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贄――sacrifice――
第0話 姉弟


 冷たい冷たいくらいアスファルト。
 凍てつくような空気が嘗めるように、その上を滑っていく。
 むき出しになった貌の上で、苛むようにはためく毛皮、鼻を突く異臭。
 恐らく、それと知らなくても人は足を止めるだろう。
 独特の鉄分を含んだ臭気。
 澱んだ空気を払おうとするかのように、地面を滑る空気は彼の足にまとわりつく。
「寒い」
 率直な意見を述べると、それは闇が急激に凝り固まったかのように存在感をあらわにする。
 穹。
 星が輝く穹。暗い闇の中で光を抱え込んだ穹。
 この世界というものは――どこまで行っても思い通りになるようには出来ていなくて。
 思い通りに。
 ふと思って彼が辺りを見回すと、そこはいつも見るような風景だった。
 だから、くすりと笑って、両手をズボンのポケットに突っ込んで、その風景に背を向ける。
 別に、見慣れた風景。
 そこに残ったモノに気をかける必要のないもの。
 もう二度と思いを紡がぬ糸車。割れた酒瓶。
 そして、誰も望まぬ、見捨てられようとしたモノ。
「ハッ」
 白い吐息が、一瞬で冷たい外気に混ざり溶けていく。
 多分まだ湯気が立っているだろう。
 多分まだ冷えようとしているんだろう。
 なま暖かく、ゆるりとふちを盛り上げた液体は。
 思い。想い。
 人が人であると認識できるうちは、多分まだこの――想いを紡ぐことができるのだろう。
 想いを紡ぐというのは、想いを知り想いを応えるということ。
――人でなし
 それが出来なければ呼ばれる、不名誉な称号。
 ざくざくと足音を立てながら、彼はマフラーに自分の顔を埋めながら鼻を鳴らす。
 人の行動は想いを載せている――彼女はそう言った。
 総てそうだ。人は、だから、その行動が目的を果たさなければ悲しさを憶えるものなのだと。

  だから安心して良いわよ。悲しさが理解できればまだ人間だもの

 ふと彼女の顔を思い出しておかしくなって笑う。
 いつものこと。
 普段からやっていること。
 空気のように呼吸して、水のように飲み干すもの。
「なんだろうな」
 これは。この空虚さは。慣れたというのに――それとも、これは。
 妙に掴みがたいなにかは。
 触ることも出来なければ――否、何かがあって然るべきだと『感じている』場所が、何もないと気付くからこそ。
 掴めないのだから。
 帰ろう。
 今日は色々と妙な事が多すぎたから。

 少年の名前は秋月節良(あきづきせつら)。
 かなり低い身長に、がっしりした体型はそれでも子供っぽさを隠せないほど、貌と頭のバランスが大きめだ。
 多分まだ成長するだろう――本人はそう思っている――が、実はそれでいて意外と頭は小さい。
 短く刈り込んだ髪の毛は威嚇するように逆立っていて、大きな目は鋭く縁を吊り上げている。
 そして尖った鼻は小さい。唇が薄く、頬は緩やかに膨らんでいる。
 有り体に言えば女顔なのである。
 子供の頃は相当可愛かっただろう面影を残しているが、今はへたに顔立ちが良いせいか、やぶにらみの印象が強い。
 肩もなで肩で幅が狭く、そのままセーラー服を着せればかなりよく似合うだろう。
 勿論彼の目の前でそんなことを言ったら、その場で八つ裂きにされるだろう。
 これは冗談ではない――彼は『枷』がなければ、空気を切り裂くようにして人をバラバラに刻んでしまう。
 得物は、剣鉈と呼ばれる九寸の鉄の刃。
 鉄製で重く、西洋のステンレス製と違い、引く事で切れるように刃付けした逸品。
 刃の丈夫さもあって、叩きつけるような使い方もできるが、むしろ日本刀のように扱うのが正しい。
 サイズやその切れ味は小刀と呼ぶべき代物かも知れない。
 普段から、体のどこかに必ず隠して持ち歩いている。
 そして手入れも欠かさない(鋼は錆びやすく、ステンレスよりその点において厄介である)。
 危ない子供ではない。――別に学校に通っているわけでもなければ、子供ですらない。
 彼の職業は俳優、そして彼の生業(なりわい)は――ヒトゴロシだ。


                                   贄――sacrifice――


「おかえり」
 彼の家は、最近ではどこにでもあるようなマンション。
 ハイツグランドヒル。郊外ではかなり大きなマンションで、駐車場は地下と地上、地上は立体になっていて、意外と敷地をとっている。
 彼はまだ運転免許は持っていないが、今笑顔で出迎えてくれた姉が小さな車を持っている。
 名前は秋月冬来(あきづきかずな)、弟と違い非常に背の高い妙齢の女性だ。
 性格が開けっぴろげなのかいい加減なのか、弟より体格がよく、肩幅もあるおかげでこちらは男装させると割合似合う。
 但し、腰や胸は隠しようがないぐらい女性らしさがある。
 すらりと格好が良いスリムな体で、女性らしい体型なのでモデルのようにも見えなくない。
 ロングと言うほどではないが、ただストレートに伸ばしただけの髪型で、長すぎる前髪に隠れそうな目は弟とは似ても似つかずたれ目。
 澄まし顔をしていてもとろんとした雰囲気を醸し出す貌だ。
 今は肘までしかない、体にぴったりしたシャツを着て、フライパン片手に料理しているところだった。
「カズ、飯なに?」
 律儀に靴を揃えて脱ぐと、彼はコートを脱いで玄関のハンガーに掛ける。
 そして、汚れてしまった獲物を懐から出すと、靴箱の脇からバケツを取り出す。
 むっとした、独特の鉄臭さが漂う。
 中には汚れた雑巾と油の入った瓶が収められている。
 油は二種類。透明でさらさらした灯油と、琥珀色の粘りけのある鉱物油。
 彼は剣鉈を鞘から取り出すと、丁寧に雑巾で表面を拭う。
「ハンバーグ作ってみたのよ。手作りよー」
 そう言えば彼女は忙しくフライパンを揺すっている。
 何をしているのかよく判らないが、フライパンの火加減が難しいのだろうか。
 油がはじけるじゅーじゅーという音と、合い挽き肉独特の焼ける臭いがする。
 彼は得物に灯油をかけると、ごしごしと表面を磨き始めた。
 今日は柄は殆ど汚れていない。刃も巧く抜けたから、磨くだけですみそうだ。
 布越しに刃の表面を探るように感じながら、彼は汚れのぐあいを測り、そう思う。
 そのまま丁寧に刃先に向けて表面を磨き上げると、蛍光灯の灯りを反射して鈍色に輝く。
 ステンレスではこうはいかない。金属光沢というのは、質そのものを表す。
 彼は剣鉈の無骨さと丈夫さだけではなく、この鉄が見せる独特の刃の輝きその物を気に入っていた。
 ボウイナイフのような西洋ナイフにはない癖と質がこの剣鉈にはある。
 通常は狩猟用らしく、刃物屋でも取り寄せないと手に入らないようなものだった。
 時折、ちょっと気の利いたナイフ専門店には並んでいることもあるが、彼自身探して手に入れたこの鉈の変わりになるようなものはなかった。
 直線的で飾り気のない刀身は、普通のナイフより分厚く、蛤刃と呼ばれる欠けにくい研ぎ出しが施されている。
 この為丈夫で最初から最後まで変わらない切れ味を保ちながら、欠ける事なく人間を解体する事ができる。
「今日は何人だった?」
 じゃっと油がはぜる音を混ぜながら、冬来が背中越しに聞いてくる。
「……あの、ね。人数は確認しとけって言ってるだろ?」
 疲れたように応えて振り向くと、嬉しそうに皿に盛りつけているところだった。
 呆れてため息をつき、刃の手入れに戻る。
 取りあえず洗い油を綺麗に拭き取ってしまう。
「二人だよ二人。もう、めんどくさいから跡形なくやらなかったけどな」
 もう一枚、雑巾ではなくスエードを取り出すと、鉱物油を一滴垂らし、これを刃に伸ばして薄く塗りつける。
 これでいい。
 脂だらけの肉を刻んだ後は、きっちり脂をふき取ってやらなければいけない。
 そして、鉄製の刃を水分から守るため、粘りけのある、膜を作る鉱物油を使ってやらなければいけないのだ。
 これはステンレスでもそう変わらない。ただステンレスよりも気を遣う必要があるだけだ。
 実用品の無骨さは、しかしステンレスよりも鉄を選ぶ事に意味がある。
 鋼には腐食するという欠点があるが、製造過程によりステンレスより丈夫に仕上がり、粘りのある刃は柔らかく、切れ味が落ちたとしても研ぎ出す事は決して難しくない。
 何より日本刀と変わらない製法で鍛えられているからこそ――ヒトをばらす事は難しいことではないのだ。
「はい、できたよ。早くおいで」
 節良は無言で得物を磨き上げて、鞘に戻した。
 そして、コートの内ポケットに入れると、振り返って姉の居る居間に向かう。
 この家の中だけは刃は不必要だ。
 秋月家は、この居間が殆どの生活空間になっている。
 六畳のこの部屋は、落ち着いたベージュの壁紙とフローリングで囲まれていて、姉の趣味のインテリアで固められている。
 薄い水色(もう殆ど灰色だ)の絨毯に、座布団(というよりクッションだが)、奥の方に大きな二人がけのソファがある。
 部屋の真ん中を占拠する、大きなガラスが天板になった足の短いテーブルに、大きめのお皿に載せられたハンバーグが二つ並べられている。
 生野菜のサラダと、付け合わせのジャガイモ。斜めに切ったトーストが数枚。
「トマトソースな訳ね」
 ハンバーグにはまだ少しトマトの塊が残った真っ赤なソースが載せられ、上にバジルだろう、緑色の破片が散っている。
 冷たい目でそれを見て感想を漏らす節良に、冬来は不思議そうに首をかしげる。
「おいしいでしょ?嫌いだった?」
 彼女はただ悪気もなく、ミネストローネとパスタの趣味を彼に問いながら応える。
 照明はこれまた彼女の趣味で、すこし光量が低いガス灯色の電球。
 机の上の、原色で極太の蝋燭(なかなか立派な趣味だ)。
 ちょっと見であればレストランの食事に見えなくもない。
 彼は机の左端、手前側におかれたクッションに腰掛ける。
 右隣でうきうき顔で待っている自分の姉に、げっそりした貌を見せる。
「……何か嬉しいことでもあったの?」
「別に?」
 ちぐはぐな会話をして、いつものように食事と向き合う。
 いただきます。
 両手を合わせて、食事を始めた。
 フォークとナイフでハンバーグに切り込みを入れる。
 肉汁が溢れてくる辺り、本当にミンチにしてから作ったようだ。かなり手が込んでいる。
 ナイフでトマトソースをすくい、肉に載せて口に運ぶ。
 口の中では、適度な歯ごたえとそれに合わせて口中に溢れる肉汁、そして香辛料らしい味に満たされる。
 意外とハンバーグは(冬来は手作りしたのは初めてらしいが)きっちり味付けされていて充分おいしい。
「どう?」
「いけるよ」
 良いながらトーストに手を伸ばす。脂が米かパンを食べろと五月蝿く騒ぎ立てるからだ。
 が、その手は空中で捉えられてしまう。
「ねね。それって失礼じゃない?ほら、もっとはっきり言ってよ」
 非難の視線。
「……」
 そう言いながら、ずいっと冬来は一歩彼に寄っていた。
 そもそもとなりに座っているのだから、ただ話すだけでもいいだろうに。
 まるでそれを口実にしたように、彼女はさらに体を寄せる。
 呼吸が触れる程、彼女が近く感じられる。
 無論――彼女はそれを知っていてやっているのだから、たちが悪い。
 答えなければ彼女は離れない。
 げっそりした顔で節良は答えるしかない――と、ジト目で彼女を下から見上げる。
「おいしかったよ。初めてなのに良くできてるんじゃないの?」
「あー、ひねくれ者ー。『おいしいよ姉ちゃん、最高っ、もう一流じゃない?』って言えないの?」
 と不満そうに言いながら手を離してその場にぺたんと腰を落とす。
 離れろよ、と節良は思う。
 はあ、とため息を付いてトーストを掴むと、呆れ顔で彼は姉の不満顔を見る。
「惜しいよ姉ちゃん、再考、もう一歩じゃない」
 無言で拳が飛んできた。
 先刻彼の右手を捕らえていた左手がそのままぐーになって彼の頭頂に沈んでいた。
 そして、涙目で自分の頭を押さえる彼を見下ろして、ため息をつきながら自分の席に戻る。
「あんたに期待したあたしが馬鹿だったわ」
 ずきずきと疼く頭を抱えて、しばらく痛みに耐える節良。
「ちぇー。カズの癖に……」
「姉と呼びなさい姉と。それともなに?ねーちゃんって呼んでくれる?」
 少し低音を利かしたような不機嫌な声でたしなめる冬来。後半は嬉しそうにからかう口調で、声が裏返っていたのだが。
 節良は素っ気なく目を閉じて答える。
「姉(ね)い。それはやだ」
 痛みに耐えて食事に戻ると、姉は先刻より少し席を離していた。
 彼女としては多分、罰のつもりか何かだろう。
 まだこれで普通になった方だ。以前はぴったりと側から離れようとしないほどだったのだから。
「食べ終わったら先風呂入っちゃって。着替えはもう用意してあるから」
「はーい」
 おざなりに応えて、食事を再開する。
 ジャガイモは良く煮えていてほこほこだ。
 ナイフを使わなくても、フォークで簡単に切り分けられる。
 これもハンバーグの肉汁とトマトソースを絡めてほおばる。
 しっかり肉の味が染みこんだジャガイモは、濃い肉の味を抑える箸休めになりながらも非常においしい。
 なんだかんだ言っても姉の料理はかなり巧い方かも知れない。
 彼女はかなり天然入ってる癖に、性格も悪いものだからたちが悪いのだが。
「姉い」
 しばらく沈黙してから、ふと呼びかけると無言で見返してきた。
 じっと彼を睨むような貌。
 節良は彼女が拗ねているようにも見えて、少しだけおかしかった。
「旨いよ」
 彼女は現金で、何より反応が早く――そのくせ、妙なところで鈍感だから。
 まるで切り替わったように、にぱっと嬉しそうに笑う。
 その笑顔は、どこか無邪気で、予想できていたのに何故か悔しい。
「明日はセツの番だからねー。あたしシチューがいいなー」
「はいはい。だったらさっさと仕込み始めるから、終わったら食器洗いまできっちりやってよ」
 投げやりな答えにも、冬来はにこにこして応えて、節良は食事を終えて風呂場に向かった。
 ここの風呂はユニットバスなのだが、居間から直接繋がっているので、ついたてで一応区切っている。
 中では脱衣所が簡易的に備えてあり、入口に籠が並べている。
 洗い物用籠が隠れるほどの高さの机の上に、畳んだ彼の着替えがある。冬来が用意していたんだろう。
 タオルもおかれている。
 彼はそれを眺めると、上着を脱いで籠に放り込んだ。
 ばり、と嫌な音がして、足下に黒い粉が落ちた。
「……あとで掃除機かけなきゃな」
 彼は呟くと、下着の裾に手をかけて、一気に胸元まで引き裂いた。
 ばさ、と粉が舞い、彼はそれを背中側に捨てる。
 充分に血を吸ったシャツがごわごわに乾燥してしまい、もう使い物にならなくなっていた。
 彼の膂力で引き裂けるのだから、どれだけ脆くなっていたか判るだろう。
 体液、血液のようなものが付着した布きれは、海水に浸した絹と同じで繊維質を痛める。
 すぐに洗い流せばいいが、ここまでごわごわに固まってしまえば捨てるしかない。
 色は目立たない黒だったが、もう着る事は出来ない。
 何より、洗っても血の痕はおちやしない。それはあまり気持ちのいいものではない。
 彼はそれを丸めて籠の脇に置くと、大きくのびをしてズボンを脱いだ。
 小柄で子供っぽく見える彼の体だが、こうして裸になればその印象は間違いだと言うことに気付く。
 ごつごつとした筋肉質の背中、張りのある両肩。
 骨格は小さいがかなり太いのだろう、筋肉も太くこそないが目立ってこぶが出来ている。
 皮下脂肪が少ないせいもあるが、ボクサーや体操選手のような体型と言えば判るだろう。
 筋肉質に見えるが、皮下脂肪が極端に少なく、全身の筋肉がよく判るだけ――にしても、その体つきは普通に鍛えたところで手に入るものではない。
 素質もあったのだろうが、日々の欠かさないトレーニングがこれを維持し続けているのだ。
 熱めのお湯に入浴剤が入れられている。
 彼はそれを洗面器で一杯だけすくうと、まず両手を洗った。
 そして躊躇いもせず手元の――風呂洗い用のクレンザーをかけて、ナイロン製のたわしで両手をごしごしとこする。
 爪の隙間や、指の間。
 丁寧にブラッシングするように、表面の薄い膜を削り取るようにしてごりごりと洗う。
 そして洗面器に両手を突っ込んで――流すともう一杯お湯を汲んだ。
 これから体を洗い始めるのだ。

 湯船に体を沈めて大きく息を吐く。
 ふわっと湯気が躍り、彼の視界がドアまで一気にクリアになる。
 が、すぐに湯気は水面から立ち上り、彼の視界を奪う。
 まるで彼だけをその空間に閉じこめてしまう白い闇のように。
 この瞬間だけ、この時だけは何も考えずに済む。
 眠っている間、人間は身体を休めるために脳の働きも休息状態へとはいる。
 しかし風呂の中では全身を休めながら、脳の働きを維持する事が可能だ。
 極めて睡眠に近い状態で脳に意識があるというのは面白い事かも知れない。
 但し、言うまでもないが意識があるだけ、脳が休めないという点において完全ではない。
 それに余り長い間入っていると、熱で体がおかしくなる。
 彼は大きく息を吐いて首をぐるぐると回して自分で首をもんだ。
「お湯加減どう?」
 ガラス越しに声が聞こえた。
 タイルではなく、プラスチック整形の壁のため、さほど声が割れたり響いたりしないので、良く聞こえる。
 扉越しに聞こえた声はいつもの明るい姉の声だった。
「……ちょっと、熱いかな……」
「んんー、そう?」

  がちゃん

「どぅわああっ」
 何の気負いもなくいきなり扉が開く。
 冷たい空気が湯気を巻き込むが、その向こうから見える素肌に慌てて背中を向ける節良。
「へへー。なーに恥ずかしがってるのよ」
 冬来が頭にタオルを巻いて入ってきた。その下には何も身につけず。
 そりゃ風呂だ、何も身につけないのは当たり前だと思いながらも、急に落ち着かなくなった憩いの場に出るに出られなくなる。
 その一番の原因は、鼻歌交じりにお湯を洗面器に貯めるところだった。
 想像してしかるべきだった。
――そう言えば熱めのお湯で、彼女の好みだと言うことを思い出せば。
「……カズお前」
「姉」
 ずびしぃ、と後頭部に人差し指が突きつけられたのが判った。
 絶対睨んでる。
 これは長い付き合いだから判る。振り返る必要もなく理解できる。
「……姉い。俺が風呂入ってる時に入ってくるなって何度言ったよ」
 お湯の熱だけじゃない、顔の赤さを確かめるように右手で顔を撫でると、じゃぶじゃぶと風呂の湯を顔にかける。
 背中でもお湯が流れる音が聞こえる。
「んー何度目かな?忘れちゃったな、姉ちゃん」
 確信犯だ。道徳的・宗教的・政治的な信念に基づき、自らの行為を正しいと信じて為される犯罪。
 つまり犯罪には違いないのだ。
 しかし姉弟でお風呂に入るだけなら犯罪じゃない気もしてきた。
 ということは確信犯とは言えないのではないか。
 姉のせいで一気にパニックに陥った節良は既に何を考えてるのか判らない状況だった。
「でも久々じゃない」
「久々もないっ!」
 思わず声を荒げ、振り向きかけるが止める。
「まったく……逆セクハラじゃないか」
「え?んーそれ違うんじゃない?」
 しかし男女逆なら間違いなく姉は犯罪者だ。やっぱり確信犯と言うべきだろうか。
 しれっと姉は、気軽な声で続ける。
「別に嫌がらせじゃないんだから」
「相手が嫌がらせだって思ったらセクハラになるっての!」
 ぴた。と急に背中が無音になる。
 思わず心配になった次の瞬間。
 頭の上からの重い感触と歪む世界、呼吸困難に――ようするにお湯を頭からかけられて、節良はじたばたと浴槽の中で藻掻く。
 と、お湯がとぎれると同時に首に腕が巻き付いてくる。
 右腕だ。後頭部に触れているのは左手だ。
 はっきり言えば羨ましくなる態勢ではない。
 首の後ろに触れているのは右肩で、首は完全に極まっている。
 本気で締め落とす時の組み方だ――しかも最悪な事に、胸と背中の間に浴槽という分厚い板がかまされている。
 死ぬ。
「なにー、姉ちゃんとお風呂に入れる弟なんか、世界中探してもお前ぐらいだぞっ」
 だが、完全に締まっていない。
 要するに彼女の掌の上で踊らされる直前なのだ。
 逆らえば締まる。そのまま落ちる。
 返事しないでいるとゆっくりと肌を圧する感触がする。
「わわ、そ、そうですそうですっ!」
 ふっと圧力が引くと、今度は左の耳に風が当たる。呼吸の音が聞こえる。
 相当鼻が近づいているのだろう。
「しあわせ?」
 言いながら締めてくる。
「しっ!幸せっっ!」
 ぱっと腕が離れた。
「ほらー、セクハラじゃない」
 その代わりパワーハラスメントである。略すとぱわはら。
「ちぇ」
 心臓がばっくんばっくんと鳴っているのを感じながら、節良は舌打ちをする。
 まさかここで気絶させられる訳にはいかない。
 下手すれば溺れ死ぬ、そうでなくてもかなり恥ずかしい事になるのは間違いない。
 お湯が流れる音がすると、今度こそ浴槽に手がかけられた。
 そして、背中ごしに姉が浴槽の向こう側へと足を入れる。
 とぽん、と体を沈めてからくるりと振り向く。
 両腕は腕を組むような感じで、自分の前に回していて、丁度三角座りの恰好で互い違いに向き合う格好になる。
 これなら互いに裸は見えないが、関係ない。ここはユニットバスである。
 大の大人が二人も入れる大きさじゃない。否応なしに触れるほど近づいてしまう。
「こんなちっちゃい頃は、毎日一緒にお風呂に入っていたのに」
 そう言って右手で水面を撫でる仕草をする。
「こら。一緒にするな」
 冬来は文句を言う節良をにっこり笑って見つめている。
 そしてまるで言い聞かせるように言う。
「一緒だよ。だって、セツはずっと弟じゃない」
 ことん、と小首を傾げ、自分の膝の上に頬を載せるように、浴槽の湯に顔を浸ける。
「幸せそうだな」
 何の悩みもない顔で、にっこり笑う彼女を見た節良の端的な感想。
 とぷ、とぷと彼女の顔を小さな波が叩いても、彼女の貌は変わらない。
「しあわせだよ」
 その時、本当に少しだけ恥ずかしそうにして、にっと貌を歪めた。

 つき合いきれないと言って背を向けて風呂場を出る。
 彼女が用意してくれた着替えはTシャツに綿の短パン。
 節良は、その寝間着を着こんで、首にバスタオルをかけた格好で居間を抜け、キッチンにある冷蔵庫をひらく。
 いつものように扉のポケットに並んだ牛乳パックをとり、一杯グラスにつぐ。
 彼はそれを持って居間のテーブルに牛乳とグラスを置き、ソファに腰を下ろした。
 勿論姉の為のグラスなど用意していない。
 この二人がけのソファはベッドにもなる。勿論姉のお気に入りだ。
 彼は牛乳をぐいっとあおって、がたんと音がした風呂場の方を向く。
 どうやら姉が上がってきたようだった。
 しばらくごそごそと着替える音が聞こえて、大きいロングTシャツ一枚という格好で冬来が出てくる。
 髪はくるっとアップに纏めている。
 そしてやっぱり何の躊躇いもなく彼の隣に座ると、牛乳パックをそのまま口を付けてあおる。
「あのな、姉い。何回コップ使えって言ったよ」
 節良はジト目で彼女を睨むがそんな事お構いなし、ちらっと彼に目を向けてパックから口を離す。
 ぱっと白い水滴が舞ったように見えたが気のせいだろうか。
 音もなく置かれたパックの中身はもう殆ど残っていないだろう。
「良いじゃない。どうせ私とセツしかいないんだから」
「おまえね」
「姉!」
 ずびし。
 今度は鼻先に右手の人差し指が突き刺さる。
「……姉い。いい加減弟離れしような」
 結構それは彼にとっては切実な訴えだったかも知れない。
 その言葉に、彼女はぱちぱちと瞬きするとぽかんとした貌で節良を見つめた。
 ほんの二呼吸ほどの時間が経って、冬来は小首をかしげる。
「……彼女でも出来た?」
「ばっ」
 ぼん。
「ばかやろう!」
 何が馬鹿なのか、とやっぱり不思議そうな貌で弟が真っ赤な顔をするのを見つめる冬来。
「あのなー姉い、姉の態度、絶対」
「だったらいいじゃないの。私は姉で、セツは弟。おかしい?」
 はっきり言えばかなりおかしいと節良は考えているし思っているし感じているんだが。
 目の前の姉はそんな風には感じられないらしい。
 いつまで経ってもどこまで行っても可愛い弟に変わりがない――この世に二人といない肉親。
「恋人と違ってこれはぜったいに変わらない、約束じゃない決まり事」
 姉の人差し指が、今度は優しく彼の鼻に触れる。
「……普通恋人も変わらないよ」
「残念ながらね、とっかえひっかえってヒトもいるんだよ」
 ぺちぺち。
 人差し指で子供の彼を叩く。
「セツ」
 かたん、と彼がグラスを置くのを見計らったように呼びかけ。
 そのままソファに押し倒した。
「おやすみ」
「こらっ!離せ馬鹿っ!」
 むに。
 何度も何度も繰り返してきたが、彼女の抱擁からは逃れたためしがない。
 ちなみに出来るはずがない。
 弟を溺愛しているこの姉が、弟を仕事の為に鍛え上げた張本人なのだから。
 結局姉に抱かれたまま次の日の朝を迎える事になる。


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