Winged-White 【Shattered】 Notes
……犯罪について、外野の素人がとやかく言うは愚の極み。だが。
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■……あきれた

 無関係な人間をあやめるのが、これほど簡単な時代になってしまったのか。
 【Sin-Century5】で少し述べたが、これらはもう『ミクロなテロ』だ。

 昨年の小学校乱入殺人事件の犯人の言、拳で口を塞いでやりたくなる。
 ああなったら、ひねくれてしまった子どもの屁理屈と同次元だ。
 誠に場違いで恐縮なのだが――笑ってしまった。
 もう本気になって怒ることさえ、あほらしい。

 ニュースキャスターがどれだけ怒りを鼓舞しても、事件そのものではなく「今のこの男のする話」に外野が時間を割くのは、無駄どころか害悪だ。
 「犯人の元妻が妊娠中絶したこと」  これについては、僕は自分のことのように同情できるはずなのだが……もはや笑止。
 博愛を尊ぶ精神においては屈辱的だが、彼の存在を全否定したい気持ちしか生じない。

 これ以上、下手に甘やかして意見を言わせていると――つまり、こちらも好奇心につられて何度も受動的に報道を聞いていると、「自分が不当に扱われる→簡単に凶悪犯罪に走る→好き放題何でも言える」、という歪んだ刷り込みが生じ、アホな予備軍を助長してしまいかねない。

 武士の情けだ……一刀の下に斬り捨てるべきかもしれない。


 僕個人の、外野の感情論で申し訳ない。
 これが現代社会の常識に適合しないこと、こういった攻撃的感情が既に彼に感化されてしまっていること、被害者のご家族の願い(我が子の最後の瞬間を彼の口から聞き出すこと)に反していることは、百も承知だ。

 一方で、刑事裁判はきっちりと忍耐強く続けてほしいとも思っている。
 それが当世の落とし前だ。
 被害者のご家族を始め裁判の関係者も、よく手を上げず我慢していらっしゃると思う。  高潔な方々だ。 彼の口車に乗らないことを考えたら、当たり前なのだが。

 ただ、ご遺族の願いは、ご遺族のものだと思う。
 決して僕が立ち聞きしてすぐ次の話題に移れるような類の話ではない。 それこそ墓前に跪く誠実さで聞くべき話だと僕は考える……たとえ時を選ばず耳に飛び込んでくる情報でも、だ。


■ダサダサの「ヒトマネ」

 さらに最近、模倣犯が多すぎる。(参考:数々のスージ【畜生以下】

 弘前・強盗放火事件、上記の小学校乱入殺人(模倣というより狂言(杉並区)が有名か)、慢性的に続く女性拉致殺人の遺体山中投棄もこれに入るだろう。

 卑近な例だが、一昨年の吹田の大連続放火の模倣犯、もうこれは許せなかった。
 昼間にはヘリが轟音を立てて飛び交い、300人体制の交機隊、さらには角々に警官姿、消防のサイレンはひっきりなし……。 (ほとんど戒厳令的だったが、この時は警察や消防が非常に頼もしかった。 敬礼していたくらいだ。)
 近所のおっちゃんは正にいたしている最中、トイレに燃えた紙を投げ込まれたりもしたのだ。 おっちゃんがナイスタイミングで尿意を催してなかったら……この家も僕も、灰になっていたかもしれない。

 こんな中、嬉しがってマネしただとぉぉぉお???
 当時は火あぶりの刑にしてやりたかった。
 (どうも今回は過激だナァ。  死ねとは言わない。 火の怖さ熱さを十分知って反省してほしいのだ。  しかし江戸時代なら、逮捕された真犯人は極刑をはるかに通り過ぎている。  当時の吹田市民の迷惑料の総計がどの程度になるか、考えもつかない。)


 日本人には、「犯罪者も人間だ」「罪を憎んで人を憎まず」という絶妙の良識があると思う。 これが「なぜ犯人は……?」という関心を促し、根本的原因の究明と以降の犯罪予防に帰納することで、世界に類を見ない治安の優秀さの基礎を形成していたのかもしれない。 だが、昨今の犯罪の無差別性とマスメディアの思考停止的視聴が複合する場合は、容易に自分と同一視する危険を孕んでいる。
 (先の小学校乱入事件発生当時、犯人の話題に「ありゃ、鬼だな」と一言で済ませていた。 自分の個別化を図らずに犯罪者のエゴやイドに素人が平気で首を突っ込もうとするのは、実は非常に危険なのだ。)

 誰だって何がしかの慢性的な不満を抱え込んでいる。
 もしかすると凶悪犯罪の報道を痛快に思うほど、うちのめされているかもしれない。  善悪より先に、「自己表現」が達成されるかのように錯覚してしまうかもしれない。
 「ものごとの両面性を見る」という崇高な価値観が、単なるゴシップ趣味に堕するどころか、犯罪への共鳴者を量産している気がしてならない。  (もちろん犯人逮捕の遅れという治安上の原因が最大だが、この指摘は他に多いので割愛。)
 被害者にとっては、それこそ全く浮かばれない話だ。


 しかし。
 ダサすぎる。 安易すぎる。 幼稚すぎる。
 そんなところに変化を託しても、何の価値も無い。
 実存的には、たとえ何人殺しても、誰も「道連れ」になどできない。
 一人で暗闇に堕ちるだけだ。 そんなことで社会は何も変わらない。

 「あなたの運命の果ては、そーんな下らないところなの?」
 「所詮ヒトマネだったら、もっと他にあるだろーが!」

 誰も言わなけりゃ、僕が言うよ。 ああ言いますとも、本心から。
 ……マネする直前までね。  (やったら、ばっさり斬り捨てるぞ。)


■自由を「自覚的」に享受すること

 TVに代表されるマスメディアによって、我々は短時間に膨大な情報を得ることができるようになった。  しかしこのメディアの致命的欠点は、一方的情報とともに時間の裁量権をも視聴者から奪うことにある。
 受け手側の考察時間は、新聞やWEBなどの文字文化ではある程度融通が利く。  だがTVでは不能だ……もちろん電源を切れば良いだけの話だが。

 TVの報道形態が間違っていると言いたい訳ではない(態度が間違っているとしか思えない報道も、しばしばあるが)。  マスメディアはそれぞれの長所を生かす報道をするので、短所も十分あることもまた否めないのだ。
 これには今のところ視聴者の自覚的視聴をもって自衛するしかない。

 僕はサスペンス・ドラマを好まない。  どうも殺人をもてあそんでいるような気がしてならないからだが、作品の存在と愛好者の是非までは問わない。  究極的には全ての創作物は、受け手の感性に委ねられるべきなので、個人的な好き嫌いを普遍的な善悪と同列には論じられない。

 全ての事件報道も、あるいはそうなのだ。
 「事実を報道して何が悪い?」――何の反論もできない。
 しかしその場合、TVのどんな垂れ流し情報が突然やってきて突然去って行っても、誰もが社会完全適合者か犯罪病理学の専門家としてこれを的確に扱わねばならない……これは、かなり難しい注文だ。

 最悪なのは我々が思考停止になった末、CMのような反復効果が実際の報道でも培われてしまうことだ。  事実、現代はキレまくり社会になっている。
 報道の自由は現代人の精神生活において何ものにも代えがたく、これを統制することには断固反対だ。  故に、その自由を守る代償(責任)は、我々視聴者の上にも厳然としてある。


 ところで恥ずかしい話だが、僕が一人でTVを見るときには、オーバー気味のリアクションになる。

 アナウンサーのあいさつに、「おう、おはよう!」
 訃報や追悼式には合掌
 トホホな政治家には卓を叩き
 アホな事件にはツッコミを欠かさない。
 素晴しい出来事にはもちろん拍手喝采する。
 最後のあいさつにも、「うむ、ご苦労!」で終了。

 まるで一昔前のオッサンだが、自己表現しないと気がすまないのだ。
 寂しいからかな(うぇ〜ん)。
 見事にオヤジになったのかな(うぇぇ〜ん)。
 で、でもね、思考停止に対しては――意外と有効かも、しれないヨ???


■余談:命の値段

 保険金殺人というのは、意外にも昔は無かったらしいと聞き、驚いた。
 よく考えれば、現代(の先進国)ほど命の代価が高まったことは、人類未曾有じゃないだろうか。


 パキスタン旅行で、崖っ淵のカラコルム=ハイウェイで崩落があり、道が閉ざされた。  そこで、崩落の向こう側に待つバスまで、落石の山の上を登り渡ったことがある。  崩落直後の岩がちょっとぐらつけば、インダス川のV字谷にまっ逆さまだ。 今考えると相当怖い。

 この時の海外旅行保険は死亡時一千万円。  死亡時の民事訴訟とは比較にならない値段だが、それでさえ僕と一緒に岩山を渡ったパキスタンの人々は、自分達をそんなに高額とは思っていなかっただろう。

 僕も同じだった。 落ちればタダ捨ての命だった。 この危険行為で保険が利くかどうかも疑問だが、たとえ十億円出ようがそれで喜べる家族ではない(と信じるよ)。 残念ながら自分には当然手に入らない。
 (この事件の詳細は【インドX連発】でも是非書きますネ。またご覧クダサイ。)


 ところ変わって、日本の特養老人ホームで夜な夜な消費される紙おむつ、これも結構な量だ。  一体どのくらいの石油消費もしくは森林伐採に貢献しているのだろう?

 とはいえ、少ない夜勤職員に布おむつでケアさせるなどとても不可能だ。 一人夜勤者を増やすだけで、人件費は逼迫する。(当時の特養ホームの政府指定マニュアルにも、そんな金が出る余地はどこにも無かった。)
 だが使い捨て紙おむつである限り、ケアを手厚くすればするほど、地球を転落に押しやっていく。  もちろん、「もっとケアを手薄にしろ」などとは、思えない。 「今でさえ全然不十分だ」と、僕を含めた職員全員が感じていた。
 モノがモノゆえ……リサイクルも不能だろう。

 この解決案は今でも思いつかない。  使用済みの紙おむつが満載されたカートをガラガラ押しながら、「人の命の重みで地球が押し潰される日は近いかもな」と、そこはかとない恐怖を感じていた。


 人の命の重みは、公平に考えると地球の60億分の1以下である。
 これでなお、人間社会しか計算に入れていない。
 「人の命は地球より重い」という発想は、間違ってはいないと思う。
 一人一人が他者を尊重しあう心は、人間社会で一番大事なことだからだ。
 だが、他者に対しての謂いでなく、「私の命は地球より重い!」などと考えるのは、今や社会的には完全に間違っている(※)。

 金の亡者達は、純粋な名言をこんな風に見誤っているかのようだ。  元々遺族への愛の結晶であるべき生命保険が、クズどもの餌食となっている。
 ――その金でのうのうと快適な生活がしたい、だと?
 命の重みなど、証書一枚よりも軽視されているではないか。


 ――人間の価値が重くなりすぎると、一方で軽くなる現象も、生じてしまう。

 理想主義的な思想が、体制として本来の人間の器を超過すると、様々な破綻を生み出す。  要するに、頭デッカチなのだ。
 性悪説と性善説の中庸を取って、相対的幸福を導き出す体制を築くことが、どれほど難しいかに唸らされる。


 何にしろ、多くの人々がヤケッパチや思考停止のマネゴト・金カネ亡者の犯罪に走るような社会では、困る。
 うわべでこれはヨシあれはダメという表層的・管理的価値観が横行する社会では、ちっとも犯罪意志の未然防止につながらない。
 多少警備や保険審査を厳重にしたところで、イタチゴッコに過ぎない。

 あらゆるコミュニティから――人間らしい関係を育み、人間らしい生活から人々の心を離さないような集団から――孤立した人間が多すぎるのは、現代日本の悲劇かもしれない。
 しかし、裏を返せばここが日本再生の出発点かもしれない。
 さらなるアイディアが今こそ、欲しいところだ。



※ 最後に。
 先ほどの「私の命は地球より重い!」だが、確かに自分一人でそう思い込むのは非常に危険だ。  しかし、他者からの愛の無い生活では、自分で愛さない分には、ツライ。
 そう、誰かに言ってもらえばいい。 あるいはそう言ってくれる人がいるのを、信じる……もちろん、そう言ってくれた相手に、同じことを思うことができれば、最高だ。

 ……誰も言わなけりゃ、僕が言うよ。 ちょっと恥ずかしいけど。
 (あ、ラブコールや宗教勧誘と勘違いしないでネ。 こういうこと何の見返りも根拠も冗談も無しに言うのは、今の僕には相当パワーいるんだから!)



(2002/08/11-13) 戻る

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