贄――sacrifice――
第2話 Fox hunt――狐狩り――
狩りというのは、高尚な趣味だと言われる。
昔時間をもてあました貴族共が、そのルールなどを色々考案した。
しかし、狩りというのは元々食料を得るための一つの方法であり、ある種命がけの行為の一つである。
食われる物を追い、逆に食われる事だってある。
この性質のため、肥沃な大地を持った人間は通常農耕民族として発展していく。
狩りとは、はじめから命と命のやりとりでしかない。
食うか食われるか。
狩るか狩られるか。
緑の一つもないアスファルトで敷き詰められた、摩天楼の建ち並ぶ街並みで。
節良はただ一人の狩人として、獲物を追っていた。
自らの気配を溶かし、獲物に気づかれないように進む。
今回はおとりを使った狩りだ。
狩りの方法はいくつかある。
マタギと呼ばれた、雪山で銃を使った狩りを続ける狩人たちは最も命がけの手段と獲物を選んでいた。
大自然という一つの脅威にさらされながら、小さな獲物のみならず、熊を屠り生活の糧を得る事が一人前であると認められる方法だった。
中には熊と一騎打ちせざるを得ない状況下での狩りもあるであろう。
自らの命をさらした狩りでは、生存本能と経験が物を言う。
全身が死の危険を感じ、ぎりぎりまで研ぎ澄まされた感覚が肉体を支配する。
その感覚さえあれば、狩人は熊の一撃ですら避ける事も可能なのだ。
彼らはそして、食べる分しか狩る事はない。その目は飛ぶ鳥の雌雄の区別もできると言われる。
しかしおとりを使う狩りでは、いわば狩人は気配を殺しただひたすらに待ちの一手となる。
獲物が狙うのはおとりであり、自分ではない。だから、おとりの危機を感じる事も難しくなり、ともすればおとりがぎりぎりの危険の中で獲物を狩る必要性がでてくる。
これは自ら修羅場に飛び込むような狩り方をする狩人にとっては非常に辛いものと言えるだろう。
特に――今回。
節良は姉の髪の毛が揺れるのを見ながら舌打ちする。
――なんでこんなにイライラしなけりゃいけないんだ
彼の苛々の原因はおとりをやっている姉、ではなかった。
気づいていなかったが、先刻見た姉の無表情なあの貌。
彼が一番恐れている貌、それを姉がわざわざ見せた原因がわからないから、苛々し続けるしかなかったのだ。
そんな不安定な精神状態では、おとりによる狩りは自分の感覚を刺激しないせいで難しいものとなる。
特に人気の多い町中を歩いているような状況で、まるで姿をとけ込ませるようにすっと消える視線の主を追うなど――できない。
しかし節良はそれに気づいていなかった。
冬来自身、節良をそこまで追いつめているとは思っていなかった。
時折気配を探れば、狩人としての特有の気配がゆらり、ゆらりと近づいてきているのが判る。
節良の気配を読む事は難しくない。
冬来自身もまた、同じ訓練を受けた身であるというだけではない。
彼の事だったらどれだけ離れていても判る。
そのぐらいの自信がある。
わずかな会話で何もかも理解できる。近くにいるなら、呼吸をしたタイミングも、心臓の鼓動まで理解できる。
……と、彼女は考えていた。
実際今も精確に節良の居場所を捉え、彼がどのように歩いているかも感じる事ができているが――彼女は、彼を追いつめたあの貌、それを理解できていなかった。
他人をどれだけ理解したつもりでも、自分を理解できていない――それもある意味、致命的と言うべき状況かもしれなかった。
あの貌の時、彼女は節良の事を理解できていなかった。
今の彼の精神状態だって、把握しているつもりで大きなずれができていることに気づいていなかった。
「秋月さん」
舞が冬来を見上げる。冬来の瞳は削りだしたガラスのようで、舞の姿を映しているのかどうかは彼女からは判らない。
そんな冬来にも舞が怯えているのが判った。
「いる?」
「先刻からっ……」
ちらっと視線を向けた先。
――ん
冬来は気配を探って、ゆっくり絞り込む。
――……つけてきてるわね
あからさまではないが、明らかにこちらに向かう人間が一人。
他の人間と違う点は、その足取りだ。
普通たまたま同じ方向に移動しているなら、こちらの動きに合わせて立ち止まったり、誤魔化すようにふらふらと歩いたりしない。
しかも距離がぴったり同じ。
尾行のやり方そのものを知らない素人のやり方だ。
気配を殺す事すらしない。殺されても文句を言えない状況下で。
――でも
今、冬来は心配で仕方なかった。
奇妙な事に気がついた。
姉の気配(節良も姉の位置を把握する事は簡単だからだ)とほぼ同じ位置関係を保つ人間がいるのだ。
――?
疑問符が一度飛ぶ、が、すぐに考えを改めた。
――見つけた……っ?
彼の視界に入った獲物を見て、彼は再び眉をひそめた。
動きを見る限り、舞を追っている、姉の方向を向いているのはほぼ確かだ。
しかもその動きは弩素人としか思えない。
間違いない条件がそろっているのだが、一つだけおかしなところがある。
――女、だよな
節良ではないが、女装の可能性はある。
だが、臭いは隠せない。よほどなりきれる人間でなければ、外観を装うだけにしかならない。
素人で節良程の女装ができるとは考えがたい。
動き、肉付き、そして仕草、それらは男の物とは思えない。
若い女、それも高校生ぐらいではないだろうか。
この町中であればいきなり踏み込んで斬りかかるという真似もできない。
それは向こう側も同じ事だし、何より素人丸出しだから。
「よぉ、お姉ちゃん」
節良は一気に間合いを詰め、無造作に背後からそう声をかけた。
びくっと一度身体を縮こまらせたが、そのままの勢いで振り向き、節良に全身を見せた。
「な、なんですか」
――やっぱりな
振り向いたのは、どこかの制服であろう灰色の野暮ったいブレザーに紺と茶色、赤のチェック地のスカートという格好に、白い短いソックスと黒い飾り気のない革靴といった出で立ちの女の子だ。
三つ編みに眼鏡、子供も良いところだ。
節良はわざとらしく顔をしかめ、大きな音を立てて舌打ちすると続けた。
「おっと、悪いな、人違いだったぜ。じゃあな」
と彼女の肩を強めに叩き、肩をすくめて彼女のそばを通過する。
目。
耳。
指先。すべてが、怯えの色に染まっていた。
――ふん
これで終わりだろう。この少女が振り向いた瞬間、姉は既に動いていた。
その日はそれで終わり。
舞を安心させることが出来たかどうかは判らない。
あっという間に視界から姿を消した二人を、彼女は追うことが出来なかったようだ。
何故なら。
「ただいまー♪」
帰ってきた冬来の機嫌があまりにもあからさまに、良かったからだ。
扉を開けた時の軽快な音。
彼女の履いているお気に入りのスニーカーが立てるきゅっというゴムの音。
恐らく勢いよく跳ねたのだろう、衣擦れの音。
そして、元気な声。
「お帰り」
それを節良は台所から声だけで迎える。
彼の前には鍋があり、ことことと音を立てるのをおたまでかき混ぜている。
先日から準備しているビーフシチューだ。
ブーケガルニを使って、一応丁寧に煮込みを続けているものだ。
熱湯をかけて皮をむいたトマトをすりつぶし、赤ワインとトマトピューレを混ぜたものを入れ、野菜くずやブーケガルニを取り除いた後、カラメルソースを加えてから具を戻して、煮込む。
気をつかって新じゃがを皮ごと入れたりしている。
芯まで熱が通って、じっくり味がしみこんでいる事が重要。
ビーフシチューと言っても、秋月家ではマッシュルーム代わりに椎茸が入る。
まるごとごっそり。
節良がそれをゆっくりかき混ぜていると、ぱたぱたと足音がして台所に姉が顔を出す。
「ちょっと、夕食の買い物行ってきたのに」
「昨日シチューにするって言ったでしょ」
振り返りもせずあきれた声で返して、おたまをくるり。
そのたびに良い匂いのする蒸気が鍋から上がり、空気に溶ける。
ふっと一呼吸分ほど沈黙して、何の気なしに顔だけ振り返ろうとして。
むぎゅ。
真後ろから羽交い締めにされる。
背丈の差から、ちょうど姉の冬来が抱きしめると、節良の頭が彼女の顎の高さにあり、肩を上から抱きしめる事が出来る。
「姉ぃ、じゃま」
邪魔と言いながらもおたまの動きは変わらない。
「カラメルソース入れたいんだけど」
「入れれば良いじゃない」
そう言ってきゅっと腕に力を込めて、身体全体を押しつけるように彼を前に押し出す。
「姉ぃ」
いやがるように少し強めに声を上げる。
身動きという意味では、節良の動きは妨げられていない。
肩の前に回された腕も、押しつけられる程度に力が込められているが拘束するほどではない。
砂糖と水を入れてフライパンでソースを作るのも、具と肉を入れ直す事もできる。
でも気分的には重要な問題がある。
冬来の体温が、おそらくおなかと胸が、柔らかい部分が背中感じられる。
体温というのはどこか安心させるものがあるが――それと気づかない場合には違和感と気恥ずかしさしか節良に思い起こさせない。
「セツ」
しかし冬来はひるまなかった。
彼の名前を呼んだ冬来の声。
冬来の貌が、視線の焦点が合わない無表情へと変わっていることに、今の節良には気づかなかった。
「セツ、お姉ちゃんね、別にお母さんでもよかったんだけど」
冬来は、生気のない瞳でにっこりと笑って、彼の頭に自分の顔を押しつけるような格好で小首をかしげる。
彼の頭の匂いがする。嗅ぎなれた節良の匂いに、おかしくなってくすりと声を漏らす。
「セツの姉を選んでよかったかな、って思ってるからね」
言ってからくふふっとこもった笑い声を上げる。
「お母さんだったらこうはできないもんね」
節良が料理して、それを見守りながら抱きしめる。
それは母親だったとしても別段『不可能』ではない。
が、節良はそれ以上何も言わなかった。
冬来がこうしている間は何を言っても聞かないし、何より感じる物があって、彼は彼女の好きにさせることにした。
一瞬唇が震えて、下唇を上の歯でかみしめる。
――カズ
くふふ、と笑いながらゆっくり身体を動かしている冬来。
多分節良の匂いをかいでいるのだろう。
時折首筋に彼女の吐息がかかる。
その間にも、彼はソースを漉し鍋に投入、具と肉を入れ直すと、様子を見ながらおたまでかき混ぜ続ける。
ことことと音を立てるシチュー。
ぷぅんとひどく良い匂いを立て始めても、冬来はシチューより節良に夢中だ。
脂を多く含んだバラ肉を使い、かなり本格的なビーフシチューになっているので、節良はそれも気に入らなかった。
「カズ、邪魔だって」
「邪魔?」
きゅ、とさらに力を込める。
さすがにおたまを回す手が動かしにくくなって、彼は鍋の火を止めてふたをする。
もうどちらにせよほとんど完成だ。
「夕食の準備に入らないと駄目だろ」
抗議する節良を無視して、さらに彼女は力を込める。
「そうだね」
答えは正反対なのに。
「セツ、セツは――」
「好きだってば」
何を聞いているのか判ったから、彼は質問に割り込むように答える。
「どうしたの。変だろ、カズ。今日は何があったんだよ」
「何もなかったのよ」
嬉しそうな声で応えて、彼女は鼻の頭で節良の後頭部をつつく。
「何もなかったから、すごくうれしいの」
「あっただろ……ストーカー、女だったみたいだけど」
「そう?」
もはや冬来にはストーカーが誰であろうと関係ないようだ。
ほとんど首を抱きしめるような格好で、鼻をぐりぐり押しつけている。
「殺してないでしょ?」
節良は眉をひそめた。
使うつもりで提げていた剣鉈。
革製のホルスターに納めたそれを脇に提げて。
いざとなればもちろんためらう事などなかった。第一。
「……カズ、仕事をもってくるのはカズだろ」
殺せというのは冬来だ。
殺すべき相手を何の容赦もなく彼女が節良に告げる。
それはもしかするとお金が絡んでいるのかもしれない。
誰か、代わりに死にそうな人間の身代わりなのかもしれない。
それともただの快楽のためなのかもしれない。
少なくとも節良には知らされていない。
ただ、冬来と一緒に過ごし、冬来と共に訓練した技を使う場所として、使うべき時期として、彼女が告げるだけ。
人を殺す術を操る事を彼女が命じるだけ。
だから、今の彼女の態度が異常に感じた。
冬来の言葉に矛盾を感じた。
節良の言葉に冬来は身じろぎを止めてただ彼の匂いだけを感じる。
落ち着かせるように。
気持ちだけ走り出さないように。
教えるべきなのか、教えざるべきなのか。今はその時期なのか。
「そう……だよね」
すっと身体を離して、冬来は節良から距離をとった。
その間に節良は彼女を無視するように、シチュー皿とスプーンを棚から取り出して並べる。
もうシチューは出来ているから、肉を皿に並べてからシチューを注ぐ。
それをお盆に乗せると、隣のリビングにあるテーブルへと運ぶ。
「セツ」
とん、とんと小気味良い音を立てる皿。
節良のその様子を冬来はただ眺めている。
「――今日のは、仕事じゃないの」
皿を置いてお盆だけを持った彼と目が合う。
節良は足を止めた。
姉は少しだけ困ったような顔で彼を見つめている。言葉を探しているのか、本当に困っているのか。
やがて彼が足を動かすより早く言う。
「仕事じゃなかったら、殺すのは良くない。殺しても良い場合じゃない限り駄目」
言っている言葉の意味が伝わるだろうか――と冬来は言葉を選んだつもりでも、心配していた。
何を伝えるべきなのか、彼女自身が判っていないのかもしれない。
本当は判っていても表現できないのかもしれない。
「それはどういう事?」
まだ節良には伝えていない事がある。
節良は、実際に殺す技を使うためだけの場所で戦いを続けている。
考えなくても動けるような人材として。
冬来自身そうであれば楽だったのかもしれない。そう思う事もいくらでもある。
特に節良に仕事を与えなければならない場合。
自分で行こうかと思うことすらある。実際には節良に行かせる必要があるから出来ないのは判っていても。
本当は伝えなければいけないのかもしれない。
規則で縛られている訳ではない。タブーという訳でもない。
でも今更。
言い訳のように聞こえる理由を言うべきだろうか。
「殺してもいいモノと殺してはいけないモノがこの世にはいるの」
「たとえば」
「……」
一瞬冬来はためらうように黙ると、節良は彼女の視線を避けるようにして食器棚へ向かい、白い小さな皿を二つ取り出し、冷蔵庫からバターロールをいくつか取り出してトースターへと入れる。
時間は1分。
かりかりとタイマーが音を立てる。
「姉ぃ、いいから、夕食にしよう。今日は自信があるんだ。食事の感想が聞きたい」
そう言って促すようにリビングのシチューを見る。
ふらり、と冬来がそちらに向かうのが見えて、彼は続けて言う。
「パン、すぐ持って行くから待ってて」
返事があったかどうか、確認せずに節良はパンの様子を見ながら牛乳を出す。
いつものように並んだパックを一つつかむと、小さなグラスを二つ手にとってそのままリビングに持って行く。
その時、ちん、とトースターが音を立てた。
「あ」
同時に冬来がキッチンに向かう。
「ごめん」
「いいよ、セツは座ってて」
とっと軽い音を立てて彼女はトースターに駆け寄ると、ぽんぽんと皿にパンを盛りつけて戻ってくる。
そして、どちらからともなくテーブルに並んでつき、料理の前で両手を合わせた。
ビーフシチューという料理は、作り方はだいたい同じだが日本ではパターンが二通りある。
スープ状のものと、どろどろに煮込まれたものだ。
どろどろの場合は肉がメインディッシュであり、ステーキのような感覚で肉に多めのソースをかけたような雰囲気になる。
逆にスープ状の物はインスタントでルーが販売されており、ご家庭でもよく作られるものだろう。
元々シチューとは煮込むという言葉であり、結果的にどちらもシチューなのだ。
煮込む時間をより長く、火をより小さくしことこと長時間煮込む事、それが一番大事な事だった。
同じ材料、同じ調理法を行っても、この煮込みの時間が長ければ長いほど、シチューのとろみがでる。
たとえばある調理人は、赤ワインを最初に三分の一になるまでぐつぐつと煮詰め、アルコールを飛ばすだけではなく濃く甘くしてしまうのだという。
節良の作った物はそこまで凝った物とは言えなかったが、しかし決して手を抜いた物ではない。
スプーンで肉をつつくと形を崩す事はないが、口の中で肉がぼろぼろと崩れるぐらい煮込まれている。
「美味しい」
冬来は思わず口にしていた。
節良は少しだけほっとして、自分の分を口に運ぶ。
冬来ではないが、確かに美味しいと思った。
しばらく黙々と食事が続く。こんな静かな食事も珍しい。
普段は冬来がにこにこ笑いながら色々話しかけてくるから、そんな些細な差ですら節良のかんに障る。
静かに食事できないのか、と思っていたのに、いざ静かな食事をしていると苛々するのは何故なのか。
「美味しいよ」
彼が黙り込んでいる事に気づいたのか、冬来が続けて言う。
右手でパンをちぎり、シチューをすくって食べながら。
「そ、良かった」
節良が素っ気なく返すと、むっと眉を寄せる。
「違うでしょ、セツ、そこはもう少し嬉しそうに応えるの。出来ればほおを染めて少し恥ずかしそうなのがいいかな?」
「ばかやろ」
ほんの少しだけ調子が戻ったのをちらりと一瞥して、彼もパンに手を伸ばす。
きつね色より焦げ目の強い皮は、ぱりっと音を立てて彼の手の中で崩れる。
それを半分に引きちぎり、どろりとしたシチューのソースを拭き取るようにしてつけると、口に含む。
肉の味とソースの薫りが強く、こうしてパンを食べるのは非常に美味しい。
いくつでも行けそうな気がする。
「……なんだよ」
半切れを口に放り込み、咀嚼するとミルクを飲み干す。
その様子を冬来はじっと見つめていた。自分の分を食べる事もせずに。
「――仕事、したくない?」
彼女はゆっくりと単語を刻んで紡いだ。
節良は一瞬口をつぐんだが、考えるように視線をはずして少しだけうつむく。
――カズは一体何を聞きたいんだ
彼が殺しをすることがいやなのか。
それは否定される。彼女が『仕事』を選びもせずに持ってくる。
第一、彼女にとって彼が殺しをしないことは――実行部隊からはずれることは、彼女自身が困る事になる。
「……したい、なんて言ってほしくないみたいだけど」
案の定彼女は複雑な貌をしてみせる。
だが、やがて自嘲するような苦笑を浮かべて、小首をかしげた。
「ヒトゴロシに何の感情も持たないよりはましかもね」
節良は再び唇を噛んで黙り込んだ。
好き――ではない。
嫌いかと聞かれると、実はそこに何の感情も抱けない、ただたんたんと仕事としてこなしている自分に気づく。
斬りかかる瞬間に考えているのは、効率の良いバラし方であり、そこには自分の剣鉈の痛み具合を心配する自分がいる。
『殺す』ことは『処分する』事であり、彼女の言うように何かの感情を挟み込むような物ではなく、ただ、死んだ虫を捨てるように。
いわば鉄道事故に巻き込まれた死体を運ぶように。
ただ淡々と。いわば何の感情も抱くことなく済ませるだけ。
「変だよ」
だから端的に指摘する。
冬来は笑いながら背中を壁に預けて、ずるりと床に滑り込むように倒れる。
「へんだね」
ずるずると壁から崩れるようにして、手近なクッションを引き寄せて抱きしめる。
「今更へんなのは、判るけどね。セツ。注意してほしい事、教えたよね。仕事中の」
絶対してはならないこと。
仕事中、人に見つかってはならない。
このために仕事は素早く、絶命させる際には声を立てないよう。
死体の処置は彼自身は行ってはならない。
専門の『後処理部隊』がそれぞれに見合った方法で処理する。
これはこの手合いには珍しい事ではない。簡単に言えば、死体そのものを完全に消してしまったとしても人間にはその周囲の『網』がたぐれるため、『存在を消す』事が難しいからだ。
つまり情報操作・死体への適切な処置を行い、事故に見せかけたり実は全く別の事故に巻き込ませてしまったりするのだ。
だから実行犯は『死亡推定時刻』から早く逃れる必要性があるということだ。
そして最後に一つ。
「何があっても、目標以外毛一つの傷を付けてはならない」
それが一番大事で、これを破ってはいけないと言うことを彼女は何度も彼に教えた。
「そう。仕事では目標を素早く殺してしまう事が必要なの。でも、それ以外には全く触れてもいけない」
ごろん、と床に寝っ転がって、座ったまま彼女を見つめる弟を優しく見返す。
「何故だかは教えてなかったけどね」
「なぜって」
無駄に殺してはならないから?違う。
殺しという最小限度の必要悪を、目標にのみ限定しなければならないのは何故か。
冬来は這うようにその体勢のまま節良に近づく。
身体を折り曲げて、くるっと腰を中心に身体を回して、顔を彼のおなかのすぐ前まで持ってくる。
顔だけを突き出すように、両肘で突っ張って。
「もう一つだけ質問」
そう言うと、慌てて後ろに下がる節良に、両腕と両膝で身体を起こして覆い被さる。
逃げられない彼をゆっくり抱きしめる。
「――セツ、あなた、自分を人間だと思ってる?」
「え」
抱きしめられて、耳元で囁かれる彼女の言葉。
耳朶を叩く彼女の声と、熱い吐息。
「今こうしてここに二人で住んでいる私たちは、本当に人間だと思う?」
その質問は簡単だ。
人間の親から生まれて人間として育てられて、ただ人を殺さなければならないと、その術を学んだだけの姉弟。
――いや。
節良は否定してはいけない部分を否定しなければならなかった。
節良と冬来は。
「人間だろ」
ヒトとして育てられた訳ではない。人間であるように命じられた覚えもない。
しかしもし、であるならばオオカミとして育てられた少女はオオカミなのだろうか?
答えは否。
ヒトとして育てられたオオカミは、果たして人間だろうか。
これも、答えは否。
たとえどれだけ苦労したとしても、ヒトはヒトでしかなく、オオカミはオオカミでしかない。
それを超える事もそれを変える事もそれを拭う理由すらもこの世には存在できない。
この後どれだけ科学技術が発展したとして、チューリングテストに合格する事の出来るプログラムでも、それは人間の思考とは違うと。
一つだけ反論がある。
チューリングテストに合格するほどうまく『化けた』プログラムは、本当に人間と同じ思考をしていないと言えるのだろうか。
アラン=チューリングが提唱した『模倣ゲーム』をこなすデジタルコンピュータとは、本当に人間ではないと言うべきなのだろうか。
それはヒトが作った、ヒトが育てた、ヒトではない物から生まれたヒトではないのだろうか。
それすらも人間。
「そう、思えているうちは人間と思っていていいわ」
冬来は大切な物を守るように、節良を抱きしめる。
「ヒトがヒトを護るためには、ヒトの枠組みの中では生きていられないけど、ヒトであることを忘れてはいけない」
冬来はまるで歌でも歌って聞かせるように、まだ彼に伝えていない、伝えなければならない、彼が理解していない事を話す。
言葉を紡ぐ。
「だから、『目標』以外の『ヒト』を殺してはいけないの。殺さなければならない『目標』は私が教えるから」
そう言って彼を解放し、両肩をつかんで彼女の真正面に固定する。
小さくて、生意気で、まっすぐで、彼女が願った弟の節良。
彼のためなら何だって出来る気がする。
「ごめんね」
そして彼女は続けて言った。
「これから『仕事』よ」