VIII.

転ブテロ
   転ブのシステムを悪用した犯罪は、そのほとんどが社会に不安を与えるテロ行為として認知されている。ゴミ留保センターに大量のデブリデータを送付する「ゴミ爆弾」や、受信側の保有原子量を改ざんしたりしてアクセス不能にする「転ブテロ」、デブリデータを送信中のデータに貼り付ける「(故意の)コバンザメ」などがある。なお、カードの窃盗は、要人でもない限りはテロとは言わない。

 
 で、結局、会社に行けと追い出されたのは僕の方なんだよね。え、どっちの僕かって? 僕にそんなルール違反をしろと言うの? まあ最近は、大河ドラマでさえ楽屋オチを冒頭に持ってくる時代だからなァ。あれって、あんまり良くない傾向だとは思ってるんだよ僕も。大体第一線の、制作費のちゃんとかかったドラマがあーゆーことするから、こーゆー子どもの落書きみたいな作文するやつまで、それを猿マネして得意になっちゃったりするんだよな。じゃあブツクサぬかすのさっさとやめろって? 僕もそろそろそうするつもりだったんだけどね。
 ユキヤはオフィスの中であるにも関わらず、異次元に向かって何やら小さな声でつぶやいていた。同僚達は、それが普通の彼の姿なので、今さら何も言わなかった。彼はなおも続ける。
 けっ、アイツラなんだよ一体。どれだけ僕があの時オシッコ漏れそな気持ちになったか、ぜーんぜん分かってない。
 だって考えてもみてくれよ、エリちゃんは幽霊状態になっちゃうわ、そのエリちゃんが元気な声で電話を掛けてくるわ、続けざまに『僕』は電話を掛けてくるわ、玄関先からエリちゃんが襲おうとするわ、それから『分かって欲しいの』って、ああ、それからエリちゃんはマドンナの……僕の、僕だけのマドンナ。ぼくだ、け、のっ!! ぐふぅ! 
 でも困った。『僕だけ』の彼女は二人いて、『僕だけ』と言い張る僕も二人。ああ、あいつ、僕のエリちゃんに何かヘンなことしてないだろうな。
 大体――ユキヤは恨めしそうに足元を見た。
 いや確認しなかった僕も悪いけど、このヨレヨレのズボンはあっちの僕のズボンじゃないか!
  くそう連れてきたらよかった。で、今日から二人に増えましたから、より一層のご愛顧を、だめだ、一層じゃなくて二倍にしてもらわないと。で、給料も二倍! おお、マンションのローンが速攻で返せるぞ! うーん、名案。 って全然だめじゃん。だいたいどうやって分けるのよ。このデスク、この書類、このパソコン。
 ……こいつらはまだ簡単か。お得意先とか、困るよなぁ。半分に分けてもなぁ。
 いや、その分、他の面でこの会社には貢献できるぞ。例えばだな、うん、リエンジニアリングをベースに据えた、会社の情報やノウハウのリファイリング。こんなのやっとけば、便利だぞー。アウトソーシングとかどんどんできるから、いらん人材のクビもぱんぱん切れる。申し送りも非常にスムーズ。
 気持ちいいぞ、こりゃ。きゃーステキ。なんてみんな僕を見直すぞ。いや、いやいや、見直すだなんて失礼な。より一層、畏敬のまなざしで我輩を仰ぎ見ることであろう。ゲボハハハ。
 んー、例えば、もし仮に僕がいなくなってもそのノウハウさえ会社に残れば、会社にとってはまったく損失無いしね。かえって若いの入れたら会社にトクじゃん。うーん、いつか着手してやろうと思っていたが、こんなに早くそのときが来るとはね……。
 って、ちょっと待て。じゃ僕はクビ切られるために仕事をするのかよ。しかも二人で。あーん、ローン払えないぃっ。そっか、彼にそっちは任せて、終わったら辞めてもらうと。今から社長に直訴、ん? 
 あらやだ、なんだか機嫌悪そう。アタシったら女の勘もあるんですのヨ、ほほほ……。
 ちょっと彼のためにコメントしておくと、彼の書類はそんなことを考えてすでにきっちりとファイリングされていた。だから他の人間には、やけに本業以外に時間を割いているな、まあ人それぞれの趣向だから、と見えた節もあろうが、他人がそれを閲覧する分には非常に見やすく、彼のファイルは貸し出し中のものが非常に多い図書館状態になっていた。人のいい、いや自己顕示欲の強い彼のこと、たとえ無断で借りても返すときにファイルのお世辞を二、三言えば、『また見たくなったら遠慮しないでね〜』と、笑顔で答えるだろう。だから、なかなか便利だった。今や『彼ら』となった今、この仕事を彼らが二人で続けるなら、この下準備は非常に役に立つことだったろう。
 もう一つ、本編には関係ないが一般的なことを言っておくと、このようなリエンジニアリングは、社員の一人や二人が試みたところではそれほど功を奏しない。というのは社員全員がその日一日ずつのノウハウを体得するわけだから、その全員のデータを蓄積・分析・分類して彼のように整頓していかなくてはならないからだ。これは飛ぶ鳥を落とす勢いで邁進しなくてはならない新興企業には、あまり重要ではない。その勢いで新しいノウハウを得て、一方古いノウハウを捨てる必要があるからであり、そんなものを記録して後生大事にするヒマは無い。一人ひとりに覚えさせた方が効率的である(ただし、必要最低限の資料の整頓は、会社にとってはとても有益だ)。――彼の企てをもし実行に移すとしたら、彼は彼が思うよりも、はるかに徒労が多いことにガックリするだろう。
 彼の妄想はまだまだ続くが、いちいちこちらがフォローするのも面倒極まるし、そろそろ場面をパートに出勤したエリの方に移してみよう。

 エリは、パートへの出勤を自ら買って出ていた。それは、昨日二人の幸哉の愛を(多少雑音に苛まれながら)独占した、という後ろめたさからだった。残った恵里と幸哉の間に何が起こるか分かったものではなかったが、昨夜の自分の気持ちを考えると、それも無理からぬこととして認めざるを得ない。
 少し意外に思われるかもしれないが、彼女は気丈にも、眠りにつく前、二人の幸哉にキスをせがんだ――自分にではない、すでに眠っていた恵里にキスをしてあげるように頼んでいた。自分である者、それはいくら不可解に包まれていようとも、彼女には『裏切ってはならないもの』なのかもしれない。
 そうよね。私達だけじゃなくてユキヤさんも二人になったんだしね。どっちか一人で十分。てゆーか二人はいらない。ホントにいらない。面倒見切れないよ実際……。
 あれ? あ――っつ!
 会社に行った方のユキヤさんって、会社サボった不真面目な方のユキヤさんじゃないのっ! えーっ、やだー、真面目な方のユキヤさんの方がいいよー。
 ――これは極めて重要なことなので、誰もが肝に銘じておくべきだろう。もし自分と同価値の恋敵がいるとしたならば、まったく話すほどのこともない、現在に近い事象が比較要件となってしまうのだ。それはアヒルの口でぜんまい仕掛けのおもちゃを思い出したかどうかといった程度の問題だし、そのきっかけはといえば、コーヒーショップの斜向かいの席から、自分を見ている人がいたかどうかといった、まったく二人の仲には関係ないことなのだ。
 まったく。あの人。ジャンケンで負けたくせに、ブツクサ言って、駄々こねて出て行くし。そういうカッコ悪いことしないでよね。
 「でも……」
 エリはまたまろやかな笑みを浮かべる。どちらにしろ、ユキヤさんが好き。そうよね。だって最初に家にいたのは今会社にいる方のユキヤさんと私だし。エリはこれ以上、この2×2の異常事態が混乱するのが嫌だった。
 「どうしたのエリさん? 朝っぱらから。手がお留守よ」
 確かにエリのタイピングは滞りがちだった。たまに「でも、でも……」とごそごそ一人ごちたりもしていた。そんなエリに声をかけたのは、左横のデスクにいるパート仲間の優しい中年女性、ヨヨハトさんだった。
 「あ、いえ別に……」
 「どうしたの? ダンナさんとケンカでもしたの?」
 確かにそうだったが、それはエリの記憶からとっくの昔に消えていた。もし、もう一組の恵里と幸哉が現れていなければ、そちらの方で思いを巡らせてはいただろうけれど。
 「えっと、あぁ、そう、そうなのよ、エヘヘ……」
 ヨヨハトさんは、訝しげに首を振った後、「まーお茶でも飲んで、元気だしなよ」と右腕を大きく伸ばしてエリの肩を軽く叩いた。
 「エリさん、お茶、淹れてきてあげるね」
 「あ、ありがとうございますぅ」
 ヨヨハトさんが給湯室――彼女はグルメ転ブを『電子の味がする』と言って好まなかった――に去ると、エリはひとしきり入力業務を始めたけれど、また打つ速度を落として思いを巡らせ始めた。
 だいたい、こんなこと現実に起こったらいけないことなのよ。確か転ブで、いなくなったらどーするとか、増えちゃったらどーするとか、いろいろ言われていたはずよ。そのためにセンカガリっていうシステムが、できたんじゃないの?……よく分かんないけど。
 ショッピングモールにちゃんと問い合わせしてくれるかしら、あの二人――朝みんなで話したように。昨日考えついておけばよかった。けど、自分が目の前に出てきたら、普通びっくりするわよね。
 私の読んだ小説でも、ドッペルゲンガーとかクローンとかタイムパラドックスを扱ったやつって、実生活まであまり載ってなかったと思う。語らないよね、そんなの。転ブテロってユキヤさんの一人が言ってたけど、まさか私達、妙なことに巻き込まれてるんじゃない? もう十分、妙なこと、か。しかも別世界の人でもクローンでもないじゃない、どっちもニセモノじゃなくて、ホンモノのあたしなのよ!
 「あ、でも」
 『でも』この言葉と『なぜ』という言葉で、エリの頭の中は埋め尽くされていた。
 どうなるの、これから? 私が貯金はたいて、ユキヤさんがローンを組んだあのマンション、誰のものなの? 私達のもの、よね? 私達って、一体誰と誰? ちょっと待ってよ、じゃあ。
 「……エリさん、エリさん」
 肩を大きく揺すられて、エリはふと我に帰った。デスクの左隅には淹れたばかりの梅昆布茶が置かれている。ヨヨハトさんお手製のものだ。
 「あなたやっぱり今日は変ね〜。疲れてるんなら、今日は早めに帰ったら?」
 「はぁ……。あ、お茶、ありがとうございます」けなげな明るさを装って微笑んだ。
 だが、梅昆布茶の味で思い出したのはやはり昨日の二人の幸哉であり、エリはずずずとそれをすすりながら、図りしれない不安を感じ始めていた。
 ――私達は一生、あのマンションで四人暮らすの?
 

(第9章へつづく)

© A.Matsu! 2000-2001 大禍時(おおまがとき)Indexへ