VI.

フラクタリーデータ圧縮(fractaly data compression)
   フラクタル次元を任意に設定しつつ解析して、同じようなデータの重複を避けたデータ圧縮方法。これにより、それほど運用に注意を要さない物質の原子配列データの大幅な圧縮とその保存の大衆化が実現した。クオリティを上げる(フラクタル次元の設定/解析精度を上げる)ことによって、オリジナルに限りなく近づけることもできる。なお、商行為上の運用は、認可されたプログラムによる圧縮とクオリティを含めた明示が必須で、センカガリが必要であるほどの人体転移や政府指定の文化財などへのデータ圧縮は禁じられている。

 
 それからの数時間へのコメントを、後に彼らが求められたときには、四人が四人とも『耐え難い』という形容を外しはしなかっただろう。ただ、今の時点で一番その被害が少なかったのは、ズボンの裾がよれよれの、今しがた帰宅したばかりの幸哉だった。その彼でも狼狽は隠しきれず、現実に違和感を覚えた人間が一様に吐くそのセリフを、腹に置いた腕を上げながらつぶやいた。
 「なんだこりゃ?」
 無理もない。自分の妻が二人になって、先ほど自分が抱きしめた方の妻は、もう一方の妻に締め出しをくらっている。くらっている? 違う。その妻は我々夫婦に向かって玄関を開け、『どなたですか?』と言っていた。どなたもくそもない。僕は君の夫だ。アレ? 煩悶が理解を超えてもなお、彼の思考速度は落ちることがなかった。ただし、正解がどこにも見当たらないまま次に吐いた言葉は、やや習慣めいた、現状を無視した間抜けな言葉だった。
 「た、ただいまぁ」
 ――ぱたり、と玄関が閉じた。
 先ほど、他人に言うのは恥ずかしい、最も一般的な夫婦喧嘩を演じてひと寝入り、リフレッシュして復活したエリにも、やはり何がなんだか分からない。彼女は振り返り、玄関近くにまでエリを追ってきていたユキヤに「顔、洗ってくる」と、ぼそりつぶやいて奥に退いた。
 奥に退かれて困ったのはユキヤであり、目の前の聖母エリが全てを解決するものとばかり勝手な期待をしていたのだが、予想は裏切られて進退窮まっていた。確かに恐慌は収まってはいたものの、玄関の外の異星人が何を彼にもたらすか分かったものではなかった。愚にもつかない質問を、エリにするのが精いっぱいだった。
 「……だ、誰かいたの?」当たり前だ、あれほど怖がっていたくせに。彼女は何も答えず、洗面所に向かった。
 一方、外の恵里は、妙な安堵感とまったく不可解な状況が一緒くたになって混乱していた。あそっか。ユキヤさんが家に入れてたのは、私だったのかぁ。じゃあ間違えても仕方ないよね。あーよかったぁ。って、間違ってるじゃないのよ。それに、今私を抱きしめてくれたこの人は誰? んー、どう見てもユキヤさんよね。じゃあ家の中にいるのは別人? 別人が入れるワケはないよね。……ちょっと様子がおかしかったけど。まあこんな状況じゃおかしくもなるわよね。……えっ?
 幸哉はエリに玄関を閉じられて、非常に困っていた。幼い頃、親に家を締め出された時のことを思い出していた。一生この家に入れない、そんな音だった。その玄関のノブの横には恵里が差し込んでいたIDカードが頭を出している。抜き取って裏のサインを見る。間違いなく彼女のサイン。肯いているのか傾げているのかどちらともつかぬ頭の振り方で持ち主に手渡し、自分のIDカードを差し込んだ。
 「……あのさぁ」片足をドアに喰い込ませながら言った。「僕もさっぱりわかんないんだけど、エリちゃん、とりあえず中にさ、入れてくんないかなぁ?」声が裏返っていた。
 退行しかけていた思考力を戻しつつあったユキヤは、その足をはっきりと見た。あれは、僕の靴で、今そこに見えている自分が脱いだ靴と、同じだ。ズボンの裾も、少しよれてはいるものの、僕のと同じ色。自分と恵里にしか開けられないドアの錠を開けて、留守録で聞いたような僕の声で、『開けてくれ』と言っている。
 『僕が、二人、いる』
 恐怖を少しだけ離れたところで、彼は四人の中で初めてちゃんとした結論を導き出した。だが、どうしても合点がいかず、もう一度質問を繰り返した。多分ヤツは黒猫の覆面をしてるに違いない。
 「あなた、一体、誰?」
 「僕は僕に決まってるじゃないか……」
 言い終わって幸哉は、中の声が恵里のものでないことに、録音した自分の声と同じであることに気がついた。おやおや? どうやら僕も中にいるらしいぞ? ……なワケあるかいな。僕はここにいるじゃないか。そうするとつまりだ、僕らは、自分達に締め出されて……。
 一瞬後、3人目の顔が、時間の切片に貼り付けられた。待っていた幸哉の顔がそうなったのとは対照的に、中のユキヤは、我が意を得たりと言わんばかりに苦笑していた。チェーンロックをはずして振り返りざま、『入れ』という手振りをして、黙ったまま奥のリビングへずかずかと去っていった。
 「あわわ」
 ちょうど顔を洗い終わったエリが、後の二人と廊下で鉢合わせた。今度は普通の壁に、張り付いた。
 「エリちゃん、……どうなってるの? これ」幸哉はエリに声をかけて立ち止まったが、エリはその後ろ、俯いたままの恵里の方に目を奪われていた。
 「おーい。こっちに来いヨ、みんな」最初の主導権を握った気安さを得たからか、ユキヤはいささか鷹揚になっていた。リビングのソファにどっかと腰を埋め、ふてくされたような笑みを浮かべている。
 三人はおずおずとリビングに入った。四人そのままずっと時間が止まるかという気配さえあったが、
 「おおおお茶でも……とりましょうか」エリは客をもてなす時の勢いで、平静をとり戻そうとした。
 「アールグレイ――、今日新しい柄に変わっていたわよね、私がするわ」早口にそう言って、恵里が立ち上がった。
 「……な、だってここは」
 「私の家よわたしの!」
 幸哉が立ち上がり制した。ユキヤも立ち上がっていた。
 「ま、ま、ま、エリちゃん……にエリちゃん。お茶は僕――いや僕らが淹れよう。それで、いいよね」とユキヤに返事を求めた。ユキヤもいつになく真剣に頷いた。
 なかなかタイミングのいい仲裁案だったが、いつも彼女にお茶の手配をまかせていた彼らは、彼女達のお気に入りのアールグレイを検索しきれず、困った末にボックスに出したのは梅昆布茶四人前だった。
 「はぁ、一体なんなのよ、って……」みんな言いたいことなのね、という続きをエリが言わなくても、みんながそれに首肯していた。
 「ふぃ〜、やっぱり疲れた時は、こいつに限るねェ」幸哉は無言の場を取り繕うように、梅昆布茶をずずずとすする。
 「おや、気が合いますねェ、じぃサンや」とユキヤも合いの手を入れる。
 「おや、バァさんや」
 「オんヤ?」
 「おンや?」首をかしげながら二人とも嬉しそう。だが、観客の方の二人は、いつもの苦笑をしてくれない。だから男性陣は頭をぼりぼりと掻いた。
 「ねえ、……なんでこんなことになったのかしら?」恵里が言った。この一言がやっと彼らの今までのいきさつを饒舌に語らせるきっかけとなった。
 四人のやりとりは、ショッピングモールに向かうまでの恵里とエリ、幸哉とユキヤの記憶はまったく同じだということ、ある時点からの行動がどんどんずれていることを彼らに理解させていった。
 異星人でも異次元人でもなさそうで、間違いなく彼ら四人は、元々同じ二人だったようだ。『ショッピングモールの怪』という幸哉のミステリーめいた形容は、二人の幸哉を脱線させて二人の恵里を呆れさせた。へんてこなおっさんに、恵里の方はぶつかっていなかった。エリの不幸は皆の同情を買ったが、ユキヤの恐慌は『バチが当たったのよ』で済まされた。サマリーに再会したことを聞いてエリが羨ましがったので、恵里はエリにパンをあげた。そこで恵里はまだ昼ごはんを食べていなかったことを思い出し、やっぱり半分返してもらった。ここで8時をとうに過ぎていた。
 「晩飯にしよ、一応残業したから、ビールもつけてネ」幸哉の言葉に皆同意した。久しぶりに人数上はにぎやかな夕食だったが、これほど違和感のある夕餉を四人とも体験したことはなかった。
 「類まれなる自分自身との邂逅に、乾杯!」わざとらしく景気よく、ユキヤが言ったその思いとは裏腹に、それほど宴は盛り上がらない。全員が自分の仕草を見られるのに困り果て、または二人になった恋人が似た仕草を見るのに夢中だった。
 実際、食事のような日々の習慣に埋没した作業に見られる、自分の意識しない自分のくせをこれ見よがしに見せ付けられるのはたまったものではない。知らぬ間に撮られていたビデオを後で見せられるのと同じようだった。これは全幅の愛を注ぎたいが、それが遂には叶えられない自己愛の中絶したときに生じる憎悪である。それが鏡のように跳ね返って自分の行動を規制する。いつもの彼らに比べ――二人の幸哉は特に――慎み深くマナーの良い夕餉だった、それに要した時間以外は。
 だが、そんな二人に増えた自分のパートナーの様子を傍から見るのは非常に滑稽だった。普段から愛情を注いだ対象であるだけに瞠目に値し、余計に食事は滞る。顔を見合わせてはまた俯いて食事をとる。時折二人の幸哉が、
 「まァまァ、じいさんや」
 「まァ、バァさんや」という、一風変わった一人芝居(と言うのか?)の酌をしなければ、ついぞ会話の全く消えた、夫婦史上最低の、寂しい夕食になるところだった。
 何とか全員が食べ終えた頃、
 「なんだか……眠たくなってきちゃった」
 という、一番先に食べ終えていた恵里の言葉に他の三人がぎょっとした。
 

(第7章へつづく)

© A.Matsu! 2000-2001 大禍時(おおまがとき)Indexへ