V.

※著者註
   ――途中に割り込む失礼をお許しください。ここからは、かなりややこしくなります。賢明な読者諸氏には、この文章で書きたい、実に「ありきたり」なネタが、だいたい分かってきたことと思いますが、それでも念のために言っておきますと、同名の人は(ある時点から)漢字とカタカナで便宜上区別してあります。
 (なお、全文を通して、分身*前の彼ら、あるいは同時に元同一人物の二人、を第三者平常文で示す時は漢字、話中の他者から見た彼らはカタカナ(これはほとんど"ちゃん"か"さん"付けなので、すぐわかるはず)です。)
 万が一他メディア等に転ずる際、以降の登場人物のID混乱は、著者のあまり意図せぬものですので、くれぐれも分かりやすいようお願い申し上げます。また、彼ら分身した登場人物は元々は同一人物ですので、彼らの気分を害さないようなご配慮をお願い致します。もし英語にご翻訳の際は、大文字と小文字などに、漢語にご翻訳の際は同音異義の漢字は用いず、漢字とアルファベットなどに、その他言語にご翻訳の際は読み違いの範囲で適当に母音などを付け足して……、また、マンガの場合は吹き出しの形などを、朗読される方は裏声を、テレビで実演される場合はゼスチャー……映画の……ニメ……ゲ……‥・・ ・  
    [分身*:この言葉も全く便宜上のものです]


 雲間から見え始めていた夕陽は地平線の裏側への旅に期待するかのように、ゆっくりとその身を赤くたぎらせ始めていた。恵里が玄関のインターホンを押すと、「うわあぁ、来たぁーっ!」と、この世のものとは思えないが幸哉のものとしか思えない叫び声が、聞こえてきた。
 「何を言ってんのよ……開けてよ」ご近所迷惑だわ。
 しかし、ユキヤはご近所を気にしている場合ではない。さらにもしご近所に聞こえていたとしても、『来た』という言葉では、『来る』ことが予期されたことを意味しているので、事態を理解していない限り、とりたてて不審な大声ではなかっただろう。
 もう一度インターホンを鳴らす。この夫婦には、家に居たほうが玄関を開けて迎えると言う暗黙のルールがあったのだ。念のため耳を澄ませると、「くく、来るな、来るな入ってくるな……」と今まで聞いたこともないユキヤの声が聞こえてくる。
 ため息をついて苦笑する。普段から彼は『ごっこ遊び』が好きで物マネもひどく好きだ。猿まねの域を出なかったが、それでもたまには恵里を微笑ませたし、その微笑みだけが、彼をして猿まねを続けさせる理由にもなっていた。
 しかし……今日のは迫真の演技だけど、オリジナルが全く分からないなぁ。しかも電話に出るなり『○×ごっこ』をするような、そこまで程度の低いことはしない。少なくとも、今日この日までは。
 おかしい。一瞬の早合点と苦笑は終わった。IDカードを入れる。内側からチェーンロックが掛かっていて、中には入れなかった。彼のすすり泣きが聞こえる。
 これは『ごっこ』じゃなくて何か、彼にとってとてつもなくショックなできごとが起こったに違いない。自分自身が原因とは、絶対に理解し得ないシチュエーションで、最愛の人に来るなと言われてそうするような、恵里はそんな薄情な女の子ではなかった。
 彼女は本来の優しさに、なお輪をかけて丁寧に、言ったつもりだった。
 「ユキヤさん、一体どうしたの? 私に聞かせて、ねえ」
 しかし彼女のその声は、もはや原初的な恐怖の虜になっている彼にとって、まるで死へと誘う幽霊の手招きだった。しかも彼により意地悪なことには、彼は先ほど見た幽霊のような彼女のヴィジョンがオマケについてきていた。
 「いやだ。嫌だ。いやだあーっ!!」
 「ねえ、開けて。ユキヤさん」恵里は少し開いたドアを、遠慮がちにドンドンと開け閉めした。
 「……分かって欲しいの」自分のその言葉に恵里は不思議な気持ちがしたが、実はこの言葉が彼の嵐に震える木切れのような感情に一筋の光明を投げかけていた。もちろん、愛すべき『エリちゃん』の声に聞こえたからだった。女性とは、現状に即した言葉を本能的に選び取ることができる生き物なのかもしれない。
 だが一方、ドアのドンドンは、先ほど自らの不幸を枕にいっぱい沁み込ませたまま、深い眠りに入っていた悩めるクイーンを起こしてしまっていた。それはユキヤにとっての救済だった。福音だった。
 「なによ、もう、さっきから……。ユキヤさん? 泣き疲れて惨めに眠るくらいさせてくれても、たまにはいいじゃない? だって私達初めて、夫婦ゲンカしたのよ」
 嗚呼! これほど愛情と憂いと気だるさと癒しと許しと、その他なんのかんのを含んだ表情を、わが人類の歴史において表現し得た画家が果たして何人いただろうか? その表情は『一切衆生悉有仏性』を、余すところ無く具えていたのだ――。 もし私が画家達の、全ての崇高な才能を結集してささやかなカンヴァスにラフ=スケッチなりとでも、出来うるならば涙の跡やよだれの跡と、それが乾いてガビガビになった黒髪までも描ききり、また運良く色彩までも、鮮やかに与うること叶うならば――、私はその筆に誓って横に大書しよう――『仲良きことは美しき哉』と!
 その時玄関の外にいる恵里は、ユキヤのジョーカーを引き当てていた。彼への福音は彼女への呪詛だった。
 ――女の人の、声?
 突然玄関が、この部屋の中が、中にいるユキヤさんが、今までの人生全てが――高速度の赤方偏移で遠ざかっていくのを感じた。輪郭にはおよそ彼女が人生で体験した全てが赤い色で流れていった。目の前が血の色でフェイドアウトしていき、残されたのは星空に放り投げられて漂う恵里の抜け殻だった。だが残念ながら今は夕暮れ時であり、どうか彼女が星空を漂えるよう、読者は本当に彼女の気持ちを理解して宇宙空間までついていってあげてほしい。
 ユキヤさん? どうして? どうして? どうして中に女の人がいるの? どうしてあんなに眠りから覚めた甘い声をしているの? どうして――私の声なのという疑問は、終に意識の表に顕在することはなかった。多分に無意識が戒厳令を敷いたのだろう。
 この後、4千6百万年の漂流を続けた彼女は、やっとのことで自分の中、なぜか左寄りに、低い唸りを伴った胎動を聞いた。それは現実には昇り来るエレベータの音だったけれど、彼女はその胎動のために一つだけ、最後の力を振り絞ってしなければいけないことがあった。全身の水分が瞳から氷の粒になって宇宙全体に散らばって星になったその抜け殻の、寄木細工のような肉体をみしみしと軋ませながら、見なければいけないのは全ての真実だった。
 インターホンを鳴らした。胎動も左に消えた。全ては、この瞬間に終わったのね。
 「エリちゃん、何してるの?」
 今度は青色のトンネルをやはり高速度で潜り抜け、まだちょっと水分を集め足りない首をみしっと振り向けて恵里が見たのは、他でもない、幸哉だった。
 彼こそはショッピングモールのコーヒーショップで、体側にへばりつけた両腕を引っぺがしてから両膝をぽんと叩いて翻然し、こうしちゃおれん他でもないエリちゃんのためだ、奮然とアヒルの口を元に戻して職場へ帰り、さあ仕事だと奮戦し、奮戦し、また奮戦しようかと思っているところで、軟便が健全なるゴーサイン、やむなく戦線は水洗便所に変遷してなお、フン戦し、フン戦中にエリちゃん独占の我が完全なる名曲『イクぜラブラブパワー』がデスクの方で鳴り響き、おお進軍ラッパ吹く、とばかり拭くもの拭き合えず、あわててズボンを履こうとしたら新鮮な裾がキン前の便器にホールイン、フン洗し、フン洗して悪戦苦闘の末濡れたズボンでデスクに帰り、燦然たる我が愛しのエリ・マイ・ラブ・ソー・スウィートに昂然とケータイ折り返したら、『なによ一体っ!』と言下一閃断線され、こちらも憤然としたが、エリちゃんも憤然としていたので、判然としないまま暫し唖然、これは交戦せず彼女の面前で本然の素直さで親善を修繕した方が安全なヨ・カ・ン〜がして、未然の仕事を早めに切り上げて自宅に戻ってきた、幸哉だった。
 「あのね、あのね、あのね……」
 彼の優しい顔で見る見る心が潤っていくのと裏腹に、先ほど星にしたはずの氷の粒を、再びきらきらと頬に滑らせ始めた。
 彼女には今、何処に誰と誰がいて、誰が何故二人いるのかとか、そんな難しいことは全く問題の外だった。ただただ彼女を受け入れてくれる、目の前の彼がいてくれるだけでよかった。だが見知らぬ男よりは、いやサマリーよりも、いやいや、結局世の中の誰よりも、目の前にいる彼が、彼女の一番愛する"ユキヤさん"でよかったのだ。
 その至上の使命を悟ってか、幸哉は彼女を――まるでバーゲンおばさんも文句をいうほど混み合っている縁日で、わた菓子の包みを完璧な姿のまま子どものお土産に持って帰ってやろうと決心したオヤジのように――優しく優しく、やさしくやさしく、包み込んだ。沈みゆく夕陽も、彼らの姿を茜色に包んでいた。
 しかしやはり、甘いときというものは、長くは続かないものだろうか――彼が苦労して、完璧に持ち帰ったわた菓子のように。
 カチャリ。
 玄関のドアがゆっくりと開き、先ほど作中人物の癖に著者にその表現を挑戦したという絶世の美女が、今度はさほど魅力的でもない不審気な顔で、ドアチェーン越しのわずかな隙間から顔を除かせた。しかも暮れ残った西日の陰になっていたので、彼女の顔色はくすべた棗の関羽雲長だった。
 「どなたですか?」
 恵里とエリの顔が、同じ速度で時間の切片に貼りついていった。
 

(第6章へつづく)

© A.Matsu! 2000-2001 大禍時(おおまがとき)Indexへ