IV.

ウォークスルー(walk-through)
   歩行しながら転移を可能とした転移送信/受信システム。人間の大量転移に適している。当初は鉄道などの大量輸送機関に取って代わる交通機関として開発されたが、大型店舗や各種施設などの玄関・出入口にも利用されている。従来のどの旅客交通機関に比べても安全性・快適さ・移動速度・コストパフォーマンスに優れていると言える。なお、転ブのような双方向型ウォークスルーと、送受信のいずれかの機能しか持たない単方向型ウォークスルーとがあり、後者はより大量転移に適している。


 お気に入りのショッピングモールについてほどなく、恵里は友人のサトカに電話を掛けた。だが、彼女は昼食をすでにとっていて、これから用事があるとのことだった。もう、いわゆるランチタイムは過ぎていた。
 そうだよね、私時計見たわよね、さっき。
 「まったく、私ってばドジなんだからぁ」
 両目の部分を×記号にし、舌を出して自分の頭をぽかりと叩く。恵里が思い浮かべたのは少女漫画のステレオタイプだが、頭は実際に叩いていた。もちろんユキヤさんならそこにだらだらと付け加えるんだろうな。あーだめだめ、ぽかりなんて擬音じゃなくて線が三本だけ、それからポニーテールに真っ赤なでかいリボンね。白筋が2本のやつ。金髪じゃなきゃだめだぜキンパツ。あそれから、舌はだしていいけど、口は閉じておくようにね。
 そんなことは分かってますよーとまで考えて恵里は頬を真っ赤に染める。やだ、ユキヤさんが伝染しちゃってる。しかし恵里は、コミックが嫌いなわけではない。もちろん幸哉が嫌いなわけでもない。
 なんだか恥ずかしいことって続くなぁ。さっきもウォークスルーでコケかけちゃうし。だいたいあの甲高い声はなんなのよ、私に恨みでもあるノ――?? 
 えへへ、いけないな。人のせいにしちゃ。さっきの人形のことだって、私結局買ってもらったんだもん。最高級じゃなかったけど。けど、大事に大事にしたんだもん。自分でお洋服も作ってあげたもん。今でも実家に飾ってあるもん。そうだ、恵里! 前向きに生きるんだ!
 薄いアースカラーの上着を羽織った彼女にふさわしく、ショッピングモールも秋の装いをアピールしている。が、"Autumn Fair"と余りにも明快なコピーで、大きな紅葉を2枚重ねたそのデザインがそこかしこに貼られていたのでは、恵里をして『うげげ、そのまんま』と辟易させるに十分だった。現実のモールはこちらなのに、どちらが仮想空間なのか分からなくなってくる時があるわ。とは彼女の嘆息。もっとも、彼女の懸念するような空間――『フォーマット=リアル』が実現するのは、四半世紀も先のことなのだが。
 そうだ、バッグの新作でも見てみよっかな。買わないけど……とほほ、買えないけど。彼女は珍しく、同じ年代の娘が十や二十はすらすらいえるブランドを片手も言えなかった。むろん新作と言っても旧作がどんなものか全く見当もつかない。そんな彼女が新作のバッグを見ようと思った日には、先刻ご承知のとおり雨だった。
 そう、高級=稀少品という構図はちゃんと残っていて、これらはボックス通販での複製を拒否している。もはや見栄以外の何をも記号化していなかったので、普段は彼女のお眼鏡の視野外になるのも無理はない。まさに裸の王様向けの商品が、そこには陳列されている。彼女はそういう見栄を軽蔑するようしつけられてきた。
 ただ、やはり、彼女が仮にブランド物のバッグに興味があったとしても「買えない」のは当然である。転ブシステムの一切がビルトインされたマンションは最新式で、たとえ彼女が就職以来の貯金をはたいて(幸哉の貯金などゼロに等しかった)、幸哉が一生働いても、やっとこ返済できるかできないかという額だった。
 転ブで生活費が浮くとはいえ、転ブそのものの管理維持費はばかにならない額だった。第1次IT革命時に、エンゲル係数ならぬIT係数というのが考案されたが、その係数たるや一気に家計を圧迫し始めていた。ちょうど第1次産業が第3次産業に王座を譲っていった過程と同じだ。
 話を二人に戻すと、将来子どもの養育費を捻出してゆくには、幸哉か恵里の飽くなき努力と昇給、加えていずれにせよの共稼ぎが不可欠だった。
 しばらく彼女は、飢えた狼のように品を替え店を替え、あれでもないこれでもないと、自分が欲しいものを探してショッピングモールを徘徊していた。本当に欲しかったはずの昼食を完全に忘れて。
 「エリ? エリじゃない?」
 振り向くと小麦色の肌に金髪。といっても一昔前に流行ったあのテの人達ではない、もし彼女達が見たら木製の旧ザク然としたサンダルを脱ぎ散らかして、裸足で逃げ出しさえしただろう。生来のその鮮やかな笑顔をこちらに向けていたのは、恵里の旧友だった。
 「サマリー?」恵里の瞳孔が急に大きく広がる。
 「エリー!! 卒業式以来じゃない」
 たちまち二人は間の抜けたファイティングポーズをして、それを前には伸ばさず縦に振りながらしゃべりだした。
 「元気にしてた? エリ、ィゑ〜!」
 「うんうん、サマリーは? ィゑ〜!」
 「もっちろ〜ん! うィゑ〜!」
 「あ、ね、ね、この子はぁ?? ィゑ〜!」
 その子は何が起こったのか、とでも言わんばかりの大きな目を開かせ、きょとんとしていた。亜麻色の髪の毛が、たくさんの小さな水玉のリボンで、きちんと束ねられている。ワンピースも同じ柄だが、その大部分は母親の陰に隠れて見えなかった。
 「私の子、ケイトっていうの! うゎィゑ〜! ほら挨拶して、ケイトっ!」
 「ケイトちゃん、こんにちはっ!」さすがに"ィゑ〜!"はつけなかったが、かがんでもなお両手は相変わらず振られていた。ケイトは目をきょとんと恵里のほうに向けたまま、黙って同じポーズで手を振った。
 「かっワっ、ヰーーっ! 私も子どもホシ〜」
 「ケイト!? Say, "Hello!"」母親はやっと"ィゑ〜!"をやめて、娘に向き直った。
 「ハロー! ケイトっ!」発音が"毛糸"だ。
 「ア、ろっ」小声ながらも今度は返事もちゃんとできたし、あのポーズのリズムにノッていた。恵里は嬉しそうにすごいすごいワンダホービューリホーとケイトを褒め、ケイトはいっそう恥ずかしがった。
 ぐう。
 「あ」周囲3メートルに木霊する、素晴らしいバリトンの腹式ソロが聞こえてきた。恵里はたちまち顔を赤らめ、「あ、あ、あのね、よかったらなんだけど、」すかさず時計を見た。もう5時前でもありまだ5時前でもあった。
 「……あのね、よかったら……」
 サマリーは途中で遮り、
 「ちょと早いけど、私もおなか空いてるんだ! ィゑ〜!」ごていねいにウインクと親指一本付き。
 「い、ィゑ〜! は、話が合うわ〜!」ギクシャクしながら恵里もそれをまねる。
 ケイトは目線を泳がせながらニヤーっと笑っていた。
 「あ、私、あの人に電話しておくわ」最近ユキヤさん早退気味だしなぁ。
 「あら!? あなたカレシできたの? それはおめでとー! ィゑィゑィゑ〜!」
 「結婚してるよ。おっ互い様でしょー! Congratulation! ィゑ〜!」
 「ざ〜んねんでした! 私ゃシングルマザーよ、べゐィべゑ〜!」
 「そーりゃ大変だ、ィゑ〜!」
 「別にィ今あたし幸せだよ? ぉをゥィゑ〜!」いつしか、二人には昔のジュリーよろしく振り付けまでついていた。
 ほどなく恵里は幸哉に電話をしたのだが、彼は驚愕したりののしったり、果ては恵里が今応対しているのに、受話器を離して呼びつづけたりする。ムカッとして、遅くなると告げ電話を切ったものの、これでは遅く出来るわけがない。
 「ごめん、なんかあの人の様子少し変だから、帰るわ」
 少しと言うよりはかなり変な夫婦間の会話の片方を――それでもよほどましな方、を聞いていたサマリーは、真顔で心配した。
 「うん、その方がよさそうね。私に何か出来ることがあったら言って、それと」
 彼女はバッグから包みを渡して言った。「あなたパンぐらい食べといた方がいいわ」
 「ありがとうサマリー!……そうだ、ケータイのアドレス=リンク開いて」
 「オッケー」
 アドレスを取り交わし終えたのと同時に、恵里の電話が鳴った。『僕がかけてきた時専用!』といって幸哉が押し付けてきたオリジナル曲、『らぶらぶパワ〜ぴょん』で。
 言われなくても今から帰るわよ。……でも、この曲を聞かれ続けるのは、人前でユキヤさんのマネをするより、恥ずかしい。
 電話に出た。何よ今度は。
 『もしもしエリちゃん、どーしたぁ?』
 恵里は二の句が次げなかった。混乱を隠し切れない表情で、
 「……なによ一体っ!」すぐ切った。……こんなひどいの、アリ?
 サマリーは心配そうに、無言で立ち尽くす恵里の表情を、やはり無言で伺った。
 ややあって、恵里は取り繕うように愛想笑いを交えて「ふふ、ごめんサマリー、ホントに帰るね」
 「なんなら、ついていってあげよっか」
 「いいの」ホントはサマリーに、ついてきて欲しいんだけど……。
 すでに私の不安を察していそうなケイトちゃんを、これ以上怖がらせちゃいけない。
 来週ぐらいにまた会おう、そう言って、恵里はショッピングモールを後にした。
 

(第5章へつづく)

© A.Matsu! 2000-2001 大禍時(おおまがとき)Indexへ