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Holocaust ――The borders――
Chapter:1

実隆――Minoru――   第2話


 昼。
 チャイムが鳴って、実隆は鞄から弁当を取り出して隆弥の席へと向かう。
 昼食の弁当は、決まって母親(代わり)の里美さんが昔っから同じように作ってくれている。
 彼女も細かいことまで気のつく人で、非常に芸の細かい弁当である。
 とてもあの短い朝の時間に作っているとは思えない。
 簡単なおかずではない。冷凍食品を一品も使わずに丁寧な弁当を作ってくれるのだ。
 いつもの飾り気のない青い弁当の包みを開こうとして――ぽん、と肩に手を置かれる。
 僅かに顎だけで教室の入り口を指し示す隆弥。
「ん…」
 振り返る。
 実隆はしかめっ面をして、顔を戻した。
 糸目をほんの僅かに歪めて、笑みを浮かべる隆弥。
「はっはっは、早速尻に敷かれてるな。恐妻家になりそうだな」
「馬鹿」
 彼が指し示した方向に、何故か落ち着かない顔をしてうろうろする菜都美の姿があった。
 時々困ったようにこっちを窺うと姿を消して、再び顔を出す。
――なにやってるんだあいつは
 とはいえ――間違いなくこっちを見ているし、教室に入ってこようともしない。
 あんまり考えたくないが、行くしかないようだ。
「悪い、兄貴、ちょっと行って来る」
「断らなくても良いよ、お前の」

  すぱこんっ

 小気味良く実隆の右手が鳴る。
 一瞬周囲の視線を集めるが、『いつものこと』とざわめきが戻る。
 実隆の特技、「はりせんちょっぷ」だ。
 彼曰く「微妙に掌をすぼめて、当てる瞬間にちょっと気をつかうんだ」という難しい技。
 隆弥の頭の上で煙を上げる実隆の右手。
「五月蠅い、黙っとけ」
 ふん、と鼻を鳴らして実隆は彼に背を向けた。
 何故か隆弥はにこにこで彼に向かって手を振っていた。
――全く、少しは周りの目を気にしろよ
 菜都美は教室の入り口付近でふらふらと行ったり来たりしている。
 なんで、そこで困った貌をしているんだ、そんな風に思いながら彼は彼女に近づいていった。
 他人からしてみれば、菜都美を待たせているようにも見えるだろう。
 ひょいっと姿を現した実隆を――まるでタイミングよく見つけたかのようににっこり笑って迎える。
 そして開口一番
「悪いわね〜ミノルぅ、ちょっとそこまでつき合ってよね」
 いつものノリで言いながら僅かに首を傾げてウインクする。
 実隆は思わず首を傾げそうになる。
 菜都美は彼の様子に気づいたのか気づかないのか、立てた右の指をそのまま実隆の鼻先に突きつける。
「何よ、なんて貌してんの。全く…」
 そんな事を言われた物だから、不機嫌そうな返事しか返せない。
「るせーよ。…わざわざ昼飯のこんな時間に教室の前で睨まれてりゃ、嫌にもなる」
「ばーか。睨んでるんじゃなくて目で合図してたの。全く、他人が聞いたらなんて思うか」
 勝手な解釈だ、と実隆は思った。
――なんて思うかって、そりゃ決まってる。痴話喧嘩だよ
 無論口にしない。そんな事したら、ますます泥沼だからだ。
 でも実は、今更否定する材料もなく、実隆は彼女の公認の彼氏ということになっている。
 本人達が気づいているかどうかは、ともかく。
「るせぇ…俺は教室の前で立たれる方が嫌だ」
 ふーん、と少しだけ嬉しそうに覗き込むような気配。
 視界の半分を、いつの間にか彼女に占領されていた。
 思わず大きく後ろに下がって、仰け反るように両手を彼女に向けて大きく振る。
「こ、こらっ」
 一瞬だけ彼の様子に目を丸くする。
「何慌ててんの。…変なの」
 ふん、と溜息のように吐息を流して、彼女は腰に手を当てた。
 だから。
――そう言えばこいつは、今の噂をどう思ってるんだろうか
 そんな事を考えたりした。
「それでいったい何の用だよ。…わざわざ呼ぶぐらいだからそれなりに急ぎなんだろうな」
「そんなのもちろん。だって今週の話なんだから」
「え?」
 あ、と少し顔を引きつらせる菜都美。
「…まぁいいや。…それで、一体聞きたい事ってなんだよ」
 一瞬しまった、という風に顔をしかめて、素早く目を左右に走らせる。
 あからさまにあやしい。
「こ、ここじゃぁなんだから、ちょっと」
 急に声を裏返らせて、ぐいっと彼の腕をつかむ。
「お、おいっ」
 駆け抜けるようにして彼を引きずりながら、彼女は無言で廊下を降りる。
 北区の校舎から東へ向かうと講堂がある。
 敷地の西に、体育館がある。
 講堂と体育館の間に部室が立ち並んでいる。体育館周辺には武道系の部室があるためにかなり入り組んでいる。
 人が隠れるには丁度良いような隙間の森――ちょっと見た感じではそうでもないのだが。
 気がつくとその森の奥に立ちすくんでいた。
「…なんだよ」
 ただし、この場所は曰くがある。
 幽霊が出るだの、気が狂うだの、更にくわえると、喧嘩するためには非常に有効な場所だと。
「ちょっと、さ、あの。…人に聞かれちゃまずいのよ」
 無論、この時間この場所、誰がいるわけではない。
 放課後とはうって変わって、実は人が近寄るのをまるで拒む気配があるからだ。
「というよりも、あたしが聞きたいことが、丁度あんたしかいなかったってこと」
「はぁ?」
 妙にぎこちなく、彼女らしくない歯切れの悪い解答。
 あさっての方向を見て、もじもじとしている態度はどっかで見たような気がする。
 それも随分と昔――
 白くもやのかかった記憶を思い出しかけた時、割り込むようにして彼女の声が聞こえた。
「勘違いしないでよ、今週末、隆弥さん暇かな?」
「え?えええ?」

――少し整理しよう。
 まず昼休みに、菜都美がわざわざ呼びに来た。
 菜都美は、俺じゃなくて、兄貴に用事があったらしい――

 実隆は完全に呆れた表情で、彼女の言葉を受けた。
「あのさ」
 直接ではなくて自分に訊いた事が何より苛立たしかった。
 何も自分に言う必要はないだろうに。
 窺うような彼女の様子も苛々させる。
「……いつもなら教室に入ってきて呼ぶだろうに…今更と思っていたけどさ」
 ばきばきと歯ぎしりして、彼は怒りの表情で彼女を見返す。
「何でそれで、俺なんだよ」
 彼女にそれが通じたのかどうか。
 あっけらかんと、変わらない調子で続ける。
「だから言ったじゃん。あんたしか訊く人いなかったから」
「だからぁ…」
 苛々。
「素直に本人に訊くわけに行かなくて。…ね、どう?」
 そんな事を言われて、両手を合わせてお願いされたところで素直に言うこともできない。
「知るかよ、そんな事。……知りたけりゃ直接聞けよ、馬鹿」
 右手を大きく振ると、実隆は非難のような声を上げる彼女を背に、教室へと戻っていった。

 とうに五分十分たったのに、隆弥は弁当の包みすら開けずにちょこんとそこに待っていた。
「あ、以外と早かったね、ミノル」
 隆弥が声を掛けてくる。彼が悪いわけではないが、いがいがした心が引っかかって笑うこともできない。
「…五月蠅い」
 小声で抵抗して、彼は自分の席についた。
 隆弥は怪訝そうに顔を上げて、彼の弁当を右手でつまむ。
「ミノル」
 弁当をひらひらさせて彼の名を呼んでも、実隆は向こう側を向いたまま机に突っ伏してしまう。
「弁当はやるよ、兄貴。…俺、今、食欲ない。兄貴は部活にでるつもりなんだろ」
 隆弥は剣道部に所属していた。実力はこの校内では随一と言ってもいいだろう。
 もう卒業前だというのに『稽古を付けてやるんだ』といって、毎日通っている。
 笑えるのが朝練だけは無理だという事か。
 昨年など主将も諦めていると言うぐらいの(ある意味)実力者だったらしい。
 もっとも、今でも(そう、この時期に至って)主戦力というのだから笑えない。
「…ミノル」
 珍しくマジな声の隆弥。
「里美さんに言いつけるぞ」

  ぎくり

「ちょ」
 慌てて机から身体を引き剥がして起きると、眉根を寄せて困った表情の隆弥が見えた。
 彼は自分の右手を顎に当てて、うんうん唸っている。
「もらうのは全然いいんだけど、里美さんなんていうかなぁ」
 ぎりぎり。
 実隆は歯ぎしりする。
 里美さん――要するに母親代わりは、非常に気にするたちの女性。
 一介の息子(代わり)が弁当を残しただけで自殺しかねない程繊細――とは言わないが、そのぐらいの女性。
 …もしくは残すといぢめられる事もある。
 もちろん、実隆はそんな事は百も承知しているから、きちんと食べているのだ。
「…兄貴」
 隆弥はにこにこして弁当を差し出して言う。
「そうそう、素直に食べなさい」
 彼は人畜無害な表情で手招きして、自分の前に彼の弁当を置いた。
 これには実隆も頭を下げるしかない。
――くそぉ
 彼は無言で席について、弁当を受け取った。
 隆弥――いや、楠家の風習らしいのだが、今のように自分の家族は名前で呼ぶようにするらしい。
 彼にしても、母親のことを「お母さん」と呼んだ記憶はないと言う。
 だから、実隆はいつまで――いや、逆に今の今まで、完全に家族として機能しているとは言い難い。
 隆弥はその辺も心配だった。
――いつになったら、名前で呼んでくれるのかな、こいつは
 差し出した弁当を悔しそうな顔で受け取る『弟』を見ながら、彼はそう思った。


 それはあまりに唐突な提案だった。
 だけど、彼にとっては唐突でも何でもなかった。
 何故なら、それは却下すべき提案として、既に刻み込まれていたから。
 だから、何の感情もなくそれを破棄すると自分の仕事に目を向けた。


 放課後。
「よ」
 突然ぎりぎりの背後から声をかけられて、実隆は飛び上がった。
「んなっっ……今度は何を笑いに来たんだ」
 しがない帰宅部の彼は帰る準備をして、教室を出たばかりだった。
 彼の背後には、昼食を乱した悪魔――菜都美がいた。
「笑いにって…」
 彼女は何故かむぐむぐと口ごもると溜息をついて肩をすくめる。
「何でそこまで卑屈になるかな。もう。一緒に帰らない?」
 にっこりとしか言いようのない笑みを浮かべて、彼女は聞いてきた。
 受験戦争という言葉がはやったのはもう昔の話だ。
 そもそも、真剣に自分の事を考えられる程落ち着いた高校生は昔程多くはない。
 この高校の校風もそんな時代の流れに乗っているような自由な雰囲気がある。
 隆弥の部活参加なんかはその最たるものだろう。
「ふん、好きにしろよ」
 『助っ人』と呼ばれるのは、彼女が試合の際の穴埋めに活躍していたからだ。
 あちこちの部活から引く手数多のはずの彼女は、何故かどの部活にも所属しなかった。
 できないのか、しようとしていないのかは判らない。
「うん、じゃあ好きにするよ」
 ぽん、と彼の背を叩く、そんな時の彼女の表情はすごく自然な感じがした。
 でも笑っているのにどこか寂しそうで、彼は少し投げやりに声をかける。
「結局どこの部活にも――本気出してやることはなかったんだな」
 わいわいと教室から飛び出していく連中は、運動部所属の連中だ。
 サッカー、野球、陸上…一応一通りうちにはある。
 武道と呼ばれる部活は特に多く、恐らく他の学校よりも多いだろう。
 それも――この御嬢様の家のせい、いや、御陰である。
 彼女がそんな武道系に入るはずもなく、結果今の状態である。
「…まぁね」
 僅かに溜息を吐いて、彼女は長い髪をかき上げた。
 校舎から校門へは最短距離。
 運動部の連中は逆方向へと廊下を進んでいく。部室か、直接グランドの方へ向かうのだろう。
 リノリウムの床をかつかつと、金属のスパイクが蹴立てていく。
「――ミノルは?」
 すれ違っていく陸上部の一人から、彼に視線を移す。
 実隆はじっと正面に目を向けていて、不機嫌そうな表情を崩さない。
「俺?まさか。…俺みたいに何にもできなくて、連むのも興味のない人間は部活なんか入らないの」
「ミノルが?嘘」
 素っ頓狂に声を上げたものだから、実隆は眉を寄せてますます不機嫌そうにして菜都美を睨む。

  ぱかん

 そして手加減容赦のない拳が頭に入る。
 菜都美は両手で頭を抱えて、涙目で睨み返す。
「何よ、痛いじゃないの」
「五月蠅ぇ、吠えてろ」
 昇降口への階段を下りて、靴を履き替える。
 朱に染まった夕暮れ。
 昼間の熱気と、冷めていく空気の境目にあるこの時間、遠くで喧噪が聞こえる。
 歓声のようなそれはどこかの部活だろう。
 それらに背を向けて、二人は夕暮れの通学路に足を踏み出した。
 同じように帰路に就く生徒達は、三年か、用事のある者だろう。
 でもどれだけの人間が、将来を真剣に考えているだろうか。
「…」
 菜都美は口を開こうとして、止めた。
 彼女の前を、夕暮れの日差しを浴びながら歩く実隆。
 何故か、急にそれが手の届かないところへと遠ざかっていくように見えて、声を掛けられなくなる。
――実隆…
 もちろんそんなものは錯覚だろう。
 遠近感のつかめなくなった背景を、彼が悠然と歩いていく。
「菜都美」
 はっと、彼女は目が覚めたみたいに目を瞬かせた。
 先刻までの非現実的な風景はかき消え、元の距離感が戻ってくる。
「お前んとこの治樹ってガキいただろ?あいつ元気か?」
 治樹というのは菜都美の弟で、一番年下の姉弟になる。
 彼女のところは四人姉弟で、上から明美、菜都美、冬美、治樹となる。
 治樹は中学三年で真桜の四人姉弟の中で唯一の男なのだ。
「急ね。…元気だけど、なにか?」
 元気すぎるけど、と言う言葉は飲み込んで答える。
 実隆の言葉に含むよう物を感じたからだ。
「いや。この間喧嘩してたからな、ちょっと気になったんだ」
 ぴくりと眉を振るわせる。
「喧嘩…あの子が?」
 声色に緊張のようなものが混じったのを聞いて、実隆はちらっと彼女を横目に見る。
 頬が引きつっている。
「なんだよ、確かあいつ中学生だろ?喧嘩なんか珍しくもないだろ」
 女じゃあるまいし、と言いかけて止めた。
 なんか、それを言うのは卑怯な気がしたからだ。
 その代わり、彼女の反応を待ってみる。
 しばらく無言で歩き続けて、困った顔のまま、彼女は言った。
「ごめん、あたし急ぐから」
「え、あ、おい」
 見る間に彼女の姿は小さくなっていった。
 呼び止めるのも、車が飛び出してくるのも構わずに。
――…全く、何過保護になってるんだか
 中学生の喧嘩ぐらいであんなに心配そうな顔をして。
 彼はそう思ったが、必死になった彼女の貌が妙に引っかかっていた。
 菜都美も弟のことはともかく、昔は喧嘩っ早い性格で、女だてらにガキ大将をやっていた。
 そもそも、彼女とのつき合いも長く、小学校の頃から暴れん坊だった彼女をたしなめるのが彼の役目だった。
 何度か本気で殴り合いもしたことがある。
 もっともそれは小学生までだったが。
 中学に入っても、体格差があるはずの男子と対等に渡り合い、仲裁に入る実隆がいなければ被害が拡大する一方だった。
 だが卒業直前、彼女は喧嘩を止めた。
 喧嘩ができなくなったというべきだろうか。
――そうか
 そんな時に、やっと思い出した。
――あの時か、あれは
 菜都美が真っ赤な顔ではにかんでいたのは、その頃。
 あの――時の事ははっきりとは覚えていない。
 何故彼女がそんな顔を見せていたのか。
――同じ高校に行くとは思っていなかったからな
 何となく心の中のもやもやははれた。
 でも、だから菜都美のあの必死な表情を思い出して小さく舌打ちした。

 彼の家――楠の家は、ごく普通の家だ。
 どこにでもある、建て売りの二階建て住宅。
 ちょっとだけベランダや出窓があって、実は内装も豪華っぽい。
 どうやら家人の趣味らしく、小綺麗にまとまった調度類は暗褐色で統一されている。
 庭も見慣れたものだが、手入れが行き届いている。
 親父さんの趣味が庭いじり、いや、ガーデニングらしい。
「ただいまー」
 玄関をくぐると、いつもの里美さんの明るい声が聞こえるはずだった。
 だが、ざわざわと誰かの声がして、騒然とした感じの居間があるだけで――
「あ、おかえりなさい。寒かったでしょ、台所のポットお茶あるからね」
 ばったりと、居間から出てくる彼女と鉢合わせた。
「はい、どうも」
 何となく気まずくなって、とりあえず返事を返してそそくさと台所に向かう。
――なんか、変だ
 先刻の彼女の表情。
 気まずくなった最大の理由は――今、自分の母親が、ぎこちない笑みを浮かべていたから。
 いつものような底抜けの明るさのある声ではなかったから。
 菜都美にしても、今の彼女にしても心をざわめかせる。
――何かある…いや、あったのかな
 それとも自分の変化だろうか。
 妙に過敏になっている気がする。
 卓の上にあるポットを取ると、彼は湯飲みに注いだ。
 お茶専用のポットがこのうちにはある。お湯専用は電気ポットで、コンロの脇にある棚の上にある。
 暑いときの冷蔵庫のお茶と同じようなものがほしい、という父親たっての願いだとか。
 湯飲みから湯気が立ち、少し口に含む。
 喉を通る暖かいお茶は、熱くもなくぬるくもない。
 肩からぽっと暖まっていく。
――妙にのどが渇いている
 とりあえず鞄から弁当の空容器を出して、卓の上に置く。
 居間の騒ぎも気になるが、彼は二階にある自分の部屋へと戻ることにした。
 今日はもう疲れた。
 ベッドにごろんと横になって、彼は大きく溜息をついた。
――なんでこんなに振り回されなきゃならないんだ
 今感じている不安が、不調が、何故か全て菜都美のせいに思えてくる。
 あんな別れ方をして、母親は奇妙に含むところがあり。
 気のせいなんだろうと思う。気のせいだとは気がついている。
 でも、何故か苛々する。苛々を――止められない。
 今朝、寝坊したせいもあり、苛々よりも眠気の方が強く襲ってきた。
 今寝たら、夕食を逃すだろうか。
 いや、ここの食卓に限ってそれは絶対あり得ない。
――呼びに、来るよな…
 少しだけ眠ろう。
 苛々だってそれで解消できるはずだから。


 風。
 いつもよりも早くいつもよりも強く、風が吹いている。
 空気と一緒に風景が流れ去っていく。
 とん、と軽い音が聞こえて、視界が更に流れていく。
 軽い。身が軽い。
 どこまでも遠く遠く遠くへと吸い込まれていくように身体が舞う。
 風の流れが、まるで渦のように全身を取り巻いている。
 たった一点の、狂いも惑いもない点へ。
 スピードと全身が感じる歓喜に、心臓が破裂しそうだ。
 顔まで引きつれて、笑っているのか――判らない。


  ちりん


 だけど、それはほんの一瞬で元に戻った。
 今の今まで見えていたあり得ない風景が、まるで嘘のように。
 時間を巻き戻したようにすぐに――元に。

 同時に時間が還ってきた。

 今までの無限に引き延ばされたような時間感覚では感じられなかった。
 夜――蒼い蒼い夜が周囲に帳を下ろしている。
――ああ、いつの間にか夜になっていたんだな
 感じられないはずだ。
 夜がこんなに明るいとは。

  そんなに悠長に考えてる暇はない

 思考と行動が一致しない。
 そのずれを感じた時――それが夢だと言うことに気がついた。
――なんだ…夢か
 夢の中で夢であることに気がつくと目が覚める、という。
 だが、夢の中の風景は続く。
 視界がゆっくりパンしていく。
 川――河川敷――住宅――車。
 車の残骸のようなものが堆く積み上げられていて、今にも崩れそうな気がする。
 本当は崩れないのかも知れない。だってあそこは――
 視界が揺れた。
 再び、あの加速度的な風景が――でも、今度感じているのは歓喜ではなく。
 それは緊張。
 戦慄、という言葉が似合う程陽気で、残酷な思考。
 間違いなく純粋さを失った――狂気。
 でもそれに委ねる快楽というのは――純粋さよりも、強烈な意志を持つ。
 自らで選んで、それを選択しているのだから。

  とん、とん、とん、と。

 揺れている視界が定まっていく。
 ここはあの、車が見えた場所。

 まずい、と。

 一瞬、自分ではない自分が思考する。
 ここではやられる――殺られる?
 何かが近づいている。


  ずしゃ


 兇悪な音が響いた。
 多分、それは履いた革靴がたてた音。
 原因は――普通なら耐えきれないほどの重武装をしているから――

 視界にそいつが現れた。
 正確には視界に納めたのだ。
 誰あろう、自分が。
 敵と認識した段階で、それ以上の判断は必要ない。

  ただ殺すだけ

 ただ――殺す?
「――十三の風の死者より通達する」
“Death of Wind notify ”

 声が聞こえた。
 凛とした、厳かな口調。
 その紡がれる言葉は英語――Kingdom English。
「隠された眼はお前達の星々の中で息づく」
“The hided eye breath your solor system”

  だ  たん

 突如意志とは別の方向に視界が引きずられていく。
 ああ、だから――なおのこと、それが夢であると強烈に意識させる。
 なのに、夢は覚めない。
 影のような人が次々に歪む視界に割り込んでくる。
 何かが動く。

  ひゅん

 空を裂く音が響いて、耳元をかすめていく。
 怒り。
 視界が一気に宙を舞い、人影に迫る。

  残像

 だが人影はすぐに消える。
 悔しそうに影の飛んだ方向へと視線を移し、僅かに後ろに跳躍して――手には何かを握る。
 それは、車のフレームの一部。
 もう一度、今度はソレを構えて突進する。
「日記は存在する。雷の環は終焉を迎える」
“Diary is exist. High electric ring ended.”
 影は地面を蹴って、車の残骸に跳ぶ。
 顔が引きつれた。
 にやりと笑ったようだ――思惑通り過ぎて。
 声のする方向に目を――否、手に持ったフレームを投げた。
 人影が、手にした物を宙にいる間に構え――それだけに飽きたらず、視界が急速に接近する。
 暗くなる視界に、衝突の衝撃。

  ご がん

 影の足下が、今の――車に対しての体当たりだろう、それによって一瞬崩れる。
 着地の地点が僅かにずれる。
「――!」
 既に崩れてしまった体勢では、飛来する斧のようなフレームを避けることはできない。
 僅か――コンマ何秒かの小さすぎる隙が、敗因。
 確かに勝利を感じた彼は、口元に笑みを湛えて、風の唸りを聞いていた。

  ひょう

 いや――まだ、勝利は確かではなかった。
 目の前で、男は一気に鞘を抜き放ち、地面――車に鞘を打ち付ける。
 逆手で構えた刃を、フレームに向けて――一閃。
 甲高い音と火花を散らせると、フレームは回転しながら彼を避けて後ろへと突き刺さる。
「やる…な」
 ああ、初めて声が出た。
 そう思った時、影の顔が――


「ご飯よ」
 里美の声で目が覚めた。


◇次回予告

  あり得ない物が、彼を驚愕させる。
  「ミノル、ただいま。たまには出迎えてくれるんだね」
  夢で見た場所と、同じ場所に傷痕――その夜は、しかしもう夢を見なかった。
  次の日、学校で嫌な噂を聞く。

 Holocaust Chapter 1: 実隆 第3話

 え?でも、三年になってから練習で姿を見かけたのは試合の前の週だけですよ?
                                            それが 暗い疑念の始まり

      ―――――――――――――――――――――――


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