Holocaust ――The borders――
Chapter:1
実隆――Minoru―― 第3話
「あ…」
眼前にどきりとするほど可愛らしい笑みを湛えた女性がいる。
里美さんだと気がつくのに、数秒を要した。
起こしてくれたのは嬉しいが、心臓が余計に高鳴っている。
「ふふふ、よく寝てるんだものね。疲れた?」
この辺はやっぱり隆弥と親子なんだと思い知らされる。
どこまで考えてやっているのか、時々判らなくなる。
すっと顔が遠ざかって、見慣れた彼女の姿に戻る。
部屋には明かりがともされている。
いつの間にか周りはずいぶんと暗く、時計は七時を指している。
「い、いえ…すみません」
いつも部屋まで呼びに来ない。
それだけ、深く寝入っていたと言うことだろう。
不思議に思いながら身体を起こして――全身が軋みを立てる程痛い事に気がつく。
寝起きだからだろう、妙に引きつる身体を無理に起こして、彼はそのまま食卓へと向かう。
食卓には、もう親父さんが座り食事を待っていた。
結構この辺は家族思いなところがあるらしく、優しい親父だと思う。
「…あれ?兄貴は?」
だがそこに隆弥の姿がない事に、彼は眉をひそめる。
親父、楠 重政の顔色を伺うように目を向けると、彼は目を閉じて首を振った。
「まだ帰ってきていない。部活にしては遅すぎるようだが――里美?」
実隆の後ろにいる彼女に声を掛けると、彼女は困ったように顔を歪めて、とてとてと廊下に出ていった。
電話をしてくるつもりだろう。
「ほんと、兄貴どっかで遊んでるんじゃねーだろうな」
ぶつぶつ言いながら、親父の左手に座る。
ここが、指定席。
向かい側に隆弥が座り、親父の真向かいが里美という並びである。
「ミノル、お前最近体調悪くないか?顔色が優れないようだが」
「んー…ちょっと夢見が悪くて、寝付けないだけだから」
そうか、と彼は心配そうに腕を組んで、しばらく唸る。
「悩み事でもあるんじゃないか。今更遠慮するなよ、金と女以外なら相談に乗ってやるから」
「親父…」
ふざけているのではなくて、これで本気なのだからたちが悪い。しっかり心配そうな顔をして、彼を見ているのだから。
実際、彼は今更遠慮するつもりはない。
する理由も、必然もないのだから。
ただ、この親子の雰囲気だけには我慢ならん。
「そのマジボケ、どうにかしてくれ。…頼む」
「自分の父親に向かってなんて口の利き方だ」
苦笑して実隆の肩をぱんぱんと叩いて肩をすくめる。
「こういう性分だ、仕方ない」
その時、里美が相変わらずのんびりして入ってくる。
「あの子、怪我で今病院に行ってるんだって」
「ほう、大事じゃなければいいが」
――怪我?
実隆は思わず叫びそうになった。
無論、そんなはずはない。
第一、学校で、部活をしているはずの兄貴だ。
そんな――はずは、ない。
「兄貴が?」
そーなのよ、と溜息をつくように里美は寂しそうな顔をする。
「隆弥ちゃん、いつ言っても怪我の時電話くれないから」
心配かけないつもりで大きな心配を掛けている良い例だろうか。
少し同情して溜息を吐く。
「…のんびりしてるから気づかなかったのかもよ」
言ってからフォローになってないと気がついても遅い。
「おお、そう言えばそうか」
ぽんと手を打つ父親。
「そうよ、実隆ちゃん、そうかも知れない」
驚いたように目を丸くしてうんうん頷く母親。
きりきりとこめかみに来る痛みに顔をしかめる実隆。
「あのねぇ」
思わず眉根を押さえて頭を抱えこんだ。
こんなのんびりした家族だから、こそかも知れない。
思わず実隆は疎外感を覚えて――それが何なのかは、判らない――溜息をついた。
「とりあえず、遅くなりそうだから夕食にしちゃいましょう」
里美の意見は非常に合理的だった。
丁度、食事を終えた頃、玄関から声が聞こえた。
「おかえり〜」
とてとてと里美が出ていくのを追うようにして、実隆も彼を出迎えた。
隆弥はいつもの学校に行く格好で玄関で靴を脱いでいるところだった。
「あ、里美さん、ただいま」
気軽に彼は振り返って、玄関に素足で登る。
――!
その瞬間、彼は素顔を玄関の灯りの中にさらした。
それが――実隆にとって、衝撃にしかならなかったことにすら、気がつかずに。
「ミノル、ただいま。たまには出迎えてくれるんだね」
彼は嬉しそうに言うと、実隆の肩を叩く。
――怪我をしたって…
確かに、実隆は怪我をしたらしい。
彼は右頬に大きな絆創膏らしきものを貼っていた。
医務室でもらえるようなものだ。
「怪我したって聞いてたから心配してたのよ」
「だから、死ぬほどやばければ電話するって」
――できないよ、死ぬほどやばい怪我をしてれば
実隆は条件反射的に思考する自分を恨む程――硬直していた。
自分の心音だけははっきり確実な音として首筋を叩き続ける。
離れていく里美と実隆の会話が、意識の外側へと消えていく。
――何で
人工的に区切られた闇へと彼らが埋没してしまっても、実隆は光の中から動けなかった。
――何で、夢の中で見たままの怪我をしているんだ――!
眠れない夜が訪れる。
時計が指し示している時刻は既に十一時を回っている。
眠れない――寝付けない。
そんな馬鹿なと思いつつ、決して譲ろうとしない、そんな、感じ。
そしてもう一つ、もし付け加えるのならば――何故、今、こんなにも不安を感じているのか。
こん こん こん こん こん こん
突然響いた扉の音に、彼は飛び起きた。
軋むこともなく扉が開き、はっとした気配がした。
「…兄貴?」
廊下の灯りに顔が隠れて、表情ははっきりとしない。
でも長いつきあいだ、そこに誰がいるのかぐらい、見えなくてもわかる。
「ごめん、寝てたか」
「いいよ、寝付けなかったし。…話、在るんだろ?」
少しの間躊躇う空気。
やがて、隆弥は扉を閉めた。
ぱちんという電気の弾ける音に続いて、蛍光灯が瞬く。
あっという間に闇は払われて、いつもの夜の部屋が現れる。
無機質な白い壁に、小さな机。
机の上に並ぶ教科書と文房具――それだけなら、全く持ってこれほど愛想のない部屋はない。
隆弥は彼の座るベッドの前にある、勉強机の椅子を引き出して座る。
「ミノル、大学に行かずに就職するとしてね…どんな職業に就くつもりなんだよ」
呆れた表情を浮かべて、彼は聞いてきた。
多分別に呆れているわけではないだろう。そう言う風に見えてしまうのだ。
「どうせうちの家族のことだから、別にお前がどうしようと何も言わないと思うし」
冷たい蛍光灯の明かり。
暗い青白い空間の薄暗さが、周囲に満ちている。
まるでブラウン管の中の世界のように、現実味がない。
「兄貴はそう言うだろうけどさ」
実隆は自分の両膝の上に手を組んでのせる。
「…やっぱり、俺達じゃ家族にはなれないか」
実隆が言葉を継ぐ前に、寂しそうな笑いを張り付けたまま先に彼が口を開いた。
急に重苦しい空気が、実隆の肺の中に満ちる。
息が、できない。
「あ、兄貴」
「あははは、冗談だよ。…ただなぁ、その代わりじゃないけどもしっかり理由を聞いてやる。さあ言え」
実隆は額を押さえ込んで歯をがじがじやって唸ると、がばっと立ち上がって人差し指を彼の額に突き刺す。
すぐ側だったのでのけぞってそれを避けながら、あははと乾いた笑いを漏らす隆弥。
「あーにーきーっっ、冗談だとしても言って良いことと悪いことがある、そこになおれぃっっ」
「…もうなおってますよ」
「ええいうるさいっ、この馬鹿兄貴がっっ」
ばしばし。
実隆は全力で否定する。
はりせんちょっぷの応酬である。
隆弥も判っているのか、適当に流して受け止める。
やがて、テンポが遅くなって、ぽてっと隆弥の頭の上で手が止まる。
「…兄貴、やっぱ俺狭量な奴なのかな」
隆弥はその手を取り除くようにつかむと、ぎりっとひねりあげる。
「いぃてってって」
「馬鹿、とりあえずお前、座れ。…まずはお前の理由を聞かせろ。…言ってるだろう」
ぱっと手を離す。
実隆は呻きながらベッドに座り込むと、恨めしそうに隆弥を睨んで、そしてしばらく逡巡するように沈黙する。
「俺、真面目な職につくつもりはない。できるだけ…その、枷のない仕事を探してる」
「……お前そんなに不真面目な奴じゃない癖に」
「黙れよ。…俺は、自分の血筋がいるような気がするんだ。まだ…その、じいさんとか、いとことかが」
実隆は孤児、ただその名前だけが唯一残されていた。
過去の状況も、人づてに聞いただけではっきり調べたわけでもない。
どうして名前が残っていたのか。
どうして自分だけ生き残ったのか。
どうしてその後、児童養護施設に入ったのか。
他に家族はいなかったのか。
――どの疑問も、彼を楠に改姓させることはなく。
「もしかして、日本の中にはいないかも知れない。それでも、俺は探してみる」
実隆は睨み返すように隆弥を見る。
彼は――胸に自分の腕を抱えるように黙り込んでいる。
「それじゃ…やっぱり、出ていくのか」
「とりあえず、ね。兄貴はやっぱり兄貴だし、この家族だって俺の家族だ。…でも」
「あーあー、わかったわかったって。…お前、やるって言ったら終わるまで辞めないだろう」
隆弥は肩をすくめる。
「昔からそうだったしな。言い出したらきりがない。いいか?無茶だと思ったらいつでも休ませてやる。…帰って来いよ」
隆弥は実隆が頷くまでそこにいた。
しっかり肯定の返事を聞くまでがんとして動かず、実隆が折れるように返事をすると、にっこりと笑い
「約束したからな」
そう言い残して部屋を出ていった。
その日は、何の夢も見なかった。
朝の目覚めも、まるで唐突な出来事のように瞼の裏側から訪れた。
――もう朝か
時計はまだ鳴っていない。
七時前――太陽が窓から差し込んでいる。
日差しが突き刺さるように目に入ったからだろう、と思うと彼は身体を起こして目覚ましを切った。
――とりあえず、バイトから始めないと
昨晩の話を、そんな風に考える。
フリーターという奴が結局一番自由なのだ。
それに、どこかに住む理由もない。
でもどこかにいるだろう自分の血筋を見つけて――そしてどうしようというのだろう。
自分で自分に疑問を向けても、その決心は揺るがないのに理由は見えない。
――本当の家族?
「おはよう、実隆ちゃん。よく眠れた?」
挨拶を返し、卓につく。
――そんなものは探さなくても、今ここに留まれば充分じゃないか。
いつものトースト。
コーヒー。
マーガリンを塗りながら、角っこをかじる。
――でもそれじゃ、だめだ
「隆弥ちゃんはまだねてるのね〜。もう、たまには起こしてあげないといけないね」
とんとんと軽い足音を立てて、里美は二階へと消える。
どうやら普段は起きてくるのを待っているだけのようだが…遅刻は良いんだろうか。
食後、コーヒーをすすっていると里美の足音だけが階段から聞こえた。
少し困った顔をしている。
こういう眉間にしわを寄せた表情というのは、隆弥とそっくりだったりする。
「……実隆ちゃん、先生に連絡お願いできる?」
「え?もしかして兄貴、何か?」
「熱が出てるのよ、今日はお休みするから」
最後の一口を飲み込んで、カップを卓の上に置いて頷く。
「判った、熱が出てるって伝えとくよ。…行ってきます」
重政と車を出すだの病院に連れて行くだの話を始めた食卓を、彼は背を向けて玄関に向かった。
その日は、それだけではなかった。
玄関の扉を抜けて門扉を見ると、いつもそこにある姿が見えない。
『おはよー』
いつもならそんな声が聞こえるはずなのに、脳裏には届くのに姿はない。
――あれ?…皆勤賞狙いの菜都美もいない
熱が出ようと風邪を引こうとインフルエンザだろうと学校に来ていたのに。
本来病気を持ち込むという意味ではそういう行為は非常に迷惑なのだが。
ともかく、門まで出ても彼女の姿はない。
時計を見ると――問題なく、時間はある。
――…くそ、何で気にしてるんだ
と思いながらも彼は一度彼女の家を経由する事にした。
これ以上非日常は勘弁したい――そんな気持ちの方が大きかった。
「休み?」
真桜家の玄関で、実隆は声を上げた。
真桜の家は、道場主とは言え普通の家だ。
古風な武術をしているからと言って道場も古風とは限らない。
今時の武道家なのかただ単に伝統より新しいものが好きなのかは判らないが。
真桜の道場は駅前のビルの七階に結構広いスペースを借り切っている。
「ええ、そうなの」
菜都美の母親も、朝見た里美のように困った表情をしている。
――偶然が続く。
どこかで、連鎖する偶然があると聞いたことがある。
そんな場合、それは偶然ではなく必然だったのだと――なんか、そんな話だった。
「熱でもあるんですか」
だからついそう聞いていた。
一瞬彼女の貌が戸惑うように揺れて、少しだけ首を小さく振った。
「そんな、深刻じゃないの。…心配してくれてありがとうね」
ふとこの言い方で実隆は気がついて慌てて頭を下げた。
――他人の事情を深く聞いちゃまずいよな
それも、女の子である。
適当な理由を頭の中で見繕って、菜都美は風邪で休んでいることにする。
「いえ、それじゃ、お大事にって伝えておいてください」
実隆はそれだけ言うと、さっさときびすを返して学校に向かうことにした。
さすがにこれ以上もたもたすると、学校に遅刻する。
彼女の家の門をくぐり、彼はふと気がついた。
――もしかすると、ただそれだけのために休んでいないのかも知れない
絶対に遅刻しない(させない)為に。
――んな馬鹿な
いくらなんでも思い上がりすぎだ、と自分で自分を馬鹿にして溜息を吐く。
久々の一人きりの登校。
以前は隆弥と一緒に登校していたが、隆弥が段々寝坊するようになってからしばらく一人だった。
菜都美との事件があったのが丁度一年と半年なので、もう随分久しぶりだろう。
――こんなに、時間長かったっけ…
せいぜい歩いても十五分程度。
距離にすればキロもないだろう、そのぐらい。
何故か今はその距離が妙に、長く遠いような気がした。
と と と と
その時、背中側から軽い足音が耳に届いた。
誰かが近づいてくる。
「よーっ、おっはよー」
そして聞こえるはずのない声が、聞こえた。
驚いて振り向く実隆の視界に、遠慮なく飛び込んでくる菜都美。
「おわっ…って、お前、病気じゃなかったのか?今日学校休むって…」
勢いよく彼の目の前で止まると、にっといつもの笑みを浮かべる。
「え?そんなこと誰が言ったの?」
実隆はしまった、と思いながら呆れて溜息をついた。
額に手を当てて唸りながらうつむく。
「………騙された」
「えー、人聞き悪いよぉ。勘違いしたって言って欲しいな」
「五月蠅い」
一応ながら心配した自分が馬鹿だった、と思いながら実隆は顔を前に向けて歩き出した。
「でもめずらしいじゃん、ミノルから誘いに来るなんて」
珍しい、ではなく初めて、だと表現すべきだ。
実隆はそんな細かいことをつっこむこともなく肩をすくめる。
――五月蠅い
自分が少しでも心配していたと気がついて、恥ずかしいのか理由がでっちあげられない。
結局、当たり障りなく話をそらすことにした。
「……まぁな。…そういえば、隆弥も休みなんだよって、お前は学校に行くんだったな」
と、笑いかけようとして――凍り付いた。
「どしたの?」
僅かにぎこちなく表情をごまかしたが、それ以上上手く笑うことができなかった。
右頬に、肌色の絆創膏がある。
最初は気がつかなかった――彼女は気にしているのか、化粧でもしているのだろう。
「いや、その、頬の傷」
あ、と目を丸くして恥ずかしそうに笑い、そして頭を掻いた。
「ちょっと、ね。ううん、大した傷じゃないし、大丈夫よ」
大した傷じゃない、と言っておきながら、かなり大きい切り傷だ。
――そんな、はず、ない
ついっと視線をそらせて、彼は自分に言い聞かせるようとする。
「何、心配してくれてるの?」
「うるさいっ!誰がお前の心配なんかするか!」
人間は、本当にどうしようもない時に話しかけられると本音が出てしまう。
あ、と気がついてももう遅い。
本当にそれどころじゃない――でも、今の反応は明らかに心配している人間の反応だ。
と、気づいた時には、本当にんまりと笑みを浮かべる幸せそうな顔があった。
舌打ちしてそっぽを向いて、彼は黙り込んだ。
――くそ、勝手に喜んでおけ
なぜか沈黙が続く。
一人の通学よりも何故か寂しい空気が漂う。
実隆の僅かに後ろで、菜都美はうつむき加減に彼の様子をうかがっている。
初めは嬉しそうに笑っていたのに、いつの間にか笑顔が消えてしまっている。
――全く…何を考えてるんだ
でも実隆も自分から声を掛ける気にはなれない。
「……ミノル」
結局沈黙を破ったのは彼女の方だった。
僅かに目を伏せて、視線を正面に固定したまま。
「何だよ」
再び沈黙。
彼女の貌を盗み見るように目を向けると、彼女も顔を上げた。
「今日、一緒に帰れないかな」
いつも遠慮もせずに背中から声を掛けるくせに、妙にしおらしく言う。
少なくとも、こんな時の彼女は何かを相談したいか、言いたいことがあるはずだ。
――それはよくわかっている
ふと優越感を感じて、少しだけ気をよくした。
ちらっと彼女を見ると――そわそわと、不安そうにしている。
「いいぜ。どうせ暇だしな」
予想外に。
彼女は、僅かに安堵の表情を見せただけで笑う事はなかった。
何となく無言のまま、居心地が悪くて彼は不機嫌な顔を崩さなかった。
菜都美と別れると、教室の机の前で誰かが鷹と話をしていた。
「…あ、ほら、柊が来たから聞いて見ろよ」
めざとく教室に入る彼を見つけた鷹が、くいっと親指で実隆を指す。
学生服の少年は――見覚えのある。
彼はくるっと振り向いて、安心したように僅かに微笑みを浮かべた。
「柊さん」
剣道部の主将、鈴木だ。
学年は言うまでもないが一つ下、夏前に剣道部主将を務めるようになってからもちょくちょくここには来ていた。
三年の癖にレギュラーから離れられない隆弥のせいだとも言える。
隆弥もおっとりした人当たりの良い性格だから、後輩の受けは良かったようだ。
「ああ…昨日のことか?」
家に来たこともあるので、彼も顔は良く知っている。
鈴木は眉を寄せたまま頷くと、思わぬ事を言った。
「ええ、いつも試合以外でお願いすることはないんですけども」
「……?何の話だ?」
「あれ?練習のことなんですけど…昨日連絡したら『明日にしてくれ』って言われたんで」
実隆は眉を寄せた。
「兄貴、昨日練習で怪我したって言ってたぞ。病院に寄ってたから遅くなったって…」
すると鈴木は目を丸くして首を傾げた。
「え?でも、三年になってから練習で姿を見かけたのは試合の前の週だけですよ」
「ちょっと待て、あいつ毎日…」
そう言って、実隆は黙り込んだ。
鈴木が、何の意味もなくこんな下らない嘘をいう理由はない。
むしろ『そういうこと』なら、黙っているものである。
あの隆弥が口裏を合わせるのを忘れていたとは思えない。
もし部活の振りをしてどこかに出かけていたのだとすれば、昨晩の怪我だって理由がつく。
でも。
「柊さん、俺そろそろ行きます」
実隆が黙ってしまったので、ますます困惑して鈴木はとりあえず退散することにした。
「…悪いな。あいつ今日は休みだから、今度にしてくれ」
鈴木が頭を下げて帰ると、実隆は席についた。
そして今度は鷹が机の前に立つ。
「クスの奴休み?」
鷹とは隆弥は決して仲がいいようには見えない。
だが結構良いコンビである。
彼と二人で連むのは決して珍しいことではないし、少し変わった雰囲気の友人だった。
「ああ。なんか熱があるらしい。…昨晩はどっかで怪我してくるし」
は、と言うと彼は顎に手を当てる。
「もしかしてあれかな、今流行の奇病」
「へ?」
「何でも、かかると熱が出て倒れるらしいぞ」
新聞やテレビのニュースでは、未だに原因不明の謎の病気だとされている。
この病気が発見されたのが隣町で、数日熱がでて寝込むがその後何事もなく快復するという。
ただしここ数日立て続けに彼らは失踪しているという。
「…まさか」
実隆は笑いながら肩をすくめる。
ふん、と鷹は腕を彼の机の上に置くと僅かに声のトーンを落として話し始める。
「あのさ、実は聞いたんだけどさ…駅の裏っかわ、暗い通りがあるのは知ってるよね」
言いながら少し周囲を見回して、更に声量を小さくしていく。
彼の表情は硬い。
「そこでクスが見かけられたらしいよ。何人かから証言をもらったから間違いない」
実隆は絶句した。
駅の裏側にある通りとは、無論それだけでは別に対した意味があるわけではない。
問題になるのは――わざわざ『駅裏』と呼称した時である。
ここの駅は繁華街が隣接しているだけでなく、入り組んだ路地をもっていて、地元の人間でもその構造を把握できないと言われている。
急な上り坂と乱立するビルで囲まれた小さな密閉空間。
警官であろうと襲われることがあるという――犯罪の温床と言われている。
もちろん最初はそうではなかっただろうが、過去にやくざが一帯を占めていた事が原因の一つと言われている。
「そんなとこで…」
「まぁ、柊が信じる信じないは別さ。小耳に入れておきたかったから」
実隆がきっと顔を向けると、慌てて彼は手を横に振る。
「鈴木には言ってないよ。そんな顔をしないでくれ」
そんなに恐い顔をしていたのだろうか。
すぐに謝って、彼は自分の席に戻る鷹を見送る。
――しかし
家に帰ったら聞いてみなければならないだろう。
もしかして倒れたことだって、何か関係あるのかも知れない。
午前中の授業も半ば、彼はずっと考え込んでいた。
◇次回予告
「とめたんだけど、さ。……ちょっと今、家の方で騒ぎになってるんだ、弟のこと」
突然泣き出す菜都美、そして向けられる疑いの眼差し。
「二日前の夜、あなたはどこで何していたのか、教えてもらえないかしら」
あの夜の出来事は果たして――夢だったのか?
Holocaust Chapter 1: 実隆 第4話
他人の痛みの判らないガキが生まれすぎてるんだ
混じり始める夢と現実
―――――――――――――――――――――――