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Holocaust ――The borders――
Chapter:ZERO

Lina―― リーナ ――   第2話

 銃が消えたのか、自分が見た夢なのかはっきりしない。
 銃が夢ならまだ説明できる。
――夢の中で、同じ日を繰り返したことになる
 記憶に新しいうちに、その記憶通りの時間が過ぎていくのだから、不思議じゃない。
 ただ、今までそんな夢を見なかったというのにどうして。
 それに、もしそれが夢で、夢の中で眠りについた時に見た怖ろしい夢は一体なんだというのか。
 追いかけられて、逃げ回って、最後に――あの男の顔を見た、あの嫌な夢は――



欠片



 銃弾を撃ち尽くした彼女は、拳銃を捨てて部屋を飛び出していた。
 必死になって逃げたせいだろう、息が上がって何もできそうになかった。
 だからだ――目の前が暗い。
 何も暗いのは周囲が暗いからではない。
 明滅するように視界が埋没する。
 酸素不足と、血流の不足だ。
 なのに頭が痛い。ずきずきと脈動するように痛い。
「薬が足りないのか?」
 声がどこからか聞こえる。
 びくっと体を震わせると、もう動きそうにない脚にそれでも鞭を打つ。
――逃げなければ
 そう言う声が、頭の裏側で警鐘をうち鳴らす。
 だから動かないはずの脚が動く。
 力無く地面を蹴る。
 心臓はばくばくと脈打ち続ける。

  それなのに 全身から力が抜けていく

――薬って何?
 麻酔か何かだろうか。
 どちらにせよ今――危険な状態なのだと認識する。
 ばたばたと足を動かして、少しでも良いから逃げようともがく。
 この建物から出たい。
 こんな所から出たい。
 元の家にかえりたい。
 廊下をよたよたと歩きながら、彼女は必死になって出口を目指す。
 角を――曲がる。
「あ…はぁ」
 声ではなく。
 溜息のように呼吸が喉から漏れた。
 暗くなりかかっていた視界を襲う光。
 失われかけていた希望が一瞬流れ込んでくる。
 だがそこまでだった。
 ガラス張りの玄関はそれでもまだ遠く――彼女の肩をつかむ、男の姿がそこで影になっていた。

 夢はそこで終わっていた。
 でも、今目覚めたここが現実であるという保証はできない。
 もしかして男に薬を打たれて幻覚を見ているのかも知れない。
 先刻受けた検診だって――実は夢なのかも知れない。
 一度疑い始めるときりがない。
 一体どんな方法で、これが夢ではないと確信できる?
――母さんがいる
 何度か母親が見舞いに来てくれる。
 母に会えれば、いや、会えなくても連絡さえ取れれば夢かどうか判るはず。
 それは閃き――むしろ、すがるような思いつきだったと言えるだろう。
 いつも定時に現れる看護婦にそのことを聞くことにした。
「え?リーナさんのお母さん?」
 看護婦は眉をひそめて少しの間考える。
 それはほんの一呼吸も時間をおかなかったのに、リーナはやけにそれが長いように感じた。
「何か、足りないものでもあるの?」
「ええと…」
 理由を考えなければいけない。
 すぐに連絡を取りたい理由なんか思いつきもしない。
――とりあえず電話できないかしら
「そう言う訳じゃないんです。ちょっと話がしたくて。電話、ありませんか?」
 リーナの言葉に、今度はあからさまに顔をしかめた。
――え?
 心底困った、そういう表情だ。
「ごめんなさい、実は電話を引いてないの。公衆電話は最近使う人いないから」
 携帯電話の普及のせいか、公衆電話を使う人間が減ったせいで経済的に必要ないという事だ。
――変だ
 と、何故か彼女は直感した。
 幾ら何でも一つぐらいあるだろう――携帯電話が普及したと言ってもいざという時のために置いているはずなのだ。
 警察や消防への通報のために。
 内線電話が外線に通じている事もある。
――探そう
 そもそも、携帯電話を持ってきていればこんな事にならなかったのだ。
 定期的に来てくれる母親の顔を見るだけで充分だったから、携帯電話はいらなかった。
 彼女は看護婦が去るのを待ってから行動を開始した。
 自分の病室を出ると、静かな廊下を見回す。
 同じような構造の廊下が延々と続いている。
 無機質に番号が書かれた部屋が並ぶ中、彼女は足音を殺して歩く。
 全くと言っていい程音がしない。
 静かなものだ――まるで全てが嘘のように。
 左手に広い窓があり、日差しが差し込んでくる。
 廊下から外を見下ろすと、中庭のような場所が見えた。
 大きな木が幾つも生えていて、小さな公園のような場所だ。
 そこにも人影は見えない。まるで隔離された孤島のように。
――まさか
 自分の中で気がついた言葉に身震いする。
 孤島のはずはない、母親がいつも来てくれていたんだから。
 数分後、廊下が左に折れ曲がっていた。病室はここで途切れている。
 そして角には見慣れない形の、窓のついたドアがある。
 何の部屋か判らないが、病室ではないのは確かだ。

  こつ こつ こつ

 その時足音が、廊下の向こう側から聞こえた。
――嘘
 まだ看護婦が来る時間ではないはず――だから、きっと自分ではない。
 誰かは判らないが、リノリウムを叩く規則正しい足音が近づいてくる。
――でもどちらにせよ
 彼女は確かめる暇もなく、その見慣れない扉をくぐった。
 できる限り音を立てないよう身体を滑らせて、扉の後ろに隠れるようにして扉を閉める。
 小さい金属音に合わせるように、足音が角を曲がった。

  こつ こつ こつ こつ

 彼女は扉の後ろで身体を堅くして、扉に耳を当てて足音に神経を集中させる。
 過敏になった神経に、心臓が脈打ち始める。
 堅い足音は扉の前で止まることなく、そのまま過ぎていく。
 リーナは全身から力を抜いて、大きく肩を落とした。
 止まっていた呼吸を、吐息と共に再開して彼女は身体を起こした。
 まず振り向いて、ゆっくりと部屋を見回す。
 奇妙な印象を与える部屋だ。
 資料棚のような、アルミでできた簡素な棚に並ぶ書類の山に、入り口にさして遠くない位置にあるベッド。
 それも妙に堅そうな奴だ。
 入り口側にある机は、事務用品としか言いようのない簡素なもの。
――あった!
 その机の隅に電話があった。
 外線ボタンがあり、見るからに留守電の機能もあるごく普通のプッシュホンだ。
 彼女はすぐに受話器を取って、外線ボタンを押す。
 つーという、聞き慣れた電話の音がして彼女は思わず飛び上がりそうになる。
――よし、それじゃ家に電話を……
 とボタンに指を伸ばして――彼女は凍り付いた。
 電話はあった。
 外線にもつながるようだ。
 だが――電話番号が判らない。
――え…嘘よ、自分の家の電話番号は……
 ダメだ。
 まるで真っ白になった手帳を開くように、何も出てこない。
 きっかけになる番号すら思いつかない。
 焦って電話のすぐ側に置いている電話帳を手にして、更に愕然とした。
――住所が判らない
 そもそも、親の名前が出てこない。
 そんなはずはない。
 住所の細部が出てこなくなったとしてもおかしくないが、両親の名前がでてこないというのはどういうことだ。
 そんなことあり得るはずがない。
――嘘、嘘よ、何、あたし、一体どうして…何で判らないのよ
 電話帳を電話の側にまるで落とすように置き、机の引き出しに手を掛ける。
 彼女はもう何をしたいのか判っていなかった。
 つーと発信音が聞こえる受話器を握りしめたまま、完全にパニックに陥っていた。
――!
 引き出しは重く、僅かに覗いた隙間から見覚えのあるものが見えた。
 黒い兇悪な拳銃。
 そのせいで周囲への注意が全くなくなっていたのだろう。

「お前、そんなところで何をしている」

 机の引き出しを慌てて引っ込め、受話器を叩き付けるように戻す。
 振り向いた彼女の視界には、開かれた扉の向こう側にいる男がいた。
 あの時部屋を間違えた男――夢の中で自分を捕らえた男がいた。
「あ、あなた」
 男はむすっとしたまま入り口の扉を閉め、ズボンのポケットに手を突っ込む。
 表情からしてかなり機嫌が悪い。
「お前は何も見なかった、何もしていない、俺は誰にも会わなかった。……さっさと失せろ、俺には仕事があるんだ」
 くい、と顎でしゃくって見せて、彼は入り口から身体をどけた。
 不機嫌に彼女を見ているのは確かだが、それ以上何もするつもりはないらしい。
 でも彼女は動けなかった。
「何者なのよ、こんなところにいて」
 医者には見えない。
「部屋を間違ったって、病室とここじゃ全然違うじゃないの」
「そりゃそうさ」
 つまらなさそうに肩をすくめると、彼は溜息をついて一歩近寄る。
 それだけなのに、急に存在感がわき上がってくる。
 圧倒される――まさにそういう言葉が似合う男だ。
「俺はここに勤める職員だ」
「名前は」
 リーナは強気に言葉を叩き付ける。
「……ミノル、ミノル=ヒイラギだ。良いから自分の部屋に戻れ、仕事があるって言ってるだろうが」
 うっとうしそうに言い、彼は右手で埃を払うようにして彼女を追い出した。
 慌てて出ていくリーナの背を見送って、乱暴に扉を閉じると彼は机に着いた。
 そして、先刻リーナが開こうとしていた引き出しを開くと、拳銃を取りだした。
 コルトパイソン.357、古風だが充分な性能のある銃だった。
 彼はそれを取りだしておもむろに分解を始めた。
 慣れた手つきでバラバラになったそれを、丁寧にクリーニングする。
 ことん、と机の上で転がったシリンダ。
 彼の手が思わず止まる。
 シリンダには彼のつけた傷が入っていて――彼はしかめっ面をした。

 “To Lina”

「……使用には差し支えはないか」
 そう言って、再びクリーニングを続けた。


 聞き覚えのない声が、聞いたこともない単語の羅列を連続する。
 少女が視界にいる。
 緑色の合成繊維性の布の下に、それと判る身体が見える以外判断ができない。
 その周囲に群がるような白ずくめの男達がいるからだ。
――顔を見たい
 見ているとリーナの目の前で彼女の身体が跳ねた。
 びくん、と。
 それは力の入っていない人形を振り回したかのような、乱暴な動きだ。
 とても自律的な動きには見えなかった。

――目を見たい

 少し見下ろすような高さの、どうやらガラス越し。
 彼女はゆっくりと身体を進ませて、見える位置をずらしていく。
 医者の隙間を探して、ガラスの窓に両手を当てて。

 目。

 何故横たわる彼女の目を見ようと思ったのだろう。
 何かを確認したかったのだろうか。いや。
 判らない。
 何故目の前の少女をそんなにも気にするんだろうか。
 ……わからない。
 自分の必死になった行為を感じながら、リーナは自分に疑いを持ち始めた。
 その時――計器の方に目を向けたのだろう――彼女の目の前を立ちふさがる医者が身体を動かした。
 その向こう側に横たわる少女の顔が――いや、目が見えた。
 同時に圧し当てられた電気ショックの電極のせいだろう、その御陰で。

 目。

 ずくん、と鈍い痛みが胸から末梢まで伝わって、手足が痙攣して指先にまで至る。
――え
 その時記憶が混乱した。
 今少女の顔を見つめていたつもりだったのに、もう少女の顔を思い出せない。
 その代わり、彼女の身体は突然廊下の壁を伝うようにしてその場に崩れ落ちる。
 突然発作を起こしたように跳ねて――小さくうめき声を上げる。
 まるで、電気仕掛けの人形のように。
 自分――そう、こうやって身体を感じている自分とは別に、身体を自由にできる何者かがいるように。
 目が見えない。視界が完全にブラックアウトした。
 何故か目が開かない――開いているのかも知れないが、像は焦点を結ばないのかもしれない。
 もう一度、不随意に身体が跳ねる。
 びくん、と。
 胸に何かが押し当てられる。
 冷たい痛みが、突然巻き起こる聞こえない轟音のように弾け、その勢いで身体がバウンドする。
 一回、二回。

 唐突に静けさがやってきて――医者が告げた。
「02時23分、リーナ=ハインケル死亡」


 これが二度目だった。
――私は一体誰なの
 目覚めた時間はまだ朝には早く、深夜と言うべき時間帯。
――もう訳が分からないわよっ
 叫びたくなる衝動を抑えるのが精一杯の抵抗。
 自分の膝を抱え込んで、彼女は額を圧し当ててきつく抱きしめた。
 夜が怖くなった。
 夜になると眠くなる。
 眠気は、夢を誘発する。
 いや――夢が怖くて仕方が無くて、夢が嫌でどうしようもなくて、彼女はベッドの上でうずくまるようにして耐えていた。
 母が来るのを待とう、そう思った。

 でも来ない。

 一週間待った――普通なら、一度ぐらい来るはずだった。
――何故?
 来ない。
 それは絶望にも等しい出来事――彼女にとっては。
 だから、彼女は迷うことなんか一つとして残すはずはなかった。
 たとえ今見ていることが夢であれ――夢なら望むところだ――後悔はない。
――何とかして逃げ出して…
 確認しなければならない。自分が何者なのか――これが本当のことなのかを。
 本当に僅かな望みを託した彼女は、夜中の病室を抜け出して廊下に出た。
 そこは別世界――昼間の日差しの中にあるおとなしい場所とは桁違いの場所だ。
 不思議で、得体の知れない場所――そういうイメージに包まれた、静かな世界だった。
 こつこつと足音が響き渡る。
 突然のデジャブ。
――前にも一度ここから逃げ出したような気がする
 そんなはずはない、それは夢だ。何故なら、その後すぐに捕まって死んでしまったのだから。
 夢の中の彼女も、同じように病院に入院していた。
 扱いは酷く違うものだったが。
 それが意味するところ――心の奥底では、彼女は、この病院を恐れているのだろうか。
 彼女は無意識のうちにあの男の部屋へと向かう。
 息を殺して扉を開き、音もなく忍び込む。
 男は――いない。
 好都合だ。彼女は引き出しに入っている銃を盗むと部屋を飛び出した。

 この時、彼女は思いつかなかった。真夜中なのに、男がいない理由を。

 出口の場所はだいたい分かっている。
 彼女は荒い息をついて、広すぎる程の病院を駆けていた。
 どうしてこんな事になったのだろう――ふと彼女は思い返した。
 こんなこと、とさしている事がこの逃亡劇ならば聞く必要なんか無いはずなのに。
――何故
 私はこうして走っているのだろう、出口に向かって。
 夢の中ならば醒めなければ。
 どこかで見た――それはデジャブ。
 廊下を息を切らせて走る彼女は忘れなければならない事を思い出すかのように頭を振る。
――私は捕まりはしない。これは夢ではなく現実だ――
 だからこそ――
「来たか」
 重く、苦しく、そして避けがたい。
 もう少しで病院の入り口と言うところで彼女は立ちつくした。
 あの絶望的な夢でも彼が最後に待ちかまえていた。
 ミノルと名乗った男が。
 そして連れ去ってしまうのだ――もとの病室に。
「どうして」
 そこは避けがたい現実がおぼれている場所――まるで当然のように。
 ミノルは彼女の前でささやかな笑みを浮かべている。
「…君が逃げるのは承知の上だ。逃げることが君のためになるとは思えない」
 そして、溜息をついて彼は肩をすくめる。
「第一…これが俺の仕事なんだよ」
 彼は夢と同じように身構えもせずに突っ立っている。
――大丈夫
 今は――夢の中とは違う。
 予知夢のようなあの出来事には含まれないものがある。
 それが――
「邪魔よっ」
 彼女は一息に銃を右手を僅かに上に載せて両手で構えた。
 中指を引き金に、人差し指はシリンダの下に添える。
 ゴルフのグリップのように小指を人差し指に絡めて――一気に引き絞る。

  銃声

 .357の銃弾は、目の前の男なら充分に行動不能に陥る重傷を与えられるはず。
 この距離ならどんな下手くそでも、闇雲に撃ったとしても六発あるのだ――
 だが、彼は身体を痙攣させることすらせず、撃ち続ける彼女の側まで一気に寄ってくる。

「無駄だ」
 四発撃ったところで、銃のシリンダに男の手が届いた。
 呻くような声を上げてリーナは引き金を引くが――シリンダが回らず、ハンマーも動かない。
 そのまま手首の返しだけで銃をもぎ取られると、銃口がいきなり自分の方に向く。

  悲鳴

「これは俺の部屋から取ってきたんだろう」
 二発の銃声の後、金色の薬莢が地面にばらばらと転がった。
 リノリウムを叩く音に、まだ自分が生きていることに気がつく。
――痛い
 咄嗟に顔の前に出した掌が、熱い。
 ひりひりと痛む。だが、顔は何ともない。
「空砲しか入っていないんだ。…当然だろう」
 じゃきっと音を立てるシリンダ。
 からん、と更に何かが床の上に転がる。
――スピードローダー
 かちりと言う音がして、改めてリーナに銃口が突きつけられた。
「今度は実包だ。やけどじゃ済まない」
 既にハンマーは引き起こされている。
 逃げようにも――一秒と待たないうちに、銃は死をまき散らすだろう。
 火薬の匂いが鼻についた。
「……殺すの?」
「さぁな。……もう、殺さなければならない条件は揃っているが」
 理不尽――夢でも何度でも、こんな死に直面していた。
 もう慣れてしまった、そんな諦めにも似た感覚が彼女の脳裏を過ぎった。
 少なくともすぐに死ぬことはない――そういう感覚だ。
 だからだろう、彼女は床に崩れるように座り込んで、男を睨んだ。
「何でよ、何故私はこんな目に遭わなきゃならないのよ」
 激昂する。
「私が何をしたの、病気で倒れただけじゃない、どうしてこんな所で殺されなきゃいけないの」
 声にすると、言葉にすると自分の立場が悲しくて、目頭が熱くなる。
 身体の中心が熱くなる。
「何の権利があってっっ」
「誰の権利でもないさ。ついでに教えておくと、お前は病気で入院していたわけじゃない」
 リーナの目が丸くなる――男の口元が苦笑に歪む。
――私は病気じゃない?じゃあなんで?ここに……あの毎日の検査は何だったの?
 夢は?
 じゃあ今ここにいる理由は?
「俺がここでお前を待っていたのも、『彼女』を知っているのが俺だけだったからだ」
 人差し指が引き金から離れると、彼はくたびれた顔をして銃口を下げる。
「……彼女?」
 リーナは怪訝そうな声で聞いた。
「『リーナ=ハインケル』だ」

 ずくん、と。

 視界が揺れる。
「あ、あ、あ」
 左足が熱い。
 折り畳んだ太股の、膝に程なく近い所を撃ち抜かれていた。
 痛みなんか感じない。
 だらだらと零れる血液と、焼けた火箸が通り抜けたような熱さだけが彼女の左足を灼く。
「ひぃ、一思いに殺しなさいよ!」
 立てない。左足にはもう力が入らない。
「……次は君の番だからな。逃げられたら事だ」
 銃声。
 右足もほとんど同じ所を撃たれる。
 這って逃げようとしても、彼の銃から逃れることはできないだろう。
「何でこんな事をするのよ、殺しなさいよ!…お願いだから、殺してよ…もう…」
 途中まで強気を保っていられたのに、すぐにそれも崩れてしまう。
 何のためにここにいて――
「………君は、誰だ?」
――そう、私は誰なの?
 リーナ=ハインケル、その名前以外頼るものはない。
「リーナ…あたしはリーナよ」
「違う、リーナは君じゃない」
 男は疲れ切った表情で銃口を持ち上げる。
 リーナの目にはそれが遅いように見えた。銃が、あまりに重いからだろうか。
「あたしはリーナ、リーナ=ハインケル、そうよ、それ以外の誰だって言うのよ!」
 両腕を大きく振って叫ぶ。
「リーナは、今の君のように逃げ出そうとした」
「この施設の中での待遇に耐えきれずに」
「一番近くにいた俺の部屋から銃を盗んで」
「何人かがリーナによって殺されかけた」
「リーナは俺が部屋に戻した。そして」
 そう、そして。
「死ぬ間際に、やっと…」
 ミノルの目がついと細められる。
 僅かな時間の沈黙。
 やがて、リーナは涙の枯れた顔で、苦々しい貌を浮かべてミノルを睨み付けた。
「『あんたなんか、大っ嫌いなんだから』」

 銃声は短かった。

 痛みすら感じることなく、視界は一瞬で暗闇へと落ちていく。
 弾丸が吐き出される直前までミノルは笑っていたと思う。
 でも、視界が消える直前の彼の表情は違った。
 困惑していた。
 その貌が――彼女の記憶からはがれ落ちていく。
――この人は一体誰だったのだろう
 何故か懐かしい気が、した。


◇次回予告

  「予定通り『処分』した。…報告と処理を頼む」
  死んだ少女に背を向ける男。
  『施設』と少女は、そして男の言う『リーナ』とは。
  白衣の男は、黒衣の男に鋭い視線を向ける。

 Holocaust Chapter ZERO: Lina 第3話

 人間が――下らない感傷だ
                                            忘れるべき心の奥底の闇

      ―――――――――――――――――――――――


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