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贄――sacrifice――
第3話 再会


 一つ例え話をしよう。
 郭公はオオヨシキリなどの巣に、彼らの卵の代わりに自分の卵を産んで、雛を育てさせる。
 『托卵』と呼ばれる習性だが、オオヨシキリは自分より大きな郭公の雛をそれと気づかず育てる。
 オオヨシキリはこの場合『仮親』と呼ばれ、自分自身の卵を失っている事にも気づかないとされている。
 郭公が育てられている間、彼は親に雛と認められているのだろうか。
 少なくとも巣立つまでの間、郭公ではなくオオヨシキリの雛扱いなのだ。しかし、巣立ってしまえば彼らもただの郭公であって、オオヨシキリではない。
 巣の中にいる間だけ、オオヨシキリなのだ。
 いったん巣の外に押し出された卵も雛も、もうオオヨシキリでもなければ雛でもない――あくまでも、オオヨシキリにとっては。
 醜いアヒルの子は現実には存在しない。
 その枠からはずれない限り、たとえその本質が白鳥であったとしてもアヒルとして認識されなければならないのだ。

 今回の仕事は難しい物ではなかった。
 食事を終えた彼は早速黒いジーンズに、タートルネックのシャツ、ホルスターに納めた剣鉈を装着してジャケットを着込む。
 靴は、格闘戦に持ち込むならブーツが良いに決まっているが、残念なことに重さが軽い方が身軽に動けるため、ブーツは厳禁だ。
 ヒットアンドアウェイ、一撃離脱で一撃必殺。
 今回の彼は『おとり』だ。

  『バスで二つ。停留所から国道沿いに三つ目の信号を左、細い道を上って住宅地を抜けると見えてくる山に隣接した公園にいるはずよ』

 姉の指定通りに国道を歩き、信号を左に曲がると、車両進入禁止の標識の向こう、狭い道幅の歩道がすっと延びているのが判った。
 まっすぐではないし、またずっと登りだ。
 彼はちらりと後ろを眺めて、緩やかな坂を登り始める。
 彼の視線は、坂の向こう側に見えてくるだろう山を探して、前方を見据えていた。
 結構急な坂道の左右は古びた商店街になっていて、肉屋、さびれた看板に黄色と茶色のひさしがのびた、窓の茶色い洋食屋がある。
 赤いひさしに白文字でラーメンの看板もある。
 既に暮れた日差し、穹はゆっくりと灰色に染まっていく。
 そんな中、行き交うのは買い物かごを提げた日常。
 彼はまるでその川の流れに逆らうように、ゆっくりと歩を進める。
 路地を覗くと、意外にきれいに整理されていて出入り口にも水色のペールボックスが置いてある程度だ。
 ここは『クリーニング』しにくい。
 目立ちすぎるのだ。
 だから良い場所ではない――彼の判断基準で街を眺めながら、ゆるりと坂道を登り切る。
 すると、道幅こそ変わらなかったが、一気に視界が開けた。
 多分新しい住宅街なのだろう、規則正しく同じような家が建ち並び、まっすぐのびた道の向こう側に緑色の塊が見える。
 そしてその向こう、距離にして20kmぐらいだろうか、小高い山がある。
 今回の目標、そして彼の目にはそれが良質な狩り場に見えた。
 距離と見えるサイズを考えれば、公園は意外に広く大きいようだ。
――本当に待ち受けのおとりで大丈夫なのか
 公園のベンチで座っていれば寄ってくる、という。
 節良自身をおとりとして、目標をおびき出してその場で殺す。
 時刻はおおよそ日暮れ前後、人気が引いてから。
 今までの状況を整理すると、一番可能性の高い人気のない時間帯は七時の日暮れ直後の時刻。
 目標は人気が引いた直後、狙いを定めた相手に近づくという。

 『大丈夫よ』

 姉は言った。

 『セツは、きっと好みのはずだから』

――どういう意味だよそりゃ
 今回女装ではない。
 きりきりと頭が痛くなる気がした。
 つまり、姉の情報を総合するとこうなる。
 今回の目標は、仕事帰り前後の時間、公園で遊んでいる男の子を拐かす、もしくは誑かす少年趣味の男と言うことだろう。
 それだけなら十分犯罪性があるが、直接彼が手を下すような話にはならない。
 犯罪者は彼の目標になり得ない。

 彼が動くということは、それ以上の原因が必要になる。

「さて」
 彼はひとりごちるようにつぶやき、ポケットに両手をつっこんだ。
 ゆらり、と身体を揺らしながら、獲物が潜むであろう森へとゆっくり歩を進めていった。

 ちょうど同時間、冬来はいつものように外出していた。
 一人で住宅街はずれにある店に。
 高架になった国道と、その下に走る大きな道、そして国道沿いと言っても住宅地に面しているために不思議と店は少ない。
 見落としそうなそんな場所に店はあった。
 バー『麿宇戸(Malodor)』。
 小さな白い店舗に、黒い看板が掲げられている。
 ガス灯を模した蛍光灯が二つ、入り口にともされているなら開店している印だ。
 入り口のドアを引くと、からん、と低い音を立ててドアの上にぶら下げたカウベルが鳴る。
「いらっしゃい、冬来さん」
 店内は薄暗く、玄関に掲げた蛍光灯と同じオレンジ色の柔らかい照明と、ベージュから濃いブラウンが作る色合いが独特の雰囲気を作り上げている。
「昌信さん、とりあえずいつもの御願い」
「はい」
 カウンター向こう側にいる、柔和な顔立ちをした白いワイシャツの青年。
 いや、実際の年齢は判らない。この薄暗い照明と服装のせいで三十代にも見える。
 そのくせ、眼鏡と柔らかい髪質の素直なストレートヘアは子供っぽく感じさせるのだろう。
 彼は慣れた手つきシェイカーのふたを開けながら、カウンターの下にある冷蔵庫から一瓶酒を取り出す。
「お疲れのようですね」
「いぇ、いつも通り。いつものこと」
 冬来は言いながらカウンターのスツールに腰掛けるというより、倒れ込むように身体を預け、カウンターに両肘をつく。
 昌信は微笑みを絶やさず、眉をわずかに動かすと酒に伸ばした手を隣の酒瓶に移す。
 そしてそのまま計量カップに注ぎ、シェイカーに入れる。
 手早くストレーナでふたをして、小刻みに振る。
「いえ。顔を見れば判りますよ」
 数回手早く手首を返すと、彼は中身を小さなグラスに注いだ。
 細かい泡が立った酒に、彼は半分に切った小さなゆずを絞り込む。
「これなら少し気分が良くなりますよ」
 昌信が気を遣っていつもと同じじゃない酒を作ってくれるのも、やっぱりそれでもいつもの通り。
 いつも通りの、異常な時間。
 冬来は差し出された小さなグラスのカクテルに口を付ける。
「……昌信さん」
 かちん、と甲高いガラスがたてる音。
 どうやらその硬質な響きを聞く限り普通のガラスではない。おそらくクリスタル・ガラスと呼ばれる硬度の高いものだ。
 決して安物ではでない上品な響き。
「これアルコール入ってない」
 昌信はむすーっとむくれてからのグラスをにらむ冬来に、小さくくすりと笑って応える。
 その間にも包丁はまな板の上を踊り、ソーセージを輪切りにする。
 彼がこのバーのマスターであり、すべての料理は彼が自分で作ってその場で差し出すのだ。
「だから言ったじゃないですか。気分が良くなるって」
 天然果汁と濃縮還元のジュースに、簡単な隠し味。
 もちろん見た目ではこのオリジナル・カクテルが全くノンアルコールのカクテルなどと区別はつかない。
 多分、普通に飲んでも判らないだろう。
「さいあくー」
「おや?」
 今度は声に出して笑い、フライパンを返しながら冷蔵庫の中身をチェックする。
「おさけがのみたいの」
 昌信は苦笑を浮かべ、今度こそウィスキーのボトルに手を伸ばした。
 手早くソテーしたソーセージにスクランブルエッグ、ポテトフライとスライスチーズ。
 冬来が一番好きなのはスクランブルエッグだ。
 ここのスクランブルエッグはたっぷりクリームを泡立てて入れているので、柔らかくふわりとふくらんでいるのが特徴。
 そしてバターを使っていないので香りも独特だ。
「……少しは気分が晴れそうですか」
 からん、と氷が音を立てる。
 カウンターに座るのは彼女一人。
 麿宇戸はいつもこのぐらいの客いりだ。別段不自然でも何でもない。
 冬来はグラスをじーっと見つめると、もう一度グラスを振る。
 からん。
「いつも思うけどね、あたし、このままでいちゃ駄目な気がするのよ」
 カウンターに両肘をついて、右手のグラスをくるくる回しながらずるずると頭を下げていく。
 殆どカウンターに寝そべるような格好になって、グラスを睨み付ける。
「何が、駄目なんですか?」
 カウンター越しに彼女を眺めながら、小首をかしげる昌信。
 昌信は、少し手が空いたから、グラスを磨き始めている。
 手元には小さなグラス。酒ではない。彼は仕事中にはアルコールは一切摂取しない。
 ミネラルウォーターだ。
「あたしは姉を選んだのよ」
「そうですね」
 ぱたりとグラスを持った手も落とす。
 完全にカウンターに体を載せて、酔っぱらいの態勢である。
 そんな格好で顔だけ無理に上に向けて、昌信を睨み付ける。
「節良さんはどうなんですか?」
 冬来は大きくため息をついて、体を起こした。
 長い綺麗な艶のある髪の毛が、今ではほつれてどこか痛々しい。
 伏し目でカウンターの隅を見つめ、寂しそうに両腕を重ねる。
「……昔から、変わらないわよ。あなたも知ってるとおり」
 そう言って完全にグラスを空けて昌信に差し出す。
 昌信は無言で、琥珀色の液体が満ちたボトルを注ぐ。
 とくとくと音を立て、雫が僅かに散る。
「本当に?」
 昌信は短い疑問を唱えながら、ボトルを拭いて蓋を閉める。
 舌を湿してグラスを僅かに傾ける冬来は、眉を顰めてじろりと彼を睨む。
「何が」
 彼も彼女の言葉に刺が混じるのに気付いて、とぼけたように笑みを浮かべてみせる。
 勿論それが逆効果である事ぐらいは承知の上で。
 冬来は――酒のせいで感情自体を抑えられなくなっているのだろうか、彼の態度に釣られるようにさらに強く睨む。
 少し子供っぽい顔つきをした彼女の睨みなど、しかし昌信には可愛らしい拗ねた貌にしかうつっていない。
「判ってるわよ。……大きく成長してるわよ」
「そんな話じゃない。それも判ってるんでしょう」
 ふっと彼女の顔が寂しそうにゆるみ、目が踊り。
 一瞬崩れそうに儚い貌を見せて顔を上げた。
 すがる貌――普通の男が普通の女相手なら、誘われているようにも見えるかも知れない。
 しかし昌信は笑うだけ。
 変わらない笑みを湛えるだけで、それをさらりとかわす。
――いや、実は彼には笑み以外の感情を浮かべる手段を持ち得ないのかも知れないが。
「……でも、セツがいなくなったりしたらあたし駄目になる。ダメ。そんなの」
 我が儘を言い始めた。もう充分に酔っているのだろう。
 昌信は完全に非論理的に感情をぶつけ始めた冬来の様子に、少しだけ表情を変える。
 そしてボトルを取り出して、彼女のグラスに注ぐ。
「そんなに冬来さんを不安にさせるような仕事なんですか?」
 とくん、とボトルが音を立て、からんと氷が揺れた。
 冬来はグラスにゆっくり口を近づけて、嘗めるように飲む。
 そして、揺れる氷を凝視するように眺め、目を伏せる。
 何かに草臥れたような貌。しかし、迷いよりも冷めた何かがその瞳の奥に潜むように。
 時折黒く静かに澄みわたるかと思えば、すっと暗く濁り何も写さなくなる。
「昌信さん、私達の『仕事』に良否や可否はないと思うの」
 昌信は答えない。やはり黙々と、ただ笑みだけを湛えてグラスを磨く。
 きゅ、と余韻を残して拭き終わるとグラスをとん、と棚に戻す。
 そして下の引き出しに布を片付け、袋入りの小さなパックを出してカウンターにおく。
 良くお通しに出すおつまみだ。
「そうですね。可否も是非もない」
 否定されてはいけない。
 肯定されてもいけない。
 そして、成功しても失敗してもいけない。

 はじめから 無かったことにしなければならない。

 昌信はおつまみのビニール袋を開けずにつまみ、すっと自分の前に持ってくる。
「これは、誰もが知っている柿の種と呼ばれるおかきですが」
 そして始めて袋を開けて、彼女の前に差し出す。
 冬来は何を言おうとしているのか気になって、差し出された袋より昌信の目に視線を向けている。
 からん、と氷がグラスを叩く。
 それにも気付かずに彼女はグラスを掲げている。
「おつまみとしても有名で、大抵の人は酒のつまみにします。何故でしょうか」
「何?何かクイズ?それともあたしをからかってるの?」
「からかうなんて、まさか。――少し興味がわいたみたいですね」
 昌信はようやく口元をほころばせて、笑みを浮かべた。
 そして少ししゃがみこんで、冷蔵庫の中身を探りながら話を続ける。
「酒のおつまみというのは、色々種類が有ります。元々お酒を飲むという習慣自体、食事とかけ離れて考える事は出来ません」
 探していたモノが見つかった。
 彼はさっさとまな板にタッパウェアを並べ始める。
 そのうち一つを開き、まるい白い団子を出すと小さな木製の棒でこれを一気に伸ばす。
「ビールには揚げ物、赤ワインは肉料理、白ワインは魚料理と定番の組み合わせもありますが」
 他のタッパにはミンチや野菜を刻んだ幾つもの材料が入っている。
 それを慣れた手つきで手に取り、手早く混ぜて閉じていく。
 小さな餃子のできあがりだ。
「これらは全て、食事から酒を考えられたモノです。どのお酒を飲もうか。長きに渡り考えられた組み合わせです」
 出来上がった餃子を、タッパの一つ、小麦粉にまぶして皿に並べていく。
 フライパンを火にかけて、油を引く。
「しかしこの『柿の種』は、酒のつまみとして考案されたモノです。だから、大抵の日本向けの酒に合います」
 そう言うと少しだけ意地悪に口元を歪める。
 冬来は小さく口を尖らせる。
「……だからなに」
「ええ」
 だから。
「役割を演じるというのはそう言うことではないんですか」
 フライパンから湯気が上がるのを確認して、昌信は餃子を一気に放り込む。
 じゃっと油が立てる香ばしい音がして、手製の餃子が色づき始める。
 それを眺めるようにして、耐熱ガラス製の蓋を構える。
「求められて選ばれるのは勿論のこと、演じることで引き合う形が合って当然ではないかと私は思うのです」
 小さなカップに一杯の水。
 昌信はそれをフライパンに流し込んで蓋をする。
「冬来さん」
 もう一袋柿の種を彼女に差し出す。
 市販品故に、幾らかピーナッツが混じったものだ。
「如何ですか?」
 無言でグラスを置き、それを受け取るとぴっと袋を破り中身を掌にあける。
 冬来は先程手元に置かれた分も掌に移すと取りあえずひとつまみ口に入れる。
 かりっと甲高い音をたて、口の中で弾ける柿の種。
 同時にほのかな醤油の味と辛味が口の中に広がる。
「それでも、あたし達が認められる訳じゃない」
「そう言う話じゃないんですけどね」
 昌信は苦笑しながらフライパンの様子を窺う。
 まだ水が沸く音が聞こえる。
「判ってるけど」
 冬来はもぐもぐと柿の種をかじりながら続ける。
「昌信さん、あたしがおかしいのかな。それとも、この世界がおかしいのかな」
 昌信は顔色を変えない。
 決して笑みを崩さない。
 ただ、彼女があまりに深刻な言葉遣いで聞いてきたから、こう返すことにした。
 他に彼も言葉を知らないように。
「この世界ですよ、冬来さん。ヒトって言うのは頑丈にできてるのにそれに逆らうことなんか、出来はしないでしょう?」
 世界と答えたが、実際には社会というべきだっただろうか。
 昌信は思った。結局人間が作った社会という名前の世界が、彼女を苦しめているのではないかと。
 もしそうならば――やはり間違っているのは世界だ。
 彼女のような、彼女達のような存在を認めなければならない世界に存在してしまった事が最大の間違いなのだろうと。
 そしてそれを容認できるような社会を人間が作れなかったことが、間違いなのだと。
 ただ。
 目の前で酷く草臥れた貌をしている冬来に対して、それ以上の感情を抱くことはなかった。

「秋月節良さん?」
 あれから二時間。
 きっかり予定していた時刻を過ぎた時、突然声がかけられた。
 公園のベンチに腰掛けて、項垂れて時が過ぎるのを待っていて――有り得ないことだった。
 既に周囲は闇に落ち、視界の殆どを奪われてしまった山の麓の公園。
 もし冬来の言葉の通りであれば、まさにこの時刻、この場所。
 格好の狩り場――おとりである彼にとってまさに最高の舞台。
 恐らく『目標』にとっても彼は格好の獲物に見える、そんな最高の条件で。
 周囲に人の気配はなく、彼自身も身軽で荷物もないところに。
「え」
 彼が声に面を上げると、半身を闇に沈めた少女の姿。
 闇を切り取ったような街灯の下にすいっと歩を進める。
 姿を現したのは、舞をストーキングしていた少女だった。
 混乱した。
 彼女は何の迷いもなく彼の隣までくるとちょん、と彼のとなりに腰掛けた。
 身の丈は150cmあるだろうか。少なくとも彼よりも低い。
 あの時は気にしなかったが、こうして隣に座ると小柄な事がよく判る。
 肩幅も小さい。
「……どうして、俺の名を」
 混乱から抜けきれず彼はどうにかそれだけ聞いた。
 彼の隣で両脚をぶらぶらさせる少女は、困ったように数回首をかしげる。
「私の名前は春日野比奈(かすがのひな)」
 そして一方的に自己紹介を始める。
「ここからすぐ近くの高校に通ってたんだ。今は自主退学したけど」
 話ながら少女は足をぶらぶらとさせ続ける。
 時折、膝の横でベンチの縁についた手を開いたり閉じたりしながら。
 彼を真横から見つめる少女の目。
 酷く滑稽だったかもしれない。
 しかし節良にとってはそれはあまりにも異様で、訳が分からなかった。
 判るはずがない。――そもそも何故、あの時のストーカー少女が自分を知っていて、今こうして隣に座っているのか。
 そして今節良は、心の奥底から何度も何度もけたたましく鳴り響く警鐘を感じるのが精一杯で、それに従う事ができないでいた。
 何故、こんな小さな少女に怯えなければいけないのか。
――怯える?
 自分の抱いた感情に気づき、言葉にして始めて実感する。
 今まで、何度も、ヒトヲコロシテキタノニ。

 怖ろしいという感情を抱いたのはもしかするとコレガハジメテなのかも知れない。

 怯える。
 自分の心の動きが理解できず、彼女が話す言葉はまるで砂が水を吸い込んでいくように脳髄に刻まれていく。
「酷いのよね、先生ったら。私はただ好きなだけなのに、止めてくれって何度も何度も叫んでたわ」
 だけど、その言葉その物に何らかの力でもあるのか。
 何を言っているのか理解できない。
 彼女の言葉の意味が理解できない。
「何故そんな話を」
 少女は黙るとぱちくりと不思議そうに瞬く。
 そして小首をかしげてまるで、それが当たり前かのように言う。
「あなたは私を見つけられたから」
 眉を寄せて怪訝そうにする彼女。ぴたりと両脚の動きも止まり、すっと視線を外すとぴょんとベンチから飛び降りて振り向く。
 両手を後ろに隠して、前屈みに顔を彼に近づけて。
「違うの?」
 反論しようとして。
 彼の脳裏を過ぎった昼間の記憶と同時に、大事なことを思い出した。
 目の前の少女に怯える前に、もっと重要な事があったはずなのだ――それが何なのかを思い出す。
 この少女が『ストーカー』だったということ、彼女を排除するのが『仕事』だったこと、そして今何をしているのかということを。
「悪いがすぐ立ち去れ。邪魔だ」
 二人組、それもどう見ても子供の組み合わせだといえ、『目標』はもしかしたら躊躇するかも知れない。
 『目標』が食い物にするのは男の子だけの可能性もある。
 ともかくこの少女、比奈は邪魔だ。
 後で目撃者になられても困る。しかし、ここで始末する事も難しい。
 もし『目標』が今のこの状況をどこかで窺っていて――いや、ならばここで邪険に追い払うのもどうだろうか。
 急ぐ。急(せ)く。焦る。
 でも解決法が思いつかない。
「何故?折角二人きりになれたのに」
「何を訳の分からない事を。第一、こんなに暗くなってきたんだ、早く帰れよ」
 少女は彼の言葉が分からないのか、ゆっくり右に左に首をかしげる。
「あなたは私を見つけた。私はあなたを知りたい。――あなたは私のことをもっと知りたいと思ってくれないの?」
「どういう事だよ」
 くすり。
 少女の口元が歪み、微笑み――とはお世辞にも言い難い笑みに形作られる。
 どこか拗くれたような歪さを残した、むしろ嘲りに近い笑み。それは間違いなく上位者たるものが見下しているとしか思えない笑み。
「好きって事」
 凍てつく闇。
 街灯の中で、二つの姿が切り取られたように浮かび上がっている公園。
 闇をひた走る音と風切る影に、その寸前まで少女は気付かず。
 少女に気を取られていた節良も、手遅れになってから体が反応した。
 尤も節良には危険ではなかったのだが。
 闇が少女の真横で炸裂した。
 正確には闇が突如少女を押しのけるように膨れあがって、小さな悲鳴と共に真横に転がったのだ。
「ねっ、カズ姉ぇ!」
 長い髪を闇のように纏い、首から下はレザースーツという或る意味きわどい格好で。
 両手にレザーグローブをはめて、全身真っ黒という出で立ちだ。
――っ
 節良は息を呑んだ。
 姉のこんな格好を見たことがなかったからではない。
 一見漆黒のライダースーツを身に纏っているようだが違う。
 脇、腰、袖口に幾つもの得物を仕込んでいる。
 革製のツナギも、その内側には恐らく鉄芯の網が巻かれた鎧になっているはず。
 動き、音、そして彼女の身のこなしは節良が見れば間違いなく『今すぐ狩りを行う為の格好』であることは理解できた。
「言ったよね」
 彼に背を向けて、『少女』の方を向き。
 ざきっと甲高い金属音を立てて全身を振るわせる冬来。
「セツは、きっと好みのはずだって。言ったとおりになったでしょ」
 同時に両腕に花が咲いたように光が走る。
 仕込んだナイフが刃を開いた。
 両腕でそれをつかみ、逆手に握るとつかつかと少女に向かう。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
 比奈は壊れたレコードのように『痛い』を繰り返している。
 節良の位置からは確認できない。先程のタックルの際、冬来は懐の一本を脇腹を狙って突き立てていた。
 転がって、不自然に突き立ったナイフに痛がっているようだったが、顔に怯えも痛みに怯みも見せない。
 左の脇腹に右手を伸ばし、柄を無造作に掴むと一瞬顔を歪めるが、何の躊躇いもなく引き抜いた。
 勢いよく抜き取ったせいで、圧が抜けるような音を立てて血が吹く。
「痛い痛い、なんてことをするの」
 くらっと一瞬体を揺らして、それでも彼女は体を起こした。
 冬来との距離、およそ5m。
「あなたも」
 冬来は直立から体を落とし込み、猫科の動物が襲いかかるように体を丸めて突進する。
 重心を加速に使い、ダッシュで間合いを詰める。
 手負いの少女には目で見えていても反応できなかった。
 冬来の左肩をかわしきれずみぞおちで受け止める。
 どん、と少女の体が不自然に浮き上がり、くたりと力を失って冬来に体を預けて倒れる。
 冬来はそれで終わりとばかりに少女を肩で押し上げると、比奈は抵抗もせずずるりと地面に向かって崩れ落ちた。
 抵抗できるはずもなかった。
 彼女は今の一撃を受けて完全に絶命していた。
 冬来の両手に握られた大振りのナイフは、狙い過たずみぞおちからきっちり急所へと刃を伸ばしたのだ。
 両腕を振って、袖に仕込んだ鞘にナイフを戻すと彼女はくるりと振り返った。
 唖然とした顔の少年が、状況を把握していないのは説明されるまでもなかった。
「帰ろう?」
 冬来の声に複雑に顔を歪めながら渋々頷くと、彼はこう言った。
「……何で、俺の仕事にちょっかい出してきたんだよ」
 と。


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