XV.

 転ブ技術の周辺〔1〕食糧供給  
   物質の再構成が可能になったことにより、農林水産業は先進国では採算が合わなくなり、徐々に衰退した。また、紛争地域や不作の地域に再構成専用機を設置し、飢餓を撲滅するプログラムが国際的に進められた。穀物メジャーによる穀物寡占などは衰退したものの、南側諸国の農林水産業の特産物も売れなくなり、新たな南北問題を現出した。

 
 データ処理を続けてはいたが、アオウシ=ユニークの脳裏には二人の知人の名前がずっとリフレインしていた。ディスプレイには個人データの一覧が表示されている。
 『恵里』と『幸哉』。
 前の職場の同僚だったが、まさかディスプレイの上で再会するなどとは思っても見なかった。この二人にワンス=デリートにチェックを入れて実行処理をしたことに、今も煩悶を繰り返していた。
 ワンス=デリートとは、その人のIDで転ブ利用すると、一度だけだがその人のデータは目的地に送られず、単に消去されるという処理で、要するにその人はこの世界から存在しなくなる。これは転ブの通信バグで同一人物が重複転ブされてしまった時に取る措置で、まったく極秘の作業だ。
 言ってしまえば殺人になる作業だが、この処理をしなければ転ブ社会というのは容易に崩壊する。まったくの同一人物が自分の立場を主張して係争を始めると、周りの社会にも混乱を引き起こす。さらに、前に幸哉が推理したように、社会的にも転ブへの不信が高まり、高度発展を続ける転ブ産業に悪影響を与える。
 もちろん自分の通信網設計部という肩書きは、まったくのデタラメだ。管理運営部などと下手に似た部署名だったら、よけいな詮索を受けたり、自分も何かの拍子に極秘事項を漏らしたりしかねない。
 「ふう」アオウシは椅子の上で伸びをした。蛍光灯がやけに眩しい。彼の名前が書かれた研究室は完全な個室で、部屋は応接も可能なようにニ室に分かれている。今彼が作業をしている部屋は、奥の完全防音された部屋だ。この奥の部屋は、出るときにも入るときにも必ず施錠しなくてはならない。
 彼の仕事は孤独な作業だが、給料は多い。自分の仕事は、今の社会を陰で支えるとても重要な仕事だ――彼はこの仕事に使命感を感じていた。その使命感で、『殺人』というもう一つのアスペクトを今まで覆い隠そうとしてきた。
 しかし。
 ――エリさんが重複転ブしてしまったなんて。
 今まで、自分の知人が消去対象になったことさえなかったのに。何故、よりによってエリさんが最初なんだ。オレは、彼女のことを忘れるために、前の会社を辞めたんだぞ。
  エリさんがユキヤと婚約するまで、諦めてはいなかった。ユキヤとの仲が同僚の噂になっても、その現場を自分で見ても。
 この会社に来てから、カノジョもできた――エリさんには敵わないだろうけれど。そうだ、彼女がエリさんに勝てるといったら、胸の大きさくらいじゃないか。彼女にはあの真面目さが足らない。全然足元にも及ばない。やっぱりオレはエリさんのことが。だいたい、何故オレじゃなくて、ユキヤなんだ。あんないい加減なヘナチョコ野郎の、どこが良いんだ。オレの方が、エリさんを幸せにできるに決まっているじゃないか。
 アオウシは、少し前にやっと忘れることができた繰言を、また思い出してしまっていた。それは、恵里が二人いるという現実を発見したからに違いない。
 もう一度二人のデータまでスクロールしてみた。チェックはまだ外れていない。
 二日前に重複転ブが発生して、重複した4人とも、自宅であるマンションに帰っていたことは昨日の昼過ぎに確認した。当然家で全員が顔を合わせているだろう。こういった場合、ワンス=デリートは多少デリケートな作業になる。残った方の本人に処置を納得してもらわなくてはならないからだ。
 さらに彼らの場合、昨日の昼以降は誰も転ブを利用していない。官公庁や警察、事件が発生したショッピングモールにも連絡はしていないようだ。これは彼らが、転ブの使用が危険だということに気づいたことを意味する。かなり厄介な事件になりそうだ。もし片方ずつの身柄確保や消去ができない場合、4人全員との交渉になる。
 また、あのキクラに頼まなくてはいけないのか? 身柄確保の件でもさんざんイヤミを言われたのに。だいたい何のための調整員だ。まったくキクラゲみたいな頭をしやがって。あいつさえいなければ、この仕事も楽しいのに。
 一人の幸哉はキュウシュウに転ブしたまま、転ブを使ってない。
 彼の身柄が確保されて――エリさんだけチェックを外せば――、一人、余るな。
 アオウシは自分の考えたことにゾッとした。果たして本当にそうしたとして、片方の恵里が自分になびくとも思いにくいからだ。そうなれば、自分がもっとみじめになるだけだ。
 無理やり監禁でも――まさか。確かに、片方のエリさんに人権は無いかもしれない。だが、監禁したエリさんをオモチャにして、果たして何がおもしろいのか。オレはエリさんの肉体がほしかったわけじゃない。
 彼は考えているうちに、自分の仕事自体も人間の命をオモチャ同然に扱っていることに気づいて、頭を抱え始めた。オレのやってることは、一体何なんだ? オレは今、一体何を考えていたんだ?
 ちょうどその時、ディスプレイの一部にウィンドウが開いた。受付からの電話だった。受付の女性が告げた名前に、アオウシは戦慄した。
 ――なんでここに来ているんだ。
 「今すぐ行く」
 ドアの横にある転ブで玄関に転ブすると、やはりユキヤがそこにいた。
 「や、やぁ。アオウシ君、久しぶり」
 「ああ、無事、いや、元気だったか?」捕まらなかったのか。
 「え。まあね。今日は、ちょっと、そのう……相談があってね」
 アオウシは右手を伏せるように動かして、
 「ああ、分かった。オレの研究室に行こう」と言い、転ブの方に歩いていった。おっと、部屋番号ディレクトリを彼に教えなくては。
 「あ、オレの部屋番号は……」と振り返った先のユキヤは、真っ青な顔をしていた。アオウシも彼の感じた恐怖を悟り、二の句が告げなくなった。今の彼に転ブを強要することは、実質上の死刑宣告だ。
 さすがに自分で手を下すのは、怖い。アオウシはそれほど度胸のある人間ではなかった。
 「……えっと、確か奥さんは、エコロジスト、だったかな?」とっさに考えた言い訳を、受付に聞こえる程度の声でユキヤに告げた。ユキヤは冷や汗をかきながら、黙ってぶんぶんと頭を縦に振った。
 「しょうがないか、オレもつきあうよ……たまには運動もしなくちゃね」
 「あ、ありがと」ユキヤは荒くなりそうな息を、必死で押さえ込んでいた。
 エレベータは無いので、階段を昇らなくてはならない。24階にあるアオウシの部屋に着いた時には、二人ともぜいぜい息を切らしていた。ドアの近くにあるソファに二人どっかりと腰を下ろした。
 「ところで、相談というと?」まだ息は弾んでいる。
 ユキヤはしばらく部屋を見回していたが、ボックスがあるのを見つけて、
 「スマン。その前に、お茶か、何か……」
 そうだな、と言って、アオウシはボックスを操作し、熱い日本茶を出してきた。ユキヤはずずずとそれをすすってから、切り出した。
 「実は、エライことになってしまってね」
 全部知ってるよ、とアオウシは返したかったが、それはさすがに黙っていた。
 「他でもない君の頼みだ。遠慮なく話してくれ」本当に、他でもない。
 ユキヤはそれから丸二日ほどの物語を長々と、表現力豊かに語りだした。もう一人の恵里、もう一人の自分から電話が掛かってきた恐怖から、へんてこなタクシーの運転手に拾われて、ここまで乗って来たことまで。
 アオウシはもう一人の自分、二人の妻に会ってしまったこの男の話を興味深く聞いていたが、何度かデータチェックのために奥の部屋に中座せざるを得なかった。
 「……で、その運ちゃん、最後になーんて言ったと思う? 『タクシーも無い世界なんか、ロマンのカケラもあらへん』だってさ。僕もちょっとは、共感してるんだけどね」
 「そうか、大変だったんだな……」
 アオウシは、意外にも彼らが四人全員で生き残るほぼ最善の方法を取っていたことに驚いていた。確かにワンス=デリート以前に、本人達が重複転ブに気づくことはあった。しかし、ほとんど全ての人の場合、これからの生活に支障をきたすのを恐れたどちらか一方が、もう一方の自分を消去するようこちらに依頼して解決してしまうのだ。つまり早い者勝ちだが、残った方は、そんな事件が自分に生じたことを他人には話さなくなる。もう一人の自分を消去したという罪悪感は消えないのだ。意外なようだが、よけいなもめ事にはなりにくい。被害者意識に加害者意識が加わって、言わば中和してしまう。デリケートとは言っても、善意で被害者のサポートをしている、といった程度の意識で大方対応できていたのだ。
 しかし彼らの場合は、夫婦が一緒に重複したということが、よっぽど彼らに平等性や同価値性を感じさせたに違いない。彼らには一人でなければだめだというより、二人でなければだめなのだ。しかも弁護士や人権擁護団体にも打診している。あの要注意人物、ヨヨハト=シンとサマリー=シバ、最強タッグにだ。以前あの二人は、キクラをもたじたじにさせている。今彼一人を消すと、却って社会的な問題や混乱に発展しかねない。間違ってるのは、ここに来てしまったユキヤだけで、これは完全に自殺行為だ。
 「でさ、相談なんだけど、何かいいアイディア無いかな?」
 アイディアもクソも、ここが総本山でオレがキー・パーソンなんだよ! ……これもアオウシは言わなかった。しかし、このとき既に、彼はユキヤに好意的になっていた。いい加減なところもあるが、この男は本当にエリさんが好きで、必死になって彼女達に会いに行こうとしている。自分がさきほど一瞬でも考えた卑怯さとは、比べようもない。
 それに――今初めて、自分が画面上で消去すべき人間に出会ったが、こんな苦悩を現に抱えながら、なおかつ自分が二人いることを背負って生きていこうと思っているユキヤに、尊敬の念さえ感じていた。オレがしてきたことは、間違いだったのだろうか。
 「いいものをやるから、少し待ってろ。ああそうだ、携帯電話を貸してくれないか」
 不安そうな眼差しのユキヤに携帯電話を借りて、アオウシは奥の部屋に入った。まず、データベースの彼らのチェックを解除し、次に、閲覧が許可されている個人データベースから、サマリーの自宅近くの転ブアドレスを検索した。最後に、ユキヤの携帯電話のIDカードを引き抜いて違う機械にセットし、パソコンを操作した。『原子量データをコピーしています』というプロンプトが表示されていた――。
 ほどなく彼は、携帯電話と白いカードを持って、ユキヤのいる部屋に戻ってきた。
 「これはブランクIDカード。使っても転ブ記録が一切残らない。原子量と最寄のアドレスは書き込んでおいたから、安心しろ。ただし……」
 「ただし?」
 「一往復だけしか使えない。間違って次に使うと、君は消えてなくなる。向こうに着いたら壊してしまえ」
 「ほんとに使っても大丈夫なの?」
 「いらないなら、返せ。」
 「あ、いや、ありがたく――ついでに何枚か、いただけないかな」
 「バカ言うな。……これ一枚君に渡すだけでも、背任行為なんだぜ」それをユキヤに言ったことも、機密漏洩の背任行為に相当していた。
 「ちぇっ、ケチんぼ」
 「分かってくれ」これは予備の諜報活動用で、オレも使ったことが無いんだ。
 「当たり前だが、ここには戻ってくるな。証拠は残さないように頼む。ボットなんかに捨てたらダメだぞ。……それから」アオウシは少し遠くを見るように視線を逸らし、またユキヤに向き直って、
 『エリさんを、守ってあげてくれ』
 声にならない言葉が、彼の一文字に結んだ口から発していた。
 ユキヤは頷いてから、いつに無く真面目な顔で「ありがとう」と彼に返事した。
 ユキヤが転ブで去った後、しばらくアオウシは気の抜けたような顔をしてソファに座り込んでいたが、やがて携帯電話をプッシュし始めた。
 「あ、サトカ? 最近電話できなくてごめん。あのさ……今夜会える? なんだか今日は会いたくってさ……」
 

(第16章へつづく)

© A.Matsu! 2000-2001 大禍時(おおまがとき)Indexへ