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贄――sacrifice――
第1話 出会い


 スタジオAKは子役を養成するスタジオであり、また子役にしか見えない美形タレントを集めている。
 AKは『秋月』のAKitsukiからとったものだ。
 マネージャーは言うまでもなく冬来。彼女は昼間スタジオで演技指導をしている。
 実は柔術・柔道・空手の師範の資格を持っており、さらにスタントマンの養成もできる本人も万能なタレントだ。
「今日は舞ちゃんが急病だから」
「げ」
 じゃっと油が跳ねる音がして、フライパンが身軽にコンロの上で身を捩る。
 冬来は昨日とは違うTシャツとエプロンという格好でキッチンにいた。
 一昔前流行った長いTシャツながら、スカートのように腰回りが僅かに隠れるだけだ。
 無防備――いや、初めから警戒すらしていないのだが。
 朝起きてすぐにシャワーを浴びて、彼女は朝食の準備にかかっていた。
 節良の上にかかった毛布は、彼女が起きた時にかけたものだ。
 その毛布を蹴り飛ばして彼は体を起こした。
「ちょっと待てよ姉い!」
 節良は叫んだ。当然だろう、姉がおはようの後に続いた言葉は今更脳裏で反芻する必要もないくらい、何度か繰り返したものだったのだから。
「代役やらせるのいい加減に」
「だって舞ちゃんにそっくりなの知ってるでしょ」
 舞というのはスタジオAKの子役の一人で、吊り目で跳ねっ返りなキャラクターだ。
「ああいう元気な娘うちには沢山いるけどさ」
 フライパンを返して皿に盛る。
 キャベツとソーセージを炒めた物を卵でとじたものだった。
「背格好が一緒なのはセツだけじゃない?判ってる癖に」
「いい加減に女の代役は辞めてくれって言ってるの」
 ぶつぶつ文句を言いながら毛布をたたみ、ソファの裏側に押し込む。
 そして、皿を並べる卓の、昨日自分が座った場所へと座る。
 冬来は新しい牛乳パックを選んで開けると、グラスを二つ持って彼の隣に座る。
 牛乳とトースト、そしてソーセージとキャベツの卵とじが今日の朝食だ。
「でもセツが出ないって言うなら、お姉ちゃん……スタジオの経営に少し困るのよ」
 『お姉ちゃん』が出た。と節良は思った。
 すぐにジト目で彼女を睨む。取りあえず睨んでおく。
 自分のことをお姉ちゃんと呼ぶ時は大抵無理にでも『お願い』してくる時だからだ。
 ちなみに断れたためしがない。断っても無理矢理拉致されて変装させられ、にっちもさっちもいかなくなってやらざるを得なくなる。
 バレるだろう、普通はそう思う。しかしバレるどころか感謝され、結果的にやはり逃げられなくなってしまった。
 要するに、中身など作品には関係ない。そう言うことなのだろう。
 しかしそれ以上に、実は節良の女装は下手な美少女より可愛いものに仕上がるのも事実だ。
「経営に困れ。どうせあんまり関係ないだろ」
 だからといってそれを好きこのんでる訳ではない。
 ぷいと顔を背ける。
 同時に気配が変わる。急に無言になり、空気が凍てついたように動きがなくなる。
 心配になって目だけを向けると、冬来は案の定凍り付いていた。
 彼の側に座ろうとした格好のまま、愕然と彼を見下ろしている。
「……え……」
 ふらり。
「うわあっ」
 朝食をそのまま落としそうになって、節良は慌てて受け取ってそれをテーブルに置く。
 今のは自分でもナイスだと親指を立ててウインクしたくなるタイミングだった。
 だが、勿論彼自身それどころではない。
 姉は彼を見つめているが、本当にこちらを見えているかどうか。
「カズ!」
 思わず叫んで彼女の両腕を掴んで思いっきり揺さぶる。
 すると、ようやく目をぱちくりとさせて目を――今度こそ彼に向けて、もう一度ぱちくりとする。
「良いかよく聞け。でも今日はもう二度と言わないから耳をかっぽじって聞け!」
 ぱちくりとまたたいて応える。
 節良は彼女の目をじっと見つめて、見つめながらゆっくりと深呼吸する。
 相手が冬来だと言っても、姉だと言っても、なれた相手であったとしても当然変わらない。
「好きだ。大好きだ」
 だから言って、後悔と共にぼん、と顔を朱くする。
 そして、しゅぅ〜と音を立てながらゆっくりうつむいていく。
 冬来の方は逆に、ぱっとスイッチが入ったみたいに顔を明るくして、先刻までの人形のような雰囲気を一掃する。
 人騒がせな――また端から見ていればただの恥ずかしい馬鹿ップルなのだが、姉弟である。
 しかも男の方がかわいらしいという奇妙な特典までついてくる。
「じゃ、協力してくれるよね」
「それとこれとは話が別だ!」
 とはいえ。
 なんだかんだ言って、結局断れないのが彼の性分でもあった。
 身長の低さとその身なりは別に望んだ物ではない。
 彼自身、それを武器に使っているとはいえ――文字通りの武器ではなく、身を隠すための道具、の意味だが――好きかどうか問われれば首を横に振る。
 一応人並みに男の子である。
 特に姉の背が高く、がっしりした体格のせいで、弟としてはコンプレックスというか余計男らしい体格にはあこがれる要因となっているようだ。
 できれば姉よりも高い、最低限度170cmの身長と、がっしりした肩幅がほしい。
 そう思っている彼自身の体格も決して悪い物ではない。
 体操選手のようにがっしりと筋肉質な身体をしている上、無駄な肉のない細身の身体は、アスリートではなくまさに実戦のために鍛えられた『鋼』。
 薄く切り裂くためだけに研ぎ澄まされた薄い刃のようなもろさではなく、ただの一瞬、ほんのわずかな隙間を狙うように鍛え上げられた丈夫な日本刀のように。
 決して折れず、傷ついても何度でもたたき上げられた無駄のなさを備えている。
 しかし、知らない人間がレースマシンを見比べる事ができないのと同じように、彼のしまった細い身体は、見ようによってはひどく華奢に見える。
 しかも、日に焼けにくい体質のおかげで、肌が白い。
 化粧をして女装させると、その顔のおかげで中学生から高校生ぐらいの女の子に見えなくないのだ。
 だからこそ、彼は。
「特別給。倍増しに、一週間食事当番を引き受けよう」
「了解(ヤー)」
 所詮そういう物である。

 思わず引き受けてしまったが、表の仕事より裏の仕事の方が多くまたきついことが多い。
 そんな時は彼女の言葉どおりではないが、もちろん食事当番なんか文字通りやってる場合ではない。
 だから当たり前といえば当たり前なんだが。
――俺の女装は『仕事』とおなじか……
 そう思うとますます憂鬱になってくる。
 もちろん『仕事』の時に姿を隠すために女装することはある。
 だがそれは手段であって決して目的ではない。
「あー。あーあーあーあーあー。こほん」
 だからといってばれてしまっては元も子もない。
 かの日本武尊も女装して暗殺を成功したという――とは、冬来の言葉だが。
「少し声にかすれを入れて?」
「こう?」
「あー。そうそう、うまいうまい。うん、かわいいよ♪」
 と、姉の前で既に『舞』に変装させられている。
 ウレタン製のパッドをまず履き、その上からジーンズをはく。
 腰回りの脂肪の付き方や骨の形を消すための特別製である。
 スパッツはさすがに無理だが、パンツルックぐらいは難しくない。
 上半身は整形やごまかしというのは難しい――シリコン製の胸はあるが――。
 ここは無難に上着を重ねて誤魔化す。
 そして声。
「変声期はとっくに過ぎてるのに、良い声よね、相変わらず」
 冬来は嬉しそうに言うとおとなしくしている節良の頭をなでる。
 ちなみにこの髪はカツラだが――エクステと呼ばれる『付け毛』のように地毛と併せて使う物だ。
 先刻までひねくれた目つきの悪い少年だった節良が、いつのまにか跳ねっ返りなお転婆娘に変わっていた。
 声の出し方なんかは無意識に出せなければならないので、ここで練習しておくのが無難……という冬来のもっともらしい言い訳に付き合っている。
 どうせ本人、彼の女装が見たいだけなんだろうが。
「うるさい」
「〜♪」
 とんがってみるが、ここで地声を出せば逆に怒鳴られ拳が飛んでくる。
 精一杯ドスを効かせたつもりでも、芝居の声色ではかわいいだけだろう。
 案の定冬来は彼の声に喜ぶだけで逆効果だった。
「いー、行ってきまーす!」
 もう半分以上やけくそ気味に叫ぶと、彼はくるりと背を向けてマンションを飛び出していった。
 もちろん、自分の着替え一式を詰め込んだデイバッグも忘れない。
 後ろから冬来の嬉しそうな声が聞こえたが、とりあえずさっさと逃げるのが一番だった。
 マンションを抜けて表通りに出ると、彼はいったん足を止める。
 そして深呼吸をして一度気持ちを落ち着けて――切り替える。
 よく肩の力を抜く、という。
 それは身体が尤も馴染んで、落ち着いたリラックスした姿勢になる事を指している。
 簡単だよ、と彼は言う。肩の力を抜いた時に、自分が自分に命令したそのものになってしまうことが変装では大切だと。
 完全に力を抜いた状態で、『少女』になってしまえば彼は当分『舞』として自分を演じられる。
 先刻までのどこかよそ行きだった雰囲気が完全に消え、彼が望んだ――彼の求めた姿に、命じた役割へとその姿を転じてしまった。
 年齢を考えて見ればかなり無謀な変装ではある。
 しかし、人間は目に見える物すべてが正しい訳ではない。
 人間という生き物は、目に見える物を正しく見ている訳ではないのだから。
 詐欺の手法でもあるのだが――『そういうように見える』と認識させてしまう、誤認させることが実は変装の極意でもある。
 女形の舞では、たとえば手などは力一杯握りしめた手の方が拳そのものが小さく見えて、実は女性らしさを演じられると言われる。
 意識して演じるのではない。身体がそれをあたかも思い出すかのように演じる。
 先刻までの『節良』は忘れ、彼の中にいる『舞』を思い出せばいい。
 もう一度、ふう、とため息をつくようにしてそこに――舞がいた。
 節良は舞とは仲が良いとか悪いとかそれ以前に、実は面と向かって会ったことがない。
 逆に言えばだからこそ、姉の指定したとおりの外観と性格に何の疑いもなく従い、自分を飾る。
 実は主観ほど人の印象をねじ曲げるものはない。
 主観を全く含まずにそれらを演じられればこそ、初めて
――お、可愛い
 周囲の人間を騙す事のできる変装が完成する。
 かつかつと地面を蹴るようにたたく『彼女』の歩き方は、非常に芯のある印象を与え、つり目の外観ももって強気な印象を与える。
 しかし、小顔で身長も小さく、全体的に小さく見せる服装をしているせいか、どこかかわいらしく見えてしまう。
 ただ歩いているだけで周囲の視線をさらう。それは本来の彼の生き方から考えれば全く正反対でありながら、だからこそ彼は意識的にそれができるのだ。
 スタジオAKのタレント『穂摘舞』。
 彼女は今から写真撮影のためにとある雑誌社から指定されたスタジオに向かう。
 ポケットから姉が渡した小さなメモを出すと、ちらちらと確認しながら切符を買って、駅のホームに足を運ぶ。
――ん
 妙な視線を感じた。
 それが何故気になったのかは判らない。
 ぷしゅ、と圧搾された空気が音を立てて扉が開く。ちょうど電車はホームに滑り込んだところのようだった。
 彼女も小走りでその入り口に向かい、飛び乗るようにして電車に乗り込んだ。
 ちょうどその時サイレンのような発車のベルが鳴り響き、扉が閉まる。
 ぷしゅ、と再び圧縮する音がして――やはり、視線。
 さすがに舞はしかめっ面をした。
 視線そのものに悪意はない。だとすれば、他の大勢の視線と変わらないではないか。
 いや、他の大勢の視線は『彼女』を見る視線ではない。彼女という媒介を介し、自分の中を見るための視線だ。
 当然だろう――彼女を知るものがこの電車の中に、今この周囲に何人いるというのだろうか。
 精確に表現するなら0ではあり得ないだろう。何故ならタレントである穂摘舞は決してマイナーなアイドルではないからだ。
 しかし、アイドルという外に創りだした彼女というものは結局、彼女の外側に創られた一つのペルソナであり彼女自身ではない。
 それを見ても――結局視線は自分の内側へと帰るだけ。
 彼女というオブジェクトを鏡として、結果的に自分の中を見ているだけにすぎない。
 だから彼女を伺う視線など、あり得ない――だから不快。
 今感じたこの断続的な視線は違う。いや、結果的には知らない他人の視線なのだが、質が違うというべきだろうか。
 彼女『自身』に興味がある、と言うべき何かを探るような視線。
 ため息をつく。
――これだからいやなんだけどな
 節良は思う。
 つくづく男でよかったと。
 このぶしつけな視線は間違いないだろう――痴漢か。
 断続的で方向が変わると言うことは狙って人の壁を避けて移動していると見るべきだろうか。
 何にしても不快。
 考えられる対処方法はふたつ。というか、それ以外は考えない。
 ひとつはこのまま鉄道警察へ向かう振りをする。
 真っ当な人間であればその時点で犯罪を諦める。
 どんな人間であっても必ず罪の意識から、真っ当な生活を秤に掛けるからだ。
 しかし初めから罪の意識のない者、俗に言う『犯罪』を生業とする者達。犯罪者ではなく彼らのような存在は厄介だ。
――尤もそれらだって人間だから、まだましな方かもね
 人間というのは等しく何らかの力を与えられている。
 総ての人間はそれに気づくことにより、否、気づいて初めて自分というものに一つの軸を与えられる。
 方向性を与えられる。別の言葉で言えば自信がつく、と言える。
 それらの力は何に使われるか――通常、彼の欲望を満たす、簡単に言ってしまえば欲しいものを手に入れる為に使うのだ。
 生存本能にどうにか突き動かされながら。
 得られるものは食事、異性、もしかして物欲。しかし大抵の人間は、通常の社会生活を支える基盤を求めるだろう。
 そのために仕事をして、バックボーンと言えるものを創ろうとする。
 しかし。
 それら総てに価値を見いだせず、結果として彼の力を最大限に引き出す方法が犯罪にしかない場合。
 彼らは――犯罪を生業とするようになる。それに罪の意識など無い。彼らの本能だから――そうしろと囁かれなくても、彼らにとって当たり前だから。
 他に方法を見いだせなかった、社会的に見るなら哀れな、人間的に見るなら欠陥的な存在。
 それら人という社会の枠組みから僅かにずれた存在達は、もう二度と人間として見ることは敵わない。
 社会の枠組みから外れた存在。
 それらが犯罪結社を創り、マフィアやシンジケートやギャングと呼ばれる事になる。
 ふしぎなことに。
 そしてもう一つの方法。
――やってしまうか
 これには幾つか不安がある。それは、舞に問題が生じる可能性だ。
 もっともこの手の視線を飛ばしてくる奴が、舞を知っているとは思えない。まずない。
 ついでに言えば、彼は非常に不機嫌だ。
 理由は言うまでもない。
 だから。
 『舞』は躊躇うように閉じた扉に右手をあて、右肩から自分の体重を一気に扉にかけた。
 はぁ、とことさらに力無く息を吐いて、項垂れるように首の力を抜く。
 こうして立っていれば、大きめに見えるジャケットの御陰で、彼女の身体自体小さく見える。
 まるで背伸びをしている子供のように。
 身長155cmは伊達じゃない。こうして誤魔化している時の彼女の姿は、一回りほど小さい。
――はん
 『彼』は彼は素早く意識を巡らせて、行き先の周辺を思い浮かべる。
 スタジオの周辺地図。
 入り組んだビル。『彼』にとって仕事場の地図は完全に掌握下に入れておかなければならない。
 どこに何があり、今日は木曜日だから缶ゴミが積んであるとか、入荷日だからビールのケースがあるとか。
 しかし。
――?
 そのとたん、視線が急に和らいだ。と、言うよりも。
――消えた?あきらめた?
 もちろん貌には出さない。
 しかし完全に視線は気配を消し、今までじっと彼女を見つめていた意志すら霧散してしまった。
 既にたどる事もできなくなっている。
 どうするか――どうやっても、これだけ人が多い場所では、他の人間の気配に混ざってしまい探すのも困難だ。
 先程のようにじっと視線をとばしているのであればまだ探りようはあったのに。
 節良はほとんど無意識に舌打ちして、そのままの体勢でとりあえず予定通りスタジオに向かうことにした。

 撮影は簡単な物だった。
 指示通りに動いて、写真を撮るだけの作業だ。
「今日の舞ちゃん、結構良かったよ。次もこのぐらい元気にやってくれると助かるな」
「はい、ありがとうございます」
 と応えるのは『節良』。
――姉ちゃんに伝えなきゃ
 何を聞いて何をやったか、逐次報告しておかないと後で大変な事になる。
 そそくさとスタジオを退出して、自分の控え室に向かう。
 スタジオがどれだけ小さくても、控え室はきっちり広さを確保している。これは別にこのスタジオに限ったことではない。
 ある程度広さがないと準備できないからだ。
 実際彼に宛がわれた控え室も八畳の中に畳敷きとちゃぶ台、簡素な流しに鏡付きの化粧台がある。
 六畳の畳敷きに、靴を脱いだりできるフロアが土間のように広がっている。
 数人はここで準備できるのではないか――でも、とりあえず女性ということで一部屋まるまる宛がわれた。
「あ」
 だから、誰もいないはずの部屋。
 帰ってきた彼を出迎える人間は普通いるはずはないのだが、扉を開けた向こう側でそんな間抜けな声を上げた人間がいた。
 ちゃぶ台の向こう側に座る女性と、直角にずれて彼女の隣で肘をつく姉だ。
 と、言うことは向こう側にいるのはスタジオAKの関係者かなにかか。いや、そんなもの見ればすぐに判る。
 何故なら見覚えのある貌で、今あげた声も聞き覚えのある声だからだ。残念ながら初顔合わせになるのが――ある意味、不自然ということか。
「あの、すみませんっ」
 その少女はまず頭を下げた。
――ははぁ
 目をぱちくりさせて、どう対応すべきか少し逡巡した後、彼はそのまま控え室に入って扉を閉めた。
 同じ人間が二人いてはまずい。
 そのまま後ろ手で鍵をかけると、大きくため息をついて姉、冬来をにらむ。
「姉ぃ。何しに来たんだよ」
「あー、声色つかってない!」
 でも、地声が意外と高めなので決しておかしく見えない。かなり強気な女の子のようにも見える。
 ショートカットで亜麻色にすれば、今でも十分魅力的な女の子として通用するだろう。
 本人はいやがるだろうが。
 冬来が驚くような非常に困ったような顔を浮かべて節良を非難するのを、にらみつけて鼻息で圧倒する節良。
「五月蠅いな。『本人』の前でそんなことできるか。……それに、一体何のようで」
 イライラと応える彼を少しばかり冷ややかな目でにらむ冬来。
 小刻みに身体を震わせている舞。
 片方の眉を下げて、怪訝そうに首をかしげると姉に目を向け、彼女の視線と真っ向から対峙する。
 姉がわずかに貌を緩め、答える。
「ちょっとね。気になることがあったから」
 ついっと彼女が視線を向ける。
 と、はっと舞は冬来と顔を合わせる。にこっと笑みを浮かべる冬来に、ほんのわずか緊張をほぐして節良に顔を向ける。
 こうしてみれば、話に聞いていたよりも柔らかい顔立ちをしており、なかなかの美人顔だ。
 なるほど、可愛いとは雰囲気が違う。このままあと十年もすれば男を惑わす美女という奴に変わるかもしれない。
「気になること?」
 と、節良は目を向けてきた彼女に問う。
「あ、あの」
「ああ、話しにくいよな」
 と言って髪をむしるように変装を解き、デイバックから自分の服を取り出す。
 そしてちょいと視線を姉に向ける。
「舞ちゃん」
 小さく声を上げるのが判ったが、動く気配を無視してズボンを脱ぎ、変装道具をはずす。
 自分のズボンを叩いて伸ばし、裾に足を通すと無造作に上着を脱ぎ捨てる。
「いいぜ」
 そういって舞の前でパイプ椅子を広げ、フロアにおくと逆さまに座り、背もたれに両腕を乗せて彼女と向き合う。
「うわぁ」
 何故か顔を真っ赤にして、舞は口元に手を広げて当てる。
「……なんだよ」
「えっ、えっと、私、秋月さんの妹だって聞いてたから」
 ぱん、と音を立てて節良は額を叩いた。
 呻きながら自分の姉が、さっきどんな顔をしていたのかを思い出して歯がみする。
――女の振りしてればよかった
 ゆっくりと顔が紅潮するのが判る。だが、どうにか気を鎮めてそれを押さえ込んでから顔を再び向ける。
 ふっと視界に入った姉が笑っているのが見える。
――畜生
 とりあえず無視して、続ける。
「それで」
 できる限り落ち着いた、静かな声で問う。
 思わぬ横からの一撃で軽いショック状態にあった舞。
 自分の代替として変装した人間が芸をやってると聞いていたが、まさか男とは思っていなかった。
 そんなある意味女性としてのショックと、中身の男の子がひどく美形であることでさらなるショックを受けるというものだ。
 尤も中身がひどい醜悪な男だったら多分自殺していただろうが。
「え、と」
 ともかく、そんな色んなショックから立ち直れないまま、肝心なことを思い出して彼女は興奮を抑えた。
 いや――抑えたのではない。無理矢理、まるでタンクに穴を開けられたようにすぅっと一気に引いていった。
「……今回、私が仕事を病欠した訳が、あります。まさか代理が立てられてると思わなくて、それであわてて連絡したんです」
 節良はゆっくりと耳を傾けながら、彼女の様子をうかがっていた。
「そういえば、元気なのか」
 別段病気、風邪という雰囲気ではない。
 熱があるようでもない。女の子特有の、という訳でもなさそうだ。
「私が付き添いで来たのはそう言う訳」
 冬来がフォローするように言う。
 一人で来たのではないらしい。冬来も呼ばれた訳ではない。
 そこで、あの視線の正体に気づき、したり顔でうなずいてみせる。
 姉は二重の理由で着いてきたのだろう。
 舞と、節良を心配して。もちろんその心配の方向は全く逆の方向を向いているのは言うまでもなかったのだが。
「ふぅん。確かに、あんたみたいな女の子にはちょっと苦痛だったろうよ」
 えっと言う顔をして、舞はおろおろと視線をさまよわせ始める。
 節良はため息をついて小さく笑うと椅子から立ち上がって、土間のような畳の縁に腰掛ける。
 縁は木製の柱が埋め込んであるので、それなりに座りやすい。
「ストーカーだな」
 びくっと身体を一瞬震わせて、そしておずおずとうなずいた。
「セツ」
「会った訳じゃない。ちょっと見られただけだから、気づくのも遅れたけど」
 本当にそれだけ。
 目だけで合図する。
 姉のわずかに目を伏せる仕草を確認して、続けて舞に言う。
「俺は無事だし、キミも今は無事だ。良かったな」
 それだけ言うと、舞よりも肝心な話がある。
「――てことは、姉ぃはもしかしてそれだけの用事で俺んとこに顔を出す訳ない」
「でしょ」
 それだけで姉弟の会話は十二分に通じた。
 ふっとデイバッグのそばにおいた自分の上着に目を走らせてから、姉に目で合図する。
「じゃ、一応そう言うことなら、私は舞ちゃんを送らなきゃいけないから」
 と冬来は言って一回だけウィンクする。
「その方が自然だしな。何かあったら頼む」
 と右手の小指と親指を立てて二回振る。電話してくれ、の意味だ。
「うん、あんまり頼りにしないけどね」
「るせぇ。気をつけろよ」
 そう言って立ち上がる冬来に、節良は声をかけて自分の上着に手をかけた。
 だが、呼ばれたような気がして視線を戻すとそこに姉の顔があった。すぐそばに。
 驚いて身を引こうとすると、両手で肩をつかまれて彼女の真正面に固定されてしまう。
「気をつけてね」
 その時の貌は、言葉にしがたいものだった。
 どこか心ここにあらず、と言う感じの能面のような、表情のない貌。どこも作ってない、彼女本来の貌。
 普段からきゃいきゃいところころ変化するめまぐるしい貌をしている彼女の、素の、節良にしか見せない貌。
 彼だけが見ることのできる、彼女が彼女自身を支えきれなくなっている時に見せる貌――だが、今、何故。
「っ……」
 何かを言おうとした。でも、その貌が何故か彼を抑え付ける。
 ころっと笑みを浮かべて舞に声をかける姉を見ても、その妙な胸騒ぎが取り除けない。
 だから。
 だから節良は、彼女が舞を連れて控え室を出て行くのを黙って見送った事を後悔した。
 既に使い込まれた濃いインディゴのジーンズ、だぶだぶの袖をまくった白いTシャツ。この上から、袖無しの革製のジャケットを羽織る。
 ジャケットの下には、いつもの剣鉈が仕込まれている。
 彼の本当の仕事着だ――本当に、いつも持ち歩いているのだ。
「――行くか」
 それだけで準備は終わった。既に姉が餌をまいている。
 あとはそれを追うだけで、獲物を狩ることができる。
 いつもの狩りよりも確実な、精密な、そして効率の良い狩りができる。
 彼は懐の剣鉈を確認して、かつん、と床を蹴った。


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