北ドブ湿原入り口
昨夕は雨模様だったのが、夜半には晴れた。
ここはカヤの平、志賀高原の奥の、さらに北にある山中の小平原。宿泊可能なロッジとテント場と牧場がある(ソフトクリームは売ってなかった)。テント場は持ち込みとオートキャンプとが可能で、設営済のも用意されている。この夏の北信旅行の一環で、未訪の当地に立ち寄り、宿泊費軽減のために泊まりもしようと考えていたのだった。
着いた時は雨だったので、自前のテントを濡らすのはともかく翌朝の撤収が面倒だなと思っていたところ、オートキャンプに比べればできあいのテントに泊まった方がいくらか安価だと聞いて、自前のテントを張るのが一番安いのを脇におき、太い金属製パイプで屋根と壁を支える大型テントに一人で泊まることにした。この日、ロッジに客はそれなりにあったようだったが、どういう形であれテントに寝たのは自分だけだった。8月とはいえ上旬の平日だったからだろう。
一晩中屋根を打つ水滴の音が響いていたが、外に出てみると、頭上には星々が瞬いていた。水滴はテント上に伸ばされた木の枝からのものだった。牧場前の開けた場所まで出てみて振り返ると、森の上に横たわる北斗七星が抱えきれないほどに大きい。右手に視線を送ればカシオペアも見える。首が痛くなるまで見上げていて、ようやく北極星の探し方を思い出した。
善光寺平から上がってくる光のため満天の星空とはいかなかったが、それでも天の川がうっすらと確認できるほどには夜空が深かった。月が出ていなかったことも幸いした。しかし明けてから登ろうと思っている高標山方面にはガスがわだかまっているようで、一等星の瞬き一つ見当たらない。雨さえ降らなければいいや、と思いながらねぐらに戻る。


夜が白んできた頃に目を覚まし、朝食を摂って身支度し出発する。明けた朝は清々しい天気で、牧場の草原は朝露のせいもあってひときわ輝きが強い。その景色を撮ろうと大型レンズを構えた写真家が二人ばかり、牧柵の近くでよい構図を探して右往左往していた。
カヤノ平の牧場の朝
カヤの平の牧場の朝
高標山へは牧場を左手に見ながら奥志賀に続く車道をたどり、突き当たりで志賀行きと別れて右へ、一般車通行禁止となる未舗装林道へと繋げていく。昨日半日降り注いだ雨は今朝になって路面のところどころで小さな流れになっている。その林道が下り気味になって続くようになり、左手斜面にあるはずの山道入り口を見落としたかと心配になるころ、見落とすはずがない新しい道標が二つ、目に入る。よく踏まれてヤブも被らず、気安さを感じる山道の始まりだった。
ここまでが未舗装とはいえ林道だったので、山道の斜度はあるかと思っていたものの、初めはそうでもないように思えた。足下が歩きやすいものなので登っている気がしないほどだが、実際には淡々と高度を稼いでいく。周囲はダケカンバとブナがよく目立つ。どちらも幹の色が明るいので、朝の斜光線が差し込むのもあいまって森は随分と華やかだ。遠望はまるで効かないため木々ばかりを見て歩くが、降り注ぐ光に気分は上々の山歩きになっている。
高標山の山道
高標山の山道
ところどころぬかるんだ場所も山行の刺激のひとつとばかりに楽しみながら、水平移動しているような感覚で歩いて行く。そろそろ長い頂稜に乗った頃かなと思っていると、左手の木々の合間から遠くの山が窺えるようになってくる。どこだろうと思う間もなく、小さな岩場のコブに登り上げる。左をやや振り返り気味に見ると、切れ切れの雲に覆われた志賀方面が窺える。そのなかでも正面のひときわ大きな山はなんだろうと考えるに、焼額山であると合点がいく。東館山のロープウェイ乗り場とか、奥志賀側から眺めれば開発されすぎた姿が痛々しいこの山が、こちら側から見ると膨大な山体を膨らませて一筋縄ではいかなさそうな押し出しを見せる。なるほどこれが焼額の真の姿だなと妙に嬉しくなる。
眺めのよい岩場からまだ長いのかと思っていると、ひょこり山頂に着く。大きめの石造の祠が善光寺平を向いて立っている。その善光寺平は雲海の下だったが、白い広がりを突き破って立つ間近の山々が実に凛々しい。目の前にあるのは高社山、その右奥にあるのは斑尾山。いずれもが善光寺平を塞ぐ門番のように立っている。彼方の北アルプスはもとより、妙高山黒姫山なども雲の中なので、この二山の存在感は強烈だった。どちらもスキー場で山腹にそり込みが入ってしまっているが、それを差し引いても見ていて楽しい山姿なのだった。
高標山頂、背後は焼額山
高標山頂、背後は焼額山
山頂から高社山(前)、斑尾山
山頂から高社山(前)、斑尾山
まだ朝が早いので山頂には誰もいない。出発前のテントでも湯を湧かしたが、ここでも湧かしてコーヒーを淹れ、徐々に雲に覆われていく高社山を見渡しながら飲んだ。高標山の一般登山道はカヤの平からの往復なので往路を戻らなくてはならない。半時ほどの滞在だったが、高社山も斑尾山もだいぶ雲に覆われてきており、振り返り見る志賀方面の焼額山も稜線はほとんどガスで見えなくなっている。その眺めとも別れ、森の中をふたたびブナやダケカンバを見渡しつつ下っていった。


戻り着いたカヤの平では牧場に牛たちが出て草を食んでいた。昨夕も雨中に佇んでいた牛たちだが、日の回る朝はどことなく緊張感が少ないように見える。ハイカーを興味深そうに見送る脇を過ぎて、奥に見えるカヤの平ロッジに向かう。清涼飲料水でも売られていたらと思ったのだったが、朝の接客業務が終了したのか、ロッジは施錠されて誰もいなかった。別に建つ管理棟では何も売ってないので飲み物は諦め、ロッジ裏から続く遊歩道に入っていく。天気が崩れそうにないので、せっかくだからとカヤの平を挟んで高標山とは反対側にある北ドブ湿原なるところを尋ねてみることにしたのだった。
北ドブ湿原へは8の字を描くようにハイキングコースが設定されている。コース入り口には一周30分くらいの「信州大学カヤの平ブナ原生林教育園」があるが、目の前のコースにふんだんにブナが立っているのですぐさま本コースに入っていく。幅広の歩道の両側にはブナ、ブナ、ブナ。とにかくブナだらけ。地衣類に覆われた明るい幹が次々と現れる。立派な木が多く、畏敬の念をもって見回し見上げながら歩く。足下はよく踏まれ、斜度は緩やか、周囲はめったに見られない美しい木々の群れと、じつに快い。
北ドブ湿原への東ルート
北ドブ湿原への東ルート
どこを見てもブナの木々
どこを見てもブナの木々
五叉路に出る。車道途中へと下っていく一本を除いて、8の字設定されたコースの四本が集まる中間点で、行き先表示板を確かめ、すぐ右へと続くものに入る。ここからコースは下り坂になり、帰路の登りが予感されてやや気落ちするが、しばらくすると見えてくる谷間の眺めに期待は膨らんでくる。北ドブ湿原は、大いに名前で損していると思えるほど、静かで美しい場所だった。周囲は山腹で囲まれ、拍手をするだけでもびっくりするような音で響く。細長く伸びる平坦な草原に池塘がないのが残念だが、それを補って余りあるのが広々としながら隠れ家的な風情なのだった。
五叉路から下ると湿原が彼方に
五叉路から下ると湿原が彼方に
北ドブ湿原の真ん中を行く
北ドブ湿原の真ん中を行く
山上湿原のような広闊さはなく、尾瀬ほどの規模はないものの、ひっそりと広がる草原はとりとめなさを醸し出し、散策者の足取りを緩めさせる。湿原の真ん中に差し渡された木道を辿りながら湿原を取り囲む縁の木々を眺めると、いずれも枝を開けた宙にむかって差し伸べ、心持ち、のしかかるような傾きを感じさせる。湿原に入り込もうとする意志。視野の及ばない背後で、木々のいくつかが動き出し、湿原に乗り込み迫ってくる幻想まで浮かぶ。そんな中をただひとり行くのは、いきおい歩みはおとなしく、すみませんがちょっとお邪魔しますの心地になる。
木道を渡りきり、湿原脇に建つ東屋に到着した時は、どことなくほっとしたものだった。荷を下ろして手前の小さなお花畑越しにしばらく惚けていた。思い出して手を叩いてみる。ここでもやはり、よく響いた。あまり叩きすぎるとうるさいと怒るものが、人間に限らず、現れそうなので、2,3回でやめておいた。
東屋から小さなお花畑越しに北ドブ湿原
東屋から小さなお花畑越しに北ドブ湿原
東屋から先へと行くと、湿原の幅は徐々に狭まってきて細い沢筋の注ぎ口に消える。その脇を踏み跡が上がっていく。いわゆる普通の山道を少々登ると八剣山への分岐に出る。眺望はないとのことであり、湿原を見たのでよしとしてピークに寄るのは割愛し、ブナの森の中、再び幅が広くなった尾根道を辿ってカヤの平へと戻ることにした。


再びブナ、ブナ、ブナの、日本一美しいという評価も間違ってはいないのではという森を抜けて、カヤの平に戻ってきた。現実とは思えないほどのブナの林。加えて湿原まであるのだから、カヤの平は再訪する価値がある場所だ。季節を変えて、いや同じ季節でも、また来たいと思う。
昨日から車を駐めている管理棟前まで来ても、やはり平日だからか人影は少ない。日はだいぶ高くなり、木々の影も短くなっていたが、カヤの平はあいかわらず静かな山上平地なのだった。
2016/8/1

回想の目次に戻る ホームページに戻る


Author:i.inoue
All Rights Reserved by i.inoue