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Holocaust ――The borders――
Chapter:1

実隆――Minoru――   第1話


 それは朝早く起きたせいだった。


 気がつくと喉元まで嫌な汗がじっとりにじんでいる。
 手を当てると、そこにまるで膜でも張っているようにべたつく。
――こんなに暑かったかな
 季節は――初春、まだ冬とも言えるぐらい寒いはず。
 まだ眠い――まどろむ意識では何を捉えることもできない。
 再び深い意識の底へと引きずられていく。
 だが、混濁する意識に、僅かにふれる物があった。
「――のる」
 それは、その声だけは眠気を覚ますようなかんに障る声。
 初めて聞く声、でも、判る。
 その声が自分にとっては嫌なものであるはずだと。
 それが自分に対する呼びかけであると気がついた時、誰かの声が聞こえた。
「――んだよ」
 自分はまだ口を開いていない。
 それに声が出るかどうか疑わしい。
――なんだ
 だから、自分以外が答えたと言うことは、これはどうやら夢らしい。
 ということは、自分はまだベッドの中で横になっているに違いない。
 違和感のあるこの感覚だって、夢だ。
 そう、彼は思って無意識に顔を拭った。

 べとりと。

 喉元の脂とは違う――さらさらとした、でももっと嫌な感触のもの。
 膜ではなく、今度はそう、まるで絵の具でも顔に塗ったような感触だ。
 驚く暇もない――視界が急激に開ける。
 異常なまでのリアル、それが夢とは思えず思わず息を呑む。
――どこ――だ?
 そこは四角い部屋。
 彼は薄暗い灯りの中で、立ちつくしている。

  ぽたり  ぽたぽた

 先刻からしきりに顔を拭っている。
 拭っても拭っても、絶え間なく流れ落ちてくるもの。
 水よりも濃く、まるで塗料のようなそれは――一体何?
 何の夢なんだ?
 そもそも本当に夢か?こんなにもあまりにもリアルなのに――でも、嗅覚はない。
 何で、この部屋はこんなに冥いんだろう。

 そう、思った途端。
 彼は弾けたように目を覚ました。

 こちこちと時計が囀っている。
 やけに耳につく時計の音。
 まだ目覚ましには二時間近く余裕がある。
 時計を見て、彼は慌てて自分の顔と首をなで回す。
 汗などかいていない、それに長袖の室内着でも寒い位の気温だ。
 脂がべとつくはずはない。
 それに、ここは先刻とは――

  がたん

 彼は転がるように立ち上がって、大慌てで便所へと走った。
 起き抜けで動かない体を、ばくばくと脈打つ心臓が押し出す。
 無理矢理引きずられているようで、でもまた逆に急がなければ、裏返った胃袋が言うことを聞きそうにない。
 結果、彼は便器に倒れ込むように身体を支え、思い切り吐いた。
 げほげほとせき込み、足りない酸素を取り込もうと身体が呼吸を求める。
 芳香剤の香りが鼻をついて、そのせいでもう一度吐きそうになって――落ち着いた。
 強烈すぎるその匂いが、夢から――現実に引き戻してくれた。
 無理矢理叩き起こされた心臓が、抗議のように鳴り続けても、今はそれが現実に引き留めてくれる。
――ここは、何もないいつもの朝の自分の家なのだ、と。
「ふう」
 だから、べたべたの顔で、やっと息をついた。


 早く起きたのは、凄く夢見が悪かったから。


 洗面所で顔を洗い、口を濯ぎ、適当なタオルで顔と首を拭く。
 特に髪の毛――滴る水など残らないように丁寧にふき取る。
 時刻は五時をまだ回ったところ、普通ならまだ眠っていてもおかしくない時間だ。
――ちぇ、これじゃあ今日の午後寝ちまうだろうが
 自分で自分に悪態をつきながら、彼はもう一度顔を洗って自分の部屋へと戻った。
 彼の名前は柊 実隆(みのる)、高校三年生。
 故有って、今の家族の御世話になっている。
 家族の名前は楠(くすのき)、やはり一文字だ。
 彼は児童養護施設にいた頃から名乗っていた名字を捨てる気になれなかった。
――唯一の彼の手がかりであり、生まれてから唯一持っていた財産だったから。
 今から十七年前に酷い交通事故があった。
 車および同乗していた人間の破損は著しく、とても人間であることを区別する事はできなかった。
 事故現場のすぐ側、さほど離れていない草むらに彼はいた。
 そして児童養護施設に引き取られて、幼年期を過ごしたが、ある時彼を引き取りたいと言う家族が現れた。
 それが楠家だった。
 彼の部屋の隣には隆弥(たかや)と言う名前の兄弟がいる。
 のんびりした雰囲気が周囲を落ち着かせる、ムードメーカ的な男だ。
 年は同じなのだが実隆は隆弥の事を『兄貴』と呼んでいる。
――兄貴の奴、起きなかったかな
 何も文句を言わないタイプだから少しだけ心配する。
 人が好すぎる人間で、少なくとも彼が感情をむき出しにして怒るところを見たことがない。
 自己主張はするのに、決して他人の領域に踏み込もうとしないというのだろうか。
 だからだろうか。気がつくと、彼はいつも人の輪の中にいる。
 隣からはほとんど物音もしない。
 普段から朝起きるのが苦手な彼だから、気にしても仕方ないのかも知れないが。
 彼は大きく溜息をついて、部屋に戻ってベッドの上にごろんと横になった。
 落ち着いた、といっても一度あれだけ激しく目覚めてしまうと、ちょっと眠れない。
 よく朝早く起きてからの軽い運動は、目も覚めるし勉強や仕事がはかどるという。
――ちょっと、違うか
 目覚ましがなるまでごろごろしていよう。
 彼はゆっくり目を閉じた。
 もう二度と、あんな悪夢などみたくないと思いつつ。


Chapter 1 実隆 ― Minoru ―


「だからそんな言い訳、しなくていいから」
「――――!だからっっ!」
 勢いよく流れていく、通い慣れてしまった道。
 アスファルトが堅くて冬の空気に締まっているようで。
 スニーカーの叩く音も甲高く、朝の空の下を駆け抜けていく。
 さわやかなはずの朝の街並みの中を、一組の男女が走る。

 今まさに、彼らは遅刻寸前だった。

「ちくしょーっ、兄貴の奴見捨てやがった!」
 実隆は顔を真っ赤にして叫ぶ。
 一応隆弥の名誉のために言っておくと、彼は見捨てたのではない。
 のんびりしているので気がつかなかっただけだ。
 普段から寝坊する彼は、実隆に起こされても起きることなく結果遅刻する。
 実隆は付き合いの良い方でもないので、起こすだけ起こすとさっさと置き去りにしてしまう。
 だから、普通通りに起きた隆弥は(いつものように)とっくに実隆はでたものと思って出てしまったのだ。
 ようするに、普段自分がやっていることが帰ってきただけであって、怒られる筋合いなど、ない。
――糞兄貴め、あとでこてんぱんにのしてやる
 逆恨みも良いところだろう。本人、気がついていないが。
「他人のせいにしないほーがいいよ♪あとで困るの自分だよ」
 隣で同じように駆けている少女が楽しそうに言う。
 この併走(伴走?)しているのは体育会系帰宅部、人呼んで助っ人の御嬢こと真桜菜都美だ。
 真桜という非常に変わった名前だが、紹桜流古武術とか正倉式(しょうそうしき)抜刀術などの古武術で有名な家柄だ。
 中学の時には『暴君』の渾名で向かうところ敵なしの喧嘩屋だった。
 御嬢様として育てられていたはずなのだが…
「くそ、お前は一体誰の味方だ!」
 実隆は――どうやら、かなり頭に来ているらしい。
 顔を真っ赤にして息を荒げながらも大声で隣の菜都美に叫ぶ。
 ちなみに彼女が通学路が一緒なのは、特別な感情ではなく特別な意味のためである。
 足を前に運ぶたび、彼女の短くも長くもない髪が上下に大きく揺れる。
 丁度、鳥が羽ばたくように。
「えー♪そりゃ自分に決まってるでしょーが」
 にかっと笑みを浮かべて、やけにさわやかに言う。
 ちょっとたれ目気味の目が、笑うと更にたれて見える。

 今を遡る事、おおよそ一年前。まだ菜都美が風紀委員をしていた頃の話だ。
 どういう偶然か、彼女が遅刻取り締まりの当番で出ていた時にぎりぎり遅刻したのが彼だったのだ。
 本当に偶然だった。
 結局、説明すると長くなるが、ようするに遅刻するかしないかの賭が二人の間で取り決められているのだ。

 それ以来一度も欠かさず彼の登校時間チェックをしているということだ。
 それなら校門で待てばいいようなものだが、わざわざ彼の家まで赴いているのだ。
 それもこんな、遅刻間際の時間にまで。
「さぁさ、さっさと諦めてしまいなさいよ」
 にやにやと笑いながら言う彼女は、全然平気そうな顔である。
 並んで走る実隆の方はぜいぜい荒い息をついているのに。
「うるせーっっ!誰がお前なんぞに土下座するかよっっっっ!」
 にやにやしている彼女の貌に、実隆は更にかぁっと頭に血を上らせる。
 全力疾走。
 息もつかずに校門を抜ける――

  きーんこんかーんこん きーんこんかーんこん 

 始業の予鈴が鳴り響く。
 その中を地面を蹴立てて校門をくぐる。
 もう人数はかなり少ないが、まだちらほらと生徒が残っている。
「ふう…」
 これで、とりあえずの遅刻は免れたわけだ。
 だが五分以内で教室に入らないと、HRが始まってしまう。
「ち、今日はその首つながったみたいね」
 菜都美は息も上がってないという風で、両手を腰に当ててふんぞり返っている。
 実隆はその様子を恨めしそうに見上げながら、両手を膝に当てて息をついている。
 はっきり言って、完全に運動不足だ。
「余裕だな」
 何とか声を出した彼に、菜都美は両腕で力瘤を作る格好になる。
「とーぜん。伊達に助っ人御嬢をやってないわよ。…それより、急いだ方がいいわよ?」

 この学校は一年が一番西、三年は一番東の校舎で授業を受ける。
 丁度菱形になった平べったい校舎があるとしよう。
 この校舎は二階建てで、中二階が廊下になっていて全てつながっている。
 正門が南を向いていて、この区画付近に厚生センターなどが密集している。
 通称北区には、ご想像通り二年生が授業を受ける区画がある。
 中央に教職員室があるという構造で、実は五分前に校門通過は既にその時点で負けを意味するのだ。
 正規のルートでは昇降口から中央、そして東区へという形だからだ。
 だが無論、抜け穴など幾らでもある。
 特に実隆の教室は1F…つまり、地続きで教室に入れるのだ。
「珍しいね、ミノル、君が窓を利用するなんて」
 実隆の上履きを取ってきた少年は溜息混じりに言う。
 長髪を首の後ろでまとめた、ちょっと見は悪くない感じの男。
 彼は上杉 鷹、タカマルと呼ばれている。
 悪気があって呼んでいた訳ではないのだが、本人は非常に気にしていて辞める予定だったのだ。
「ごめん、ミノル。俺もう学校に行ったものと思ってたから」
 いつも自分の出てくる入り口に、自分とは違う人を見つけたのは彼の功績である。
 言うまでもなく、楠 隆弥その人だ。
 仲のいい友人は彼を『タカ』か『クス』と呼ぶ――結果、区別のために鷹はタカマルと呼ばれるようになるのは、必然だった。
 紛らわしいと言えば、紛らわしい。
 ストレートなさらさらの髪に眼鏡、これで『僕』なら完璧だったのに。
 眼鏡の奥で人懐っこい糸目が見つめている。
「…いいよ、兄貴。兄貴ほって行ってるのはいつもだし。…悪い、今度から声かけるよ」
 実隆はなんか妙に悪いことをした気になって、素直にそう謝っていた。

「うん。ね、それよりさ…」
 隆弥が声をかけて彼に手招きした時、丁度担任が入ってきた。
 タイミングとしてはぎりぎりというところか。
「あとで」
 実隆は手を振って答え、自分の席についた。


「何だよ、先刻何を言いかけてたんだ」
 HRが終わるとすぐ、彼は隆弥の席へと急いだ。
 隆弥も言いたいことを用意してたらしく、取り巻きが来る前に彼に手招きしていた。
「なに、大したことじゃない。今日、俺、目覚まし一発で目が覚めたんだよ」
――…何を言いたいのだろう。
 一瞬実隆は眉根を寄せて思案した。
「それで」
「もしかしたら、何か目覚ましのなる前にあったのかな〜とか、思ってさ。知らない?」
 そうだ。
 ぴんときたものの、どう説明すべきか実隆は迷った。
――兄貴、こういう奴だったんだよなぁ
 実は実隆が隆弥の事を兄貴呼ばわりするのには訳がある。
 見た目も、生活態度も、話し方ものんびりした彼は、しかし実に意識が隅々まで届くのだ。
 普段からのんびりおっとりなのは見せかけじゃないか、そんな風に思える程、細かいことに気がつく。
 そして、彼の天然ボケっぷりは男の癖に見事としか言いようがない。
「今朝は…ちょっと夢見が悪くてね、妙に早起きしたんだよ、それじゃねーかな」
 はぁ、と首を僅かに傾げ
「眠りの深い俺が目覚めたのに?」
 むう、と唸ると実隆は僅かに頭を抱えて眉根をもむ。
「だから覚えてないんだろうが。全く。いつもより二時間程早く目が覚めたんだよ、だから…」
 言いかけて、思った。
 相談するのも良いかも知れない。
――あんな訳の分からない物、説明するのは難しいけれど
 何もしないよりも良いはずだ。
 ぼーっと実隆を見つめている隆弥。
 その彼に、少し頷くようにしてみせるとますます彼は頭の上に?を飛ばし始める。
「あのさ、兄貴、俺、今朝変な夢見て醒めたんだよ。…それでどたばたしから、起こしちゃったんだと思う」
 へぇ、と気のない返事を返すと、彼はにこにことした貌でずいっと身を乗り出してきた。
「どんな?がさつなお前が気にする程だ、相当の夢なんだろうな」
 案の定、夢の内容の方が気になるようだ。
 実隆は思わず眉根を寄せて彼を睨み返す。
「なっ……俺、兄貴の評価下げるよ」
 はははは、と相変わらずのさわやかな笑みでさらりと彼の非難は流されてしまう。
「いいから続きを聞かせろよ」


 隆弥は黙り込んでしまった。
 真剣な顔で、何かを思案するように。
 今朝、実隆が見た夢――あまりにその内容は猟奇的だった。
 そして夢にしては異常にはっきりした体験―そうとしか呼べないほど、強烈な印象が残っている。
 四角い、小さな部屋。
 四畳半程の小さなコンクリで囲まれた部屋は筆舌に尽くしがたい光景に包まれていた。
 否、筆舌にしたくない光景だ。
 返り血がべっとりと弾けた壁。
 その飛沫は、正体判らないようになるまで壁に塗り込められていて。
 一言で言うと――黒い部屋。
 生臭い臭いが立ちこめる嫌な部屋。
 思い出すだけでも吐き気がする。
「そんな中で、どうして突っ立っていたんだい」
 説明した中でも佳境にさしかかったところで彼は言った。
 そう。
 何故自分がそこに立っていたのか、それははっきり判らない。
「…まぁ夢だから、そんなのどれだけ整合性があるか判らないよ」
「そうだね。…まぁ、いいか。でさ」
 ずい、と隆弥は身を乗り出して来る。
「それだったら例の話の方が俺は気になるんだけどね」
「…例の話?」
「昨晩うちの部屋で言ってたアレだよ。…家を出るって奴。どうせ本気なんだろう」
 実隆は言葉に詰まって溜息をついた。
 昨晩の夕食後、隆弥の部屋に訪れた彼は、これからの事について若干話をしたのだ。
 それは卒業間近と言うのもあるが、決して悪くない成績なのに就職を希望している理由を彼が知りたがったからだった。
 無論、だから大学受験も考えてないし、この時期だ、もう願書も間に合わない。
 勉強だって間に合わないだろう。
 理由は簡単――これ以上世話になるのが悪いから、だった。
 『早く独立して、楽にさせたい』
 夜も遅かったのでそれ以上追求もせず、その日は話を打ち切った。
「大学行くにしても、奨学金をもらえるほども成績は良くないし」
 ふう、と溜息をついて彼の言葉に応えると隆弥は首を振る。
「今時高卒じゃ大変だぞ。それに、今更気にしてもなぁ」
「まぁね。でも元々…そのつもりだったんだし。あんまりいつまでもご厄介になっているのもなんだから」
「ふぅ。…まぁ、何度言っても俺の事を『兄貴』って呼ぶのをやめないしな」
 諦めたような笑みで溜息をつく彼に少しだけ苦い顔を見せて実隆は頷いた。
「別にいーじゃねーか。詳しいことはまた昼に話すよ」
 教師が近づいてきたのが見えて、彼は言ってすぐに席に戻った。

 話をしたからだろう。
 気が楽になると思っていたが、逆に記憶が鮮明になってしまう。
 授業が始まってからも妙に夢の内容が頭の中をちらついている。
 口に出した分だけ、思い出した分だけ、自分の肌の上を彷徨く偽物の経験。
 皮膚の裏側にまで浸透してきそうな想い。
 ふらふらと視線をさまよわせながら、かつかつという黒板を叩く音だけが耳に届く。
 それが嫌で、思わず自分の腕につかみかかってしまう。
 ぶるぶると震える。
 震えても同じ――そこには何もなく、まして何かが変わるわけでもない。
 ただ少しだけ落ち着いた。
 今の肌の感触は、少なくとも記憶にあるあの鮮明な画像とは違う。
 視界を覆い尽くしていた赤いものも今は見えない。
 あれは、夢。
 でも、そうとは思えなかったぐらいリアルで、だから…
 だから、今の教師の言葉や黒板が、奇妙に歪んだ現実感を与える。
 何故かそれは、不思議だった。
 こちらの方が現実だったという――感慨にも等しい想いに打ちのめされるようで。
 結局今日の授業は一切耳に入らなかった。


◇次回予告

  放課後、実隆の下に現れる少女。
  「どうした、人使いの荒い女房が来たから不機嫌なのか?」
  昼休みに見せたいつもの表情とは、まるでそれは違っていた。
  そして再び見る――不思議な、夢。

 Holocaust Chapter 1: 実隆 第2話

 ――ああ、いつの間にか夜になっていたんだな
                                            夢は醒めるのだろうか

      ―――――――――――――――――――――――


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