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贄――sacrifice――
第4話 姉


 餃子を皿に盛ると、特製ラー油をかける。
 昌信はこのラー油には自信があった。彼の料理は決して下手ではないが、確かにラー油は特別製だった。
 普通よりこくがあり、薫り高い為ラー油抜きに彼の餃子は語れない、そのぐらいの代物なのだ。
 だからといって辛すぎる訳ではないから、タレではなく直接振りかけても食べられる。
 ほどよく蒸された皮は半透明に中身を浮かび上がらせ、香ばしく焦げた表面にうまく絡むラー油。
 確かに餃子は他の店で食べられるものではなかった。
「どうぞ」
 小振りの餃子は冬来も嫌いじゃなかった。
 いつも通りの自分の食事量に合わせた彼のつまみの出し方も、酒の用意の仕方も冬来は好きだった。
 でも気分は決して晴れなかった。
 何杯目だろう。酒の量ももう判らない。
 二杯酢に餃子を漬けながら、じとりと昌信を睨み付ける。
「……話、聞いてる?」
「ええ勿論聞いてますよ。お仕事の話でしょう」
 客一人、マスター一人。
 とても繁盛しているように見えないこの『麿宇戸』だが、寂れた風ではない。
 そう見せないのもマスターの腕、ではあるが、その異質さ故に逆に不自然に見える。
「失敗したと思っているのですか?冬来さん、いつもより元気がないのはそのせいだけじゃないですよね」
「失敗したのよ」
 そうじゃなかったら飲みになんかこないわよ。
 言外の言葉はこぼさなかった。
 言葉通りの失敗ではない。だが、仕事は終わらせたが弟は納得しなかったようだ。
 別に、目的が達成されればそれで良いはずだ――が、姉の行動を弟が納得できていない。
 何故か?
「本当に失敗ですか。でも確かに気をつけるべき点はいくつかあります。節良さん、今回の目標の細部を知っていた訳ではないでしょう」
 冬来は黙る。
 言わなかったのか、言いたくなかったのか、それともそもそも言わない方が良かったのか。
 冬来自身どうしてそう言う事をしたのか判らない。
 たまたま忘れていたとも言えるし、判るだろうと思っていた事もあった。
「……あの子、私が家で待ってなかった事を怒ってるんだ」
 でも、今回は心配だった。相手が悪いと思った。
 一度でも顔を見た相手、相手も顔を知ってる。今までにない特殊な状況だ。
 今までにそんなターゲットを彼に与えた覚えはない。少なくとも、気取らせる事すらなかった。
 勿論節良にそんな事関係ない。殺さなければならない相手は殺す。殺してはいけない相手を殺さない。
 そういう風に教育されてるはずだし、今まで間違いなくそうしてきた。
 そして何より、切り取るような彼の行動は決して失敗はなかった。
 だから姉として彼を突き放すようでも、手助けもしなかったし見に行くこともなかった。
「違いますよ」
「何が」
「節良さんはあなたを心配して怒っているんでしょう」
 え?と思いがけないことを言われたと感じた冬来は顔を上げた。
 ひどく間抜けな顔で。
 半開きになった口はふるえるように動き、閉じることも開くことも、まして意味のある言葉を紡ぐこともなかった。
「そのぐらいは察してあげてください。……黙っておくつもりでしたが、言った方が良さそうですね」
 まだ目を丸くしたまま、今度は何を言われるのかとひどく狼狽して目が踊る。
 昌信はにやっと笑みを浮かべると、両肩をすくめてみせる。
「んーん、実を言うとあまり気乗りしません。というのも、これを言ってしまうとどうにも……」
 昌信が迷うように冬来の様子をうかがうが、やがて彼女はふっと目を伏せて再びぺたんとカウンターに突っ伏す。
 ふう、とため息をつくと昌信は彼女の頭の上から声をかけた。
「この店、節良さんよく来るんですよ」
 がばっとまるでバネ仕掛けの人形のように起きあがり、勢いをつけてそのまま立ち上がる。
 危うく顎をぶつけそうになり、一歩退く昌信。
「何!何、まだあの子未成年よ!まさか昌信さん」
「判ってます判ってます。そう言う意味じゃないですから安心してください」
 そのままつかみかかるように、カウンター越しに昌信に詰め寄る冬来を、両手でなだめるように押さえると軽く頭を下げる。
「脅かしすぎました。すみません。彼は、冬来さんのために来てるんですよ」
 今度こそ『訳がわからない』という風に、目を丸くしてぱちぱちと瞬き、真剣な表情になるとすとん、と座り込んだ。
 首をかしげて考え込む。
 冬来は、まずこのお店のことはほとんど話したことはない。
 だいたい、いつもなら店には彼が仕事中に来るのだ。
 彼に仕事をさせているから、その報告と彼女自身の罪の意識で。
 やはりどこかに罪悪感を感じて仕方がないのだ。本来なら自分がやるべき立場にあるはずなのに――と。
 しかし理由はそれだけではない。
「『姉ぃの事どう思ってる』って」
「え」
 冬来は驚きの声を上げて絶句する。
 言葉を継ぎたくてものどが動かない。まるでしびれてしまったように、頭の中が真っ白になっている。
 どんな言葉も出てこない。
 そう感じた瞬間――ふっと節良がこの店に来たこと、来ていることが飲み込めたような気がした。
 節良がわざわざここを調べて来た理由は少なくない。
 実際彼が仕事をする前後にはこの店に来なければならないのだから、節良ならすぐに調べられる。
 本来は知らせるべきだったのかもしれない、と冬来は下唇を噛む。
「……この店のことは」
「『お店』だと思っています」
 ぱち、ぱちと二回瞬くと、ふっとほおを緩めた。
「そっか」
 優しい目で少しだけ安心したように、嬉しそうにも見える笑みで。
 彼女はため息をゆっくりこぼすように言葉を吐いた。
「あの子は非常に優しい。自分が何をしているのかよくわかっているはずなのに、あんなに真剣であんなに不器用で」
 冬来は判っているのだろうか。聞いているのだろうか。
 昌信はそんな事はおくびにも出さず、ただ伝えるべきだと感じるままに言う。
「『お姉さん』のあなたを、大事に思っていますよ」
「……そっか」
 無言で数回うなずいて。
 たしかめるように応えて。
「だから、こんな店に入り浸るのも、私が騙してるからだとか」
「ちょっとまって」
 がたん、と先刻までのしあわせそうなとろけた笑みはどっかにかなぐり捨てて、ばたんと再びカウンターを大きく叩いて立ち上がる。
「――冬来さん。『家』のこと。きちんと説明していないようですけども」
 きゅきゅとグラスを磨く音が響く。
 まるで無駄にその音が間延びして聞こえて、少しずつ少しずつ汚れを拭き取り磨き上げるというその行程が、グラスを薄く薄く薄く削り取りいつか消し去ってしまうかのように錯覚を起こす程。
 妙に時間が引き延ばされたように、そのわずかな沈黙が長く感じられて、冬来はごくりとのどを鳴らした。
「――ええ」
 ただ事実を肯定した。
 その行為そのものをまるで忌避していたかのように彼女は大きく息をつく。
「私には説明できなかった。説明したくなかったのよ」
 伏し目で彼女はカウンターに視線を落とし、唇を噛む。
 昌信は彼女の様子をうかがうように、ただひたすらグラスを磨く。
 グラスを磨くという行為そのものが彼の存在意義であるかのように。
 きゅ、と余韻が残るような音を残し、部屋に沈黙が戻る。
「……最初に言いましたけど」
 昌信はグラスを元の棚に戻し、きれいに並べていた。
 カウンターに座ってその様子を眺めれば、整然と列んだグラスの森がある種の情景を作りあげていることに気がつく。
 それらが、天井からぶら下がったオレンジの灯りを反射し、ぼんやりと輝いている。
 写り込む昌信の姿。それがくるりときびすを返した。
「節良さんも、成長をしているんですよ」
 冬来は眉を寄せて困り顔を作ると、口をへの字に曲げる。
 困惑。
 冬来自身、節良の成長ぐらいは分かっているつもりだ。
 彼がどれだけ成長したか。そして、そんな彼から距離をどれだけ置けるようになったのか、自分自身の変わりようも理解しているつもりだった。
 でも、彼の丸い顔と、子供のように大きな目に見つめられると自分の居場所が分からなくなる。
 彼と自分との立ち位置。『姉弟』などという『くくり』、それぞれの役割、そんな後付の理由がどれだけ彼女を規制するのか。
「わかってる」
「判ってるなら何も言いません。『家』の管理人として、これ以上言う理由もありません。ついでにいえば、しばらく仕事をとることも辞めましょう」
 昌信は言うと、カウンターに両手をついて彼女を見下ろす。
「……そう。……そうしてくれたら、少し楽かな」
 昌信を見上げて、にこっと笑みを浮かべる。わずか目元に、かけらのような光を浮かべて。
「ではそうしましょう」

 それからしばらく、無言で冬来はウィスキーを傾けた。
 既に昌信も何度か止めたのだが、ほとんど奪うようにして冬来は飲み続けた。
 そして何度目かのおかわりをしようとした彼女の手を昌信は押さえた。
「冬来さん?いい加減にしないと弟さん呼びますよ」
 ぐっと彼女の手首を強めに握り、昌信は言う。
 一瞬抵抗するように力を加えたが、すぐに冬来は力を抜いてグラスを置いた。
「んうん……呼べばいいじゃない、けち。……泊めてくれたって、いいじゃない」
 言いながらカウンターにそのままの格好で突っ伏し、そのまま動けなくなってしまう。
 さすがに飲み過ぎたのだろう、規則的な寝息が昌信の耳にまで届く。
 完全に寝てしまったようだ。止める間もない。
 昌信は困った貌でため息をつき、起こす代わりに電話に手を伸ばした。

 結果だけ言うなら、冬来は起きた。
 ただし、彼女はもう酔っぱらって寝たふりを続ける事にした。
 節良が店に貌を出した時には、既に看板は下ろしており昌信もカウンターに座って彼を待っているところだった。
 その隣ですうすう寝息を立てる冬来の背中が見える。
「昌信さん、すみません」
 入り口をくぐるなり頭を下げると、節良はづかづかと大股で彼女に近づき、両肩をつかんで大きく揺らす。
「カズ、起きろよカズ!こんなところで寝るんじゃねえって」
 節良に大きく体を揺らされて、意味不明の言葉を漏らすがそれ以上は何も言わず、再び動かなくなる。
 冬来の様子に額に手を当ててうめく節良。
 そのうちぎりぎりと歯ぎしりをすると、振り上げた拳でぶんと空をたたく。
「あーんもう!昌信さん」
「お代はいただいてます」
 と、ぴらりと領収書を見せる。
 もちろん昌信の手書きで、彼がそれを帳簿から切り離すと、写し取ったコピーが姿を見せる。
 昌信はそれを節良に渡し、にっこりと笑うと再びカウンターの片付けに取りかかった。
 節良はありがとう、と言うとぶつくさ文句を言いながら冬来を背負い、店から出て行った。
 ふう、とため息をついて二人を見送ると昌信はにこやかな表情のままで肩をすくめる。
「全く、世話の焼ける二人ですね。『ツユリ』と『ホヅミ』ですね」
 と言いながら首をこき、こきと横に傾ける。
「『木』には貸しを作りたくありませんからね」
 きゅい、とグラスを磨く音を立てる。
 どこかそれが、先ほどまでよりも鋭く、耳に残すように、夜の闇が染みこんだ店内に余韻を残した。
 そして、灯が消えた。
 看板は既に灯を落としていたが、ふっと急に店そのものがなくなってしまったような錯覚を受けて、節良は振り返った。
 だがもちろん店はそこにあり、動く気配も電気が点る気配もない。
 先ほどと何ら変わらない――のに、何故かもう店が開くことが二度とないような、そんな錯覚を覚えて、しばらく店を見つめると頭を振った。
 背中がほんのりと温かい。寒く冷えた空気の中を白い息を吐きながら店に来た彼には、それが代え難いものに感じられた。
「くそ」
 そして、そんな自分に悪態をついてちらりと右後ろを見るようにして、冬来を見る。
 前髪で顔が見えない。
 彼の背中に貌を押しつけているように見える。わずかに呼吸で上下する頭に、酒臭いにおい。
 そんな彼女の様子を見て、前を向いてため息をつく。
「こんなになるまで飲むなよ」
 力なくだらんと、彼の両肩にぶら下がる彼女の腕を丁寧に自分の首に回してみる。
 引っかかったみたいに綺麗に巻き付いたので、彼は彼女の太ももをがっちりと抱きしめる。
 彼にとってはかなり大きな姉だが、こうやっておぶってみれば重さを感じない。
 軽い物だ。それに……暖かい。
「あんまり迷惑かけんなよ」
 ほとんど独り言のようにつぶやいて、彼はごすごすとあごで彼女の腕をたたく。
「せっかくあんなに良いヒトなんだし、嫌われたりしたら寂しいんじゃねーのか?」
 もちろん返事なんかないし、期待していない。
「俺、昌信さんは信頼していいと思ってるけどさ。姉ちゃんの事は逆に心配だよ」
 何かあるとあの店で飲んだくれて、今日みたいになるのは今までなかったけど。
 何度かその理由も考えてみた。たいがい『仕事』の前後に麿宇戸に通う姉。
 それも、彼がいない時を見計らうようにして、だ。
 唇を噛んで、いつの間にか彼女の腕にあごを乗せている節良。
 ふっと思い出したのは仕事のこと。
 この間、彼女に割り込まれた仕事のこと。
 歪な笑みをたたえたストーカーの少女の貌と、その時に自分が感じたことを。
 本当にあの少女が目標だったのか。いや、冬来がそれを間違うはずはない。
 節良は眉を寄せて悔しそうに目を閉じる。
 背中の彼女のぬくもりだけしか判らなくなる。
「カズ姉」
 節良は思わずつぶやいた。
「なぁに?セツ」
 まさか返事が来るとは思っていなかったので、思わず彼女を落としそうになったが、慌てて彼女の顔を探して振り向く。
 そこには、にんまり笑顔をたたえた彼女の顔が真ん前にあった。
 いつの間にか、彼女の腕に力が込められて、しっかり抱きしめられているという事にも気づく。
 いや、そもそも寝ている人間が首に腕を巻き付けるというような真似をできるだろうか。
 ほんの一瞬、わずか二呼吸ほど驚いた顔で彼女を見つめていたが、顔を赤くしてぎりぎりと歯ぎしりして冬来を睨む節良。
「カズ」
「セツ?」
 にたっと笑ったと思うと、彼女はそのまま頭を一気に抱き寄せて。
 節良も油断していたわけではなかったが、寝たふりをした冬来が背中で彼を抱きしめていた時点で、彼には主導権は一切なかった。
 気づいたときには彼女の顔は完全に見えなくなって、唇に触れる暖かい物が滑り込んでくるのが判った。
「……!……?!」
 冬来は右手を節良の後頭部に当てて逃げられないように抱きしめて、丁寧にキスをした。
 ゆっくりと彼から離れても、腕はしっかりと彼の頭を捕まえていて放さない。
「大好き」
 節良は一気に顔を真っ赤にして、ふりほどくように彼女をおろすとぶんぶんと腕を振る。
「あーっっ!」
 どう表現して良いのか判らないがともかく怒ってる、という風にじたばたとしばらく暴れると、彼は肩で息をしながら大きく右腕を振り下ろして冬来を指さす。
「カズ!おまえ目が覚めてんだったらさっさと降りろ!このバカ!」
 両肩を大きく揺らせて呼吸し、興奮のせいで貌を真っ赤にして、冬来は睨み付けられながらもぜんぜん堪えてなかった。
 節良は、にこにこと笑みを浮かべたまま彼を見つめる冬来に、結局何を怒っているのか判らなくなってくる。
 そして、なんだか自分だけ顔を真っ赤にして怒っている事自体がむなしくなって、彼は大きくため息をついて、力無く両肩を下げた。
 冬来は節良のそんな様子を見て、小さく笑いながら彼の真横に来て、彼の肘から手を差し込んで、くるっと自分の腕を絡める。
「ありがと」
 しがみつくようにすり寄る彼女に、もはや驚くどころかあきれた顔で見返す節良。
「いいえどういたしまして」
「棒読みー。感情こもってない。やりなおし。ていくつー!」
 やー!とうれしそうに右腕を空に向かって突き出す。
 まだまだ酔ってる勢いのまま、彼の腕を引っ張って自分のマンションへと向かう。
「カズ、普通こっちがそんな感情こめてどうするの」
 酔ったハイテンションな姉を眺めて、ひどくくたびれてあきれた顔を浮かべ、困ったように眉を寄せる。
 冬来は彼の顔色なんか気にしない。
 絡めた左腕をするすると動かして、彼の右手を見つけて、手のひらを押しつけるようにして指を絡める。
 節良は、ためらうように応えて。
「だって不公平じゃない?セツ、あたしすっごく感情こめてるんだよ?」
「うるさい」
 むぅ、と口をとがらせて眉を八の字にすると、冬来はじとっと節良をにらむ。
 しばらくそうやっていたが、節良も謝らない、繰り返さない、そして冬来も謝るまで許さない空気を漂わせていた。
 冬来が先に、諦めたようにため息をついて優しく微笑みを浮かべた。
「好きだよ、セツ」
 そう言って頬を寄せる。
 節良は抵抗しない。自分の右側を完全に占拠し、ぴたりと密着した暖かさと柔らかさを感じながら、節良はゆっくり歩いている。
「姉いは」
 抱きつかれるままにさせておくと静かになったので、節良は言葉を探すように彼女に声をかけて。
 身じろぎで返事する彼女に、どう言葉をかけようか迷いながら。
「どうして、そんなに」
 好きだ、と。
「俺を構うんだ」
「んー」
 冬来は、節良の手のひらの感触に、彼が優しく握り替えしてくれていることに、そしてその時にひどく不慣れな感じがしたことがうれしくて、顔を彼の右肩に押しつけるような格好で。
 節良の質問に態度で応えるように、節良が自分のすぐ側にいるという事実をいつまでも確かめるようににおいを嗅ぐ。
 何度も嗅ぎ慣れた彼のにおい。
「そうかな?セツは、お姉ちゃんの弟じゃ不満?そーかー」
 節良に、すぐ側の顔に冬来は顔を上げて、首をかしげるようにして聞く。
「お、俺は別に」
「セツ、お姉ちゃんね、別にお母さんでもよかったんだけど」
 冬来はにっこりと笑って、少しだけ顔を離して、貌がよく見えるような位置で小首をかしげて微笑む。
「セツの姉を選んでよかったかな、って思ってるからね」
 そう言うと彼の腕を解放して、ちょっと身体を離す。
 ふっと気配が遠ざかって、節良は思わず姉の方を向いた。
 一瞬冬来の背中が、節良の目に映る。自分より一回りくらい大きな姿をした、女性らしいシルエット。
 それが離れていくような錯覚と同時に、くるっと半回転してこちらを向く。
「じゃ、もし」
  くるっと冬来が振り返って、笑った。
「私が年下の恋人だったら」
 と、一気にまたすぐ側まで身体を寄せて。
 節良は身を引こうとするが、逃さないという風に彼の胸の前に、下からのぞき込むような格好で身体を寄せる。
 ぴたりと節良の胸に、冬来の胸が当たる。
「うれしかった?」
 どうだろうか。冬来自身は自分で自分に問う。
 母の方がよかっただろうか。いや、自分に母親は無理だ。
 恋人でよかったのだろうか。たぶん恋人でも問題はなかったかもしれない。
 いっそ夫婦という選択肢だって考えられるはずだ──その時には、若い夫婦として小さな子供があてがわれるだろうが。
 冬来は、節良が困った貌を浮かべているのを見て思考をやめた。
──そっか
 そして、再び彼の右腕を取る。
「そーだよね、セツはお姉ちゃん好きだもんね」
「ばっ、馬鹿こら!誰がだ!」
 叫ぶ彼を無視して、再びぴたりと身体を密着させ、今度は彼の手が冬来の手を探して、節良の方から握り替えして来たのを喜んで。
「セツはまだまだおこちゃまだもんねー。恋人よりお姉ちゃんの方が良いよね。別にお姉ちゃんでもやることやれるし」
「ちょ、ちょっと待て」
「姉が弟に手ほどきするっていうのも、シチュエーションとしては良いよね?」
「何の話してる!酔っぱらってるからって暴走しすぎだって、姉い!」
 
 
 秋月節良、秋月冬来。
 仲の良過ぎる姉弟。彼らがどこで何をしているのかを知るものは少ない。
 
 そしてその正体も。
 
 
 からん、とカウベルの鳴る店内。
「いらっしゃい、冬来さん。お久しぶりですね」
 にこ、っと相変わらずの明るい笑みを浮かべる彼女の後から、こそっと一人の姿が見える。
「おや」
 冬来の隣に立つのは、中性的な顔立ちをした少年。いや、年の頃は青年と言うべきだろう。
「ご一緒されるのは初めてですね。何か心境の変化でも?」
「そんなんじゃないけど」
 青年は素早く反論する。
「仕事、なんでしょ、昌信さん」
 どこか不機嫌そうな貌で、彼は静かに言った。
「ええ、お仕事です。大事な、誰かがかぶらなきゃいけない仕事なんですよ、節良さん」
「判ってる」
 節良は応えて、冬来の手を握りしめた。


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