戻る

Holocaust ――The borders――
Chapter:ZERO

Lina―― リーナ ――   第1話

 人間が怖ろしいんじゃない。
 人間種は、世界を滅ぼせるだけの力を持ちながらもその力は『総合体の意志』によるものであると言う奇妙な欠陥を持っている。
 しかし何より一番の問題は、それなのに種としての結合力は低く、自分の成し得た事すらも知らないまま、世界を滅ぼすことができることか。
 だからその自覚のないまま、我々化物を消すことすら可能だ――隣の家の公久君がお菓子を買いに行ったせいで。
 アメリカのトーマスがバナナを見つけたせいで。
 ただ、下川の親父がくしゃみをするだけで。
 種としての世界のバランスは、人間以外の物にも、人間にも及ぼす影響がある。

 それが一番怖いのだ――無自覚なその殺意が、我々にとって一番問題なのだ――


「リーナ、君はもう死んでいるんだ……何故なら、俺が殺したんだから」



残滓



「はい、終わりです」
 白い壁。
 何故、といつも思う。
 見慣れていても、違和感のある白い壁。
 薬の匂い、きゅっきゅっというリノリウムのタイルを削る音。
 そして、にこにこしているこの、目の前にいる白衣の男。
 医者、たしかそういう職業に就いているはずだ。
「ありがとうございました」
 だから、明るい声で彼女は御礼を言い、にっこり笑って見せた。
「先生、あたし、良くなってるんですよね?」
 ストレートのブロンドに、頬を飾るそばかす。
 彼女は美人というよりは、可愛らしい田舎娘という雰囲気が似合う娘だった。
 実際彼女の父親はラインヘッセンでブドウ畑を経営する傍ら、ワインを製造している。
 彼女自身も父の手伝いをする優しくて元気な娘として評判だった。
 名前を、リーナという。
「ええ、間違いなく快方に向かっていますとも。一月もあれば必ず回復します」
 医者の物の言い方は非常に的確で、快活で、聞いている方も思わず頷きそうなぐらい気持ちがいい。
 ごまかすようなところもなく、少女も元気に頷いて見せた。
「じゃあ、また時間になったら来るからね」
 主治医である彼はそう言い残して彼女に背を向けた。


 彼女は思わぬ病気で、畑仕事の最中に倒れた。
 今からどのぐらい前なのか、もう随分長い間この病院に入院しているような気がする。
 白い飾り物のような壁、冷たい色をした太陽光線が差し込む窓。
 その窓のさんについた傷の場所まで覚えてしまった。
 時間なんてものは、そのぐらい長くて――本当に、入院した理由なんか考える事を忘れてしまっていた。
 時々母が見舞いに来る。
 大好きなブドウを持ってきてくれる。
 父は農園の経営が忙しく、とても来れるような状況じゃないらしい。
 母がそう言っていた。
 枕元にある白い花束を見るたびに、その言葉を思い出す。
――たまには父さんの顔が見たいのに
 でも忙しいなら仕方がない。
 そうは思っていても寂しい事には変わりない。
「仕方ないのかなぁ」
 長期入院患者の、そして隔離しなければならないのか、彼女は個室である。
 白い壁に囲まれる中、一人っきりで診察を受けている。
 残念ながら窓が遠くて、空しか窓は映してくれない。
 彼女の目には白い病室と、窓から覗く空と、そして白い花を飾る花瓶――空の青色以外は全て白。
 病的な白、それは蛍光剤の混じった薄い青色。
 記憶に確かなのは、時々現れる看護婦と医者、見舞いに来る母親だけしかいない世界。
 彼女は溜息をついてベッドの上に横になった。
 長い入院期間は感性をすり減らすことはない。
 むしろ、こうしてベッドに横になることしか知らないから、いろんな事を想像してしまう。
 空を飛んでみたり、誰かと一緒に遊びに行ったり。
 でも、それが今になってはただの夢に過ぎないと思うと――
――でもお医者さんはもうすぐ良くなるって言ってくれている
 薬だって飲んでいる。
 きっとすぐに良くなるはずよ、と自分に言い聞かせて眠りにつく毎日。
 夢の中の現実が必ず、自分の手元に戻る日が来ると――

  こん こん

 彼女はがばっとシーツを跳ね上げた。
 普通、こんな時間にノックする音を聞いたことがない。
 時刻は――夕方、日差しが緩く感じられる時間帯。
 思わずシーツを自分に抱き寄せるようにして扉を見つめた。
 扉も、まるで几帳面に色を統一しているように――白。
 蝶番が軋み始めるのを、彼女は自分の目で見つめた。
――油を差さなきゃ
 何故か思考が違う方向へと流れてしまう――今から起こることを、無意識に避けようとしている。
 変化が起きる――何か、違う事が今から予想できる――

 扉が開いた。
 扉の向こう側は、いつも先生が来るのとは違う雰囲気だった。
 扉を開けて現れたのは、やっぱり先生ではなかった。
 男の人――鋭くて痛い視線を向けてくる、怖い人だった。
 そして、その人だけがこの白一色の世界の中で唯一の汚点、青天の霹靂、色は――黒。
 季節はまだ冬でもないのに、彼は黒いワイシャツに黒いシャツ、濃紺のスラックスという出で立ちだった。
 男性にしては長い髪の毛を真ん中で分けて、不敵に彼女を睨み付けている。
 その表情も何故か不快で。
「悪い、間違えたようだ」
 男がその言葉を呟くまでのほんの一瞬、一呼吸ほどの間だというのに異常に長く感じて。
 男が背を向けて扉の向こう側へと消えるまでの間、彼女は脂汗が流れているのを感じていた。
 そして――大きく、彼女は溜息を吐いた。
 あの男の人はきっと悪い人だ。
 面識はないけど、それが判る。
 あんなに悪い顔付きをしていて、あんなにも冷たい雰囲気のある人が、決していい人のはずはない。
 でもそれだけじゃない、検診に来てくれる先生とは同じ男の人なのに、違う気がする。
 何より――これは感情的なのだろうか?――何より、と彼女は繰り返した。
――私は、あんな男の人は嫌い

 白い世界も、夕暮れの日差しが差し込んでくるとその色に染まってしまう。
 シーツも、壁も、光も、目に映る物全てが。
 看護婦がいつものように夕食を持ってきてくれた。
 いつもの、正確な時間。
 検温、そして薬をおいていってくれる。
 身の回りの世話をすべてしてくれている。
「看護婦さん」
 彼女は、やっぱりにこにこと見返してくれる。
 リーナはなぜかその彼女の笑みに、心がざわめくのがわかった。
 昨日までそんなはずはなかった。
 なにも起きるはずはないのに。
「先刻ここに男の人が来たんですよ」
 看護婦はにこにこしたまま頷く。
 何も言わない――話の先を促しているのだろう。
「部屋を間違えたって……」
「ええ、それならそうでしょう?どうしたの?怖かったの?」
 怖かった。
 犯罪者だと思った。
 でも、彼女の口からそれを紡ぐことはなかった。
「ううん、ちょっと気になっただけ。…別に、何でもない」
 そう、と看護婦は答えて空になった食事をもって部屋を出ていった。
 出ていく彼女に声をかければ良かった、と、扉の向こう側に消えるのを見送ってから後悔する。
――誰だったんだろう
 何故か、ほんの一瞬だけしか彼には会っていないはずなのに、酷く気にかかっていた。
 そのせいだろう、と彼女は思った。

 次の日の朝、リーナはいつもと同じ時間に現れる医者の検診を受けた。
 いつも通り体温を測って、簡単な問診を受けて、薬を投薬してもらう、それだけの日課だ。
「じゃ、体温を…」
 すっと彼はいつもの通りに懐に手を差し込んだ。
 だが、彼は何故か白衣の下で手を引っかけてしまう。
「おっと…わ」

  がしゃん

 そして手を滑らせた彼は、体温計を床に落としてしまう。
 本当に手軽な音を立てて体温計は砕け散った。
 医者の顔が歪む。
「御免ね、すぐ換えを用意させるから少し待って」
 優しい顔を歪ませて謝ると、彼はリーナの枕元にあるナースコールを使った。
 歪んでいる理由は簡単だった。
 彼の手は、ガラスの破片で少しだけ切れてしまっていた。
「ねぇ、切れてる、血が出てるよ」
 ああほんとだ、と彼は呑気な口調で言う。
「大丈夫。仮にも僕は医者だし、何よりもうすぐ看護婦さんが来てくれる」
 そして彼はにっこりと笑った。
 それにつられて思わずくすくすと笑うリーナ。
「そうね、そのぐらいはすぐに治せるよね」
 ああ、と医者は言った。
 看護婦が代わりの体温計を持ってきて、検診はその後すぐに終わった。

 検診が終わると、いつもの自由時間が来る。
 朝から昼にかけては特にのんびりしている。
 ふと枕元に目を向けた。
 母が持ってきた花瓶に活けられた白い花。
 僅かに風もない部屋の中なので、震えることもない。
 看護婦が手入れしてくれる御陰で、いつも綺麗な花を咲かせている。

 しばらく彼女は、その花を見つめて過ごした。

 本来なら看護婦が来るはずの、お昼前の時間に奇妙な出来事が起きた。
 かたんと扉が音を立てて、ゆっくりとひとりでに開いたのだ。
――?
 リーナは仕方なくベッドから降りた。
 ほとんど寝たきりの生活を送る彼女にとって、扉までの距離はかなり遠いものである。
 一歩、二歩と確実に地面をかみしめるように歩く。
――!!
 ふいっとその時、扉の向こう側で人が動く気配がした。
 音ではなく、細かい風の動きだ。
 身体の自由が利かない訳ではない彼女にとって、不自然な風の動きを読む事ぐらいは難しくない。
 そもそも、ゆっくりと歩いている彼女の側を、締め切った部屋の中で鋭い風が吹き抜けるだろうか?
 彼女は急いで扉まで出て、少しだけがっかりした。
 扉は今時珍しい廊下側に開く扉で、死角に入る方向にはすぐに曲がり角がある。
 扉の向こうにいた犯人は、即座に曲がり角を曲がっただろう――もし本当に人がいたのなら。
「リーナさん?」
 その時いつもどおりの時間で看護婦が現れた。

 その日はそれ以上何もなかった。突然変な男が現れることもなかった。
 次の日の朝、検診を終えた彼女は――しかし、奇妙な現実に襲われた。
「……あれ?」
 思わずそれを言葉にしてしまう程それは妙だった。
「じゃ、検温ね」
 そう言って懐に手を入れる彼の指には傷はなかった。
――昨日怪我したはずよね…
 そんな会話もした。
 絶対にそう――思った時。 
「おっと…わ」

  がしゃん

 彼は目の前で、昨日のように体温計を引っかけた。
 そして、床に体温計の破片をぶちまけたのだ。
「御免、すぐに代わりを…?どうしたの、リーナさん?」
「ああいえ…御怪我ないですか?」
 リーナの態度に驚いているだけだと思ったのか、医者は安心させようと笑いながら答えた。
「ああ、ちょっと指の先を切っただけだよ」
 それは、昨日彼が指を怪我した時と同じ場所だった。

 嫌な偶然だ。
 彼女は、昨日の出来事を夢だと思うことにした。
 きっと悪い出来事の正夢だったんだ。
 そうでなければ説明が付かない。
――それとも、これが夢?
 定時の検診が終わってから、彼女は溜息混じりに枕元に目を向ける。
 見慣れた花が、薄紅色の花を彼女に向けている。
 もし夢の通りなら、次に看護婦が来る直前ぐらいに扉が開くはずだ――
 彼女は先回りするつもりで、扉のすぐ側まで近寄る。
 そしてゆっくりと扉を開いた。

  人の気配はしない

 病院なのに、これだけ大きな病院なのに、人の気配がしない。
 誰かがうろうろしている用にも見えない。
 思わず頭を出して左右を見回すが、誰の姿も見えない。
――だれ、も――

  ぞくり

 急にその事実に怖くなって、彼女は慌てて扉を閉めるとベッドに戻る。
 と――
「こんにちは、リーナさん」
 看護婦が現れた。

  こち こち こち こち こち こち 

 時計が刻む音が脳裏を次々に過ぎっていく。
 看護婦が去ってから彼女はずっと時計の音に耳を傾けていた。
――この馬鹿らしい出来事は一体なんなんだろう
 と。
 結局夢で見た出来事は全て起きた。
 こんなことは初めてだがそれ以上に――そう、むしろ夢と言うよりも二度同じ出来事を体験したような錯覚を受けていることだ。
 それとも記憶が混乱しているだけだろうか。
 ベッドに半身を起こした格好で彼女はゆっくりと部屋を見回す。

  戸棚

 一瞬そんな言葉が閃いた。
 ベッドの側には棚がある。
 入院している患者が私物を入れるのに使う、小さな奴だ。
 リーナは入院して以来、一度も触れたことがない。
 必需品は母がベッドの下にまとめて入れてくれている。
 使う必要がなかったのだ――だが、彼女は戸棚に手を伸ばすことにした。
 昨日(だと思っている時間)、午後は一切何も起きていなかった。
 それを歪めるために――自分の行動を正当化する術がないから――ベッドを降りて、小さな取っ手を引っ張ってみた。
 簡単に扉は開いて、リーナは息を呑む声にならない悲鳴を上げた。
 扉の影の中から姿を現した黒い、無骨な金属塊。
 開いた紙製の箱から覗く、金色の丸いもの――円筒状のもの。
――銃
 その単語が脳で結実するまで時間がかかった。
 それぐらい以外で不自然な感じがした。
 あまりにも無造作に、金属製の戸棚の中に銃が置いていた。
 弾も、いくらか箱ごと放り込まれている。
 戸棚はさわったことがなかったから、きっと以前に入院していた誰かの物だろう。
 兇悪で大きな銃をしばらく見つめながら現実をつかみきれずに――混乱する。
「な、なにこれ」
 怖くなって彼女は戸棚を閉める。
――わたしは何も見なかった
 そう、入院して以来ずっと戸棚はさわることなんか無かった、触れなかったんだと言い聞かせながら後ずさる。
 こつ、とベッドに身体が触れてどきりとした。
 全身が汗ばんでいる。
 怖ろしく緊張したように――全身が強ばっている。
 ぴりぴりと。
 だから一度大きく息を吸い込んで、力を抜きながら息を吐いた。
――もう寝よう
 ゆっくり休もう。
 こんな馬鹿げた日常ならたとえそれが仮面でも、素顔なんか知らない方がましだ――


 目が醒めた。
 でもそれは最悪の目覚めだった。
 心臓が跳ね上がりそうなぐらい脈打っている。
 荒い息をついて見回す病室はいつも起きている病室で――何の変哲もない。
「うそだっ」
 叫んで自分の側にある戸棚を乱暴に開く。
 かしん、と金属が弾ける音がして、扉は蝶番の限界で止まる。
 そこには、昨日確認したはずの銃なんかどこにもなかった。
 影も形もない。見たとおり、何も入っていない棚がそこにある。
――いったいこれはなに?今私がいるここは病室なの?夢の中なの?
 たちの悪い悪夢か、性悪の悪戯のような最悪の目覚め。
 そんな表現しかできない。
 両掌には生々しい感触が残っている。
 口径の大きなレボルバ独特の強烈な反動を。
 慣れない銃を『知らず使いこなす』瞬間を。
 襲われていたのは自分。
 襲っていたのは白衣の男。
 後ろには黒い服を着た男。
 必死になって逃げて、棚から銃を取りだして――そう、それまで銃なんか握ったことなんかない。
 なのに慣れた手つきでシリンダの弾薬を確認して――乱射した。
 白い壁に反響する衝撃波にガラスの窓が震え、彼女の細腕は弾けるように何度も手首を上下させた。
 リノリウムの床が赤い血にまみれて、彼女を追ってきた白衣の男は床に突っ伏していた。
 そして、扉の向こう側から、あの男が――

  がちゃり

「リーナさん、検診…」
 医者は怪訝そうに眉をひそめ、そして慌てて両手をあげて苦笑いを見せた。
「?ごめん、ノック忘れたからってそんなに怖い顔しないでくれよ」


 少なくともそれが、リーナにとって最後の笑顔になった。


◇次回予告

  男が再び姿を現す。
  「02時23分、リーナ=ハインケル死亡」
  自分という存在の同一感覚の喪失と、同時に襲いかかる疑問。 
  再び逃亡を試みる彼女の行く手を阻むのは――

 Holocaust Chapter ZERO: Lina 第2話

 あんたなんか、大っ嫌いなんだから
                                            薄れ行く真実への道程

      ―――――――――――――――――――――――


Top Next Back index Library top