XVI.

 転ブ技術の周辺〔2〕転ブの迷信・怪談
   人々は様々な想像力を働かせ、本来は完全性の高い転ブシステムに対して数々の迷信や怪談を作り出した。『十二時ちょうどに後ろ向きに転ブすると、転ブ元には帰って来られなくなる』、『ボット便所の中から手が伸びてくる』、『ボットは満杯になると逆流する』、『デート先に転ブしようとしたオランダ人が通信網から永遠に抜け出せないでいる』、『未来や過去へ転ブしてしまう転ブが存在する』等など。急速に進行しすぎた生活様式の大変革へのホメオスタシスとも言える。


 さて、ユキヤが独りでなんとか危機を乗り越えている間に、幸哉、恵里、そしてエリ達はどのような足取りを辿っていったのだろうか。
 幸哉は、サマリーとの電話中にユキヤに電話を掛けようとしたが、当然ながら自分の番号は登録されていなかった。それで、恵里の携帯電話から再び試みたものの、あいにく彼は電波の届かない地域にいたようで、サマリーの自宅に向かう件を連絡できなかった。しかたなく、そのままサマリーの自宅へと向かった。
 グランドフロアで、幸哉が何の気なしに転ブを使いそうになるその首根っこを、恵里はむんずと掴んでたしなめたりもした。どうも彼の発想や直観力と、実際の行動様式とは少し別のレベルに存在しているようで、なかなかどうして、恵里はその性向をよく把握していた。とはいえ、今まで履いていた靴下に『気をつけろ!』というようなことだし、もし彼女が先に転ブに向かい、それを幸哉が止めていたとしても、何の不思議も無いことだ。
 とにかく彼らは久々にマンションの玄関から出て、既存交通網を使ってサマリーの自宅に向かうわけだが、これは実にタイミングが良かった。もし三十分でも遅れようものなら、キクラ配下の調整特務員達によって、彼らは首尾よく『調整』されていたかもしれない。
 その後においても彼らは特務員に捕捉されることはなかった。これは単に、自宅という目的地の予想がしやすいユキヤに比べ、彼らがどこに行こうとしているのか、特務員にはさっぱり把握できなかったからだった。幸哉が最短路線を間違えて、普通なら二時間半もあれば到着できるところを、四時間もかかって遠回りをしたのが勝因ではない。
 元々特務員というのは表立った集団活動はできない。その員数も限られている。いくら転ブによって遍在的活動能力があるといっても、首都圏の既存交通網をすべて網羅することはできなかったのだ。
 しかし彼らの逃避行は、いくら近距離だったとは言え錯綜を極めた。首都圏における既存の鉄道と駅は、廃業への道をひたすら突き進んでいた。往時でも難解だった鉄道路線図が、今は訂正だらけ。こんなものを久しぶりに見せられて、順当に目的地に着ける人は稀だろう。
 彼らは駅員の中途半端な情報や、ウラワでの駅名把握の困難にもめげず、なんとかサマリー宅にたどり着いた。その間しばしば心細く伸ばされた恵里の手を、幸哉は何度も力強く握りしめてそれに応えた。
 
 前庭のある家で、玄関は木製の引き戸。『殺されるかもしれない』という彼らの懸念を安堵させるには、サマリーの家はかなり無防備に見えた。本来恵里はこういった佇まいが好きなのだが、今回はさすがに風情にまで気が回らない。
 ブザーを鳴らしても、誰もでてこない。
 「待つしかないのかな」この幸哉にとっても先のユキヤと同じく、逃亡者として安全でないところに立ち止まるのは、歓迎できたことではない。そう言えば、と、このときもう一度ユキヤに電話してみたが、相変わらず電波が届かなかったようだ。
 十分もせぬうちにサマリーがケイトを伴って帰ってきたので、彼らはようやく安心できた。
 「や、エリ。いゑ〜」サマリーも周囲を気にしてか、少しトーンを下げていた。
 「……い、いゑ〜、サマリー」恵里はご挨拶どころではなかったが、安心と、彼女が変らぬ挨拶をしたことで、少しかたくなな表情を解き始めた。
 「あ、ケイトちゃん! オジサン知ってるんだよ〜」幸哉はケイトを見ると、すかさず相好を崩し、彼女と視線を合わせるようしゃがみ始めた。
 「どして?」
 幸哉は嬉しそうに名前が書いてあるケイトのかばんを指差した。「ここ見たの。きょんにちゅわ! ケイトちゅわ〜ん」
 ケイトは目をまん丸くして、幸哉を見つめていた。どうやら、彼が気に入ったらしい。
 「ユキヤさん、サマリーよ」まったく、いつも子どもに挨拶するのが先になるのね。
 「あ……、どうも」幸哉はしゃがんだまま、照れたように頭をぼりぼり掻いた。
 「エリのダンナさんね。初めまして……」サマリーはミニスカートを見上げられて少し後ずさりしたが、笑顔で続けた。
 「中に入りましょう、ヨヨハトさんともう一人のエリさんもいるわよ」鍵を開け、すたすたと中に入っていった。
 「……おいちゃん、行こ」ケイトがユキヤの手を引っ張った。恵里は、ケイトがもう幸哉に好意を持っているらしいことに気づいた。自分と会った時には、はにかんでいたのに――自分には無いこの幸哉の能力に、恵里は改めて驚いていた。
 『知っているんだよ』とさりげなく言えるかどうか、それで好意を伝えられず恐怖になりはしないかとか、恵里は色々考えてしまうけれど、そういった杞憂は幸哉には関係ないようだ。
 「エリ、玄関は閉めて」そう言ったサマリーに連れられて、中からヨヨハトおばさんとエリが現れた。
 「二人とも、大丈夫だった?」とはヨヨハトおばさんの第一声。幸哉が返礼してエリの方へ目を向けると、彼女は涙ぐんだまま震えていた。
 恵里は幸哉の背中を押して、少し寂しそうにウインクした。
 「エリちゃん……」幸哉は申し訳無さそうに恵里の方に一瞥してからエリに近づき、彼女を力強く抱きしめた。
 「がんばったね、がんばったね、エリちゃん。ゴメンね。つらい思いさせて」
 エリは火がついたように泣き始めた。
 不思議な邂逅だった。『幸哉に会う』ために走り、転ブの裏側で衰退していく社会の中を、ヨヨハトおばさんと一緒にここまで来た。しかしその幸哉のそばにはもう一人の恵里がちゃんといて、自分が必要であるかどうか分からない。エリは、自分のアイデンティティがどこにあるのか、今、さっぱり分からなかった。その中でひたすら泣いていた。彼女の号泣は、乳児が母の愛を求めるそれと同様、極端に原初的なものだったのかもしれない。
 サマリーはもう一方の恵里の仕草をちゃんと見ていたようで、
 「ゴメン。私もこんがらがっちゃうんだけど、今のエリ、ちょっとカッコいいぞ?」
 その言葉に「だって、だって……」恵里もつられて泣き出し、サマリーにかぶりついた。
 「だって私、二人いるんだもん!」
 ケイトは訳がわからず呆然としていたが、ヨヨハトおばさんは「なんてことだい!」と、もらい泣きしていた。
 エリは幸哉の胸の中でしばらくわあわあ泣いていたが、そのうちもう一人いる自分を思い出した。嗚咽はまだ止まっていないままに、「二人とも、大丈夫だった?」
 幸哉は彼女の頭をなでながら、「ああ。なんてったって僕がいたんだもん、大丈夫さ」
 「みんな大変だったろうよ。屁の突っ張りかも知れないけど、アタシも応援するからね。大丈夫だよ」ヨヨハトおばさんも涙ぐみながら応えていた。
 サマリーは一人、同情よりも自分の旧友が二人になったという混乱を抱え込んでいたが、やがて、
 「もう一人のユキヤさん、今どこにいるの?」
 「……さっき玄関先で電話してみたんだけど、ダメだったんだ。もう一人の僕は、電源を切っているのかもしれない」
 「心配ね。でもユキヤさんやエリのケータイはもう使わない方がいいかも知れない。私のケータイ使った方がいいんじゃないかしら」
 「うん……。メールは打っておいたんだけど」
 「まあまあ、皆さん。玄関先で作戦会議もなんだし、中でアタシの特製梅昆布茶でも飲みながら、考えませんこと?」
 ヨヨハトおばさんが提言し、ようやっと皆、腰を下ろすことになった。彼女の梅昆布茶は、彼らの疲れた心身を慰めた。安心ついでに口を突いて出た「ケイトちゃん、初めまして」というエリの言葉に、ケイトはきょとんとして首を傾げていた。
 

(第17章へつづく)

© A.Matsu! 2000-2001 大禍時(おおまがとき)Indexへ