III.

ボットBOT)
  Boxing Omni-Trashの略。基本的には転移の送信時に分解された各元素を分別し、適切に安定化させ貯蔵庫に保管する機能全体を指す転ブ技術の一つ。一般的にはこのような機能を持つゴミ箱の部分の呼称(この場合、「ボット」とカナ書きされることが多い)。このゴミ処理機関のBOT化は、生活上のあらゆる資源物質のリサイクルを実現した。また、犯罪の証拠物件や人体/生物の遺棄防止のため、ゴミ専用BOTのデータはゴミ留保センターに転送され、一時的に保管するフェイルセーフシステムが確立した。


 コーヒースプーンははね飛んで一秒後金属音を立てた。ユキヤはばねがはじけたようにのけぞって、音がした通路側左手の床を流し目だけで確かめる。
 スプーンを見定めるとゆっくりと腰をかがめて拾ってから、口をアヒルにして首の骨をならした。ほどなく唇はタコに変わった。
 「あ、そーう言えばソーイレバ安定剤、あれ、結構かわいかったなぁ」
 彼が思い出したのは、総入れ歯安定剤、ではなくて、先ほど見かけたぜんまい仕掛けのおもちゃだった。小さな牛たちの動きようがなかなかかわいい、牧場のミニチュアだった。エリちゃんにあげたら喜ぶだろうなあ。
 ん、買って帰ろう。よしゃ。帰ろ。もう今日はエリちゃんに会う。帰る。
 彼の会社のフル=フレックス制は一ヶ月単位で計上されるものだったが、今月の勤務状態ではいささか危なそうだ。にもかかわらず彼はいそいそと、おもちゃ屋でその子供だましのような代物を買って帰路についた。
 転ブから出るとはねるようにエレベータに向かい、その中でも心持ち膝から上がはねている。エレベータを出てからはスキップしながら、玄関のインターホンを押す。
 「ただいまぁ」
 なでるような声を出迎えたのは、眉間にしわの寄ったエリの、なじるような顔だった。
 「どうしたの? まだ4時過ぎじゃない」
 「うん。今日はね、全然仕事になんないから、帰ってきた」
 「ってユキヤさん、この頃そんなのばっかりじゃない」
 「だーいじょうぶ大丈夫。やることやってっし」
 「いい加減にしないと、お給料削られちゃうのよ」
 「帳尻はいつも合わせてるって。エリちゃんがいた頃だってそうだったろ」
 「……」
 経理係だった彼女にも、それは分かっていた。頑張れば同期入社の全員をゴボウ抜きすることも、あるいは彼には可能だったかもしれない。確かに、それが彼にとって不可能なことだというのも承知で、さらにそののんべんだらりとしたところが、彼女から見た彼の長所でもあった。
 でも、彼女は最近彼に言いたくて言いたくて仕方のないことを、また思い出していた――でもそれじゃ、ユキヤさんのあの時のあの言葉は、一体なんだったの?
 『僕、エリちゃんがそばにいてくれたら、もっと頑張れる』
 しかし、彼の不名誉のために言っておくと、彼女はこの言葉を捏造していた。彼女の心の中で、『……ような気がするんだぁ』という恐ろしくバチ当たりなゴビ活用を、『彼特有の照れだ』という合理化の下に記憶の外に葬リ去り、エリはプロポーズの言葉として『エリ・心のアルバム』にありがたく奉納していたのだ。
 バカ。ばか。ユキヤさんの、ばか。
 「もう、知らない!」
 「まァまァ、そう硬いこと言わずに、姫」
 「全然知らない」
 灯りを全部消しながら、寝室に行きドアをばたんと閉める、鍵も勢いよくガチャリと落とす。それで親指をつき指するほど、それが後でやっと分かるほど、彼女は興奮していた。
 なんなのよ今日は。パートがせっかくの休みだってのに、昔のがっくりな思い出は思い出すし、一緒にゴハンしよって思って電話した友達はずっと話し中だったし、ウォークスルーではコケかけるし、よく考えたらランチタイムは過ぎてたし、へんてこなカッコの人とはぶつかるし、挙句の果てにバカ旦那は会社を早退してくるし、雨は降ってたし。
 「エリちゃ〜ん? ゴメンゴメン、これ見てこれ。ねえ、見てよおもしろいんだから〜」
 知らない。ホントに知らない。
 「かわいいよーこれ。エリちゃんのために買ってきたんだ」
 幸哉が買ってきて、おもしろいと言ったもので本当におもしろかったものなど……全部だった。かわいいと言って恵里がかわいく思わなかったものもなかった。が故に、よけい彼女を苛立たせるのに効果的だった。
 もう絶対口聞いてあげないっ! 誰がつられるかいっ、んなモン!
 「つまんないの〜♪」
 メロディつけてもダメっ!
 「つむゎぁ〜んぬゎぁいぬぉおぉオぉほオ〜♪」
 コブシつけてもダメっ!
 「あれ? エリちゃんこれ何?」
 ん? あーダメダメ。知らん。
 「あ〜♪、おにんぎょうさんの服だ〜」
 やにわにベッドから起き、ドアをガチャガチャ言わせてからユキヤに突進し、彼に初めて見せる剣幕で彼女は絶叫した。
 「返してよ!」
 「ちょちょ、ちょいちょいちょいちょいっ、ど、どうしたの?」
 「返して!」
 二回目のそれは泣き声交じりだった。ポケットから落ちた自分の携帯電話で足を滑らせ、ボットのそばでのけぞるユキヤの前に、崩れ落ちた。やがてへたり込んだまましゃくりあげ始めた。その前にゆっくりとしゃがみ込み、俯いた彼女の目の前におそるおそるそれを差し出すと、右手だけ動かしてひったくった。そろそろと、しかし恐るべき強さの左手で彼を押しのけ、咽びながらそれをボットに落とした。すすり泣きながら、よろよろと彼に目もくれず、また寝室に向かいだした。
 「……エリちゃん、ごめ……」
 しかしその声は電話の呼び出し音で中断した。彼は稲妻が目の前に落ちたかのように肩をすくめた。もしかしたら本当に落ちていたのかもしれない。
 「あ、あの、電話……、出るね」
 そんなにびっくりしていなかったら、電話などに拘泥せず、すぐに彼女の後を追っていただろう。行き場を失ってさまよう幽霊になったかのようなエリの後姿を、いたずらして叱られた子犬の目で追いながら、彼は電話に出た。
 『あ、もしもしユキヤさーん? あたし今日ねぇ……』
 「え゛?」
 『あ、もしもしぃ? あのね』
 「え、エるリ!?」
 『はあい? あ、あのねユキヤさん』
 彼の子犬の目は、ちゃんと幽霊状態のエリを見つめていた。
 「――おい、エる、ええリ? エへリが電話に出てるぞ!!」
 『はぁ? 当たり前でしょ? あのあたし今日ね……』
 「お? ぉおオマエ一体誰だ!?」
 『ちょっと、ふざけないで。あたし帰るのちょっと遅』
 「答えろコラ、ふざけんな」
 『ちょっ、あたしが言いたいわよそれ、遅くなりますから!』
 切れた。遅くなるも何も、そこにいるじゃないか。何考えてんだ。まったく。しゃくりあげてるくせに。ん?
 違うな。慌てちゃいかん、慌てちゃ。……ははん、エリちゃんのイタズラ? 見事なタイミングだ、すばらしい。いや、ちょっと待て。  さっきの呼び出し音のあのメロディは、エリちゃんからの呼び出し専用僕作曲の『イクぜラブラブパワー』だったじゃないか。着信履歴は、うむ。う、うん。エリちゃんだ。エリちゃんの携帯は、あ、寝室だ。充電器はあそこだ。って、ありゃ?
 彼はパールピンクのエリの携帯が、リビングの床に転がっているのを発見した。画面が割れている。
 故障? んなバカな。あんな高度な故障はオプションでも無理だぞ。とすれば! ……なんだろう?
 まとまらない思考と感情のまま、彼は切れものの名探偵に自分をなぞらえようとした。
 と、今手に持ったばかりのエリの携帯が、迂闊にもお上品とは口にしがたい、今彼が鳴らしてほしいBGM――刑事モノの推理シーンのそれ――とは全く相容れない、彼からの呼び出し専用彼作曲の『らぶらぶパワ〜ぴょん』を奏で始めた。
 発信元は、言わずとも……僕じゃないか。ちょっと割れてて見にくいけど、画面にもそう書いてある。
 自分の携帯は、目の前に静かに横たわっている。
 バイブ設定はOFFなのに、ぷるぷると手を震わす彼の目は今や、捨て犬のそれに変わっていた……だが、いつも大変で、今日も何か大変なことになっているらしいユキヤと同じかそれ以上に、エリの方も自分の激昂を扱うのに大変だった。
 激情の雨は周囲の雑音を遮り、枕のぬかるみが体温と同じぬくもりを持つ頃には深い眠りの安らぎへと誘われていて、彼の叫びはシリウスあたりに遠く届かなかった。
 「ちょ、……ちょっと、エリ? エリちゃあん!? で、電話だよぅ……ぼんぼぼぼ僕きゃら!!」
 

(第4章へつづく)

© A.Matsu! 2000-2001 大禍時(おおまがとき)Indexへ