顔を正面に向けて自分の弁当に取りかかる。
「治樹と関係のあることか?」
「全然関係がない訳じゃない。…直接は関係がないけどね」
 彼女はサンドイッチの箱を折り畳んだ。
 いつの間にか二人とも食事は終わっていた。
「…喧嘩の話か?そんな大げさな事」
「大げさって、ミノルっ」
 実隆は最後まで言い切ることはできなかった。
 思わぬ剣幕に押されて、驚いた表情を彼女に向ける。
 菜都美は半ば身体を浮かした格好で、実隆を見下ろしている。
「あの子は……あの子はね」
 ふるふると身体が震える。
 やばい、と直感した時、彼女は顔をくしゃくしゃにしてそのままその場に崩れ落ちる。
「お、お…い」
 顔を上げず、両手で自分の顔を覆い、無理矢理声を殺して泣き続ける。
 突然の彼女の反応に、どう対応していいのか動揺してしまう。
 周囲に人がいなくて良かった――まず、実隆は安心した。
――…何があったんだよ…
 結局、それから菜都美は何も言わなかった。
 もしかすると何も言えなかったのかも知れない。
 昼休みの終了のチャイムが鳴る。別れ際に、彼女は『ごめん』と一言だけ呟いて背を向けた。

 結局午後の授業も、全く身が入らなかった。
 そして放課後、HRが終わって、部活の時間だ。
「おい」
 荷物をまとめていると背後から声が掛けられた。
 聞いたことはあるが聞き覚えのない――案の定、振り返るとなじみのないクラスメートが実隆を見ていた。
「先生が呼んでるぜ」
 事務的に言うと、彼はさっさと立ち去っていった。
 実隆は顔をしかめて弁当をそのままに、廊下に出てみることにした。
 出ると、進路指導の先生の井口が立っていた。
――どおりで
 担任の衛藤だったら先生ではなく『ゴリ』と呼ぶはずだからだ。
 進路指導担当のこの教諭、スーツ姿にさえない顔をしているせいで、まだ何のあだ名もついていない。
 それどころか――名前すら覚えられていないんではないかと錯覚する程だ。
「ああ、柊君」
 井口は別段なんということもない風に声を掛けてきた。
「ちょっと、進路指導室まで来てもらえないかね」
「ここで、できない話なんですか?」
 そもそも指導されるような真似はした覚えもないし、第一頼んだ記憶もない。
 …大学に進学しない、という心当たりはあるが。
 彼の態度は決して嫌みでもなく、特別強引なところがあるわけでもない。
 一応提案してみる。
「んー…先方さんがなんて言うか判らないからね」
「先方?」
 実隆の問いにはにこにこと表情も崩さずに頷く。
「ええ、お客さんが来てるんでね。わたしとしても是非君に話してもらいたいことなんだよ」
 嫌な予感がした。
 担任ではなく進路指導の教諭が、である。
 なにも、そんな興味を持ちそうなことなんかそうそうあるはずもない。
 彼の後ろについて進路指導室へと向かいながら、彼は鼻にしわをよせて井口の背を睨んでいた。
 進路指導室に着くと、井口は入り口から脇に避け、指で彼に入るように示す。
 ここは各教室からも離れ、ともすれば職員室からも離れているので密会にはもってこいの場所である。
 だからと言うわけではないが、実隆は扉に手を掛けるのを一瞬躊躇した。
 がらがら、と手入れのされていないサッシが音を立て、小さな部屋が視界に入る。
 小さな部屋だ。こぢんまりした空間に二つの長机とパイプ椅子が数個おいているだけの、簡素な部屋だ。
「……柊君?」
 そこに、数人の男と一人の女性がいた。男は二人。一人は右に座り、一人は奥で姿勢を正して立っている。
 女性は左手にある椅子に座り、メモだろうか、書類を広げてペンを握っている。
「はい、そうですが」
 女性はペンで、実隆の前にあるパイプ椅子を指し示してついっと視線をあげる。
「手間はとらせないわ。事情聴取させてもらおうと思って、呼んでもらったのよ」
 年はまだ二十代というところか。
 座っている不機嫌そうな男は四十代…立っている男もやはり二十代だろうか。
 今の科白と、彼女の仕草でだいたい読めた。
――警察か
 担任と校長には許可はもらっているだの、何だのどうでもいい前置きを並べると、女性は僅かに微笑む。
 名乗りもせず――女性の刑事は話を続ける。
「二日前の夜、あなたはどこで何していたのか、教えてもらえないかしら」
 一瞬夢の話が過ぎる。
「…あの」
 まさか、とは思いつつ、声になっていた。
――あの夢で見た出来事……が、現実だったのか?
 そんなはずはない。
 第一――いや、でもそれを否定するだけの材料がない。
「いつぐらいの時間の話ですか?」
 だから、一呼吸おいてまずそれを確認した。
 女性は一瞬驚いたように目を丸くして笑みを浮かべた。
「そうね、夕方六時ぐらいから話してもらえないかしら」
 二日前――夢を見た日の直前。
 別に悪夢を見るような出来事はなかった。
「俺は部活に通ってるわけじゃないから、まっすぐ家に帰って…夕食を食べてました」
 女性は小さくペンを走らせて、無言で頷く。
 続けろ、と言うことらしい。
「その後、…風呂に入ってからあに…あ、同居人の部屋に行って進路の話をしていました」
「同居…ああ、楠隆弥君ね。そう?」
 実隆は頷いて、僅かに眉をひそめてみせる。
「一体何の質問なんですか。警察の方ですよね、何か大きな事件でもあったんですか?」
 ぞくりとした。
 日本刀を持って佇む姿――それが、なぜか確信的に隆弥の姿をとる。
 だが、女性の刑事は少し困ったような表情を浮かべる。
 そして隣に座る厳つい顔をした男に視線を一瞬送ってから顔を実隆に向けた。
「もう少し、質問してから応えるわ。…それでいい?」
 女性は笑い、ペンの頭をとんとんと紙の上で数回弾く。
 だが実隆はそれに肯定も否定もしなかった。
 そのせいだろうか――不機嫌そうな顔をした男が、のそりと身体を動かす。
「君」
 事務的な話しかしたがらないような、そんな嫌な表情だ。
 公務員というか、高圧的な警官に良くある態度で彼は口を開く。
「そのとおりだ。だから、君には協力する義務がある」
「だっ」
「最初に言っておく、我々は誰も信用しておらん。三秒後にはお前を被疑者と見なすかも知れない」
 二の句が継げなかった。
 がたん、と男のパイプ椅子が音を立てて、やっと我に返った。
 いつの間にか指導室が逃げ場のない檻に変わっている。
 追いつめられた獣の気持ちがよくわかる――そんな、気分。
「いいかしら」
 頷くしかなかった。


 少年は不機嫌そうな顔をして、部屋を立ち去った。
 どうも手応えのない捜査になってしまった。
 手がかりぐらいはと思っていただけに期待をくじかれた気分である。
「はぁ」
 椅子に腰掛けた男――木下憲一は今年で警部になって四年、『ある意味』でもベテランの警部である。
 一課の中では殺人事件のみを担当していると言っても過言ではない。
「全く手がかりなしとはね」
 隣に座る女性は新任の警部補で、今回の事件担当が初仕事となる。
 名前を井上淳子。
 いきなり初めっから類を見ないような事件に当てられてしまって、非常に可愛そうだった。
 本人そんな素振りは一切見せないが。
「警部」
 後ろに立っていた若い男は真横ぐらいの位置まで来ると声を掛けてくる。
 まだスーツが場違いに見えるような彼は、これでももう警官になってから六年になる。
「何だ矢環」
 彼は矢環伸也、二六才。大卒の新米警部補である。
「やっぱりいきなり聞き込んだところで効果はありませんね」
「五月蠅い、これが俺のやり方だって言ってるだろうが」
 不機嫌そうに木下は言うと立ち上がる。
 一瞬胸ポケットに手が伸びるが、考え直してその手をズボンのポケットに入れる。
 さすがに高校の進路指導室でたばこはまずいだろう。
「一旦帰るぞ。さすがに目撃情報だけじゃこっちも打つ手が少なすぎるからな」
 どうせ、その目撃情報とやらも信憑性に欠けるのだ。
「はい。…せめて写真でもあれば良いんですけど」
 それは、今の彼を犯人扱いするような発言かも知れない。
 でも、できることならその方が簡単で楽なのだ。
 それは判っている、だからこそ。
 だからこそ、地道な捜査の単純な苦労が目の前に見えるのだ。
 矢環はすぐに返事をして外で待つ教師へ話に行く。
 井上が書類をまとめるのを横目に見ながら彼は不機嫌そうに眉を吊り上げる。
――まず、間違いのない情報なのにだ
 鼻息荒くして窓の外を覗く。もう夕暮れ、夜の時間が迫っている。
 丁度昨晩の事、惨殺死体が発見された。死体は損壊状況が激しく、無惨な状態でとても人間であると判別できなかった。
 既に腐敗臭もただよっており、何故こんな状態の死体を発見しなかったのかは判らない。
 腐敗の状況からして、十二から二十四時間以上経過しているのは確かだった。
 場所は町外れにある廃墟――恐らく過去には何らかの店だったのだろう。
 死体のあった地下室は打ちっ放しのコンクリートで、その隅々にまで血が付着していた。
 まるで、わざわざ塗ったくったかのように。
 だからこそ判らなかった。
 目撃情報も、この死体の情報もすぐにあがらなかったということが、だ。
 これだけの惨状ならば、少なくとも犯人は全身血まみれになる可能性が高い。
 すぐに聞き込みに回った彼らは、簡単にすむと思っていた、が。
 結果は惨憺たる物だった。
 誰一人として、一日前にそんな惨状を作ったはずの犯人の姿を見ている者はいなかった。
 無論、悲鳴も聞いていない。
 凶器は不明。人間をここまで刻んでしまうには、それなりの刃物が必要なはず。
 なのに、それらしい遺留品はない。
 肉体の損壊が激しすぎて、使用された刃物も特定できない。
 むしろそのためにここまで刻み尽くしたかのようで、不気味さを感じる。
 遺留品もない、情報もない――そんな無茶な事件がそこにはあった。
 まだ新聞にすらなっていない事件だが、報道管制をひいているわけではない。
 訳が分からないからだ。
 ただそんな事件があったと思われる晩、少年の姿が近くを通っているらしいというのを確認した。
 それが柊実隆らしき姿だったと、言うのだ。
「そう言えば、どこからの情報だ」
 井上は顎に右手を当てて小首を傾げる。
「たれ込みです。直接電話を受けたわけではないので誰かは判りませんが」
 彼女は電話を受けた際のマイクロテープを資料から出すと振ってみせる。
 どこの誰かも知らない匿名の情報…わざわざそんな物を確認に来なければならないのだからますます苛々する。
「……何度か確認したよ」
 数回繰り返して聞いた。もう充分だ。
 木下は肩をすくめてみせる。
 矢環が頭を下げながら部屋に入ってきて、会話は中断する。
「よし、帰るぞ」
 押しが足りない。
 もう一歩、証拠をそろえなければ。
「しかしあんな猟奇的な…殺人を、少年が犯すでしょうか」
 尤もな質問に、木下は溜息をつく。
「最近はわからん。親が平気な顔で幼子を殺したり、少年が強姦殺人をするような時代だからな」
 ぼりぼりと後頭部をかいて彼は寂しそうな目をする。
 あんまりに残虐な、殺意という言葉すら知らないような低年齢の犯罪者達。
 breakdown innocenceと呼ぶには年齢を重ねているというのに。
――他人の痛みの判らないガキが生まれすぎてるんだ
 校門を出て、彼はやっと安心して懐に手を入れた。
 くしゃり、と柔らかい紙の感触。
 あと二本しか入っていないパックから一本つまみ出すと、安物のライターで火をつける。
 くすんだ煙が立ち上り、やっと心を落ち着かせてくれる。
「酷い…話ですね」
 木下のたとえ話のような言葉に真剣な感想を述べる。
 彼は片目を丸くして、彼女を見返す。
「君も可愛そうだよな。着任早々、こんな事件に」
 言いかけて、皮肉った顔を矢環の方に向き直る。
「…お前もな。警部補就任早々、ご愁傷様だ」
 矢環は苦笑して車にキーを差し込む。
 がしゃり、と一斉に鍵が開く。
「仕方ないですよ。私は初めてじゃないですけど…」
 と、彼は井上の方を向く。
 いかにもエリートという風の井上は目を丸くして僅かに顔を振る。
 その仕草は日本人よりも米国人に近いかもしれない。
「私も初めてじゃないですよ。確かにこんなに酷いのは初めてかも知れませんけどね」
「堂に入った話しぶりだったぞ。俺でもああは話せない」
 にっと笑みを浮かべながら、彼は後ろの席に乗り込む。
 井上が助手席に乗り込むのをまるで構えていたかのように、矢環は素早く車を発進させた。


◇次回予告

   それは動物ではなかった。
  「……嘘だ」
  彼の目の前に治樹が現れる――だが、その姿は。
  そしてその直後、河川敷で繰り広げられるものは。

 Holocaust Chapter 1: 実隆 第5話

 それをなくしてしまえば今の自分の存在意義がなくなるではないか
                                            真実――それが、訪れる。

      ―――――――――――――――――――――――


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