雑記帳


瀬戸内・豊島の美術館巡り
先年、岡山の宇野港から船で20分の直島で芸術作品をいくつも目にして、「瀬戸内の島には面白いものがある」ことに気づいた。同じ宇野港からは豊島という島にも船が出ており、ここにも興味を惹かれること尋常でないアートスポットがいくつもある。産廃の不法投棄でも著名になってしまった島だが、芸術作品でも世界的に名のあるものが揃っている。連れと二人、散歩かたがた回ってみようと、直島同様に帰省のついでで出かけてみた。


島には玄関となる港が二つあり、宇野港から40分での家裏港が表玄関のようだがここでは下りず、さらに20分の唐櫃(からと)港で上陸した。観光客の多くは家浦で下りてしまうので唐櫃で下りたのは自分たちとあと一人か二人、港自体が待合所があるきりの簡素な施設で土産物屋もない。だがそれがかえって都会擦れしていなくて好ましい。
イオベット&ボンズ『勝者はいない−マルチ・バスケットボール』
イオベット&ボンズ『勝者はいない−マルチ・バスケットボール』。
 傍らにバスケットボールが置いてあり、自由に使える。
 ボードは豊島の形をしている。
唐櫃港に面する家並み
唐櫃港に面する家並み
唐櫃港
基本は漁港。左奥がフェリー発着場。
唐櫃で下りたのは、港近くにある“心臓音のアーカイブ”という美術館を第一に目指したためだ。美術館というものの、ここは世界各国の人々の心臓音を集めたものを聴かせる場所で、希望すれば自分の鼓動も付け足すことができる。最初に施設の存在を知ったときは「ヘッドフォンで聴くだけでは?」と思ったものだが、それだけではなく大音量で鳴り響く部屋があるという。どのように人の鼓動を聴かせてくれるのか、どのように感じられるものなのだろうか。人の鼓動はみなおなじなのだろうか。生死もわからない他人の鼓動を聴くとはどういう経験なのだろうか。がぜん興味が湧いてきて、連れに話したところ同じように興味を持ち、では、というのが豊島行きの第一動機なのだった。
海縁の集落を抜けていく。畑地を見送り、小さな丘の合間を抜けると小さな砂浜に出る。波打ち際に出て行き先を見やると、浜辺の尽きるあたりに目指す建物があった。焼いて黒く煤けさせた板で覆われた、質素とも思える建物だった。
海辺に建つ心臓音のアーカイブ
海辺に建つ黒塗りの建物
落ち着いた看板
フランス語で”心臓(音)のアーカイブ"
コンセプトはフランス人芸術家のクリスチャン・ボルタンスキー
なかに入ると一転して白一色、清潔感漂う受付には白衣を着た担当のかたがいた。説明されることには、ここにはハートルーム、リスニングルーム、レコーディングルームという三つの部屋があるという。インスタレーションが存在するのはハートルーム。まずは「中に」入るべきだろうと、心臓音を登録した人々の記録台帳が展示された前室を抜け、次のドアを開ける。
暗闇。爆音のように鳴り響く衝撃音。音に同期して部屋中央に下げられた何かが明滅する。響き渡るのは何百倍だか何千倍だかに増幅された心臓の音。光っているのは一個の白熱電球。フィラメントが小さくも鋭く闇を裂き、漆黒の闇を薄く照らす。
心臓音のアーカイブのハートルーム
心臓音のアーカイブのハートルーム。
記念絵はがきより。撮影者:YasuhideKuge氏
ここは誰かの体内、誰かの心臓の中。聞こえるばかりか、皮膚からも感じられる衝撃は、まぎれもなく生きている、少なくともそのときは生きていた、人間の生命の音。力強さを響かせながらもいつかは止まってしまう儚さを秘めた、貴重な響き。強烈な打撃音は一定周期で次の登録者のものへと変わっていく。皆がみな規則正しい鼓動を聞かせるわけでもなく、皆がみな大きな鼓動を聞かせるわけでもない。鼓動にも個性がある。しかし生命のレベルではみな平等だ。明滅する明かりに足下を確かめながら、細長い室内を歩き回る。やたらうるさいのだが、安心感も感じられる。
これは参加せねばと、連れとともに心臓音を登録した。希望すればハートルームで録音したてを聞かせてもらえる。大音量の自分自身の鼓動に包まれるのはなかなかよい。自分の心臓の音を聞いて喜べるのというのは、それ自体、よいことにちがいない。
長居をしたので午過ぎになってしまい、来館者も増えてきた。そろそろ空腹になってきたので長居をしたアーカイブに別れを告げ、波打ち際に出た。流木に並んで腰掛け、穏やかな海を眺めながら昼食とする。食べるのは家から持参のおにぎり(年末年始だと島では食事を出してくれるところが少ない)。聞こえるのは柔らかな波の音だけ、ほどよく暖かい日だまりでのお弁当はこのうえなく美味しい。


次の目的地である豊島美術館に足を向ける。歩き出してほどなく、背後から軽自動車がやってきて脇に止まる。先ほど美術館で受け付けをしていたかたが同乗を奨めてくれるので、ありがたく載せて頂く。美術館はだいぶ登らなければならない丘の上にあるので、ずいぶんと楽をさせてもらった。
豊島美術館
豊島美術館。建築:西沢立衛、美術;内藤礼。
収蔵作品数が常設1点という驚異の美術館。
しかし入ってみればおそらくここでしか得られない非日常経験ができる。
右手前は受付。
豊島美術館は、直島の地中美術館と同様、建物そのものも見るべき作品になっている。受付をすませたあと、すぐには建物には入らず、敷地内を一周する散策路を歩いて唐櫃港を雑木林の枝越しに見下ろしてから、特徴的な建物の入り口に着く。ほんの少し入っただけで、その奥行きの深さと滑らかな壁面の曲線に文字通り息を呑んだ。
内部は事前に見聞きしていたとおりの、風と光が満ちる世界だった。広々として柱一本とてない空間は半分に切って伏せた卵の殻をつなげたような形状のシェルでできている。巨大な二つの円形開口部があり、見上げる青空と緑の木々が、山中にあるのと同じくらい清浄なものとして目に映る。よく見れば開口部には細く白いテープが風にたゆたい、目に見えない大気が動いているさまが捉えられる。
灰白面の床にはところどころに水たまりが広がっている。音もなく小さな水滴を転がし出すところがあり、世に現れたしずくは生き物のように転がる。動いては集まって誰の目にもわかる水たまりになる。
広くて座るところもない空間ながら、立ち止まっては床上の小さな水の動きを追い、吹き抜けから見上げる頭上の木々の揺れを眺め、しずかに歩を運んでは徐々に表情を変える内部空間のフォルムに目を惹かれる。人はおおぜい入っていながら、広々としているのに誰も声高に会話することはなく、せわしなく歩き回る人もない。みな自分自身が作品の一部にでもなったかのように、静謐な空間そのものを味わっているのだった。


豊島美術館からはバスを待って島の出口の家浦港まで移動でもよかったのだが、途中にあるアート作品を見つつ行きたかったので徒歩で移動することにした。美術館からさらに丘を登り、再生されつつある見事な棚田を見送ると山上の集落に入っていく。ここは海辺の唐櫃浜に対して唐櫃岡と呼ばれるらしい。
唐櫃の清水
唐櫃の清水。どんな日照りでも涸れたことがないという。現在の造りになったのは昭和四年。
すぐそばに『空の粒子』がある。
建て込んだ古くからの家の合間に作品があるのだが、残念ながら時期的に屋内展示作品は軒並み閉館状態で、観ることができたのは“唐櫃の清水”脇にある作品と、営業していれば食事どころになる“島キッチン”とされる空間だけだった。だがそれぞれ見応えあるもので、とくに清水は(、芸術作品ではないが、)ただ流れているのではなく、水を受ける部分が飲料用、野菜洗い用、洗濯用と三段に分かれた造りになっており、全体として機能美を感じさせるものになっている。
青木野枝『空の粒子』
青木野枝『空の粒子』
島キッチン
島キッチン。年末年始は営業中止。すぐそばにピピロッティ・リスト『あなたの最初の色』があるのだが、年末年始は閉館。少し足を延ばせばジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー『ストーム・ハウス』もあるが、前項に同じ。
島の北辺をたどる舗装道は意外と起伏ある道のりで、予想よりは負荷が高い。唐櫃と家裏のちょうどまんなかあたり、山裾が迫る谷間の奥に、作品“トムナフーリ”がある。山中の池の真ん中に立つ白色モニュメントが、超新星爆発で地球に降り注ぐ素粒子に同期して輝くという、なんとも神秘的かつ時空超越的な設定で、ぜひとも見てみたかった一つなのだった。
だが入り口に行ってみると、なんということか、山道の入り口は立ち入り禁止とされている。つまり観覧できない。屋内展示ならあきらめもつくが、野外展示でそれはないのでは?傍らに立つ小さな小屋は料金所らしいが冬場のいまは誰もいない。まあさすがにこの寒い時期にこの狭い小屋に一日いるのは随分な待遇だろうからいないのは理解できるが、この時期にしか来られない人もいるのだから、料金徴収者の手当がつかないのであればいっそのこと冬季は観覧を無料開放したらよいのではと思う。
仕方なく先に進む。壇山展望台登山口なる舗装道を左に分け、平野部のようになったなかを行くと港は近い。手前に「いちご家」という小さな店があり、名前の通りにイチゴのスイーツが好評だということで、連れと二人でパフェを頼む。もうすぐ16時台の宇野港行きが出るところなのだが、一便遅らせて食べていくだけの価値があった。もぎたてのイチゴなので都会で食べるのとは違い、自然な味でとても美味しい。歩いて来て少々疲労気味なので甘味がなおのこと嬉しいのだった。
いちご家
取りたてイチゴのパフェは絶品
次の宇野行きは18時台、まだ2時間近くあるので、フライドポテトも追加注文し、これを手に壇山に登ることにした。島の特産であるらしいレモンの畑を見下ろし、大根を干す民家を過ぎるとあとは舗装道が上へ上へと延びるのみ、日が沈むのと競争するように登っていく。見上げればアンテナ施設が建つ稜線があり、あのあたりが終点だろうと意気込むが、なかなか着かない。一時間弱上ったところで、ベンチがあって直島方面の眺望がよい峠状のところに出たので、ここで折り返すことにした。連れと二人、ターナーの絵のような夕景を競って撮影し、登りでは気づかなかったかなりの傾斜を急ぎ足で下った。
壇山山頂直下で日没の瀬戸内海を望む
壇山山頂直下で日没の瀬戸内海を望む
三角形の島は大槌島。その手前は直島の南東端。
港に着いたときはすっかり日が暮れてしまっていた。闇夜の海を渡るフェリーで本土に戻った。


同じ年の末に帰省した折り、再び豊島に渡った。初回に時間切れで行きそびれた家浦港近くの豊島横尾館を訪れ、もう一度、心臓音のアーカイブに行ってみようと思ってのことだった。ほんとうはアーカイブを先に回るつもりだったのだが、宇野港で慌ただしく乗船したため下りる港を間違えて家浦までのチケットを買ってしまい、乗り越しとするのも面倒だったので券面通りに下船した。成り行き上、最初に横尾忠則の作品を鑑賞することにした。
港から10分もかからない場所に美術館はあった。通りの先に地面まで届くガラス窓が赤く輝いている。古民家を再生したという造りにしても異様なのは、妙に太い塔が敷地内に立っていることだ。入館前からただならぬ雰囲気を感じさせる。
横尾豊島館
豊島横尾館 美術:横尾忠則 建築:永山祐子
ミラーは仕方ないが、電線はやはり邪魔。
敷地内は、倉、母屋、納屋および庭で構成されており、受付を含む倉で上手いのか下手なのかわからないような絵画作品を目にして庭に出てみると、赤く塗られた岩の合間をタイル床の川が流れていて度肝を抜かれる。横尾流枯山水か、と訝しみつつ母屋に入る。ここは靴を脱いで入るのだが、これまた何が言いたいんだ的作品が並んでいる。ほぼ同時に母屋に上がった青年は、自分が靴を脱ぎ、カメラをバッグにしまっている間に出てきてしまった。
よくわからないものの、底流にある不穏なものは感じられる。生と死、存在の不安感のようなものだ。入り口近くにはベックリンの『死の島』へのオマージュが掲げられており、庭から続く川をガラス床越しに渡って入る奥の部屋には、累々たる白骨の上で歌い踊る歌劇スターたちの絵が出迎える。危なっかしい階段を上がって二階に上れば、奥まった狭い部屋で不気味なものがいままさに誕生しようとしている。
母屋を出て、納屋へと向かう。ここでは「塔」が圧巻だった。靴を脱いで入る先はすぐに行き止まりとなる。右手に小さく開けた塔の内部は、一面に滝の絵はがきが整然と貼られ、足を踏み入れようとした床は遙か下方まで底が抜けたように落ち込んでいる。こんなところに入れるものではない。
よく見ると、底なしと思えた床は鏡張りで、同じように鏡張りの天井と合わせ鏡となっており、上下に無限に続く円筒の空間を形成しているのだった。腰が引けた状態で中央に立つと、まさに中空に浮いた感覚に襲われる。足裏では堅い表面を感じられるが、その足を動かすのに相当の気合いが要る。理性と感覚の分離がこれほど明確な体験はなかなかない。
塔を出て、最後の絵画の前でスタッフから種明かしを教えてもらう。じつはこの館のコンセプトの一つは現世から地獄に行き、戻ってくる過程なのだと。庭の川は三途の川であり、あちこちにあった死の表現はまさに彼岸を表しているのだった。赤は地獄の表象であり、納屋の赤いスクリーンから眺める庭は色彩のなくなったモノクロの世界に見える。つまりここではすでに自分たちは死の世界に入り込んでいるのだと。
入り口から窺う中庭
入り口から中庭を窺う
それで全ての作品の“意味”がわかったというわけではないが、じつはここはテーマパーク、下世話な言葉で言えば一種の見せ物小屋なのだと合点がいった。テーマ色となっている赤は地獄を表すばかりでなく、生命の色であるとともに、戦火の記憶も込められているという。小さいながらここには多層の読みが可能なものがあるようだ。ここもまた再訪するに値する場所らしい。


この日はバスで唐櫃港を往復し、心臓音のアーカイブを再訪した。ほぼ一年ぶりに体感する大音量の鼓動は、誰のものかは問わず、懐かしく、安心するものだった。連れと二人、リスニングルームに入って、ほぼ一年前に録音した自分たちの記録を見つけ出し、聞いた。登録者には録音CDが提供され、自宅でも聞けるようになるのだが、部屋の窓から穏やかな瀬戸内海越しに小豆島など眺めながら過去の我が身の心臓音を聴くと、どことなく幸福感が湧いてくる。自分たちが録音したときはアーカイブへの登録者は20,000人に満たなかったが、受付に表示されている数を見るとすでに40,000人を超えていた。
豊島美術館にも寄るつもりだったが、横尾忠則の世界に加えて再訪のアーカイブにも長居をし、(豊島横尾館の後でいちごパフェも食べもして、)日も傾いてきたので今回は割愛した。次回に来るときは、今回はパスした豊島美術館は訪れるとして、残りはどこを訪れるか今から迷うところだ。
家浦八雲神社境内から家浦港を俯瞰する
家浦八雲神社境内から家浦港を俯瞰する
(しかしまちがいなく、いちご家でパフェかクレープを食べるだろう。)
2014/1/1,2014/12/27

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