旧共和小学校脇から大野山を見上げる

丹沢 大野山

よく晴れた冬の日、そろそろ大野山に行ってみるかと思い立った。盛夏は長そうな車道歩きの照り返しと開けた牧場での日差しが暑そうで、行くなら冬かと思ううちに日が経っていた。山のガイドや雑誌の山行報告でよく名前が挙がるから冬でもうるさいぐらいに人がいるのだろうと思っていたが、実際に出向いてみると日曜の昼前とはいえ最寄りの御殿場線山北駅で降りたハイカーは自分だけだった。もう少し早い時間だと多少賑やかなのかもしれない。辿るのは車道と整備された歩道が大半で、山上にあっても牧場施設のなかを歩くため、山登りでも山歩きでもなくHill Walkingといったほうがしっくりする一日だった。


駅改札を出て左へ行き、掘り割り状の底を走る鉄路をまたぎ越すと交通量の多い国道246号線に出る。渡らずそのまま右へ向かい、安戸の新旧並ぶトンネルを抜ける。すぐ右手に分かれる車道を上がっていくと、いつしか両側は山の斜面となり、谷間沿いの正面高みに稜線が草地の山が見えてくる。歩いている車道は車の往来が少なく、木々の枝振りなど眺めつつ行く余裕があるものの、頭上高くに差し渡された東名高速の高架からは車の振動が山間に響き続けている。
山間の集落風景
山間の集落風景
山間の集落風景
民家が現れたところで右手に分岐する舗装道に入る(標識が立っているので迷うことはない)。いったん家並みが途切れたのち、妙にモダンな住居が増えてくる。山の斜面に広がる茶畑を見送り、校庭に丸太やら大石やらが積み上げられて廃校になったとわかる小学校の校庭を回り込んでいくと、再び正面に草地の稜線が浮かぶ。先ほどから目にしている手前に丸くそびえるのが大野山かと思ったが、地図にあたってみるとその左手奥の、少々見栄えのしない平坦な稜線が目的地らしい。
生活圏を抜けてなおも行くと右手に登山道が分かれる。入口にはクマゲラらしき彫り物が木の幹にくくりつけられていて楽しい。杉の植林のなかをジグザグを切りつつ上がっていくうち、いつしか山腹を行くようになる。葉の落ちた木々が多く、冬の明るさが満ちている。尾根筋を越すと谷を隔てて大野山の頂稜がひときわ近い。すぐ到達するように思えるが、ルートは大回りのようだ。いくつかのパーティが下ってくる。この季節だからといって訪れがないわけではないらしい。森を抜け、草原の斜面に出る。土壌が崩れやすいのか、丸太階段道が天まで続くように伸びている。


階段道を登り切った先は簡易舗装道で、正面に丹沢の冬景色がパノラマに展開していた。左に行けば大野山だが、正面に見る丹沢のピーク群のどれがどれやらわからないので落ち着いて山座同定したく、ほぼ平坦で開けた舗装道を右へ、腰を下ろせる場所を探しに行く。辿る先には小学校脇から丸くそびえて見えたのの山頂部があり、そこだけ針葉樹の木々が生えている。ほんの少しだけ盛り上がっているが大した登りではなさそうだ。たどっている舗装道の両側は吹きさらしで雪が覆っていて、歩いても歩いても腰を下ろすところがなく、どうせなのであの高みまで行ってしまうことにした。
牧草地のなか稜線を目指す
牧草地のなか稜線を目指す
稜線に出た先で眺める丹沢の冬景色、左奥に大コウゲと檜洞丸、正面奥に蛭ヶ岳
稜線に出た先で眺める丹沢の冬景色
その高みは、最高点と思えるところでアンテナ施設の鉄塔工事が行われていて、その傍らを通り抜けるだけという、まるで風情のないところだった。消化不良のままなおも行くと、遠くからも目立っていた針葉樹の林のなかに小さな祠が見える。行路傍らの案内板によると、かつてここには神明社なる社があったらしい。このあたりはタケ山と呼ばれるようで、この一帯だけ牧草地になっていないのはかつての社の鎮守の森がまだ残されているからなのだった。
森を抜けると舗装道が尽き、ふたたび放牧場が広がっていわば神奈川県西部の大展望台となっている。平坦な稜線の末端にあたるからで、丹沢の山々こそ見えないが270度くらいの広闊な眺望が得られて愉しいことこの上ない。正面に黒々とした箱根が予想外に山深い。右奥に富士が白く大きく、その右手に大野山が冬枯れ色の草原を広げている。箱根の左方では明神岳の長々しいすそ野が酒匂川流域へと沈みゆき、その先で曽我丘陵が僅かに盛り上がる。彼方に霞む相模湾を一瞥して、ふたたび視線を箱根の右手へ戻していけば、富士に届く前に大きな双耳峰が視野に入る。越前岳と位牌岳が双璧をなす愛鷹連峰だ。
タケ山の東屋から正面に見る箱根の山々、左奥は明神岳
タケ山の東屋から正面に見る箱根の山々
歩いてきたのは高杉なる場所に下るハイキングコースで、この眺めのよい場所には藤棚の東屋があってベンチとテーブルが人待ち顔である。藤は幹が屋根部分に届いているものの棚を這う枝はなく、日を遮るものがほしい季節に葉が茂っているか心配だが、冬の本日は吹きさらしで寒く屋根より壁がほしいところだ。ここで昼食とすべく湯を沸かしてみるが、手袋なしでは手が凍える風がやかんからの蒸気を吹き飛ばし、湯の沸き立つ音までかき消すので、沸騰しているのに気づくまで時間がかかった。


来た道を戻りつつ、好展望の稜線からコンパスを使って丹沢の山座同定を行う。蛭ヶ岳、檜洞丸と同角ノ頭が鋭角的だ。険阻な丹沢中心部の山々に対して、西丹沢の山々は穏やかなものだ。大室山は量感充分、畦ヶ丸はまるで孤高の独立峰、菰釣山は左隣の山と大きな双子山を成す。これらの山々の背後には冬空が広く高い。
あらためて大野山へ向かう。麓から登ってくる車道に合する場所は峠になっており、いまでこそ何の変哲もない見た目だが、地名は「犬クビリ」となかなか物騒である。かつて狼にまつわる因縁でもあったのかもしれない。駐車場を左脇に見て、チェーンで通行止めになった先の車道を上がっていく。わりと急だ。かつて小学生高学年か中学一年だったかのころ、学年全体だかでこの大野山らしきに来た覚えがある。遠足の名目はとうの昔に忘れてしまったが、ここは神奈川県立の乳牛育成牧場でもあるので社会見学だったのかもしれない。開けた山頂すぐ手前までバスで上がって探検心が殺がれたからか、この駐車場脇の草地で友だちとはしゃぐばかりでほとんど動かなかった。やはり山は可能な限り自分の足で登ったほうが愉しい。
上がりきると広々とした平坦部で、ほんの少し高まっている場所に祠が建っている。山頂標識は別な場所にあるが、最高点としての山頂はここになるのだろう。車道からわずかな雪のトレースを踏み越えて広い台座に上がる。方位指示盤があり、山名が記載されていてより詳しい山座同定ができる(畦ヶ丸の名が載ってなかったが・・・)。今まで見えなかった頂稜の反対側も見下ろされる。眼下に僅か見える丹沢湖が寒々しい。湖面の上に伸びる山稜を左へ追うと、富士山がとにかく大きい。逆光になりつつあり、山の北側を覆う影が目立つようになっていた。
大野山山頂から丹沢湖、その上に畦ヶ丸、右奥に大室山
大野山山頂から丹沢湖、その上に畦ヶ丸、右奥に大室山
山頂の人影は少なく、2,3人くらいしかいない。日も傾きつつある時間なので当然だろう。周遊山行としたかったので、下りはもと来た道をとらず、谷峨駅へとする。車道をしばし行き、タケ山とまるで同じ携帯電話用の鉄塔を見送ると、下り道が始まる。左右に極端な傾斜の草地があり、これも放牧地らしい。開放的な自然環境の中でありながら生活空間から離れた感じがしない、人工物に囲まれていながらさほど嫌悪感がなく、しかし寂寥感も感じる、この感触はどうもどこかで・・・、と思って記憶を探ると、イギリスで郊外を歩き回ったときのものだった(あちらは羊が主役で姿もさんざん見たが、こちらは牛が主役で、季節柄、姿はまったく見えない、という違いはあるものの)。


下り始めから大きな幅の階段道が続き、リズムを取って下るのに苦労する。ときおり傍らの草むらで何かが物音を立てる。山北から登り始めの車道脇に昨夕熊が出た旨の張り紙があったので少々緊張したが、再び同じような物音に出会ったときの正体は、雄のキジだった。首まわりの美しいのが人の気配に気づいてのそのそと藪の中に消えていく。消えていったのに、すぐに藪の裏から姿を現してこちらの様子を窺う。どことなく呑気に見える。
キジがお見送り
キジがお見送り
途中、林道を越えてなおも山道を下り、しまいに公園内の遊歩道のような舗装道になる。振り返ると大野山が見目佳い形で見下ろしている。山北側の登路から見上げる大野山はさえない姿だったが、格好良さであればこちらのルートからがよい。ただし傾斜が強く、気分よい山道が少ないので歩く分にはさほど面白くはないだろう。小さな集落を過ぎ、陰鬱な車道を下って高速道を見上げるようになると酒匂川の畔に出る。谷峨駅は直線距離だと短いが、吊り橋で川を渡ったり陸橋で国道を渡ったりで大回りを強いられる。本数の少ない御殿場線が今にも来てしまわないかと心配になるのだった。
2013/1/20

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