XVII.

 転ブ技術の周辺〔3〕転ブ技術者
   転ブの基礎理論を完全に理解できる人は、一万人にニ、三人と言われる。それだけに基礎技術開発は特化した数名〜少人数のチームで行われることが多い。応用技術は、基礎理論に立脚しないで建て増し式に開発されたものがほとんどで、初期の転ブには動作不良も多かった。しかし応用技術のモジュール化が促進され、その標準化に伴って安全性は徐々に向上した。また、転ブの急激な需要増加に伴い、深刻な技術者不足が顕在化した。


 少しくらいヘアスタイルを考えてもよさそうなものだが、ぬめぬめと照り輝くおかっぱ頭を抱え込んで、キクラはガラにも無くイライラしていた。
 ――私の采配に落ち度はなかったはずだ。
 この事件に関しては、異例の人数の特務員を配備して彼等の追跡に当たらせた。彼等がサマリー宅に集合しつつあることも、ようやく判明していた。
 まさか『歩いてくるとは思わなかったが』、特務員たちが男の片割れを保護しかけていた――ちょうどその時だった。
 あの通達。
 保護および調整の解除。
 なぜこういう事態になったか、キクラは自分なりに理解していた。
 アオウシが、奴等に――ヨヨハトとサマリーに恐れをなしたからだ。
 私の配下よりも早く、ヨヨハトの情報を掴めたのには驚いたが……ビギナーズ=ラックだろうな。もちろん私は彼等など恐れはしないのだ。かえって奴等に、目にモノを見せてやれるはずだったのだ。
 男の片割れはあの後すぐに処分できた。女の方も、いくら集団でいようが上手く工作すれば処分できる。それから、残った夫婦をヨヨハト等は抜きで、直接言葉巧みに説得する。彼等は自分達からヨヨハト等への依頼を取り下げる。これで、いとも簡単に、奴等の自尊心を粉々に打ち砕いてやれたはずだったのだ――。
 彼にはこの事件における幸哉達の自我の位置づけが、夫婦愛によって他の件とは微妙に違う性格のものになっていることを、考えつくことさえできなかった。もしアオウシが恵里に思慕を抱いていなかったら、彼にも理解できないことだったかもしれない。
 キクラはとがった鼻に載っている縁なし眼鏡を掛けなおして、頬の筋をいっそう深く刻んでいた。
 せめて、あの電話がアオウシからの、意見に過ぎないものだったならば……。即座に否定し、速やかな調整ができたはずだった。
 なぜ『調整部』顧問のニルノーデ=バイから、直々の通達が来たんだ? これも答えは一つしかない。
 アオウシだ。
 奴が私より早く、わずかな情報を得たことに天狗になって、大勢を見誤った意見を上申したのだ。なぜ現場の意見を聞かないのだ。なぜ現場との情報交換を先にしないのだ。だいたい、ニルノーデはただの科学者だ。この仕事の重要性や微妙さなど、端から分かっていないはずなのだ。
 アオウシめ。元々現場と事務は反りが合い難い、憎めばいい、と高をくくっていたが、これは背反行為ではないか。自分の立場ばかり考えるとは、職務への見地が低すぎるのではないか。
 こうした怒りで、キクラはぬめぬめの頭を掻きむしっていた。
 しかし彼は、情勢を全く見誤っていた。
 顧問のニルノーデは、現場担当調整員が実際の調整には直接手を下さない、最後の交渉役だと把握していた。面が割れて交渉に響くことを防ぐ意味もあるが、キクラは元々、ほとんど現場にいないのだ。現場と事務という考え方では、特務員に比べて明らかにキクラは事務サイド、しかも暇の多いポストだ。こういうこともニルノーデは知っていた。
 さらに彼の得意のおべんちゃらも、表裏激しい追従としか受け取っていず、暇なポストを覆い隠しているようにしか感じていなかった。どちらかと言えば寡黙で忠実、仕事熱心なアオウシを快く思っていた。
 キクラと言う男は本来権威に非常に弱い人間で、だからこそ今のような絶対的な守秘義務を背負わせておく仕事には向いていた。言わば権威に絡め取られ操られる哀れな男なのだが、同僚にとってはたまったものではない。そのストレスはいつも彼の薄くとがった唇から発せられ、多くの同僚の敵意を増長していた。実際、『キクラには内緒にしたいから』と言う理由で、アオウシがユキヤの訪問記録を抹消しておいてくれと頼めば、受付の女性は二つ返事で引き受けていた。元々転ブ記録に残らない直接訪問だったし、紙を丸めて捨てるだけだった。
 ニルノーデは一風変った科学者で、奇妙なものには目が無い。元々転ブの研究をしているのだから、今回の事件も面白がるに違いない。彼が気に入れば、全員が助かるだろう――そう直感したアオウシは、ユキヤのブランクIDカードを作成していた時に、ニルノーデに報告しておいたのだ。
 その報告を聞いた時の、白く長いモシャモシャ頭を揺さぶるニルノーデの嬉々とした表情は、受話器の向こうのアオウシにもひしひしと伝わるようだった。
 「それは、ゼヒゼヒ見てみたーいの。夫婦四人で。きゃっきゃっきゃ。一体どうなんじゃろーの。アレは」
 アレって、どれなんだ。……確かにニルノーデの裁量に事を委ねるのは、少し危険なことだった。キクラ等による幸哉や恵里の調整の危険は無くなったものの、ニルノーデ自身が何を思いつくか分からない。しかし、これ以上の方法は考えられなかった。
 アオウシは恵里と恵里の愛する人の意志――彼等全員を生かしていくこと――に、自分なりの役割を果たすことで、やっとかつての思慕を昇華し終えたのだ。
 
 ひょろ長い肢体に精いっぱいの虚勢を張って、キクラはアオウシの部屋へと向かっていた。アオウシを見た途端、彼はいつものねばっこい調子で話し始めた。
 「アオウシく〜ん? ニルノーデさんの通達は聞いたのかな?」
 アオウシはさほどのことかとでも言う風に、
 「ああ、あれですか?」
 「現場のこっちは大慌てだよ。君が言ったんだろう? ええ?」
 「まあ、そうですが」
 「君らしくもないねえ。現場優先なことくらい、分かっていて当然だろう、ええ?」
 「こちらも仕事が忙しいんですよ。文句ならニルノーデ博士に言ってくださいな」語尾のあたりで、アオウシはちらと一瞥を送った。これがキクラのこめかみをぴくつかせた。声の調子が変った。
 「き、貴様。何を言う。こっちがどれだけ必死になって特務員を指揮しているのか、分かっておるのか」
 こんなキクラの怒号を聞くのは初めてだったので、アオウシはほんの少したじろいだ。だが、短いため息をついた後、憐れむように眉毛を八の字にして、
 「……まあまあキクラさん、落ち着いてくださいな。ご苦労があったことも分からなくはないですがね。ええ、なんなら今のお言葉、そのままニルノーデ博士にお取次ぎいたしましょうか?」もっとも、『必死になっている』といった言は、博士も聞き飽きているでしょうがね。……そこまでは、アオウシも言わなかった。これ以上怒らせても仕方が無い。
 「こっこっこっ、こ奴、小役人め。貴様が業務にもたらした損害を、考えることもできぬのか」
 自分ひとりで仕事をしているつもりなのは、どっちなんだ? アオウシは返事をする気も起こらなかった。
 「分かったぞ。貴様の腹は読めた。すぐにこの背反を上層部に報告する。覚悟しておれい」
 もうこの仕事に未練も無い――だからアオウシにはよけいに、彼の言動が滑稽だった。目の前で、保身のみを願う男が、自分の立場の危うさを周りに転嫁するのに必死なのだ。もはや高みの見物なのだが、こちらも必死で笑いをこらえてやるのが、せめてもの礼儀だろう。
 とりあえずトドメでも差しておくか。
 「そうですね。ニルノーデ博士とは、なにとぞ上手くやってくださいな。博士、あなたと一緒にあの四人と面会するつもりみたいですよ」
 

(第18章へつづく)

© A.Matsu! 2000-2001 大禍時(おおまがとき)Indexへ